ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

才能鑑定士(女優篇5)

2023-06-13 15:47:49 | 短編

「女優になりたいという女性は多いです。中には大人になってからずいぶん経った人もいますが、彩乃さんの年代は特に多く、彼女たちにとって女優は憧れの職業なのでしょう。しかし、鑑定結果で50ポイントを越えるのは10人に1人から2人です。彩乃さんの数値は高いといえます」

「そうですか。50を超えてよかったです」

言葉とは裏腹に彩乃の声からは喜びが伝わってこない。

「彩乃。先生が高い数値とおっしゃっているんだから、もうちょっと嬉しそうにしたらどうなの?」

母が娘をたしなめる。

「彩乃さんは優等生だから、テストで64点なら嬉しくはないでしょう。しかし、それとは全くの別物。確率を示しているというのも半分外れています。確率ならば51と49の差は気にする必要のない細かなものです。しかし、この鑑定は50を境に才能の川が流れています。それは泳いで渡れる距離ではありません。彩乃さんは基準の50からさらに14ポイント加算されています。そのように理解して下さい」

藤田の口調はいつもながらに冷静だ。彩乃も藤田の説明を聴いて納得したのか、鑑定結果を見た直後と比べると、見違えるような明るさを纏っていた。

 

「それでは私はここで失礼します」

応接室を出た廊下で藤田は言った。

「先生、本当にありがとうございました。これから娘も目標に向かって前向きに取り組んでいくと思います。主人も納得せざるを得ないでしょう。彩乃からも先生にお礼を言って」

母親は娘に促した。

「ありがとうございました」

彩乃は軽く会釈した。

母親には物足りなかったのか「全くしょうがない子だね。先生すみません」

と言ったが、声色は明るかった。

「佐藤君、お二人を出口まで見送って」

「あっ、はい」

佐藤は白い歯を見せた。

藤田は遠ざかっていく母と娘の背中を見送った。

突然、彩乃が振り返り「先生、私、必ず女優になります」とはっきりとした声で言った。

「楽しみにしているよ」

藤田は彼女の目を見て大丈夫との意味を込め、頷いた。(終)

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才能鑑定士(女優篇4)

2023-06-12 13:05:43 | 短編

「まさか50を切らすようなことはしないですよね」

佐藤の顔は不安に覆われている。

「君らしくもない。ポイントの5や10動かすことがあるのは君もよく知っているはずだ。その判断が出来ないなら私は単なるインタビュアーだよ。確かに私は演技について全くの素人だ。しかしそれでいい。才能鑑定がプロであれば。一流であればそれでいい」

佐藤は沈黙していた。体の動きも止まっている。その様子を見て藤田は笑顔を作った。

「ほら佐藤君。応接室にケーキでも持っていってやりなさい。待たされると人は不安になるものだ」

「そうですね。いま持っていきます」

佐藤は再び動き出し、鑑定室から出ていった。   

 

佐藤は応接室の前で一旦立ち止まった後、ノックして入りケーキと紅茶を運んだ。

「美味しいですよ。遠慮なく食べてください」

佐藤の笑顔がややぎこちない。二人が手をつけようとしないので佐藤がもう一度促すと、彩乃がケーキを一口食べた。

「美味しいです」

彼女は微笑んだ。少しだけ場が和んだ。しかし、それも束の間のことだった。藤田が応接室に戻ってきた。藤田は彩乃の前に封筒を置いた。

「この中に数値が記されています。当初のご依頼通り、女優を職業に出来るかどうかに対する、こちらからの鑑定結果です。ここで見ても構いませんし、自宅に帰ってからゆっくり確認するのもいいでしょう」 

藤田は優しい口調で彩乃に語りかける。

「彩乃、家に帰ってからにしようか」

母が娘に問い掛けた。

 

彩乃は母親の顔を見てから、藤田に目を向けた。

「ここで確認します」

彩乃の声に迷いの色はなかった。

「分かりました。では確認して下さい」

彩乃がハサミを入れ、中身を取り出す。佐藤は彼女の期待と不安の混じった顔を見た。彼はこの瞬間が苦手だ。藤田のもとで働き始めて2年が過ぎたが、この痛々しさにはなれることが出来なかった。

彩乃の眼が数字の上に止まった。両手が小刻みに震えている。

「彩乃、どうした?」

母親が娘を不安げに見た。

「64」

彩乃の声はかすれていた。

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才能鑑定士(女優篇3)

