白雲去来

蜷川正大の日々是口実

不衛生が一番苦手。

2014-07-03 13:04:47 | インポート

七月一日(火)曇り。

昨夜、宮崎の社友の福田秀春さんからご恵送頂いた「馬鹿正直」という焼酎を飲み過ぎた。焼酎は、二十度の物は「ロック」で、二十五度の物は、八・二の水割り(もちろん焼酎が八)。三十度以上の物は六・四の水割りで飲むようにしている。「馬鹿正直」は二十度、当然ロックでやった。これが美味くて、昨日、「我が志はアフリカにあり」を読んで島岡強氏の人生に感動したばかりなのに、もうこの体たらくだ。島岡さんのいるアフリカが、どっちの方向か分からないが、手を合わせた。

朝食は、好きな「赤ウインナー」に目玉焼きにキャベツの千切り添え。みそ汁は、金沢八景の「わかめ」を入れた。月が替わる時の常套句、「早いもので」もう七月か。自宅のすぐ裏で住宅建設の工事を行っているのでうるさくて仕事にならない。今月の十日までに締め切りの原稿がかなりあるので、事務所に行って原稿書きに没頭した。

私は、一人っ子で育ったせいもあり、かなり神経質な方だ。まあ酔ってしまえば多少は緩くなるが、若い頃は他人の家で食事をするのが苦手だった。自分の茶碗や箸でないとどうも嫌なのである。もっとだめなのは不衛生な場所だ。申し訳ないが、フイリピンやタイなどの、いわゆる屋台などではとても食欲がわかない。贅沢でなくてもいいから、清潔な場所で清潔な食器で食べたい。だからバック・パックでの旅行や放浪の旅などまずできない。また、「我が志はアフリカにあり」の話で恐縮だが、私にはとてもアフリカでの生活が出来ないと言うくだりがあった。少し長いが引用してみる。

私がこの時期、何よりもなじめなかったのは、キオスクと呼ばれる安食堂での昼食だった。穴ポコだらけのトタン屋根が辛うじてのっている掘っ建て小屋の中は、すすで真っ黒(小屋の中で炭や薪を使って料理するため)前の人のこぼした汁で汚れた板の乗っているテーブル、皮も剥いでない丸太のままがころがされているだけの椅子、アルミ製でベコベコになった汚い皿、片隅には汲みおき水の入ったドラム缶、皿がそのまま突っ込まれているバケツやたらい、いちいち洗いもせずに出される欠けたコップで、一杯の水をまわし飲みしている人々、汚れた手を平気で皿が入ったたらいに突っ込んで洗っている人…初めてキオスクに連れて行かれ、日本の三倍位ある山もりのンゴンベ(肉と野菜のごった煮)を目の前にドーンと出された時は、「どうしよう! とても食べれない」と心の中で泣きそうになっていた。

島岡さんは、『やっぱりケニアはンゴンベとウガリだよな』(ウガリはケニアの主食でとうもろこしの粉で練ってつくる科理。ソバガキに似た風味、甘くないかるかんといった感じもする)と言いながらとてもおいしそうに、まわりのケニア人達と楽しそうにしゃべりながら、器用に手で食べている。(東アフリカでは、今も手で食べる習慣が各地に残っている)

島岡さんは五年間の旅の間、いつも一日一回だけの食事、その一回の食事も、最も貧しい人達の行く安食堂で最低の食事をとりながら、その国の人達と話をする中で、その国の民衆の様子を知っていったと言う。そして、島岡さんの信条の一つとして出された物は、どうしようもない時をのぞいて、必ず全都食べるということがある。『食い物を残すなんて、飢えていない人間の傲慢だ』そういう島岡さんと一緒に入った食堂で、私が食べられないなんて言ったら怒鳴られるに決まっている……私は観念して食べ始めた。だが、店と食器の汚さに圧倒され、味わう余裕など全く無かった。また、そんな気持ちで食べているので喉にもうまく通らず、結局残して容赦ない叱責を受けることになった。」

情けないことに、これを読んだだけでこりゃあかん。どちらかと言えば、一人でいるほうが好きだし、大勢の人と一緒に生活するのが苦手である。独房なら三年、雑居房なら二年で良い。と言われたら躊躇なく一年長くとも独房を選ぶ。まあ今からアフリカに行く気力も体力もないので、笑われることもないが、島岡さんに会ったらきっと失望させとてしまうと思うので、遠くからエールを送るのみにします。そう言えば、「我が志はアフリカにあり」の続編もあると言うので、早速アマゾンにて注文した。本が届くのが楽しみである。

