白雲去来

蜷川正大の日々是口実

尖閣を掠め取ろうとする中国が脅威ではないらしい。

2014-01-21 10:57:35 | インポート

一月二十日(月)晴れ。

当たり前に寒いのだが、今日はいささか風が強いので余計に寒く感じる。昼にお世話になっている方たちと待ち合わせて昼食を共にした。場所は伊勢佐木町の入口にある「モハン」というインド料理店。ここのランチのカレーとナンが好きだ。私は、キーマカレー。ナンは食べ放題。と言っても一枚半が限度である。一度自宅のオーブンでナンを焼いてみたいと思っている。

食後は、近くのコーヒーショップにて打ち合わせの後に事務所へ。寒いので、暖房をガンガン入れてPCにて原稿を書いていたら、眠くなってしまい昼寝。贅沢なものだ。五時過ぎに帰宅。

米軍基地の移設に伴う市長選挙で、移設反対の現職市長が当選をした。常識的に言えば、沖縄や日本の各地に米軍の基地が点在するのは反対である。しかし、沖縄では、基地に反対する人たちは米軍に代わる自衛隊にも反対している。その人たちは、尖閣諸島をかすめ取ろうとしている中国が脅威ではないと言うのだから、お話にならない。地政学上、沖縄が我が国における国防の重要地点であることは言うまでもない。わが国だけの力では、国土を防衛できないのだから、ある程度米軍と協力しなければならないことは、現時点では仕方がない。

早く、空母の建造や敵基地への攻撃が出来るように法整備を急がなければならない。残念ながら「戦争の出来る国」こそ、国際社会では、「普通の国」であることを知らなければならない。

夜は、BSで録画しておいた、ご存じ健さんの「網走番外地」を見ながら独酌。のんびりした一日だった。


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追悼、小野田さん。

2014-01-21 10:16:11 | インポート

一月十九日(日)晴れ。

小野田さんが亡くなられた。十八日の産経新聞に、小野田さんがルバング島から帰国するときに取材を担当した山下幸秀さんの署名記事があって、懐かしく思った。その山下さんのご尊父は、戦前からの正統派の右翼、天照義団を主宰していた山下幸弘先生である。

この運動に入った頃、良くご自宅にお邪魔して、酒を飲ませて頂いた。また私が、昭和四十九年頃から行っていた「横浜青年政治研究会」(略称・横政研)という勉強会に、「新勢力」の毛呂清輝先生をお招きして勉強会を行った時に、毛呂先生や阿部勉さんと共に山下先生宅に寄ったことがあった。

山下、毛呂の大先輩が酒酌み交わし、話し合っている姿に浪人の風格と言うものを感じ、圧倒されたことを良く覚えている。野村先生の俳句を初めて読んだのも山下先生が発行していた機関誌「天照」だった。ご子息の山下幸秀さんは、産経新聞の常務を経て、日本工業新聞の社長になられた。もう長いことお会いしていないが、久しぶりに署名記事を見て、昔を思い出した。

そう言えば、山下幸秀さんが産経の記者の頃に横政研の講師として「太平洋ベルト地帯の革新知事」というテーマでお話をして頂いたことがあった。その他、中村武彦先生や鈴木邦男さん、犬塚博英さん。そして野村先生が河野邸焼き討ち事件にて出所なされた時、戦線復帰第一声も私の横政研だった。

野村先生がこよなく愛したのが、フイリピンはバタンガスと言う所にあるマタブンカイという海岸。その海岸からは小野田さんがいたルバング島が遠望できる。野村先生は、私を前にして、「いいか蜷川。小野田さんは、今、俺とお前が見ている夕日を望郷の念にかられながら三十年も見ていたんだ。今日の日本の平和と繁栄は、あの人たちのお蔭であるということを決して忘れてはいけない」。と仰っていた。写真で見る小野田さんのお顔に、マタブンカイの夕日が重なる。合掌。

