白雲去来

蜷川正大の日々是口実

「死」と「暴力」を見つめて。 

2015-02-04 23:22:21 | 日記
一月二十九日(木)晴れ。

朝食は、サニーサイドアップに焼いた卵と生のロースハム。これにキャベツの千切り添え。私の好きな「ソース飯」である。世間には、いわゆる醤油派とソース派に別れるが、私は、頑固なまでにソース派である。目玉焼きやキャベツの千切りにしょう油をかけて美味しそうに食べる人がいるが、私は駄目だ。ハムで一番好きなのは御殿場の「二の岡ハム」という会社の「ボロニア・ソーセージ」と「プレスハム」。この二つは私の大好物。しかし安くはないので、普段は「赤ウインナー」に「マルシン」のハンバーグがあればそれで満足なのだが、年中これでは情けない。たまにはこの程度のプチ贅沢しても文句は言われまい。

今回のイスラム国を名乗るテロリストの蛮行で、日本中が右往左往している。軍事力を背景にしないで紛争地、あるいは紛争国に囚われ、滞在している邦人の救出など可能なのであろうか。「自己責任」という言葉は、その人の「覚悟」を思わせるまっとうな覚悟と思えるかもしれないが、結局、家族、友人、ともすれば今回のように国家を巻き込む結果となる。「自己責任」は、言い換えれば独りよがりの、無責任な言葉となることもあると言うことを思い知らされた。戦後七十年。平和ボケした日本と日本人に今回のイスラム国の人質事件は様々な意味で「今そこにある危機」と言うものを考えさせることになったのではないのだろうか。

こういったことが起こるたびに思い出すのが、野村先生の遺著となった『さらば群青』の序文である。今更ながら命を賭けた言葉の重みと言うものを思い知らされる。

「死」と「暴力」を見つめて 
定かではないが、松尾芭蕉が逝去したのは、元禄七年晩秋、夕刻であったそうだ。「奥の細道」に見られるように、旅から旅への人生であったにも拘わらず、彼の最後は大阪の花屋仁右衛門の庇護の下で、多数の門下生に囲まれての大往生であったと仄聞する。
 弟子の去来が、師の臨終を感じ取ったのであろう。
 「何か辞世の句を」
と促すと、芭蕉は苦しい息の下で、
 「三日ほど前に詠んだ句があった。呑舟が持っている。昨日の句は今日の辞世、今日の作品は明日の辞世だ」
と呟いたという。その三日前に詠んだという句が、
 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
だったそうである。
 私は沁々思うのだが、明日の命を保障されている人など一人もいない。「一日一生」という言葉があるが、かかる覚悟なくしての生涯こそ、無味乾燥の哀れをきわめた生きざまではあるまいかと、私は若いときから思い続けてきた。
 戦後日本人は、「死」や「暴力」といった実は避けては通れぬ大命題を、まやかしの平和論とすり替えて、なるべく触れたり直視したりすることを忌み嫌ってきた。
 人間は「死」とは無縁ではあり得ない。社会は「暴力」と無関係ではあり得ない。眼をそらし続けようと思えば思うほど、人間は正気を失い堕落してゆく。
 私は学歴があるわけでもないし、これといって何の取柄もない凡庸な人間である。敢えて何らかの特徴を挙げよといわれれば、戦後五十年、日本人が最も忌み嫌ってきた「死」や「暴力」といった問題について、常に距離を置きながらも、寸時として眼をそらすことなく生き続けてきた、というくらいのことだろう。是非は別だ。しかしその現実が、私の短い命を常に内側から暖めてくれていたし、何事によらず充足感を与え続けてきてくれたのだと断じて過言ではあるまい。そう思っている。
 とすれば、文章を書くことも、映画を製作することも、恋をすることも、何もかも遺作、遺言ということになる。
だから、この拙い書を世に送ることも、いわゆる芭蕉の言う「明日の辞世」ということになるのかも知れぬ。
 であるなら、それはそれでもいいではないか。と、私は漠然と得心している。そう思えばこそ、私の回想は常に「逆光」の彼方に、きらびやかに、そして燦々と光彩を放って消ゆることがないのである。(野村秋介著『さらば群青』より)


