白雲去来

蜷川正大の日々是口実

私の怪気炎の炎で友を焼く。

2015-02-27 16:54:20 | 日記
二月二十五日(水)曇り。

朝食は、マサヒロ・スペシャル。頂き物の「二の岡フーズのボロニアソーセージ」に目玉焼き、キャベツの千切り添え。これを三種類のソースで食べた。こんな日は何か良いことがありそうなどと思ってしまうから、安上がりにできている。

今日は、FBで知り合いになり、その後「燃えよ祖国」の読者になって頂いた「旅する事業家」の堀芳康氏が横浜で仕事中ということなので五時半に藤棚商店街で待ち合わせた。久しぶりの一献会の場所は「やまと」である。待ち合わせの時間より早く着いたのでコンビニで暇を潰していたら目についたのが「横濱名酒場100・野毛・関内・伊勢佐木町」というムック本。面白そうなので買ってしまった。「やまと」に行ったら、オヤジが「うちのお店も出ていますよ」。言われて頁をめくれば、おおビシッと一頁の特別扱い。さすがでんな。

堀さんと久闊を叙して時局を肴に痛飲、と行きたいところだが堀さんはあまり酒が強くない。私だけが一人で盛り上がって怪気炎の火で堀さんにも火が付き、近くの「愛福楼」に転戦。紹興酒を四合ほどやっつけてから保土ヶ谷まで送り帰宅する。
※写真は「やまと」が掲載されている、ぴあMOOK。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝敗は兵家の常。

2015-02-27 15:43:58 | 日記
二月二十四日(火)晴れ。

今年は「戦後七十年」とかで政府が有識者を集めて政府の「談話」を出すと言う。あるマスコミの人から、どう思いますかと聞かれた。早い話が「やめたら」と答えた。どうせ中国や韓国などに気を遣って「村山談話」に少し色つけたぐらいの物しか出せないのは分かっているのだから。一体、いつまで「戦後〇十年」とか言わなければならないのだろうか。では百三十年後も「戦後二百年」とか言って談話を用意するのだろうか。

良く知らないが、アメリカは日本のように、いちいち「戦後〇十年」とかいう談話や行事を行っているのだろうか。どの戦争の戦後なのか、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン派兵、イラク戦争・・・。日本もなぜ大東亜戦争の「戦後」だけにこだわるのか。もう「戦後」何て言う懐古趣味、あるいは自虐趣味的な言葉は使わないようにしたら良いと思う。大体敗けた戦争のことをなぜ記念するように「談話」など出す必要があるのか不思議でならない。日清戦争や日露戦争の「勝利〇十年」と言う勝ったことのお祝いや所感を述べることは大いに意義があると思うが、そうした国民の意識を高めることをせずに、敗戦の談話を出すことのどこに未来的な意味があるのだろうか。例えば、巨人軍が日本シリーズで敗けて、それを記念して「日本シリーズ敗退〇年」とか言うのか。先の大戦において、もし反省をすることがあるとするならば、それはただ一点「敗けたこと」だけだ。次にやる時は勝てば良いではないか。

「三国志」の中にこういう故事がある。曹操に大敗を喫した劉備は、敗走の途中で自害を試みたり、臣下たちに自分のふがいなさを嘆いたりと、天下を治めようとする覇気を失い弱気になっていた。その時に、関羽がかけた励ましの言葉が「勝敗は兵家の常」。すなわち、勝つことばかりでなく、負けることもまた軍事家の常であり、人生には起伏はつきものである。有史以来たった一度の戦に敗けたからと言って卑屈になることはない。「勝敗は兵家の常」である。

四宮正貴先生の言葉ではないが、「七十年一度も日本は戦争をしなかったからこそ『戦後七十年』などという言葉が出る」。言い換えれば、その七十年こそ、日本がアジアは言うに及ばず、世界の平和に貢献してきたことの証明である。極めて自虐的な文言でつづられていた「村山談話」もそうだったが、韓国と中国の二か国を意識して出した談話であることは一目瞭然である。我が国は尊い血税を使って韓国や中国に莫大な賠償や援助を行ってきた。(「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照にして下さい。)そう言ったことに対する気遣いの微塵も感じられない国に対して、七十年も過ぎてから何の「談話」なのか・・・。現在のわが国では、戦後生まれの人が人口の八割近くにもなる。早い話が、八割の人たちが戦争を知らない世代の人たちである。もちろん私もその中の一人である。こうした世代の人たちに、いつまでいわれのない「負の遺産」を残し続けるのだ。

野村先生は、自決の際に、同志に宛てた檄文「天の怒りか、地の声か」の中でこう述べている。「ちなみに、神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう」。

夜は、友人が刺身やお寿司を下げて来訪。「農林二号」という芋焼酎で「何が『七十年談話』だ馬鹿野郎」と痛飲。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする