レッスンを終え、塔子は空を見上げた。
輝きの失せた月が浮かんでいる。
高野が生徒になったのはおととしの秋
「定年になってから暇で」
「妻のピアノがありまして」
すでに奥さんはこの世にいないらしい。
物静かな初老の紳士
塔子は心で呟いた。
高野が通い始めて2カ月ほど経った頃
彼は「カーペンターズの青春の輝きを弾けるようになりたい」と言った。
奥さんとの思い出の曲なのだろうと塔子は受け取った。
「私も好きですよ」
塔子はピアノに向かい、シンプルに「青春の輝き」を弾いた。
演奏を終えて、塔子は笑顔で高野を見た。
彼の目は赤かった
塔子は慌てて目をそらした。
高野は「素晴らしかったです。失礼します。さようなら」
そう言って足早に去っていった。
彼は決して覚えのいい生徒ではない。
それでもひたむきにピアノに向かった。
知り合って1年が過ぎた頃
高野の家族から彼が倒れ、入院したが、意識が戻らないと聞かされた。
ある生徒が言った。
「高野さん、先生のことが好きだったと思います。女性として」
塔子は意表を突かれた。
高野とは父と娘ほどの年の差があり
そうしたことは考えもしなかった。
「中秋の名月、ご覧になりましたか?」
「穏やかな口調が、異なった色彩を帯びて塔子に届いた。
若葉の季節に高野は息を引き取った
塔子はピアノの前に立ち
「青春の輝き」を弾く高野をイメージした。
「上手くなられましたね。素晴らしかったです」
塔子は微笑んだ。
高野は照れくさそうに笑っていた。