夜は、友人氏と西横浜の「加一」にて一献。その後「やまと」へ転戦して、カメちゃんを交えての酒席となった。

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私の本音はブログにはほとんど書かない。

2015-02-04 09:25:16 | 日記
一月二十八日(水)晴れ。

六時に起床。歳のせいか朝早く目が覚めてしまう。隣には長谷川光良氏が昨日の喧騒など無かったかのような白川夜船。彼を起こさぬようにして風呂に行く。こういった非日常がウイークデーの温泉の醍醐味かもしれない。風呂から出ておかしなことが、何と私のズボン下が紛失していた。重ねて脱いだのになぜかズボン下だけがない。間違えるのならば全部違っているはずなのに。またいたずらで持って行くのならやはり下着を全部持って行くはずだ。ズボン下だけがない。ある意味でこれは怖い話ではないか。誰かが私のズボン下を履いている・・・。オエ―。

部屋に戻り、長谷川氏を起こして朝食会場へ。大行社や一泊した同志諸兄に朝の挨拶を済ませて朝食。我が家と違って作ることも片づけをすることもない。毎日上げ膳、据え膳だったらいいのになぁー。と一人ごちる。まあ浪人の身では無理か。

九時半、三本菅会長にご挨拶をして甲斐路を下る。帰路は大行社の横浜の同志である岸谷聖一氏の車に小針政人氏と同乗させて頂いた。長谷川氏は新橋駅頭での街宣活動があるとかで一足先に電車で帰った。東名高速に直結する道路が出来て便利になった。約二時間で横浜着。お礼に近くのラーメン屋で、少々早い昼食で安着祝い。帰宅後に事務所へ。「アサヒ芸能」より今回の日本人人質事件に関して電話取材有り。前回は違うテーマであったが誌面の関係でボツとなった。まあそんなこともあるさ。しかしながら数多いる民族派の活動家の中で、私を選んでくれたことに感謝する次第である。

読者の方から、今回の日本人の人質殺害事件に関して「あまりにも緊張感がなさすぎる」とお叱りを頂いた。そう取られても仕方があるまい。私のこのブログは早い話が私の個人的な「備忘録」である。無料で不特定多数の方に読んで頂いている。だからこそ本音や正確なことはあまり書かないようにしている。特に、このブログでは政治的な意見を避けている。それは何年か前に北海道に行った折、初めてお会いした公安関係者が、「いやー蜷川さん。まいにち忙しそうですねぇー。先日も〇〇へ行かれたのでしょう」と言われて驚いたことがあった。なぜ札幌の公安氏が私の日常を知っているのかと。答えは簡単。このブログの愛読者だった。その人曰く、「恐らく蜷川さんのブログを読んでいる二三割が警察関係じゃないですかね」。だからこそ別段隠すわけもないが、誰とどこであって、どんな話をしたかなどは、立場上、なるべく書かないことにしている。相手にご迷惑にもなるからに他ならない。また原稿と違って、これを更新するときは大体酒が入っている。その上での政治的発言などは不謹慎と思うからである。あんまり過剰な期待されても困るなぁー。酔生夢死の人生ですから。

また良く言われるのは、「蜷川さんのブログは固すぎますよ。難しいことよりも、蜷川さんが毎日何処で何をしているかの方が読んでいて楽しいです」と何人もの人から言われた。以来私のこのブログは「酒場放浪記」的な酔っぱらいのアホバカ親父の日常に重きを置いている。私の本音は、連載させて頂いている「実話ドキュメント」、「大吼」、私の機関誌「燃えよ祖国」、更に様々な媒体で書き、発言したものですることにしている。いずれ今回の日本人人質事件に関して所感を述べるつもりでいるが、それはこの「白雲去来」ではない。悪しからず。

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