 


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革命児・島岡強氏を知っていますか。

2014-07-03 09:54:17 | インポート

六月三十日(月)晴れ。

良い天気である。楽しみの朝食は、エボダイの干物、キュウリのおしんこ、めんたいこ、豆腐の味噌汁。天気は良いし朝食は美味しいし、こんな日は何か良いことがありそうな気がする。

そう言えば、先日、何時も行っている歯医者の待合室に本が置いてあるので、治療の合間に読んでみたら、これがとても面白い。先生に断わって借りたが、そのままイッキに読んでしまい、仕事にならなかった。その本とは、島岡由美子さんという人の書いた「我が志アフリカにあり」(朝日新聞社)というものだ。今年、上半期で読んだ本の中で一番感動した本だと思う。

タンザニアのザンジバルという土地で何のコネもなく友人、知人さえいない中で志をたてて孤軍奮闘、地元に溶け込み事業を拡大して行く。その動機というのが、彼の奥さんの父に語ったというこの言葉だ。「俺は革命家なので、まずは、アフリカ人のことを理解するため、どこかに土着して、そこの国の貧しい、圧倒的多数の民衆が従事する第一次産業に就くことで、少しでも多くの人が働ける場所を作り、そこをアフリカの拠点として、しっかりとした人間関係を築く中で、南アフリカの動向を見つめながら、時期の到来を待つ」と。それを本当に実践してしまう。

奥さんがご主人と出会ったのは、ご主人が十九歳、奥さんが二十歳の時で、北海道は利尻島のユースホステルだった。その時の印象は、「背が高く、日本人離れした長い手足に高い鼻、頭はギチギチのアフロヘアー、そして何といっても太くて濃い三角のかもめ眉毛に、力強い視線を放つ鋭い目、背中に『革命児 強』、袖には『先憂後楽』と金の縫い取りの入ったGジャンにぴったりとしたGパン」という格好だったそうだ。

革命児、生まれたときから両親に革命家として育てられてきた島岡氏は、高校二年生の時に意を決して冬の八甲田山に登る。そこで遭難の体験をするのだが、九日目の朝に捜索隊に救助される。なぜ登山経験もない彼がそんな無謀なことをしたかと言えば「俺は、自分がこれから本物の革命家として生きて行くためには、一度死に行かねばならない。それで死ねば、天が俺を必要としないということであり、生きて帰れたなら、天が俺を革命家として生きろと言っているのだと思い、それを八甲田にかけたのです」。

その後、奥さんと共にアフリカに渡り、壮絶な人生が始まるのだが、苦労を苦労とも思わず、人を労わり、地域社会に貢献して行く。ザンジバルで柔道場を建設したのも彼だ。正直言って、人を見る目のない私であったならば、初対面で「革命児」「先憂後楽」などといった刺繍の入ったGジャンなどを着ていたならば、いっぺんに拒否反応を示したのに違いあるまい。長い間、政治運動などに関わっていると、そういった、いわば「スローガン」を売りにしている人たちを大勢見て来たからである。島岡氏のことを知って、人を先入観や偏見で見てはいけないと言う「基本」をあらためて教えられた。

アマゾンで購入できるので、是非ご一読をお願いしたい。日本人として、島岡氏のような人がいることを知るだけでも誇りを持つことができる。戦前には、玄洋社や黒竜会と言った本物の大陸浪人がいた。現代の日本人は、生活は豊かになったが、人間が一回りも、二回りも小さくなった。もちろん私の自戒です。

517fer495dl_sl500_aa300_1 ※今の歳で読んで良かった。もし多感な十代、二十代の頃にこの本と出会っていたならば、人生が変わったかもしれない。それでもその頃にこの本と出会って、何もせずにいたならば、自己嫌悪に陥るに違いあるまい。昔も今も、私には島岡氏のような勇気と行動力のカケラもないことを自覚しているからだ。と思うと、還暦を過ぎて読んだことに、少しほっとしている。

凄い本だが、娘たちには読ませたくない。島岡氏の足元にも及ばないが、ある意味激しい生き方をしてきたので、子供たちには平凡な人生を送って貰いたいと思っている。

「志」や「正義感」というものを認識するには最高の本だと思う。そう言えば島岡氏は横浜は南区の弘明寺の生まれだそうだ。私も南区の生まれ。余計に親近感が湧く。また、その昔、福富町は清正公通りにあったおでん屋の「好の屋」(現在は港南区に移転)など若い頃に行ったことのあるお店が出てきたりして嬉しくもあった。


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