ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

駒花(44)

2017-05-31 22:07:29 | Weblog
通夜や告別式で顔を合わせた、将棋関係者の面々には気を使われた。私が桜花戦最終局を間近に控えているからだ。先生と仲のよかった同年輩の棋士仲間などは、私の顔を見るなり、今にも泣き出しそうな顔をしている人もいる。「大変な時だけど、気をしっかり持つんだよ」というような言葉が多く並んだ。本当にかけたかった言葉は「桜花のタイトルを取って、森村を喜ばせてあげてくれ」なのだという事も、痛いほど伝わってきた。

私の両親も葬儀に参列した。父が先生の遺影を見つめ、涙を流しているのは意外だった。ただし、私に対しては、「静岡に帰って来い」「早く結婚しろ。いい相手がいる」を繰り返すばかりだった。

桜花戦第5局。人々の無数の手が、私の肩にのしかかっている様に感じた。それと同時に、何らかの力以上のものが湧き出るのではないかとか、先生が背中を押してくれるのではないかという、漠たる期待も浮かび上がっていた。しかし、裏腹なものである。指し手を重ねていくうち、確実に負けに向かっていく将棋になった。頭を振り絞っても、からからの雑巾のように、水一滴も出てこない。終盤の入り口で大差がつき、私は菜緒に頭を下げた。

感想戦の最中、私は将棋を振り返るというより、どうして力が出せなかったのか、という分析ばかりを繰り返していた。確かに多くの人々の想いは重圧だった。しかし、それよりも勝って、報告する相手がいない。そして、その内容を褒めてくれる人がいない。それが大きかったのではないか、という結論に至った。私はこれまで、勝利の喜びのほかに、先生に褒めてもらうために将棋を指してきたのかもしれない。




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駒花(43)

2017-05-31 11:50:01 | Weblog
菜緒へ挑んでいる桜花戦は、第3局に敗れ、1勝2敗。後がなくなった。第4局の3日前、私は先生を見舞った。眠っていた。パイプ椅子に腰掛けた奥さんが「さおりちゃん、ごめんね。話せる状態じゃないよ」と私に椅子に座るよう促す。奥さんは私よりも、病状を詳しく知っている訳だから、具体的にあと何日ぐらい持つのかという事まで知っているのだと思う。
「先生、行ってきますね」
私は先生の耳元で声をかけ、病室のドアへ向かった。その時だった。
「さおり、頑張ってこいよ、さおり」
先生の声を背中で聞いた。私は少しだけ立ち止まり、急いでドアを出た。廊下に出てすぐに、涙が溢れ出した。私は涙を拭うことすらしなかった。

迎えた第4局、私は持ち前の積極的な将棋で責め続けた。菜緒も粘り強く受け続けていたが、私も壊れたように攻めることを止めず、菜緒の玉を追い詰めた。もはや守りきれないと開き直った菜緒は、最後の反撃に出た。強烈な反撃だった。その攻めを辛うじて受け止め、菜緒は投了した。これで2勝2敗。久しぶりに最終局までもつれ込む事になった。

私はすぐに病院へ駆けつけ、先生に報告した。
「先生、勝ちました。勝ったよ、先生」
単純な言葉しか出てこなかった。苦しそうだった先生の顔が、穏やかになり、少し笑ったようにさえ見えた。先生はその2日後、息を引き取った。
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駒花(42)

2017-05-31 10:38:34 | Weblog
先生は体調を崩し、入院してからも、病院から対局場所へ向かった。やがて、それもままならなくなり、休場届を提出し、治療に専念という形になった。この頃には、どちらかといえば太めの体形だった先生の面影は消え、日々やせ衰えていた。おそらく、先生はもう長く生きられないことを悟っていたと思う。

その頃の私は、菜緒に随分と水を開けられてしまっていた。手の届かない存在になりつつあった。具体的には、タイトル戦で戦っても2勝出来なくなった。せいぜい1勝、ストレート負けも珍しくなかった。先生は私が、同世代や若手に負けると「さおり、やる気あるのか?」「努力が足りない。24時間、将棋のことだけ考えろ」と厳しく叱咤する言葉を投げつけた。しかし、菜緒に敗れた時は「あの子はどこまで強くなるんだろうなあ」「一歩一歩でいいんだよ、さおり」と優しかった。しかし、その優しい言葉が、菜緒と私の間の、どうしようもない埋め難い差を雄弁に物語ってもいた。

この時の桜花戦の最中も、私は病室を訪れていた。先生の容態が心配だったし、アドバイスも欲しかったのだと思う。初戦こそ、戦術面から精神面まで細かなアドバイスをくれたが、2局目以降は、体調が思わしくなかったり、眠っている時が多かったため、将棋について話すことはなくなった。ただ先生の容態が心配でたまらず、私は足を病院へ向けた。
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駒花(41)

