白雲去来

蜷川正大の日々是口実

遠い昔の読書のことなど。

2015-02-13 00:14:33 | 日記
二月五日(木)曇り後雪。

義務として読書をしていた時代がある。三十代から四十代までの十何年間だ。特に北海道の大学にいた時は、一人一殺ならぬ一日一冊を心がけてノルマとして月に三十冊の読書をした。知識というものは読書の量できまる訳ではないことは知っていたが、まず読書をする体力をつけようと思って敢えて「乱読」の時を持った。

読書をするのに獄中ほど適した場所はない。それも独房ならばこれ以上の環境はない。有難いことに獄は本に事欠かない。「工場官本」と言って三ヶ月に一度百五十冊ほどの本が交代で備え付けられる。もちろん興味の他の本がほとんどだが、休日の続く時などは敢えて、普段なら読まないような評論や宗教に関する本を選んだ。と言うのは三日も連休が続く時などは、一歩も外に出られずにひたすら面壁に耐えなければならない。独房に持って行ける本は限られていて、面白そうな本だとあっという間に読了してしまう。こうなると退屈で仕方がない。だからこそ難しい、普段なら手にすることのない本を借りて行く。二三頁読めば、難しくてハァーとため息をつきながら、休み休み何とか活字を追って行く。それこそ本と格闘して学ぶのである。登山の経験はないけれど、大冊を読了した後のすがすがしさは、きっと山登りの征服感に似ているのではないかと思う。こうした時間を四年近くも持てたことを今では感謝している。

その時のことを「筑摩書房」の宣伝誌「ちくま」に編集者のご厚意で三回にわたって「獄中の読書」という題で書かせて頂いたことがあった。電車で出かける時にうっかりと本を忘れてしまうことがある。自分を罵りたくなるが仕方がない。書店に寄る時間もない時は、ほとんどの駅にある無料の旅行パンフをズラズラっと手にして読む。電車で移動している時に、活字を追っていると不思議な安堵感がある。地方に出る時には電車の旅が嬉しい。本を読み、飽きれば車窓に目を移し流れゆく景色楽しむ。そのうちにウトウトして、ハッとしてまた目を覚まして本を読む。旅に出る時に読む本を常に五冊程度キープしてある。もちろん時代小説やエッセイの類である。

予報どうりに雪となった。ただ積もると言う予報は外れて、午後からは霙、そして雨になった。雪を見たことで酒の衝動が収まらず、仲良しのカメチャンに電話して家の近くの居酒屋で一献。その後藤棚の「一休」に転戦。珍しく飲み過ぎて気が付いたら関内牧場を一人で彷徨っていた。

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