夜は、酒友のカメちゃんから頂いた「おでんの保温器」の試運転を行った。上の子供を、センター試験の模擬試験に送って行った後、弘明寺商店街にある、おでん種屋さんに行って仕入れをしてから帰宅。市販の出汁では物足りないので、昆布と鰹節をたっぷりと使って出汁を取った。しかし、器が大きいので、とても作った出汁では足りず、結局、市販の出汁を足した。

それでも我が家は、にわかおでん屋さんのようになって盛り上がった。来月には友人を我が酔狂亭に招いて「おでんで一献会」を催すつもり。

P1000073※「おでん屋」酔狂亭。


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猪瀬さん一割は少ないよ。

2014-01-21 09:52:18 | インポート

一月十八日(土)晴れ。

午前中は、事務所で機関誌の発送。ようやく読者の所に届けられる。一番ホッとする時である。しかしいつになったら事務所が片付くのか。溢れている本や資料を見ると正直言って途方に暮れる。皆でやればアッと言う間なのだが、自分の頭の中に、何処に何をしまったのか、記憶しなければ意味がないので、若い人たちを頼めない。まあのんびりとやるか。

夜は、野村先生の奥様のお店で、一門の新年会を行った。奥様の手料理に加えて、刺身やタラバ蟹など会費ではとてもおさまらないかのような豪華な料理に舌鼓を打つ。加えて、酒は「久保田」に「伊佐美」である。宮本武蔵のようになって、いい気持になった。

九時に、奥様にご挨拶をしてから松本佳展君に送って頂き帰路に着いた。いい一日だった。

そう言えば、友人で一水会の木村三浩会長が猪瀬直樹元東京知事から五百万円を受け取っていたとかで新聞、テレビで報道されていた。特に朝日新聞などは大きく報道している。本人は「借りた」と言っているのだから、そうなのであろう。しかし木村氏の人となりを知らない人たちにそれを信じさせるのは無理かもしれない。根が真面目なだけに、政治家のように上手な受け答えが出来なかったのかもしれない。

私だったら、「いらないと言ったんだが、それでは申し訳ないと言って五百万無理やり置いて行った。最初から謝礼目当てで紹介をするのならば、最低半分は貰っているよ。断るのも水臭いと思われるので貰ったよ」。と居直るのだが。

清貧で真面目な活動家を通してきた木村氏には、ある意味で試練かも知れない。それにしても猪瀬さんは吝嗇と思われても仕方あるまい。木村氏の紹介で五千万円を貰ったならば、「運動費にでも使え」とせめて二三千万ぐらいは渡さなきゃ。もし徳洲会のことが問題にならなかったのならば、返すつもりはなく、当選した後なのだから、そう運動資金が必要とも思えない。

だったら、五百万では可哀そうだ。しかし結果的には五百万でよかった。使ってしまった後に五百万円を揃えるのことの方が大変だ。それがさっとできるのだから木村氏も大したものだ。運動にはお金がかかるのだから、貰う時は堂々と貰ったほうがいい。別に法に触れるようなことではないのだから。

恐らく、朝日が検察を取材して得た情報だと思うが(そう言えば猪瀬の五千万をリークしたのも朝日新聞だった)横浜の片隅で生きていると、そんな話もないが、他山の石としなければと思った次第である。

野村先生は、様々な意味でお金のやり取りには、慎重かつ厳しい人だった。先生がご存命の頃、トラブルの解決や相談、あるいは仲介などでお金のやり取りがあった。その時に、依頼者が、「先生、〇百万でお願い致します。これがすべてですので先生の謝礼を最初に取って頂き、相手には、半分届けて下さい」と言われることがある。

すると先生は、「蜷川、相手に全額持って行きなさい。その相手の前で、きちっと折半にしなさい。もし先に取って半分渡すとする。いつかこのことが公になった時に、私が相手に半分しか渡さなかったと誤解される。お金のことは、必ず後でバレる。金のことで、後ろ指を指されては駄目だ。人を見られるからな」。

先生が亡くなられてから、そんな機会もなくなったが、例え少額であっても金のやり取りには気をつけるようにしている。天網恢恢疎にして漏らさず。こんな言葉がふと頭に浮かんだニュースだった。


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