スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&属性の十全な観念

2011-05-27 18:39:19 | 将棋
 第52期王位戦挑戦者決定リーグの紅組は,一昨日の最終一斉対局の時点でふたりが3勝1敗で並んでいました。そのうちのひとり,藤井猛九段は谷川浩司九段と対戦。対局前の時点で谷川九段が17勝,藤井九段が15勝。
 谷川九段の先手で藤井九段の角交換四間飛車から向飛車穴熊。穴熊の将棋だと稀にあることですが,この一局は先手の構想がよくなかったようで,中盤の戦いが始まってわりと早いうちにはっきりとした差がつきました。
                         
 次に△3ニ飛で打った角の行き場がなくなるので先手はまごまごしていられません。▲6九飛と回って▲6四角成を用意。後手はその狙いを防ぎつつ攻め味も見せて△6五桂の絶好打。仕方なしに先手は▲5三銀と打ち込み自然な△6一飛に▲4二角成(第2図)と逃げました。
                         
 一応は馬ができたわけですが,こういう攻めでは穴熊の玉を攻略するのは困難で,ほとんど響いていないといっていいほどだと思います。この後は典型的な先手玉終盤,後手玉中盤のような将棋となってしまい,藤井九段の快勝に終っています。
 1敗で並んでいた戸辺誠六段の方は負けたので,藤井九段の優勝が決定。明日の白組プレーオフの勝者と挑戦者決定戦を戦うことになりました。

 第二部定義一でスピノザが示している内容が,共通概念として現実的に存在するすべての人間の精神の一部を構成し,かつ現実的に存在するすべての人間がそれを意識することができる,さらにいうならこれは十全な観念,すなわち真の観念であるわけですから,第二部定理四三により,すべての人間はそれについて疑いをもつことができないのだとすれば,このことからどのような事柄が帰結してくるのでしょうか。
 結論から先にいうならば,僕の考えでは,このことのうちには,人間の精神のうちには,神の延長の属性の十全な観念があるということが含まれているのです。一方,これは物体の認識に関する論考によって得られる結論ですので,個物の観念を利用した同様の訴訟過程により,神の思惟の属性についても,現実的に存在するすべての人間の精神の一部が,その十全な観念によって形成されているということになると思います。
 僕がそのように結論する最大の根拠は,第一部定理一にあります。様態の存在に実体の存在というのが本性の上で先立っているのであれば,物体はそれこそ第二部定義一にあるように延長の様態なわけですから,それには延長の実体が本性の上で先立っていなければなりません。ここには反論の余地がないと思います。しかるにそうであるならば,物体の十全な認識というものがあるためには,延長の実体の十全な認識が,本性の上で先立たなければならないと僕は考えるのです。これは,スピノザの哲学を大きく特徴づけるような平行論からの帰結ということもできると思いますし,より確実を期すなら,第二部定理七に訴えるのがいいと思います。すなわち,物体に対して延長の実体が先立つというのは,物体の秩序であると考えられますが,観念の秩序というのがこれと同一でなければならないのだとしたら,物体の観念には延長の実体の観念が本性の上で先立っていなければならないということになると考えられるからです。
 第一部定理一というのは名目的にしか考えられない定理ですから,ここではさしあたって名目的に説明しました。しかしこれを実在的な観点から考えるならば,延長の実体というのは神の延長の属性にほかならないと僕は思います。だから物体の十全な認識には,神の延長の属性の認識が本性の上で先立っていると僕は考えるのです。
コメント
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