それではコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中身を検討していきましょう。せっかくの機会なので,スピノザが死ぬ前日の記述からみていきます。
1677年2月22日,この日は土曜であったとコレルスJohannes Colerusは書いています。この日にスペイクは妻とふたりで教会に行き,牧師,というのはコレルスの前任者と思われますが,その牧師の予備の説教を聞きに行きました。帰宅したのは午後4時ごろで,コレルスが帰宅するとスピノザが自身の部屋から下りてきたとされています。スピノザの部屋のことをコレルスは表部屋の寝台と記述していますが,それが何を意味するかは僕にはよく分かりません。ただ,下りてきたといわれている以上,スピノザが間借りしていたのはスペイクの家の1階ではなかったということは確かでしょう。
下りてきたスピノザは煙草をふかし,しばらくの間スペイクと話をしました。その中には午後にあった牧師の説教の話もあったと書かれています。この牧師はコルデスという名前ですが,コルデスは博学の上に誠実であったから,スピノザの尊敬を受けていて,スピノザもたまに説教を聞きに行くこともあったとスペイクはいっていますので,それが本当であればこのときに説教の内容が話題となっても不思議ではありません。ただ,前もっていっておいたように,スペイクにはスピノザのことをコレルスによく思ってもらいたいという気持ちを持つ十分な理由があり,このエピソードはコレルスにそう思わせる内容を有していますから,すべてが本当のことであったということはできないかもしれません。ただこの日にスピノザがスペイクと何らかの話をしたということについては疑う必要はないのではないかと思います。
翌日は日曜だったのでルター教会では礼拝がありました。その礼拝にスペイクと妻が出かける前にスピノザはまた下りてきて,ふたりと話をしました。このときにスピノザはアムステルダムAmsterdamから医師を呼んでいて,この医師が年老いた鶏を調理してそのスープを昼食としてスピノザに摂らせるようにいいつけたので,スペイクはその通りにしたといっています。実際に調理したのは家人となっていますから,たぶんスペイクの妻だったでしょう。
コレルスJohannes Colerusはウェルフェの家でスピノザが借りていたのは二階の奥の部屋といい,その部屋を自身の書斎と表現しています。要するにスピノザはその部屋だけを使い,家屋のほかの部分をウェルフェが利用していたということになりますが,コレルスのいい方だと,家屋の全体をコレルスの一家で使用し,スピノザが借りていた部屋を自身の書斎として利用しているというように読めます。家屋の全体をコレルスの一家で利用しているのであれば,そこにウェルフェが住む場所はありません。ですから少なくともコレルスとウェルフェが同じ家屋に住んでいたということはなかったと僕は解します。ということはこの時点でウェルフェはこの家を売却してどこかに引っ越していたか,そうでなければすでに故人となっていたかのどちらかでしょう。だから僕はナドラーSteven Nadlerの説よりも渡辺の説の方が正しく,この時点でウェルフェは死んでいたのであって,コレルスがウェルフェからスピノザについて何かを聞き取るということはできなかったと考えるのです。
スピノザが部屋にこもっていて外に出ることがなかったということは,別にウェルフェに聞かなくても,近辺の住人に聞けば分かることでしょう。そもそもスペイクの家はこの近くだったのですから,スペイクはスピノザが自身の家に間借りするようになる前からスピノザのことを知っていたかもしれないのであって,そうであればスピノザのウェルフェの家での生活がどのようなものであったのかということも知っていたかもしれません。また,ウェルフェとスペイクが知り合いだったという可能性も否定できないのであって,スペイクがウェルフェからスピノザのことを聞いていたということもあり得ます。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』でも,ウェルフェの家とスペイクの家は近隣といわれています。
これらのことから僕は,たとえウェルフェがすでに死んでいたとしても,その家でのスピノザの様子をコレルスは知り得たと思うので,『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』で書かれていることが正しいとみていますが,ナドラーの説を絶対的に否定できるというわけではありません。渡辺が補足していることも絶対に正しいとはいえないのです。
ここまでの注意を踏まえて,コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの内容を検討していきます。ただし,『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』に加えられている説明も,完全とはいえない側面がありますから,先にその点を説明していきます。
