一月二十九日(木)晴れ。
朝食は、サニーサイドアップに焼いた卵と生のロースハム。これにキャベツの千切り添え。私の好きな「ソース飯」である。世間には、いわゆる醤油派とソース派に別れるが、私は、頑固なまでにソース派である。目玉焼きやキャベツの千切りにしょう油をかけて美味しそうに食べる人がいるが、私は駄目だ。ハムで一番好きなのは御殿場の「二の岡ハム」という会社の「ボロニア・ソーセージ」と「プレスハム」。この二つは私の大好物。しかし安くはないので、普段は「赤ウインナー」に「マルシン」のハンバーグがあればそれで満足なのだが、年中これでは情けない。たまにはこの程度のプチ贅沢しても文句は言われまい。
今回のイスラム国を名乗るテロリストの蛮行で、日本中が右往左往している。軍事力を背景にしないで紛争地、あるいは紛争国に囚われ、滞在している邦人の救出など可能なのであろうか。「自己責任」という言葉は、その人の「覚悟」を思わせるまっとうな覚悟と思えるかもしれないが、結局、家族、友人、ともすれば今回のように国家を巻き込む結果となる。「自己責任」は、言い換えれば独りよがりの、無責任な言葉となることもあると言うことを思い知らされた。戦後七十年。平和ボケした日本と日本人に今回のイスラム国の人質事件は様々な意味で「今そこにある危機」と言うものを考えさせることになったのではないのだろうか。
こういったことが起こるたびに思い出すのが、野村先生の遺著となった『さらば群青』の序文である。今更ながら命を賭けた言葉の重みと言うものを思い知らされる。
「死」と「暴力」を見つめて
定かではないが、松尾芭蕉が逝去したのは、元禄七年晩秋、夕刻であったそうだ。「奥の細道」に見られるように、旅から旅への人生であったにも拘わらず、彼の最後は大阪の花屋仁右衛門の庇護の下で、多数の門下生に囲まれての大往生であったと仄聞する。
弟子の去来が、師の臨終を感じ取ったのであろう。
「何か辞世の句を」
と促すと、芭蕉は苦しい息の下で、
「三日ほど前に詠んだ句があった。呑舟が持っている。昨日の句は今日の辞世、今日の作品は明日の辞世だ」
と呟いたという。その三日前に詠んだという句が、
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
だったそうである。
私は沁々思うのだが、明日の命を保障されている人など一人もいない。「一日一生」という言葉があるが、かかる覚悟なくしての生涯こそ、無味乾燥の哀れをきわめた生きざまではあるまいかと、私は若いときから思い続けてきた。
戦後日本人は、「死」や「暴力」といった実は避けては通れぬ大命題を、まやかしの平和論とすり替えて、なるべく触れたり直視したりすることを忌み嫌ってきた。
人間は「死」とは無縁ではあり得ない。社会は「暴力」と無関係ではあり得ない。眼をそらし続けようと思えば思うほど、人間は正気を失い堕落してゆく。
私は学歴があるわけでもないし、これといって何の取柄もない凡庸な人間である。敢えて何らかの特徴を挙げよといわれれば、戦後五十年、日本人が最も忌み嫌ってきた「死」や「暴力」といった問題について、常に距離を置きながらも、寸時として眼をそらすことなく生き続けてきた、というくらいのことだろう。是非は別だ。しかしその現実が、私の短い命を常に内側から暖めてくれていたし、何事によらず充足感を与え続けてきてくれたのだと断じて過言ではあるまい。そう思っている。
とすれば、文章を書くことも、映画を製作することも、恋をすることも、何もかも遺作、遺言ということになる。
だから、この拙い書を世に送ることも、いわゆる芭蕉の言う「明日の辞世」ということになるのかも知れぬ。
であるなら、それはそれでもいいではないか。と、私は漠然と得心している。そう思えばこそ、私の回想は常に「逆光」の彼方に、きらびやかに、そして燦々と光彩を放って消ゆることがないのである。(野村秋介著『さらば群青』より)
夜は、友人氏と西横浜の「加一」にて一献。その後「やまと」へ転戦して、カメちゃんを交えての酒席となった。
