引退後はおおよそ、私の予想通りの道を清原は辿っています。予想を裏切ってほしかったけれど、やはり彼には無理でした。
弱かったと言ってしまえばそれまでなんですが、やはり桑田真澄との出会いが大きかったのは間違いありません。清原さんは天理高校に進学するところだったのですが、PLの充実した設備を見て、大きな体の少年は瞳を輝かせました。「PLに入りたい」。高校時代の数々の栄光は得られたが、現在の清原の転落の道も同時に開かれてしまいました。PL時代の清原は飛びぬけたスケールや打撃センスを見せつける反面、バスで甲子園が近づくと必ず神経性の下痢になるほど、繊細な少年でした。
巨人の裏切り、王監督の裏切り、そして何よりも桑田の裏切り。ドラフトから2年後の秋、清原は巨人を倒し、一塁ベース上で涙をこぼしました。これで物語は終焉したかに見えました。しかし、翌年も巨人は存在し、王監督も、桑田も当たり前のように存在していたのです。その気持ちのもやもやが、西武時代後半の成績にも表れていました。
清原さんが今のような道を避けられる最後のチャンスは1996年のオフだったと思われます。FA宣言した清原に阪神が熱心にラブコールを送りました。それに対し、巨人は獲得に手を上げたものの、誠意のない対応で清原の心は阪神に傾きました。しかし、最終的には長嶋監督の「僕の胸に飛び込んできなさい」の一言で決着は付きました。当時阪神監督だった吉田義男さんの「清原君には幸せな道を選んでほしい」という言葉が忘れられません。
その後は不振、怪我、復活を繰り返した後、堀内監督とうまくいかず、退団となりました。2006年からは仰木監督の誘いでオリックスへ。2008年引退の日には王監督に「来世では同じチームでホームラン競争をしよう」という言葉をもらい、清原は王さんを心から許せた気分になった。試合をスタンドから見ていた桑田のことも。
しかし、引退後、WBCの解説者を務めていた時、ひざの痛みのため解説を休むなど現役時代の傷跡に苦しめられる。王さんのことも、桑田さんのことも何度も許したはずなのに気持ちの中で、あのドラフトがぶり返してくる。
「今の状態ではもう現場には復帰できない」。清原の気持ちが切れた。作家の平野啓一郎氏によれば、分人といって、1人の中に何人もの人間がいるという。PL,西武の頃の清原はチームの勝利を何よりも優先する清原が中心にいて、いまは理性のグリップがきかなくなり、自暴自棄の清原が幅をきかしている。残念ながらこれ以上ひどくなることはあっても、もう昔の清原さんに戻ることはないだろう。有り余る才能やスター性を持ちながら、繊細なままで、刺激の強い世界で生きてきた男の宿命なのかもしれません。
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