スピノザがフォールブルフVoorburgを離れてハーグDen Haagに移ったのは,1669年の暮れか1670年早々だったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。先述したようにスピノザはすぐにスペイクの家に間借りをしたのではなく,ウェルフェという寡婦の家に間借りしました。事実上は屋根裏部屋だったようです。ウェルフェはウィレムという法律家の妻だったのですが,ウィレムが死んでしまったので収入を得る必要が生じ,スピノザを住まわせることになったというのがナドラーSteven Nadlerが確定的に記述していることです。
ここに後にコレルスJohannes Colerusが住むことになります。『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺は,その時点でウェルフェは死んでいたとしています。だから僕もコレルスはウェルフェからは話を聞くことができなかったといいました。しかしナドラーは,コレルスはウェルフェからも話を聞いたとしています。つまりナドラーはその時点でウェルフェがまだ生きていたと考えているのです。スピノザの部屋は実験室であると説明されていますが,スピノザはその部屋で食事をしたり眠ったりもしたのであって,そこに一日中こもっていることもあったという主旨のことをコレルスは書いていて,これはコレルスがウェルフェから聞き取ったことだとナドラーはみているわけです。
僕は渡辺のいっていることの方が正しいのではないかと考えています。ひとつは単純に,コレルスがウェルフェの名前を間違えて記述しているからです。スピノザが住んでいた家の寡婦はウェルフェであったということは,渡辺説でもナドラー説でも一致していますが,コレルスはその寡婦の名前をフェーレンと記述しているのです。もしもコレルスがウェルフェ本人から話を聞き取ったのだとすれば,その人の名前を間違えるということはあり得ないように僕には思えるのです。
もうひとつ理由があって,これはコレルスによるスピノザが住んでいた部屋に関する記述に関連します。
この時代の無神論者ということばは,単に神Deusを信じていない人間,一切の信仰fidesを有していない人間という意味ではありませんでした。むしろ素行不良の野蛮人という意味を帯びていたのです。つまり思想信条上の意味だけをもっていたのではなく,生活のあり方も示すことばでした。たとえばスピノザは書簡四十三において,スピノザの生活を知ったとしたら,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenはスピノザを無神論を説いているとは容易に信じなかっただろうといっていますが,これはある人間を無神論者であると規定するときに,その人間の生活態度が大いに関係していたからです。あるいはベールPierre Bayleの『批判的歴史辞典Dictionaire Historique et Critique』でスピノザに触れられているとき,無神論者であるスピノザが品行方正な人間であったということは奇妙だけれど驚くには値しないのであって,それは福音に心服しながら放埓な生活をしている人びとがいるようなものであるといわれているのは,無神論者であればだれでも放埓な生活を送り,福音に心服していれば,いい換えればキリスト教の信者であればだれでも品行方正であるという社会通念があったからなのであって,ベールはその通念は必ずしも正しいわけではないといっているのです。
スピノザはそれなりに有名人であった筈なので,コレルスJohannes Colerusはスピノザの名前は知っていて,無神論者であるということも知っていたとしたら,コレルスのスピノザに対する印象は,素行不良な野蛮人というものだったかもしれません。とくにコレルスは牧師だったわけですから,そういう印象をより抱きやすかったのではないかと思えます。しかしスペイクから聞いたスピノザの生活態度が,そうした印象とあまりにかけ離れたものであったから,コレルスはそれを書きとどめて人びとに伝えようと思ったのではないかと僕は推測します。つまりコレルスにとって,自分が住んだ場所がたまたま以前にスピノザが住んでいた家だったということは,伝記を書くのに大きな要素を占めていたとは僕は思いません。また,スペイクから聞いたスピノザの逸話が,コレルスがイメージしている通りの無神論者であったとしたら,やはりコレルスは伝記を書くことはなかったのだろうと思います。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaを扱うときには気をつけておかなければならないことがいくつかありますので,それを改めて確認しておきます。 コレルスJohannes Colerusは1679年にアムステルダムAmsterdamにルター派の牧師として派遣されました。そして1693年にハーグDen Haagに移っています。スピノザがハーグで死んだのは1677年2月ですから,コレルスがオランダに派遣された時点ですでにスピノザは死んでいましたし,ハーグに移った時点では16年が経過していたことになります。したがってコレルスはスピノザと面識があったわけではありません。ですからコレルスが書いているスピノザの伝記は,コレルス自身が見たことではなく,コレルスが調査をした結果がすべてだったことになります。
