スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

善知鳥杯争奪戦&総意

2024-09-30 19:05:25 | 競輪
 昨日の青森記念の決勝。並びは高橋‐新山‐守沢‐永沢の北日本,真杉‐長島の栃木,森田‐宿口の埼玉で佐々木は単騎。
 新山がスタートを取って高橋の前受け。5番手に森田,7番手に佐々木,8番手に真杉で周回。残り3周のバックから真杉が上昇。残り2周のホームで高橋に並んだのですが,高橋が突っ張りました。どうも真杉は最初から高橋を叩くつもりがなかったようで,そのまま新山の横で併走し,高橋の番手を取りにいきました。この間に森田も内から上昇し,番手の競りの後ろが森田,守沢,長島の併走になり,その後ろも永沢と宿口で併走。最後尾に佐々木という短い隊列で打鐘。番手の競り合いは決着がつかないまま残り1周のホームを過ぎてバックへ。ここで高橋が自ら外に浮いたので内から新山が先頭に。新山の後ろには森田が入り,森田を追ったのが守沢。しかしこの間に短い隊列の最後尾を回っていた佐々木が発進。あっという間に前を捲り切り,そのまま後続を突き放して優勝。新山を追った森田が6車身差で2着。守沢が1車身差の3着。
 優勝した神奈川の佐々木真也選手は5月の函館のFⅠ以来の優勝。グレードレースはこれが初制覇。このレースは真杉と新山の脚力が上位で,番手捲りを敢行できそうな新山を真杉が力で上回れるかが焦点とみていたのですが,真杉が思いもよらない作戦を選択したので,結果的に共倒れのようなレースに。このために伏兵だった佐々木の渾身の一発が決まったというレースでした。佐々木はまだFⅠでも2回しか優勝していないのですが,その2回がいずれも今年に入ってからで,少しずつ少しずつ力をつけてきていることは間違いないと思います。

 フロイデンタールJacob Freudenthalは,シュラーGeorg Hermann SchullerがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して『エチカ』の遺稿の買取りを打診しているという事実を重視して,このようなことはシュラーの独断ではできないので,遺稿集Opera Posthumaの編集者たちの間の総意として,スピノザの遺稿の売却というのがあったとみています。しかし後に編集者たちは考えを改め,遺稿集として出版することを決意しました。だから遺稿の売却も断ることになったということです。これもまた,シュラーとライプニッツの間の書簡のやり取りからの解釈です。
                            
 ただ,この説明には不十分なところがあります。編集者たちがなぜ考えを改めたのかがまったく説明されていないからです。編集者たちが遺稿の売却を考えたのは,スピノザの遺産からその発行のための費用が十分ではなかったからだとフロイデンタールはいっています。ということはその資金について何らかの目途が立ったから遺稿集の出版へと舵を切ったと考えるのが自然でしょう。しかしその目途というものがどのようなものであったのかということがまったく説明されていないので,僕はその点に疑念を感じてしまうのです。
 フロイデンタールの説明が示しているのは,もしシュラーが独断でライプニッツに対して遺稿の買取りを打診したのであれば,それは遺稿集の編集者たちの総意ではなかったということです。いい換えればその場合は,少なくともシュラー以外の編集者たちは,最初から遺稿集を売却しようなどというつもりは毛頭なく,それを何とかして出版しようと考えていたということになります。この路線で説明しているのが『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』です。もちろんこれはスチュアートMatthew Stewartによる創作が入ったものですから,史実がどうであったのかを確定するためにはあまり有益ではないという一面があります。しかしこのことに関しては,スチュアートがいっていることにも一理あるし,こちらの方が正しいのではないかと僕には思えるのです。
 ライプニッツがオランダを訪れて以降,ライプニッツとシュラーの間では,定期的な書簡のやり取りがありました。だから少なくともシュラーは,ほかの編集者たちの知らないところで,遺稿の買取りを打診することはできました。
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スプリンターズステークス&蔵書