朝食は、サニーサイドアップに焼いた卵と生のロースハム。これにキャベツの千切り添え。私の好きな「ソース飯」である。世間には、いわゆる醤油派とソース派に別れるが、私は、頑固なまでにソース派である。目玉焼きやキャベツの千切りにしょう油をかけて美味しそうに食べる人がいるが、私は駄目だ。ハムで一番好きなのは御殿場の「二の岡ハム」という会社の「ボロニア・ソーセージ」と「プレスハム」。この二つは私の大好物。しかし安くはないので、普段は「赤ウインナー」に「マルシン」のハンバーグがあればそれで満足なのだが、年中これでは情けない。たまにはこの程度のプチ贅沢しても文句は言われまい。
今回のイスラム国を名乗るテロリストの蛮行で、日本中が右往左往している。軍事力を背景にしないで紛争地、あるいは紛争国に囚われ、滞在している邦人の救出など可能なのであろうか。「自己責任」という言葉は、その人の「覚悟」を思わせるまっとうな覚悟と思えるかもしれないが、結局、家族、友人、ともすれば今回のように国家を巻き込む結果となる。「自己責任」は、言い換えれば独りよがりの、無責任な言葉となることもあると言うことを思い知らされた。戦後七十年。平和ボケした日本と日本人に今回のイスラム国の人質事件は様々な意味で「今そこにある危機」と言うものを考えさせることになったのではないのだろうか。
こういったことが起こるたびに思い出すのが、野村先生の遺著となった『さらば群青』の序文である。今更ながら命を賭けた言葉の重みと言うものを思い知らされる。
「死」と「暴力」を見つめて
定かではないが、松尾芭蕉が逝去したのは、元禄七年晩秋、夕刻であったそうだ。「奥の細道」に見られるように、旅から旅への人生であったにも拘わらず、彼の最後は大阪の花屋仁右衛門の庇護の下で、多数の門下生に囲まれての大往生であったと仄聞する。
弟子の去来が、師の臨終を感じ取ったのであろう。
「何か辞世の句を」
と促すと、芭蕉は苦しい息の下で、
「三日ほど前に詠んだ句があった。呑舟が持っている。昨日の句は今日の辞世、今日の作品は明日の辞世だ」
と呟いたという。その三日前に詠んだという句が、
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
だったそうである。
私は沁々思うのだが、明日の命を保障されている人など一人もいない。「一日一生」という言葉があるが、かかる覚悟なくしての生涯こそ、無味乾燥の哀れをきわめた生きざまではあるまいかと、私は若いときから思い続けてきた。
戦後日本人は、「死」や「暴力」といった実は避けては通れぬ大命題を、まやかしの平和論とすり替えて、なるべく触れたり直視したりすることを忌み嫌ってきた。
人間は「死」とは無縁ではあり得ない。社会は「暴力」と無関係ではあり得ない。眼をそらし続けようと思えば思うほど、人間は正気を失い堕落してゆく。
私は学歴があるわけでもないし、これといって何の取柄もない凡庸な人間である。敢えて何らかの特徴を挙げよといわれれば、戦後五十年、日本人が最も忌み嫌ってきた「死」や「暴力」といった問題について、常に距離を置きながらも、寸時として眼をそらすことなく生き続けてきた、というくらいのことだろう。是非は別だ。しかしその現実が、私の短い命を常に内側から暖めてくれていたし、何事によらず充足感を与え続けてきてくれたのだと断じて過言ではあるまい。そう思っている。
とすれば、文章を書くことも、映画を製作することも、恋をすることも、何もかも遺作、遺言ということになる。
だから、この拙い書を世に送ることも、いわゆる芭蕉の言う「明日の辞世」ということになるのかも知れぬ。
であるなら、それはそれでもいいではないか。と、私は漠然と得心している。そう思えばこそ、私の回想は常に「逆光」の彼方に、きらびやかに、そして燦々と光彩を放って消ゆることがないのである。(野村秋介著『さらば群青』より)
夜は、友人氏と西横浜の「加一」にて一献。その後「やまと」へ転戦して、カメちゃんを交えての酒席となった。