2023-06-11 16:58:44 | 短編

「それもあって先生に女優になれる確率を知りたいと思い、家族で相談した上で先生に依頼することを決めました」

母親が穏やかな口調で付け加えた。

「分かりました。お約束通り数字を出します」

藤田は母親に笑いかけた。そして、一転して真顔になり彩乃に目を向けた。

「最後の質問です。どんな女優になりたいですか?」

彩乃は少し沈黙した。彼女の息遣いが聞こえるようだった。そして意を決した。

「主演女優です。そして見ている人の心を動かせる女優になりたいです」

藤田は彩乃から目を離した。そして事務的な調子で「30分から遅くとも1時間あれば判定できると思います。それまでお待ちください」と言い残し、応接室を出た。後から佐藤もついていく。

 

感情のない部屋で佐藤がパソコンにデータを入力していく。それを藤田は少し距離をおいて凝視する。そして時折、注文をつける。その繰り返しの中、藤田の着信音が鳴った。

「はい、アナライズクオリティーの藤田ですが、ああ、はい。そうですか。了解しました。それでは失礼します」

藤田は表情ひとつ変えずスマートフォンをしまった。

「3日前、銀行から生命保険の会社に転職しようとしていた男性からだ」

「はい。30代半ばの方ですよね。で何と?」

「うん。銀行に残ることにしたらしい」

「ああ、あの方のポイントは29でしたね」

「賢明な判断だと思うよ」

言いながら藤田は軽く頷いた。

「AIの数値が出ました。54です」

「そうか。何とかクリアしているな」

そういった後、しばらく考え込んでいる藤田の様子が気になり佐藤は尋ねた。

「そのままの数値でいきますか?」

「いや、それはない」

藤田はきっぱりと言った。

 

 

 

 

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才能鑑定士(女優篇2)

2023-06-09 11:21:17 | 短編

「芸能事務所には所属しているんですか?」

「はい。フューチャープロモーションに所属しています」

「大きな事務所なんですか?」

藤田は母親の顔を見る。

「いえ。10代の子を中心に集めていますね」

「子役ですか?」

「勿論、子役もいますが、中には20代で映画やドラマで活躍している方もおります」

「そうですか。彩乃さんはオーディションか何かで?」

藤田は視線を母親と娘に交互に向けた。

「オーディションです」

彩乃が芯の強い声で答えた。

「グランプリですか?」

藤田がそう尋ねると母親はクスッと笑った。

「違いましたか?」

藤田が少し笑いを交えると母親は口を開いた。

「グランプリでも準グランプリでもありません。最終選考までは残ったんですけど。娘と惜しかったね、と話していたところに後日、事務所の方から連絡が来たんです

「なるほどそれで所属できた訳ですか」

彩乃は少し悔しそうな顔を浮かべている。

「彩乃さん、演技の経験は?」

「ほとんどありません」

「ドラマや映画に出たことはありますか?」

「深夜ドラマに二回出たのですが、セリフはなかったです」

彩乃は恥ずかしそうにうつむいた。

 

藤田は二人の目の前に置いてある飲み物をすすめた。母の前にアイスティー。娘の前にはオレンジジュース。二人は緊張をほどくようにストローに口をつけた。

少し間をおいて藤田が話しかける。

「誰かに演技を誉められたことはありますか?」

「はい、あります」

彩乃は自信があるようだった。

「それはどなたですか?」 

「フューチャープロモーションの演技指導の先生です」

「どのように誉められましたか?」

藤田はやや難しい質問だと思っていた。だから期待していなかった。

「声が通ることと、あと集中力です」

「ああ、そうですか。うん」

藤田は少し考え込んでいる様子だ。

「先生、娘が何か・・・」 

母親が不安げに口を挟んだ。藤田はそれには答えず、質問を続けた。

「憧れの女優さんはいますか?」

「はい、栗田しおりさんです」 

「なるほど。彼女は子役の頃から活躍していて。最近はすっかり大人っぽくなった。彼女のどういうところを尊敬しているのかな?」

藤田の淀みない口調が微かに揺れた。

「演技も上手いし、私とそれほど年が変わらないのに頭が凄くいいんです」

「なるほど。ところで進学についてはどう考えていますか?彩乃さんは私立の進学校に通っていますよね」

「う~ん、難しいですね。進学もしたいですが、もし役者としての仕事が多く入るようになれば、そちらを優先したいです」

彩乃は話ながら母親の顔を伺った。

 

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才能鑑定士(女優篇1)

