七月二日(水)晴れ。
起きたら体調が悪くて、珍しく朝食を食べる気がしなかった。午前中に歯医者。下の子供から連絡があって、学校が午前中に終わったとのこと。みなとみらいにて待ち合わせて一緒にランチ。
事務所に行く用事があったので、途中のファミレスに入ったが、どうもこういったレストランは好きになれない。美味しくもなく、かといって不味いわけでもない。少々高くてもちゃんとしたレストランに行けば良かったと反省。
夜は、BS朝日で寺山修二の特集を見たがとても良かった。今度青森に行くことがあったなら、彼の記念館へ行ってみようと思っている。以下は、私のフェイスブックに書いたことのコピーです。
今日(二日)BS朝日の「日本偉人伝」で寺山修二の特集を見たが、とても良かった。実は、寺山と野村先生は同い年である。野村先生が亡くなられる十年前に寺山は死んだ。随分前に出た『週刊朝日』には、グラビアと共に「寺山修司を囲む8人の『とっておきの話』」が掲載されている。その中で映画監督の篠田正浩氏が、寺山の「マッチ擦るつかぬま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の歌について書いていた。篠田氏が終戦を迎えたのは十四歳の時。敗戦で焦土となった光景の中で出会ったのが、寺山の歌であったと。
その寺山の歌は、「祖国喪失」と題された一連の中に収められている。野村先生は、自決の際に同志らに宛てた「檄文」、「天の怒りか、地の声か」の中で、『私は寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という詩と十数年にわたって心の中で対峠し続けてきた。そして今「ある」と腹の底から思うようになっている。私には親も妻も子も、友もいる。山川草木、石ころの一つひとつに至るまで私にとっては、すべて祖国そのものである。寺山は「ない」と一言った。私は「ある」と言う。』と書き、
さだめなき世なりと知るも草莽の一筋の道かはることなし
の辞世を遺して自決なされた。
私は、野村先生も寺山が好きだったと思う。ゆえに自決なされる時の「檄文」に寺山の歌を出したのだと思う。きっと世代的な共感があったに違いない。私は、寺山の短歌で好きなものは、「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」です。その歌で思い出すのは、子供が小さい頃に行った千葉の海の写真です。久しぶりに寺山の歌集を手にした。
※随分昔にお世話になっている斉藤義一氏の千葉の家に行った折のものです。