ハーグに移った時にコレルスが住んだのが,ウェルフェという寡婦がかつて住居としていた家です。スピノザはスペイクの家に移る前に,そこに住んでいたことがありました。ただウェルフェはこの時点で死んでいたので,コレルスはウェルフェからはスピノザについて何かを聞くことはできませんでした。しかし牧師としてハーグで活動し始めたコレルスのところに,スペイクが説教を聞きに来たため,コレルスはスペイクと知り合うことになりました。スペイクはまだスピノザの存命中から牧師の説教を聞きに行くことがあったようですから,牧師がコレルスに変わっても引き続き説教を聞きに行ったということでしょう。スピノザはウェルフェの家を出た後はスペイクの家に間借りしていたわけですから,スペイクはスピノザのことをよく知っていました。なのでコレルスはスペイクからスピノザのことを聞き取ることができました。つまりコレルスの伝記の主要部分は,スペイクからの聞き取り調査によって構成されています。
スピノザは遺稿集Opera Posthumaが即座に発禁処分を科されたことからも分かるように,無神論者として悪名高き人物でした。なのでハーグに移る以前から,コレルスがスピノザのことを知っていたという可能性はあると僕は思っています。ところがスペイクから聞いたスピノザの様子は,とても無神論者から程遠いものであったので,たぶんコレルスは意外に感じたのではないでしょうか。
僕は『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』は,かなり信用に足りるスピノザの伝記だと思っています。その理由のひとつが,著者であるナドラーSteven Nadlerの記述にあります。ナドラーは史実として確定させられる出来事に関しては断定的に記述するのですが,そうでない出来事に関しては断定的な記述はしません。とくにいくつかの説が考えられる場合は,それらの説をすべて記述します。もちろんナドラーにはナドラーの考え方はあるのですが,自説を強調するようなことはしません。たとえばナドラーは,チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の草稿を見せたと考えているのですが,伝記の中ではその自説に固執するわけではなく,ライプニッツはスピノザと面会するまで『エチカ』の内容をほとんど知らなかった可能性にも言及しています。
しかし吉田の研究をみると,ナドラーが断定的に記述している事柄の中にも,まだ史実として疑い得る事柄が含まれているということが分かります。このことは僕にとって収穫のひとつでした。だからといって『ある哲学者の人生』の信頼性が僕の中で揺らぐというわけではないのですが,ナドラーが断定的に記述している事柄であっても,そのまま信頼するのではなく,ほかの資料にもあたって確認する必要があるとはいえるでしょうし,スピノザの伝記の中で史実として書かれている事柄の中に,今後の研究の成果によって書き換えられることもあり得るということは銘記しておかなければならないのだと思います。
吉田の論考に関してはこれだけですが,ことのついでですからここでコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにおいて,スピノザの死後の出来事として記述されていることをもう少し詳しく調べておくことにします。その中にはいくらかの疑問が残るところがあるからです。ただしこれは,あくまでも調査するということなのであって,史実に関して何らかの結論を求めようとするものではありません。というか,実際に歴史的にあった出来事が何であったのかということを確定させるのは無理だともいえます。ですから,ここでの中心は,コレルスの伝記の該当部分に書かれている事柄の中に,どのような疑問を発見することができるのかということになります。
吉田が示した積極的理由は,レベッカをスピノザの妹であるとすることに対し,確かに一定の根拠を示しているといえます。ただ絶対的なものであるともいえません。というのも,レベッカの最期を看取ったと思われる人びとが,レベッカをエステルの娘であるとみていた理由というのがはっきりとしないからです。