2023-06-08 13:42:17 | 短編

都内のオフィスのワンフロア。藤田利英はコーヒーマシンのボタンを押し、ブラックのまま口をつけた。そして、小さくなった人や車を見おろす。ダークネイビーのスーツが長身に映える。

「佐藤君、そろそろかな?」

「もう見えられると思います」

パソコンの前で慌ただしく手を動かしながら佐藤は言った。彼はまだ若い男性だ。20代だろう。

 

インターホンが鳴った。画面には中年女性と少女が写っている。二人を藤田自らが迎えた。

挨拶が終わったところで佐藤が言った。「あの滝口さん、料金が先払いになるのですが、キャッシュでお支払いと伺っていますが」

「はい」

母親が封筒を手渡した。佐藤は「確認させていただきます」と言うなり、中身を取り出し、手際よく万札を数える。10枚や20枚でないことは確かだ。

 

やり取りが終わるのを待って、藤田が二人を応接室へ案内した。

「どうぞこちらに」

やや低音の落ち着きのある声で、藤田は母と娘をソファーに座るよう促した。藤田はテーブルを挟み、彼女らと対面する形で自らの椅子に座った。

 

「今日は娘さんの鑑定ですね」

「はい。よろしくお願いします」

母親は娘と共に軽く頭を下げた。

「滝口彩乃さんですね」

藤田は娘に顔を向けた。

「はい」と少女は短く応じた。身長は普通だが、やや細身だ。女優を目指すというだけあって顔立ちは整っている。

「お父様も来られるということでしたが」

「はい。その予定だったのですが」

母親は困惑気味だ。

「急用ですか?」  

「父は私が女優になることに反対なんです」

彩乃は少し語気を強めた。

「なるほど。しかし、お父様の期待に応えられるかは分かりませんが」

藤田は少し口元を緩めた。

「ご存じのように0から100のポイントを提示します。といっても0と100は未だに誰もいませんが。50ポイントを基準にしてください」

「分かりました」

彩乃が頷く。

「現在、高校2年生の16才で間違いないですね」

「もうすぐ17才になります」

「私が知っている彩乃さんの情報はこれがほとんどすべてです」

彩乃は無言で頷いた。

 

 

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超短編集(4)  天国案内人(終)

2021-04-24 23:25:01 | 短編

「久保田正弘さん71歳、間違いありませんね」
「はい、確かに間違いありません。ここはどこですか?」
正弘は白いドレス姿のシロツメクサの花冠をした若い女性に尋ねた。
「天国への通り道です、このまま真っ直ぐ行けば天国です」
「ああ、では私は死んだんですね」
「はい。お亡くなりになられました」
「そうですか。女房に先立たれて・・・」
正弘の言葉が途切れた。そして案内する女性の顔を凝視する。

「どうされました?」
「どうされましたって、美希お前・・・」
「美希さんとはどなたですか?」
案内人の普段の穏やかな口調は変わらない
「行方不明になった私の娘です。もう10年以上前ですが」
「その女性が私とそっくりということですか?」
「最後に見た美希と何もかも変わらない。顔も、体型も、声も」
「しかし、10年以上前の話ですよね。それでしたら、多少は外見も変わっている可能性がありますね」
「そう言われれば、その通りなんですが」
正弘は困惑した顔をして言った。

「私はこれまでここを通られたすべての方を覚えていますが、久保田美紀さんという若い女性は通られませんでした。亡くなったすべての方が天国に行ける訳ではありませんが、お嬢さんはまだ生きていらっしゃると思います」
「そうですか」
正弘は懐かしい満面の笑みを浮かべた。
「それでも最後にあなたに会えてよかった。娘と瓜二つのあなたに」
「こちらこそ喜んでいただいて幸いです」
彼女は穏やかに微笑んだ。

「こちらをまっすぐ進めば天国です」
案内人の丁寧な口調に従い、正弘は天国へと歩を進める。一度振り返ったが、女性は後ろを向いていて顔を見ることはできなかった。シロツメクサが小さく震えていた。





 

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超短編集(4) 天国案内人(後)

2021-04-24 22:33:39 | 短編

美希は出来すぎた娘だった。正弘はそれに甘えていたのかもしれない。今更ながら、もっと娘の心情を理解すべきだったと後悔した。しかし、それよりも何よりも早く戻ってきてほしい。それが無理なら無事であることを知らせてほしい。正弘の偽らざる思いだった。しかし5年、10年待っても美希は戻らなかった。そのうちに正弘は重い病を患い、病室の白い天井を眺める日々が続いた。窓の外には彼を慰めるような緩やかな雨が降っていた。

