ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(30)

2020-11-09 14:16:28 | 小説
日曜の午後2時前、孝は久しぶりに自宅に戻ってきた。佐世子は「おかえりなさい」と努めて自然体で出迎えたつもりだったが、孝は「お邪魔します」と硬い表情を崩さない。そして「そんなに長くはかからないと思うから」と付け加えた。佐世子が急須から緑茶を注いでいると、孝はカバンの中から一枚の紙を取り出した。
「これはよくよく考えて決めたことだから」

離婚届に孝の名前と印鑑が目に入った。意表を突かれた気分だった。確かにこないだの電話から、今リビングに座るまでの言動には決意のようなものが滲み出ていた。それでも佐世子は孝が浮気を打ち明けにでも来たのだろうと予測していた。離婚を決意しているなどとは全く想像していなかった。佐世子はしばらく沈黙するほかなかった。
「決めるのはゆっくりでいいから。俺は駄目な夫だった。失礼します」
孝は立ち上がり、早々に玄関へ向かった。佐世子はリビングに座ったまま、力なく離婚届を眺めていた。すぐに判を押すつもりはない。しかし、以前のような生活に戻れないことだけは、佐世子にもはっきり分かった。もっと触れ合いを大切にすれば何かが変わるかもしれないという考えが彼女には芽生えていたが、孝にとっては完全に手遅れだった。

孝が帰宅すると、恵理は食事中だった。日は傾き始めているが、彼女にとっては朝食に当たるのかもしれない。この日も夕方からは居酒屋のカウンターに立つ。
「離婚届、出してきたよ。女房に渡してきたよ」
孝は硬い表情だったが、どこか誇らしげだった。
「それ本当なの?」
恵理は目を丸くした。
「勿論、どう考えても離婚しかありえない」
すでに結論を出している自分自身に、さらに言い聞かせている口調だった。
「孝さんて意外とせっかちなところあるよね」
恵理は苦笑した。
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若い罪(29)

2020-11-09 11:42:52 | 小説
自宅までの帰り道、佐世子は久しぶりに幸福感が自らを支配した。町田の照れたような笑顔を思い出す。久しぶりに人の役に立てた。そして彼女に肩を触れられた心地よさ。やはり、そうしたスキンシップは生きていく上で大切な役割を果たすのだと、改めて思い知らされた。3人の子供たちの頭をもっと撫でてやればよかった。「お母さん、もういいよ」と言われるまで。
そして夫の孝にも、もっと誠意をもって接するべきだったと今更ながら思う。優しくはなく、かと言って厳しくもなく、ただただ同居人としてありきたりに扱ってきた。実は一番それがいけないのかもしれない。子供たちも含めて、孝が自分には皆、無関心と捉えても仕方なかった。しかし、佐世子も佐世子で余裕がなかった。去年から娘の彩乃が佐世子に対してほとんど口を利かなくなった。
ただでさえ、自分は必要とされているのかという疑念を抱いていた佐世子には、唯一、頼ってくれると思っていた彩乃にまで離れられたショックで、孝にまで目が届かなかった。またネガティブに考えていることに気づいた佐世子は、町田との数秒間を思い出し、家路についた。

佐世子が暗闇の家に明かりをともすと、電話が鳴った。
「もしもし、川奈孝です。勝手なことをして済まなかった」
その場が何処であろうと頭を下げている孝の姿が浮かぶ。
「元気だったんですか。一応、勤務先には連絡を取ったけど、声を聞いて安心しました」
「済まなかったね。本当に」
「そんなに謝らないで。責任はこっちにもあると思ってるから」
「いや俺が一方的に悪い。どう見たって。ところで、そっちの家に一度戻っていいかな。話があるんで。出来れば子供たちがいないほうがいいんだけど」
「わかりました。日時が分かったら連絡するね」
「ありがとう。本当に済まない」

電話は切れた。やはりこちらが温かい心でいれば、流れが変わってくるのかも知れないと佐世子は思った。
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若い罪(28)