2017-05-31 09:17:53 | Weblog
菜緒との初めてのタイトル戦から、ちょうど8年が過ぎた。そしていま、菜緒と桜花の称号を賭け、争っている。矢沢菜緒桜花に私が挑戦する構図は、8年前と変わりない。

8年前、私は女流三冠に手を掛け、菜緒との初タイトル戦に臨み、フルセットの末、敗れた。しかし、4連覇中の天女戦で、桜花戦で防衛を果たし、勢いに乗って挑戦してきた菜緒をフルセットの末、下した。これで天女戦5連覇となり、私は永久天女の資格を手にした。思えば、この年が私の将棋人生のピークだった。

翌年から、私の転落が幕を開けた。女流名王戦で同世代の早見二段に破れ、次の年には6連覇中の天女戦で、菜緒に敗れ、無冠となったのだ。菜緒とはこの8年の間、毎年のようにタイトル戦を戦ったが、私の1勝6敗。ここ3年ほどは自分自身の不振もあり、菜緒への挑戦権も手に入らなくなっていた。

この8年の間の出来事で、最も気落ちしたのは、森村先生が亡くなったことだ。得意としていた天女戦。立場が入れ替わり、私が挑戦者の立場で菜緒と天女の座を争っていた最中だった。まだ60代半ば、現役棋士のまま旅立っていったのだ。早いもので、すでに3年近くが経過していた。
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駒花(40)

2017-05-30 21:04:53 | Weblog
時間を少し余している菜緒が、数分考え、落ち着いて指す。対する私は、程なく、持ち時間を使いきり、秒読みの中、感覚で慌ただしく指す。しかし、局面は菜緒の優位が消え、形勢不明となった。手の動きこそ、落ち着いてはいるものの、菜緒の表情はこわばり、やがて落胆へと変わりつつあるようだった。私は優勢を意識した。しかし、それを意識したとたん、冴えていた感覚が急速に鈍った。50秒、1、2、3、4。盤面が見えない。頭が真っ白になった。そして秒読みのプレッシャーに押しつぶされるように、私は致命的な悪手を指してしまった。菜緒がしばらく盤面を見渡し、軽くうなずいた後、確信の一手を放った。それを見て私は「ありません」と頭を垂れた。投了である。

菜緒との始めてのタイトル戦に破れ、手をかけた女流3冠を逃した。それよりも何よりも、自分が思っていたより、勝負に強くないという事実を突きつけられたのが、ショックだった。最終盤で、あれだけ頭が真っ白になったのは想定外だった。常々、先生に言われていたこともあるが、唯一、菜緒より上と信じていた勝負に強いという幻想が崩壊してしまった。
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駒花(39)

2017-05-30 07:55:10 | Weblog
昼食休憩を挟んで、さらに10分ほど考え、ようやく菜緒は指した。思いもよらない手だった。それと同時に、苦し紛れの手にも見えた。私はさほど時間を要さず、局面を進めた。午前中の菜緒の表情はヒリヒリしたものから、苦しそうに歪んでいき、そして、午後からは落胆、諦めの色に変貌させていく事が私の狙いだった。しかし、菜緒の眼は次第に力を取り戻し、ついには爛々と輝き出した。それと反比例するように、私の心には迷いが生じ、乱れ始めた。「何かがおかしい」。戦況は互角に引き戻され、さらに菜緒が優位に立った。形勢逆転である。私は昼食後に放った菜緒の一手を軽視したことを後悔した。

しかし、まだ諦める状況ではない。私は再逆転の可能性を探りながら指し続けた。菜緒もまだ勝ちを確信している訳ではない。私が少しずつ差を縮め、菜緒がわずかに優位を保ちながら、勝負は終盤へもつれ込んだ。そんな中、私は焦りを感じていた。残り時間である。菜緒は20分以上残しているが、私には3分しかない。もう深く読む時間がない。自分の感覚を信じて駒を動かすしかなかった。
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駒花(38)

2017-05-29 21:30:15 | Weblog
互いに矢倉の堅陣を組み上げ、先手の菜緒が、歩を突いて仕掛けた。私は受けてたった。奇策は用意していない。過去の直接の対局、菜緒の最近の棋譜はよく調べたが、奇策で勝てる相手ではない。ただし、俗手を積み重ねていても、勝ちは見えてこないだろう。この一局のどこかで、菜緒が青ざめるような一手を指せるかどうかが、勝負を決すると考えている。

駒がぶつかり合ってから、互いの考慮時間が長くなる。私が36手目を指し、現在、菜緒が長考に沈んでいる。この先、10手ほどが勝負の行方を左右する可能性が高い。菜緒が駒音を響かせた。この数手、主導権を奪い合っていたが、菜緒が受けの手を指した。だから自分が有利になったとは限らないが、やはり気分は悪くなかった。私は攻めの手を続ける。当面、菜緒は守勢に回る気配だ。彼女の顔を見た。ヒリヒリしていた。普段のあどけなさを残す表情が見当たらない。それだけ、局面は緊迫していた。もうすぐ昼食休憩というタイミングで、私は高く駒音を響かせた。感触は良かった。もう一度、菜緒の表情を伺う。さっきよりも苦しそうな顔を浮かべていた。私は優勢を意識した。
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駒花(37)