すでにいっておいたように,レベッカはスピノザの死後,スピノザが間借りしていた家の大家であったスペイクの前に遺産の相続者として現れたとされています。これが1677年のことです。レベッカはその後,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体を出て,カリブ海にあるキュラソー島というところに移住しています。このときキュラソー島はオランダ領だったので,たぶんここにもユダヤ人共同体があったのでしょう。もちろんアムステルダムにもユダヤ人共同体は残っていたっでしょうが,もしかしたらもうアムステルダムにはレベッカが住みにくくなった何らかの事情が生じていたのかもしれません。レベッカが移住した正確な時期は不明で,早ければ1679年,遅くとも1685年と『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には記されています。レベッカはそのままアムステルダムに戻ることなく死んでいますから,レベッカの最期を看取った人びとというのは,キュラソー島に住んでいたユダヤ人たちです。ここに住んでいたユダヤ人の多くは,ポルトガルとの戦いに敗れたブラジルからの避難民でした。だから,レベッカのことを昔から知っていた人は皆無だったかもしれませんし,いたとしてもごく少数であったと思われます。
レベッカが死んだのは1695年のことで,死因が黄熱病でったことまで分かっています。このときの事情がキュラソー島のユダヤ人に関する公的な歴史書に残っています。そしてその文書の中に,レベッカはスピノザの異母妹であって,エステルの娘であったと記されているのです。この部分も日本語訳は異母姉となっていますが,エステルの娘と書かれている以上は異母妹なのですから,異母姉というのは有木による誤訳です。このことが『ある哲学者の人生』に書かれていて,吉田が積極的理由の資料としているのもこの部分です。。
消極的理由の方は実際はレベッカをスピノザの妹であるとする理由にはなっていませんから,積極的理由が吉田がレベッカをスピノザの妹だという理由のすべてを構成するといえます。そこでその理由をみていきましょう。
『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に,レベッカと最後の日々を共にした人びと,というのはレベッカの死を看取った人びとという意味だと思われますが,そうした人びとはレベッカをスピノザの異母姉であるという印象を有していたという主旨の記述があります。ただしこれは誤訳です。書評でいったようにこの本は英語の直訳になっているのですが,この部分はsisterを姉と訳したために生じたものです。その証拠にレベッカの死を看取った人びとが有していた印象は,レベッカがスピノザの母であるハンナの子ではなく,エステルの娘であるというものだったとその部分に記述されていますが,スピノザの父であるミカエルが結婚した相手は,ラヘル,ハンナ,エステルの順であったからです。つまりレベッカがエステルの子であるという印象を抱かれていたのであれば,レベッカがスピノザの異母姉であるという印象を抱かれていたのではなく,スピノザの異母妹であるという印象を抱かれていたという意味でなければなりません。
実際にはスピノザを含む5人のきょうだいの母はいずれもハンナであって,スピノザには異母姉も異母妹も存在しません。同様に異母兄も異母弟も存在しません。つまりレベッカの死を看取った人びとが有していた印象というのはあくまでも印象に過ぎないのであって,事実とは異なったものでした。しかし吉田はレベッカがそういう印象をもたれていたという点を重視するのです。人がある印象をもたれるのであれば当然ながら何らかの理由があってもたれるわけですが,その理由がどういうものであったのかということはどうあれ,そうした印象が多数の人びとの間に広まるのであれば,それだけの人びとがレベッカはスピノザの姉ではなく妹であるという印象をもっていたのでなければなりません。そしてそれだけの人がそういう印象をもったのは,事実としてレベッカがスピノザの妹だったからというのが吉田の見解opinioです。
イサークとミリアムMiryam de Spinozaのどちらが先に産まれたかということを検討する際に,吉田は時間的ゆとりがあるかないかということを重視していました。この点については,イサークが先に産まれたのであろうと,ミリアムが先に産まれたのであろうと,第二子とスピノザの間に,もうひとりの子どもが産まれるだけの時間的なゆとりはあったと吉田自身がいっていますので,この点は不問に付します。つまり,レベッカがスピノザの姉として産まれるだけの時間的なゆとりはあったということで,この点からレベッカがスピノザの姉ではあり得なかったという結論は出せないということです。
こうしたことを前提として,それでもレベッカはスピノザの妹ではなかったかという説を吉田は展開しています。そこには消極的な理由と積極的な理由があると吉田はいっていますが,この消極的理由というのは,ミリアムの夫の再婚相手にレベッカがなったという点です。つまり,レベッカがスピノザの妹であったとすると,もしもミリアムの夫の再婚が急がれていたとするなら,レベッカはどんなにスピノザとの年の差がない妹であったとしても,18歳前後で幼子が残された姉の夫のところに嫁いだとしなければなりません。しかしこの時代に18歳あるいはそれ未満で嫁ぐということはとくに珍しいことではなかったので,このことはレベッカがスピノザの姉であったということを,スピノザの妹であったということより優先的に支持する根拠にはなり得ないというのが吉田の指摘です。ですからこのことはこれ自体では,レベッカがスピノザの妹であったということを優先的に支持する理由にもなっていないことは明白でしょう。つまり,吉田は消極的理由といっていますが,これは本来的な意味ではレベッカがスピノザの妹であるとする理由にはなっていません。ただ,レベッカがスピノザの姉であるという理由を構成しないというだけです。
