白雲去来

蜷川正大の日々是口実

野村先生の原稿の掲載された『天照』。

2019-09-22 13:00:18 | 日記
九月十七日(火)晴れ。

今日は、下の子供の誕生日。おめでとうを言うが、花もプレゼントも用意していなかったので、二十二日に食事に行くことで勘弁してもらった。朝食は、昨夜のスキヤキの残りを卵でとじた。それに青森は十三湖のシジミの味噌汁。昼は、小さいおにぎり二個。夜は、月に一度の、名前だけ真面目な仲良しさんたちとの会合を馬車道の「佐島」にて。終了後は、狭斜の巷に転戦。

先日、ブログにアップしたのが、油揚げの中に卵を入れて煮る「あぶたま」。読者の方から、卵を器に入れてから油揚げに入れる方が簡単。麺つゆか、スキ焼のタレを薄めて味付けします。とアドバイスを頂いた。さっそくチャレンジしてみます。

かつて横浜に本部を置く伝統的な民族派団体に天照義団という団体があった。責任者は山下幸弘先生。戦前からの活動家で、神奈川の民族派の重鎮のお一人だった。山下先生は、明治三十八年に熊本県で生まれ、その後、上京。赤化防止団の横浜支部長を経て昭和九年に天照義団を結成。機関誌『天照』を創刊。戦後は、数々の民族派団体の顧問、相談役を務め、昭和二十八年に『天照』を再刊。神奈川県維新協議会の結成当時の最高顧問などを務め、昭和五十二年十一月逝去。享年七十二歳。私も若い頃にお世話になり、ご自宅にも何度もお伺いしたことがある。

その山下先生が発行していた機関誌『天照』を揃いではないが、平成十四年に亡くなられた小早川貞夫先生の形見分けとして、幾冊か頂いた。その中に、野村先生が、昭和三十八年に「河野邸焼き討ち事件」の前に結成した憂国道志会当時に寄稿した貴重な原稿があるのを発見した。もちろん読んだことのある人はほとんどいないと思う。「河野邸焼き討ち事件」で獄中にいる時には、俳句を投稿している。野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』の句の多くは、その『天照』に投稿したものだ。先生が、憂国道志会を結成した当時の昭和三十六年から三十八年の六月まで、『天照』が揃いであれば、若き日の先生の原稿が見つかるかもしれないと思うと残念である。そのうちに国会図書館でも行って探してみようと思っている。

私の機関誌『燃えよ祖国』に、『天照』に掲載された先生の原稿や『銀河蒼茫』に掲載されていない句などを随時掲載して見るつもりでいる。

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年寄りの自覚がないのが、年寄りの証拠か。

2019-09-22 11:51:30 | 日記
九月十六日(月)雨。敬老の日。

雨か・・・。と感慨にふける理由もない。敬老の日とか。昭和二十五年の頃は、「年寄り」の定義は五十歳だったとか。それが昭和六十年代になると六十歳になり、現在では七十歳からお年寄り、となるらしい。(間違っていたらゴメンネ)体と頭は完全にサマジイ(爺さま)なのに、そんな意識のない所が年寄りの証拠かもしれない。敬老の日の朝食は、親子丼、筋子、もやしの味噌汁。昼食は、冷食のソバ飯チャーハン、やはり冷食のペペロンチーノ。夜は、家族でスキヤキ鍋を囲んだ。

私にとってスキヤキは、「鍋」だった。つまり鉄鍋に、白滝、焼き豆腐、野菜や牛肉を入れて「煮て」食べるのが普通と思っていた。それが、大人になってから大阪に行ってスキヤキ屋に行って驚いた。牛肉を鉄鍋で焼いて「タレ」をつけて食べる。白滝も豆腐もそうだ。煮るのではなく、焼く。確かに、スキ焼なのだから、この方が理に適っている。我が家では、上等な牛肉を食べるときは、焼いて、安価な肉の場合は、煮るようにしている。また卵に牛肉をつけて食べることを知った時も、驚いた。最も私の子供の頃は、牛肉を食べるなんて、本当に何年に一度、という時代だったから無理もない。

午後、民族革新会議の犬塚博英議長よりのメールで、先輩の山浦嘉久さんの訃報が入る。脳梗塞で倒れて入院していると言うことを風の便りに聞いていたが、亡くなってしまうとは・・・。山浦さんとは、長いお付き合いではあるが、近からず、遠からずとある程度の距離を持ってお付き合いしていた。パソコンの中の写真を探してみたら、山浦さんの写真が沢山あった。享年七十三歳。合掌。

珍しく、休肝日にした。ノンアルのビールを二本飲んで、十時過ぎに寝た。

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