「児玉たき子さん、91歳。間違いありませんね」
「ああ。そうですけど。どうかしました?」
「天国行きが決まりました。今、歩いてきた方向をそのまま真っ直ぐ進んでください。すぐに天国に入れます」
「は、何?」
老婆は孫のような若い女性に耳を近づける。

「天国に行けますよ」
案内人の女性は少し声のトーンを上げた。
「天国?」
「はい、このまま真っ直ぐ進めば天国です」
「はあ、そう。やっと死ねましたか?」
「はい。亡くなられました」
「8年前に主人が死んでからは、私も早く死にたくて死にたくて」
「そうだったんですね。もうすぐご主人に会えますよ」
案内人は老婆をいたわるように穏やかな口調だ。老婆は心なしか足取りを軽くして天国へ向かった。

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超短編集(4) 天国案内人(中)

2021-04-24 17:51:18 | 短編

時が止まったように取り残された一軒家で、久保田正弘は待ち続けていた。3年前に突然、姿を消した娘の帰りを。妻に先立たれ、大学に通う娘の美希と二人暮らしだった。帰りが遅くなる日には必ず連絡をよこした。

午後10時、11時、12時。帰ってこないのはともかく、連絡がないのが気がかりだった。最初のうちは正弘も、美希だって二十歳を過ぎた大人。遊びたい盛りだ。メールだって面倒な時もあると言い聞かせていたが、次第に良からぬ想像ばかりが浮かぶようになった。メールを送っても返してこない。電話もつながらない。正弘は自宅から出た。美希が帰ってくるであろう道をたどっていく。いつの間にか最寄り駅まで来ていた。時計に目をやると午前1時を大きく回っていた。

正弘は自宅で眠れない夜を過ごした。警察に連絡しようと何度も考えた。しかし、小学生や中学生ではない。美希は大学生だ。一晩帰らないぐらいで警察というのも気が引けた。勤務先の市役所に欠勤の連絡をし、警察に電話したのは、結局、昼前になっていた。

失踪者の数は年間約8万人。その膨大な数を考えれば、治安のいい日本で凶悪犯罪に巻き込まれた可能性はそれほど高くはないはずだ。警察も全力を尽くしているだろう。正弘は美希と仲のいいと思われる友人に連絡を取り、彼女が姿を消した日の行動を調べた。どうやらこの日、美希は大学を午前中で早退している。「少し体調が悪い」と話していたが、それほど深刻ではなさそうだったことも、複数の友人からの証言を得た。正弘は少しだけ安堵した。深夜に友人と別れた帰り道、何者かに襲われたのではないかという不安は解消されたのだ。何か父親である正弘に不満があったのかと胸に手を当ててみる。思い当たる事はないのだが、遅れてきた反抗期かもしれない。

正弘の妻、貴子は美希が中学生の時に病死した。まだ40代だった。勿論、正弘の落胆は大きかったが、それと同時に一人娘の美希が心配だった。結婚してからなかなか子供ができず、諦めかけていた時にようやく授かったのが美希だった。故に客観的にみれば、正弘も貴子も一人娘を溺愛していたのかもしれない。貴子が病死した時、美希は涙を流していた。

しばらくは落ち込んでいるように見えたが、少しずつ以前の彼女に戻っていき、掃除や洗濯、それに多少の料理。死んだ母親の代わりをこなそうとしていた。

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超短編集(4) 天国案内人(前) 

2021-04-24 13:15:50 | 短編
白髪頭の男性が、ゆっくりとした足取りで俯き加減で歩いてくる。しばらくして男性の足が止まり、顔を上げた。目の前には白のドレス姿の美しい女性。頭にシロツメクサの花冠を被っている。

「堀田耕作さん、67歳。間違いありませんね」
「はい。そうです。間違いありません」
「天国行きが決まりました。今、歩いてきた方向をそのまま真っ直ぐ進んでください。すぐに天国に入れます」

耕作は辺りを見回した。全体的に白く霧のようなものに包まれている。
「いや、ちょっと待ってください。私は死んだんですか?」
「はい。亡くなりました」
「入院していた記憶はないんですが」
「心筋梗塞だったようです」
「そうですか」
「はい」
「しかし、何とかならないもんですかね?」
耕作は少し、案内人の方を見て俯いた。
「といいますと」
案内人は怪訝な表情を浮かべた。
「ここを真っ直ぐ進めば天国という事は、引き返せば、元の世界に戻れるんですかね」
「つまり、生き返りたいと」
「まあ、そういう事なんですが」
「もっと生きたかったですか?」
案内人の口調は常に穏やかだ。
「ええ。こないだ、長男に二人目の孫が生まれたんです。初めての男の子で」
「会えたのですか?」
「はい。会えましたが、何せまだ生後3か月で、成長を楽しみにしているんです」
「結論から申しますと、残念ながら地上に戻ることはできません」
案内人の色白の顔は愁いを帯びていた。