当時の慣習として,20歳になっても独身である女はほとんどいなかったとすれば,これはレベッカがスピノザの妹であったことを支持する理由にはなります。もっとも,実際にそうであったとはいい難いので,やはり理由とはいえないでしょう。
『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の当該部分には,レベッカが故人の姉と記述され,スピノザが死んだスペイクの家のことが,弟の死んだ家と書かれています。しかしこれは僕の推測では訳語上のことです。原文はたぶんレベッカは故人の英語でいえばsisterと書かれ,家の方はbrotherが死んだ家と記述されているものと思います。ただ,故人の姉妹とか兄弟が死んだ家では,日本語としては座りが悪いです。なので訳者である渡辺義雄が,故人の姉,弟の死んだ家という訳を選んだのでしょう。
渡辺が故人の妹と訳さずに故人の姉と訳し,兄の死んだ家ではなく弟の死んだ家と訳したのは,定説に従ったためと思います。少なくとも渡辺は,吉田のように資料を検討してレベッカがスピノザの姉であるか妹であるかを調査したとは思われませんので,渡辺がこれを訳した時点での研究成果に則って,レベッカをスピノザの姉と訳したのは間違いないと思います。ただ定説でそうなっているので,これが誤訳であるという批判はまったく当たらないでしょう。
しかし吉田は,レベッカはスピノザの姉ではなくて妹だったのではないかという説を展開しています。その説がどう展開されているのかを詳しく紹介します。そうしないと僕の結論を示すこともできないからです。
まず吉田は,レベッカがスピノザの姉であった可能性を全面的に否定しているわけではありません。むしろそういう可能性もあったということは認めています。そう考える利点を吉田は次の点にみています。
ミリアムMiryam de Spinozaは1650年に結婚したのですが,1651年に子どもを産んだ後,おそらく産後の肥立ちが悪かったため死んでしまいます。このためミリアムの結婚相手であった男と,幼子が残されてしまいました。この結婚相手だった男はその後に再婚するのですが,この再婚相手がほかならぬレベッカだったのです。幼子が残された男の再婚は,早い方がよかったとすれば,ミリアムが死んでからレベッカと結婚するまでの期間はそれほどなかったと考えられます。レベッカがスピノザの姉であったとすれば,この1651年という時点では20歳前後です。嫁ぐのには問題ない年齢です。
残るひとりの姉妹であるレベッカはどうでしょうか。
スピノザは1656年7月にユダヤ教会から破門宣告を受けています。何度もいっているように,これは単にユダヤ教徒と認めないとか,教会への立ち入りを禁止するといった宗教的な意味だけをもつのではなく,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体からスピノザを追放するという意味でもありました。というより,後者の意味が強かったと考えて間違いありません。だからこの宣告を受け入れたスピノザは,そのときからはユダヤ人共同体から出ていったわけです。ただこれはスピノザだけが宣告されたものですから,スピノザの親族には無関係です。なのでこの時点でまだ生きていたスピノザの親族は,共同体に残ったのです。アムステルダムのユダヤ人はスピノザとの接触を禁じられていましたので,1656年7月以降は,スピノザとスピノザの親族との接触は一切なかったと解して間違いないでしょう。親族はスピノザとの接触を禁じられていましたし,スピノザの方でも接触しようというつもりはなかったと思われます。
ところがレベッカは,スピノザの破門後の伝記の中に登場します。もっともそれはスピノザが死んだ後のことです。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには次のようなことが書かれています。
スピノザの死後,そのときにスピノザが住んでいた家の大家であったスペイクに,レベッカがスピノザの遺産の相続人であると申し出ました。そこでスペイクは,葬儀費用とスピノザが抱えていた借金の前払いをレベッカに依頼したのですが,レベッカはそれを断りました。そのためにスペイクは公証人に依頼して公正証書を作成し,正式な形でレベッカに費用の請求をしました。しかしレベッカは,支払いの前に遺産の剰余金があるかを知りたかったので,その請求には従わなかったのです。そこでスペイクは裁判所に訴え,スピノザの遺品を公売所で競売する権限をもらい,実際に競売にかけました。その売上金はその場でレベッカが差し押さえたのですが,剰余金は残ったとしても僅かだったので,遺産の相続を放棄したのです。
コレルスの伝記はスペイクからの聞き取りですので,ある程度は信頼できるでしょう。