2017-05-29 07:47:08 | Weblog
2勝2敗で迎えた桜花戦最終局。私にとって、この一局はただの一局ではない。史上3人目の女流3冠がかかっているし、菜緒とのタイトル戦での初対局でもある。今後の自分の将棋人生を左右する大一番といっても、過言ではなかった。

先生とは、昨夜電話で話した。
「3戦で終われば、菜緒ちゃんの勝ちだと思っていたが、最終局までもつれた。菜緒ちゃんは将棋が強いが、さおりは勝負に強い」
耳慣れた言葉だった。先生は私に自信を持たせたかったのだろう。確かに自分自身も、決着を先に延ばして、菜緒の焦りを誘う展開に持ち込みたかったのだから、申し分のない展開になったとも言える。

しかし、私が勝負強く、菜緒が勝負弱いなどというのは幻想なのだ。菜緒は大一番でも堂々と普段どおりの力を発揮するのだから。ただ、私のこれまでの足跡を振り返った時、漠然とではあるが、ここ一番という勝負はものにしてきたような気がする。そうした根拠のない自信が、矢沢菜緒という稀代の天才棋士を前にしても、萎縮することなく戦わせているのは確かだろう。

これまでの4局は、振り飛車対居飛車穴熊、一手損角代わり、横歩取り、相振り飛車と続いたが、最終局は矢倉での進行となった。菜緒との力比べとなる。望むところだった。
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駒花(36)

2017-05-28 21:04:59 | Weblog
私は勢いに乗っていた。麻衣さんから女流名王を奪い2冠となり、天女戦も3-0のストレートで防衛。これで4連覇となった。そして翌年、女流名王の座を守り、さらに桜花戦の挑戦権を得て、女流3冠へ王手をかけた。相手は矢沢菜緒。私はこの時を待っていた。

私が19歳で菜緒が17歳。これまでの対戦成績は私の7勝9敗。戦前の予想は、私が勢いで押し切るのでは、と主張する人が多かった。勿論、自分自身は、厳しい戦いになることは覚悟していたが。

夏の暑い盛りに始まった桜花戦は第1局、3局が私、2局、4局は菜緒がそれぞれ制し、決着は最終局にもつれ込んだ。風がひんやりして秋の気配が漂っていた。振り駒の結果、菜緒の先手で幕は開いた。1分ほど考え、2六歩と指した。飛車の道を開けた。オールラウンダーである彼女が、振り飛車ではなく、居飛車で指すことをこちらに宣言してきたのだ。この一手を見て、私は感じた。菜緒の自らの将棋に対する自信、そしてプライドをひしひしと感じた。
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駒花(35)

2017-05-28 08:16:32 | Weblog
ここの喫茶店は居心地がいい。内装に木が多く使われている。私はホットコーヒーを注文して麻衣さんを待った。少しぼんやりしているうちに、麻衣さんはやってきた。
「待たせたね」
「いえ、そんなに」
「さおりちゃん、怒ってる?」
「いえ、怒ってはいません。驚きましたけど」
「ごめんね、びっくりさせちゃって」
「いえ、でも、なんでですか?」
「引退?会見で話したとおり、去年の暮れに結婚して、将棋と家庭の両立が難しくなったからかな」
「でも、結婚してる女流棋士もたくさんいますよね」
「うん。ただ私はトップクラスを維持できないと思ったから」
麻衣さんはホットコーヒーを啜った。
「麻衣さんなら維持できると思いますけど」
「私は難しいと思った。今後、子供も出来るかもしれないし、その上、さおりちゃんや菜緒ちゃんのような、私よりずっと若くて、強い棋士についていくには、若い人の2倍、3倍努力しなくちゃ無理だよ。コンピューターソフトが出てきて、より将棋が複雑になったからね。その自信がなかった」
麻衣さんにしては強い口調だった。この人は、本当はプライドの高い、そして将棋が大好きな人なんだ。
「そうですか。でも、どうすればいいんですかね?私もいずれ結婚するかもしれないし、その時、どうしたらいいんですかね?」
麻衣さんは少し考え込み、やがて、口を開いた。
「うん、そうだなあ。ただ、現役を続けるだけなら出来るよ。でも、さおりちゃんも相当、負けず嫌いみたいだから、その時になったら悩むかもしれないね。これからは女流棋士が、結婚や出産後も、モチベーションを落とさない環境を作れたらって思ってる」

「本当はもっと将棋を教えて欲しかったです」
「私より強い人にどうやって教えればいいの?本当に強くなったね、あの小さかったさおりちゃんが」
麻衣さんは感慨深げに笑った。






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