永田宏は一流企業の商社で課長職にある。仕事帰り、行きつけの居酒屋に寄り「そろそろ俺も子会社に出向じゃないかな」と店のママに不安とも愚痴ともつかぬ言葉を残し、店を後にした。思えば海外勤務を終え、本社に戻され、数年で課長に昇進して以来、10年以上がたつ。すでに50を過ぎた。
自宅に着いたのは午後11時半過ぎ。妻の幸代が玄関まで迎えに来る。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、食卓のテーブルに彩られている料理に箸をつける。
「香菜はどうした?」
「まだ戻ってないわ」
「連絡は?」
幸代は首を横に振った。
「全く、しょうがない奴だ。ここのところ毎日じゃないか」
「まあ、遊びたい盛りだから」
「まだあいつは未成年だぞ」
「大学に入って、付き合いも広がったのよ。あまり怒らないでね」
「さあな。それは向こうの出方次第だ」
12時過ぎ、チャイムが鳴り、幸代は玄関に向かった。しばらくして香菜がリビングに姿を現し、宏に「ただいま」の一言を残し、自室へと立ち去ろうとした。
「おい、香菜。ちょっと待て」
「何よ?」
「何かあるだろ、言うべきことが」
「だから、ただいまでしょ」
「その後だよ。すいません、遅くなりましただろ。大学生にもなって、そんなことも分からないのか」
宏の口調は、知らず知らずに強まっていた。香菜は少し宏を睨むようにして無言で立ち去った。
「あれじゃ、ろくな男に引っかからないな」
宏は幸代に捨て台詞を吐いた。
その夜、宏はなかなか寝付けなかった。10代半ばに人並みの反抗期はあった。しかし高校に進学した頃には、元の仲の良い父娘の関係に戻っていたはずだ。それが大学に入学したあたりから少しずつ、様相が変わってきた。女の子は難しい。宏の本音だった。
朝方、少し寝て6時過ぎに自宅を出て、いつもと変わらぬ時間帯の電車に乗る。座席に深く腰掛け、何駅か過ぎた。隣に若い女性が座る。香菜と同年代に見える。OLではなさそうだ。女子大生だろうか。女性は早速、スマホをいじりだす。10分ほどでそれをしまい、しばらくして彼女の動きが止まった。宏は普段どおり、背筋を伸ばし、前を見ていた。突然、左肩に柔らかな重みと、羽のような感触にはっとした。左肩に目をやると、彼女が宏の肩で眠っている。睫毛をわずかに震わせながら。朝日が差し込み、彼女の髪を輝かせた。シャンプーの香りがした。
宏は目を閉じた。香菜を初めて抱いた時、風呂に入れた時、自転車が乗れるようになった時の笑顔。香菜の成長を辿っていた。このまま駅が消えてしまえばいい。永遠にこの電車が止まらなければいい。宏は願った。