2020-11-09 11:35:27 | 小説
「もし帰ってきたら、それを許すか許さないかは、佐世子さんはじめご家族が決めることです」
「そうですね。主人が長い間、私たち家族のために働いてきたのは間違いありません。ただ、私や子供たちにも感情があるので」
町田は静かに頷いた。
「今日のところはこれで終わりです」
「あの、料金はいくらになりますか?」
時間外なのだから、普段より多く料金はかかるだろうと佐世子は思っていた。
「いや、いりません。正式な診察ではないですから。その代わり」
「その代わり」
佐世子は少し身構えた。
「5秒。5秒だけ肩を貸してくれませんか?」
「はい、いいですけど」

佐世子は不安な顔を浮かべながら、診察室の椅子から立ち上がった。町田も立ち上がり正対した。そして少しずつ佐世子に近づき、愛しい人に触れるように優しく肩から背中を撫でた。佐世子には5秒10秒というより一瞬に思えた。町田はゆっくり手を離した。
「ありがとうございます」
町田は丁寧に頭を下げた。
「いえ、とんでもないです。でもどうしてですか?」
「7つ上の姉がいたんですが、23歳で亡くなりました。年が離れていることもあり、私をとても可愛がってくれました。勉強もできて、私にとっては憧れの姉でした。生きていれば50歳。川奈さんと同い年です。姉も色白で端正な顔をしていました。だから川奈さんと姉がダブって見えていたんです」
町田は穏やかな口調だった。
「駅まで送る」と町田は言ったが「近いので」と佐世子が断り、町田クリニックの出口で二人は別れた。
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若い罪(27)

2020-11-08 15:54:29 | 小説
「どうしてそう思うんですか?」
「K公園で主人と中年の女性が腕を組んだりしながら、楽しそうにしているところをうちの娘が見たようなんです」
「娘さんの言葉に信ぴょう性があったわけですね」
佐世子は目を腫らした彩乃の顔を思い浮かべていた。
「中年ねえ」
町田は首をひねり、そして小さく頷いた。
「ご主人はこれまでにも浮気はありました?」
佐世子は少し考えこんだ。見た目からはモテるタイプではない。しかしそれは自身の決めつけだったのだろうか?
「ないと思っていたんですが、今回で少し自信がなくなりました」
「もしかしたらですが」
町田は言い始めて言葉を止めた。遠慮なく話してほしいとの佐世子の願いを聞き、再び話し始めた。

「もしかしたら、ご主人は戻ってこないかもしれません」
佐世子もそれは薄々感じていた。それでも理由を聞きたかった。
「なぜ、そう思われるのですか?」
「これまでの川奈さんの話から、ご主人は浮気慣れしているタイプとは思えません。しかし、そういう人ほどのめり込んでしまうことが多いです。浮気ではなく、本気になる可能性は遊び慣れた人と比べると高いと思います。だから家族を捨てる覚悟で家を出ていても不思議ではありません」
言い終えると町田はいつの間にか注いでいたブラックコーヒーを一気に飲み干した。
「帰ってこないのを想定して、残った家族で乗り越えて生活していく方向で行こうかと思います」
覚悟を決めたのか、佐世子の表情に生気が蘇った。

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若い罪(26)

2020-11-08 13:51:44 | 小説
川奈さん、コーヒー飲めます?」
「はい、コーヒーは好きですね」
「じゃあ丁度よかった。貰った豆があるから」
「いや、いいですよ。そんなに手間がかかるなら。インスタントで十分です」
佐世子はコーヒー好きと言ったのを後悔した。コーヒー豆が削られる音と小さな機械が懸命に働く音が混ざり合い、その後、カップに水分がゆるゆると注がれる音がした。少しぼんやりしているうちに、湯気を立てたコーヒーカップが佐世子の目の前に置かれた。
「こんなに速くできるものなんですね」
「自動エスプレッソマシン。インスタントではありませんよ」
佐世子の前にはミルクとスティックの砂糖が置かれた。
「いい香り」
「冷めないうちにどうぞ。ところで何かありましたか?」