「なぜダメなんでしょう?」
耕作は少し語気を強めた。
「あなたはすでに亡くなったのです」
「もし、引き返したらどうなるんです?」
「何も起こりません」
「というと?」
「見えない壁があり、そこから先へは進めないんです」
「そんなことはないはずだ」
耕作は独り言のように呟き、歩いてきた道を引き返していった。

30分ほど経っただろうか、耕作は戻ってきた。
「あなた、立ちっぱなしで疲れない?」
「いえ、大丈夫ですよ」
「どうしても戻れません。あなたの言う通りだ」
「はい。残念ながら戻ることはできません」

案内人の女性は待たされた疲れも見せず、穏やかな笑みを浮かべていた。耕作はその女神のような顔をじっと見ていた。そしてしばらく考え込んだ末「わかりました」と案内人が示した天国への方向にしっかりとした足取りで歩いて行った。
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超短編集(3) 君はどんな春を迎えるだろう

2021-04-24 10:43:26 | 短編

初めて彼女に会った時、有人は、彼女を直視できなかった。肌は目立って白く、黒目がちな瞳、長い睫毛、長い黒髪が、彼女の色白の顔をさらに引き立てているようだった。
「世の中にこんなにも美しい人がいるのか」
有人の偽らざる感想だった。
「佐藤君、この子に仕事教えてあげて」
年配社員の横で井川杏は僕に軽く会釈した。
 
3か月が過ぎた。杏はとっくに有人の職場を辞め、現在コンビニで働いている。有人は映画館の中にいる。隣には杏の横顔がある。職場で杏に連絡先を教えたらしく、杏が仕事を辞めてから一週間ほど後、メールに杏から「今度会おうよ」とのメッセージが入っていた。二人きりで会うのは今日が5度目だ。有人は、そろそろ杏と会うのはやめようと思案していた。
 
有人は映画館のような場所が苦手だ。パニック障害という病気なのだ。大学も中退した。この館内は大学の大教室に似ている。この日に備えて、不安を抑える頓服薬を飲んできたものの、効果のほどはよくわからない。とにかく有人は地獄と天国が同居している状態にあった。
 
ほとんど俯いていたが、映画が終わりに差し掛かる頃、杏の顔を力ない目で見た。涙ぐんでいた。映画に集中し、自分の様子に関心がないことに有人は安堵した。
 
二人は映画館を出て、近くの喫茶店に入っていた。木枯らしが枝を揺らし、辛うじてしがみついた葉々が風に揺れながら舞っていく。
「つまらなかった?」
「うん。どうも洋画は苦手だね。しかも恋愛ものだし。アクションものならともかく」
「せっかくいい作品なのに、もったいない」

杏は少々、不満げな言葉を並べたが、それ以上に自身の感動、興奮が勝っているようた。

 

杏はよく家族の話をする。両親と、すでに結婚した姉と兄の5人家族。杏の柔和な顔を見れば、彼女が皆に可愛がられて、育ったことはおおよそ想像できる。そしてこの日も話し出した。

「子供のころ、柴犬を飼っていてね。それがすごく私になついてて。でもある日、突然、死んでしまったの。8年生きたのかな。その日は家族全員で泣いたんだ」

有人はその話を聞き、杏とはもう会わない決断を下した。彼女のどこにも自分の入る余地はないと感じた。

 

「また今度、メールする」

杏は笑顔だった。何よりも美しい笑顔が夕日に照らされながら、有人に哀しく焼き付いた。

「わかった。じゃあ、また」

さよなら、杏。


杏は背を向け、歩き出した。有人も逆方向へ歩き出した。彼は途中で振り返り、間に入ってくる人々を縫うように杏の後姿を見ていた。5階建てのビルを彼女が左へ曲がるまで。
 
有人は、桜並木を知らない若い男と肩を並べて歩く杏の笑顔を想像した。
「君はどんな春を迎えるのだろう。その頃には僕はとうに忘れられているだろう。僕は春を過ぎても忘れない。ずっと忘れない。一瞬でも愛し、また愛してくれた人だから。杏、どうか良き春を。良き人生を」
 
 
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