白雲去来

蜷川正大の日々是口実

お酉さまへ。

2017-11-21 17:56:35 | 日記
十一月十八日(土)雨後曇り。

やっと機関誌『燃えよ祖国』の二三四号を発送した。特集は「野村秋介と私」私を含めて十四名の方に原稿を頂いた。その人たちの中で、私以外に、生前の野村先生を知っている方は二人だけである。他の人は、野村先生の著作や映像から影響を受けて、群青忌やその他の会合、集会に参加して頂いている。また勉強会を通じて知り合った、林雄毅さんの「大川周明論」は出色である。林さんが解説をした『日本精神研究』や「米英東亜侵略史』、ベストセラーとなった『二千六百年史』などは、古書店やネットで探せば、比較的に手に入りやすいので、是非ご一読を。

夕方に雨が上がった。カメ&アコちゃんたちと待ち合わせて「酉の市」に出かけた。天気が悪いせいもあって、さほど混雑していない。何を買う訳ではないのだが、お酉さまの喧騒に身を置かないと、師走を迎えられないような気がする。いつもはほとんど参拝する人のいない大鳳神社も凄い人の列だ。私が、子供の頃は、この神社の脇に、白衣を着てアコーディオンで軍歌を弾きながら、寄付を募る「傷痍軍人」がいた。今でも、お酉さまと言うと、その風景がセットとなって甦る。

屋台で、軽く飲んだ後に、カメちゃんの知り合いの寿司屋へ。しばらく飲んでから、曙町の焼き鳥の名店「千屋」へ。ここのオヤジとおかみさんとは、家が近いこともあって、私の事務所が伊勢佐木町にあった頃には良く行った。お二人にご無沙汰をお詫びして、仕上げにガァーッと飲んだ。相変わらず美味しい。最近は、ネットの影響で一ヶ月も前から予約がはいるとのこと。九時ぐらいまで、ほとんど飛び込みでは入れないそうだ。ヤレヤレ。

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『週刊ダイヤモンド』の電子版で凄いことになっている。

2017-11-21 17:20:30 | 日記
十一月十七日(金)晴れ。

以前『週刊ダイヤモンド』という雑誌から、「右派×左派で読み解く日本経済」という特集を行うと言うことで取材を受けた。それが先週、送られてきたが、誌面には私のインタビューとしてわずか十三行しか掲載されなかった。ところが、電子版では、私のインタビューがほぼ全て掲載されている。そのタイトルというのが「ネトウヨは男のすることではないー右翼民族派の主張」と言うもの。(ヤフーでそのまま検索すると全文を読むことが出来ます)私は、インタビューの中で「ネトウヨは男のすることではない」などと一度も言ったことはない。編集部がつけたタイトルである。

その私の文章を、友人が、何とか言うサイトにアップしてくれた。パソコンには入らないのだが、携帯を見たら、賛否両論、凄いことになっていた。それがほとんど、私の嫌いな「匿名」である。私は、左右に限らず匿名で人を批判する連中が好きではない。自分の主張を言うだけならば構わないが、批判をするのならば、何処の誰だか、堂々と名乗るべきである。まあそんな連中と付き合う気もないので、屁でもないが。

野村先生は、信念を貫けば十字架が待っている。と言った。そう言った覚悟が無ければ、体制の批判はもとより、革新運動など出来る訳がない。自分を明かさないで、人の批判をして溜飲を下げている。どう考えても気持ちが悪い。男ならば、せめて「遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ」と名乗りを上げて欲しいものだ。しかし、『週刊ダイヤモンド』経済誌なのに、私は、ボランティアです。それで見ず知らずの連中から、能書き言われて、やってられないなぁー。

寒いので、今日も酔狂亭で「鳥鍋」。鶏肉と、白滝、竹輪、油揚げのみである。野菜を入れると水っぽくなるので、入れない。〆は、ラーメン。「辛ラーメン」の麺だけ使う。お供は「黒霧島」。

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アナログ世代の共通の悩み。

2017-11-21 13:08:50 | 日記
十一月十六日(木)晴れ。

このブログなのか、それともフェイスブックなのか、私が連載させて頂いている『実話ドキュメント』なのか・・・。どこに書いたのかさっぱり思い出せない。どんな物かと言えば、私は、記念写真が好きで、旅に出ると、必ず一冊アルバムを作る。酔いに任せて、旅のアルバムを開けば、野村先生や、友人のことなどが浮かぶ。家にいながら旅の感傷に酔えるのだ。旅行から帰ってきて、フィルムを現像し、それを見ながらアルバムに貼ることの楽しさ。ホテルの絵葉書や領収書。旅先で行ったレストランのコースターや箸袋なども一緒にアルバムに貼る。そのアルバムも、数が多すぎて自宅に置くことが出来ずに、ほとんど事務所に保管した。

最近はデジカメのせいか、現像する必要がなくなり、撮り放題である。撮ったものはPCのハードディスクに収めてあるのだが、整理が悪く、「あの旅の写真は、何処にあるのだろう」と、探すのが大変である。こういった思いは、どうやら私だけではないようで、『週刊新潮』の十一月十六日号に数学学者の藤原正彦氏が、コラム「菅見妄語」の中にこう書いている。

「ここ十数年にとった写真は見ることが少ない。主因はデジタル化のせいである。デジタルカメラだとフィルム代がかからないから、とられた写真の数はかつての何倍にもなっている。先日もベルギーとオランダを一週間旅しただけで百数十枚はとった。それら写真はそのままパソコンにしまってある。友達に写真を送るのも、パソコからパソコンでできるから、プリントすることはめったになくなった。アルバムを一切作らなくなってしまったのだ。アルバムが本棚にあれば、背表紙にある夕イトルや西暦を見て、ふと懐かしくなり手を伸ばして開いて見たりするが、パソコンにしまってある大量の写真からお目当てのものを探すには、幾つものプロセスが必要で、ひょいと手を伸ばすというとにならないのだ。機械の中の写真は、アルバムの中のものに比べ、はるかに遠い存在となる。」

やっぱりなぁー。アナログ世代の共通の感慨かもしれない。

事務所で、一日、機関誌の製作。終了後は、寒いので、酔狂亭で「鳥鍋」で一杯。お供は「伊佐美」。

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