佐世子は少しためらっていたが、意を決して話した。
「夫が家から出ていきました」
「旦那さんが。いつ頃からですか?」
町田はブラックのままコーヒーを一気に飲み干した。
「8月末だったから半月ほど前です」
「8月末というと、こないだ川奈さんがクリニックに訪れた頃ですね」
「その翌日です。朝、1階へ降りると手紙が置いてあって。しばらく家を出ると」
佐世子はミルク入りのコーヒーをすすった。
「それ以外はそうですねえ。アパートを借りたとか、役所の仕事は続けるからお金の心配はいらないといったことです」
「その後、ご主人とは連絡取れました?」
「いえ、それが。携帯番号に掛けても繋がらないし。ただ役所に連絡を数回入れましたが、出勤している確認は取れてます」
町田は佐世子の顔に間を向けたり、首を傾げる動きを止めてから話し出した。
「アパートの住所は分かります?」
「いえ、それが分からないんですけど」
「分からないけどどうしました?」
町田は先を促した。
本当にアパートを借りたのかすら分かりません」
「どこかに居候でも?」
「あの人、浮気しているようなんです」
佐世子の声は弱々しかった。
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若い罪(25)

2020-11-08 09:13:39 | 小説
それでも佐世子への思いは新婚当時とさして変わらなかった。夜の関係も続いていた。しかし5年前、ベッドで重なり合っている時、佐世子が長女の麻美に見えてしまってからは、同じ部屋で寝ることすらなくなった。次第に新婚当時と容姿の変わらない佐世子を憎らしいと思うほどになってしまった。佐世子も辛かったのかもしれない。一度、真剣に話し合うべきだったとも思う。しかし、どこまで本音を語れたかと問われれば自信はない。本来なら今からでも遅くはないのかもしれない。しかし元に戻る気は起りそうにない。恵理と暮らしていると肩の力を抜いていられるのだ。

佐世子は考えたあげく、やはり町田クリニックに電話した。
「町田先生と直接話したいのですが今は無理ですか?」と尋ねると、受付の女性は町田に伝えておきますので折り返しお電話します」との返事をもらった。程なく受付女性から電話があり、今日の午後5時でどうかと聞かれ、佐世子は了承した。
電車に揺られ、5時前に町田クリニックへ到着した。足を乗せれば開くはずのドアがびくともしない。ドア越しに町田朋子の姿が見えた。間もなく自動ドアがいつものように稼働した。
「ごめんなさいね。自動ドアのスイッチを切っちゃって」
「いえいえ。今日はよろしくお願いします」
「はい。それにしても素敵な服ですね。よくお似合いですよ」
町田の顔が少し柔らかくなった。
「いや、先生に言われたのを思い出して慌てて着ただけで」
まじまじと見ている町田の視線に佐世子は照れくさくなった。
「さあ行きましょうか」
町田の声と進行方向に従い、佐世子は診察室へ入った。
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若い罪(24)

2020-11-07 16:06:35 | 小説
正志は取り残した単位を取得するため久しぶりに授業に出席し、帰りにK公園に足を運んだ。目の前には池が広がり、そこに映る自分の人相は悪かった。彩乃が話していたことは、まず間違いないのだろう。あの親父が家を出た上に、どういうわけか浮気していた。アパートを借りたと書いていたが、ひょっとしたら相手の中年女性のところに、転がり込んでいる可能性もある。普通に考えれば、親父にできる芸当ではない。しかし、相手の女がよほど変わっていて、一緒に住む提案をされたらどうだろう。流されやすい面のある親父が、それを受け入れても驚きはない。ただ、これだけは確かだ。親父が長年暮らしてきた家族よりも、中年女を選んだことだけは。

孝はひとり、ベッドの中にいた。この家の持ち主である林田恵理は、今頃、酔っ払いの相手をしているに違いない。ここは心が安らぐ。こんな感覚はすっかり忘れていた。家も財産もすべて佐世子の思い通りにすればいい。自分は定年まで働いて、退職金で何とかなる。55歳で役所を辞めたいと考えたのは、言い換えれば今の生活を辞めたいということだった。なぜ55歳までかといえば、末っ子の彩乃が20歳になるまではという思いからだ。
40歳を過ぎた頃から、年々、心と体が削られていく状態だった。最初は年のせいかとも思った。しかし、徐々にその正体ははっきりとしてきた。佐世子の若さだった。夫にとって妻が若く見られるのは嬉しいことだろう。しかし、それが度を越えて特殊なものになってしまった時、苦しみに変わるのだ。佐世子と一緒に外を歩いているだけで疲れるようになった。近所の住人や町の人は、自分たちをどのように見ているのだろう?父と娘?上司と部下?年の大きく離れた夫婦?そんなことを考えているうちに、佐世子と二人で外出するのは控えるようになった。
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若い罪(23)

2020-11-07 16:01:20 | 小説
「それは若い女性なの?」
佐世子は優しく彩乃に語り掛けた。
「いや、小柄なおばさん。でも何度も腕組んだりして。年はパパとそれほど変わらないと思う」
「場所はどこなんだ?」
正志が冷静を装った声で尋ねた。
「K公園。この辺りの人なら大体知ってるよね。あんな目に付くところで堂々と腕を組んで、楽しそうに話してるんだから。パパのあんな笑顔、最近は見たことない」
彩乃の腫れた目にまた涙が零れた。
「そうなんだ。彩乃、これ以上話さなくていいよ。もう十分」
佐世子は彩乃の小刻みに震える肩を労わるように触れ、部屋から出て行った。
「親父が浮気。こればっかりは考えてなかったな」
正志も想定外と失望の入り混じった様子で席を立った。

佐世子は長女の麻美の部屋のベッドに体を横たえた。麻美が大切にしていた熊のぬいぐるみは佐世子と麻美を勘違いしているのかもしれない。
孝が家を出た上に浮気している。佐世子は裏切られた気持ちとこれからどうすればいいのかという不安が入り混じり、睡眠薬を取り出した。一錠飲んでからベッドに戻る。おそらく、孝がこの家に戻ってくることはないだろう。当面、金銭的な心配はないが、彼の金で生活していると思うと惨めさがこみ上げてくる。しかし、孝をここまでの行動に追い込んでしまったのは自分ではないのか?いつまでたっても若いという罪。しかし、それを孝がどれほど負担に思っていたかまでは、佐世子にも分からない。すぐに結論が出ないことは承知していた。しかし、考えずにはいられない。早くも空は白み始めていた
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若い罪(22)

2020-11-07 13:19:47 | 小説
「さっき、彩乃の部屋まで呼びに行ったら、泣いてたの」
それで、アヤは今日一日ずっと家にいたわけ?」
「いや、今日は久しぶりに友達何人かで遊んだみたい。夕方ごろには帰ってきたけど」
「アヤは楽しみにしてたんだろうけど、ほかの子たちにとっては、頭が受験モードになっているんだよ。その現実を目の当たりにしてショックを受けたんだろうな」
正志は正解を導き出したように満足げだった。
「お兄ちゃん、何を偉そうにベラベラと」
鋭い声がした。紛れもなく彩乃のものだった。少し遅れて見せた顔は涙で目が腫れていた。
「どうしたんだよ、その顔は」
正志は動揺を隠すように缶ビール片手に薄く笑った。彩乃は黙ってテーブル越しに佐世子と向き合って座った。

「さっきの俺の推理、当たってなかったか」
照れを隠すように正志は髪をなでながら言った。
「確かにみんなが受験にベクトルが向いているのには、当たり前とはいえ、少し焦りを感じたのは本当だよ。でも、友人たちと別れてから、それとは比べ物にならないショックを受けたの」
彩乃の発する言葉に力がない。佐世子は彼女の身に何かあったのか心配になってきた。しかし完全に意表を突かれた。
「パパが浮気してる」
彩乃は意を決して言葉にしたものの、再び涙を零しそうだった。
「まさか、冗談だろ。親父に限って」
正志は笑みすら浮かべていた。
「私だって冗談であって欲しかったよ。だから辛かったけど何度も確認した。そのうちに虚しくなってきて」
「だったら証拠を見せてくれよ。アヤ、スマホ」
正志の声が少し尖った。佐世子はじっと彩乃を見ている。
「そんなもの撮ってないよ。もう私の目で確認したから」
彩乃は力なく俯いた。
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若い罪(21)

2020-11-07 09:46:28 | 小説
皆、受験のことで頭が一杯なのだ。確かに本番まで半年を切っているし、この時代、選ばなければ大学に入学は出来ても、少しでもいい大学を目指せば、やはり競争が待っている。予備校には通っているものの、未だに受験モードに変わらない自分に少し焦りを覚える。反面、家族がバラバラだから受験にまで気が回らないという言い訳も、18歳の心には所持されているのだ。真っすぐ家に帰りたくない。その思いが彩乃の足を知らず知らずのうちにK公園まで足を向けさせていた。K公園は比較的、敷地は広く、豊富な緑の木々に囲まれている。人もそれなりに集まっている。のどかな夕景に、ささくれ立った心が、少し丸みを帯びるのを彩乃は実感した。

しかし、その心地は長くは続かなかった。少し見下ろすような角度においてあるベンチに父である孝の姿がある。そして、その隣では中年女性が孝に楽しそうに話しかけ、時折、女性から積極的に孝と腕を組んでいる。二人は長年連れ添った仲のいい夫婦として公園に溶け込んでいた。彩乃は嘘であって欲しいとの思いから、いったん目を逸らし、数秒後に再びベンチを見る。何一つ変わらない。変わったとしたら、雲のかげんからだろう。少し暗く感じたが、だからこそ二人の中年男女がより楽しそうに見えた。孝は女性に比べると動きも表情も抑えられたものだったが、あの笑顔はまだ彩乃が小学生の頃に見たものだった。
孝と女性が立ち上がった。女性は小柄だ。彩乃は居てもたってもいられなくなり、その場から離れた。そしてそのままの勢いで駅までの道を駆け抜けた。しかし、最寄りの駅で降りた時には彼女の足取りは力を失っていた。
家に辿り着き、佐世子が「おかえり」と声をかけると、彩乃は「うん」と小さな声を絞り出し、階段を駆け上がった。自室に入るなり、ベッドに倒れ込んだ。20分、30分経っても部屋着に着替える気力もなく、疲れも取れなかった。そして無意識のうちに声が出た。「パパが浮気」。彩乃はあまりの不似合いさに思わず少し笑った。しかし、それが涙に変わるまで、ほとんど時間を要さなかった。次第に涙は大粒になり、感情がさらに揺さぶられ、しゃくり上げるように泣き続けた。

佐世子は夕食を作り上げた。しかし、テーブルに目を向けても誰もいない。正志が座っていることはあるが、あいにく、まだ今日は帰ってこない。2階にいる彩乃もまだ降りてくる気配はない。孝が家を出てからは、父に対する彼女なりの罪悪感なのか、家族の一員としての自覚からなのか、一緒に夕食の席に着くことが増えた。佐世子は期待を込め、彩乃を呼んだ。しかし、返事はない。佐世子は階段を上り、彩乃の部屋のドアをノックしようとした。しかし、その手は止まった。何か音が漏れてくるのだ。佐世子はドアに耳を当てた。彩乃は泣いていた。佐世子は軽くドアをノックし、夕食ができたことを伝え、階段を下りた。
正志がワイシャツにネクタイ姿で帰ってきて、冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出し、その場で喉を鳴らした。
「どうした?元気ないんじゃない?アヤはいないんだ?最近、一緒に食べるようになって感心してたんだけどな」
「それがねえ」
佐世子が心配そうな表情を浮かべる。
「どうした?何かあった?」
つられて正志も少し心配顔になった。
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