2024-09-29 19:14:29 | 中央競馬
 香港から2頭が遠征してきた第58回スプリンターズステークス
 オオバンブルマイは加速が鈍く1馬身の不利。4頭が前にいき,ピューロマジック,ウイングレイテスト,ルガル,ビクターザウィナーの順に。前がそのまま飛ばしていったのでピューロマジックのリードは3馬身くらい。ウイングレイテストとルガルの間も3馬身くらいになり,ルガルとビクターザウィナーの間にも2馬身くらいの差。2馬身差でママコチャとマッドクールの併走。7番手にトウシンマカオ。8番手はウインマーベルとサトノレーヴとヴェントヴォーチェ。11番手はエイシンスポッターとナムラクレア。2馬身差でモズメイメイとムゲン。2馬身差でオオバンブルマイとダノンスコーピオンが最後尾を追走。前半の600mは32秒1の超ハイペース。とくに200mから400mが9秒9という猛ラップでした。
 直線の入口でもピューロマジックは5馬身ほどのリード。先にウイングレイテストがついていかれなくなり,ルガルが自然と2番手に上がるとピューロマジックとの差を一気に詰め,そのまま抜け出して優勝。最内から進出してきたトウシンマカオがクビ差で2着。大外を猛然と追い込んだナムラクレアがクビ差で3着。
 優勝したルガルはシルクロードステークス以来の勝利。重賞2勝目で大レースは初制覇。シルクロードステークスを勝ったことで高松宮記念は1番人気で臨みましたがレース中に骨折があって10着。ここはそれ以来のレース。シルクロードステークスは大きな差をつけての優勝でしたから,能力を発揮できれば勝てるというメンバー構成で,結果的に能力発揮に影響しない程度まで仕上がっていたということでしょう。着差は大きくありませんでしたが,現時点ではトップの馬だとみていいと思います。父はドゥラメンテ。4代母がラヴズオンリーミーの祖母にあたる同一牝系。Lugalは古代メソポタミアで使われていたシュメール語で王。
 騎乗した西村淳也騎手はデビューから6年半強で大レース初制覇。管理している杉山晴紀調教師は昨年の天皇賞(春)以来の大レース6勝目。スプリンターズステークスは初勝利。

 スピノザの遺品の競売は11月4日に行われました。この売上からスペイクは葬儀費用も含めた,自身が負担したスピノザのための費用のすべてを賄うことができたとフロイデンタールJacob Freudenthalはいっています。この部分ではコレルスJohannes Colerusがかなり詳しい報告をしていて,たとえば事務処理のために働いた弁護士のためにいくらの支払いがあったかということも明らかになっています。フロイデンタールの計算ではそうしたすべての支払いを終えて,売上金からは僅かのものが残ったとなっていますので,スピノザが本来であれば支払わなければならなかった費用は,これですべて賄うことができて,僅かとはいえ剰余金が発生したということになります。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaによれば,この売上金をレベッカRebecca de Spinozaが差し押さえたのだけれども,残金が僅かだったから遺産の相続を放棄したとなっています。したがって剰余金はたぶんスペイクの収入になったのではないでしょうか。
                            
 なお,フロイデンタールは,これ以外に蔵書の売上があった筈だといっています。スピノザにどのような蔵書があったのかということは記録が残っていて,全部で161冊に上ります。競売の中にも何冊かの本が含まれてはいますが,それにはまったく届いていません。したがって残りの蔵書は密かに売却されたのだとフロイデンタールはみているわけです。ただしフロイデンタールの記述は,この蔵書のいわば密売が,遺稿集Opera Posthumaの出版費用を捻出するために行われたと読むことができるようになっています。なので売上はスペイクのものになったわけではなく,遺稿集の編集者たちの手に入ったと解することもできます。遺稿集の編集者たちが先に売却できそうな蔵書を選別して,その残りが11月4日の競売に出されたということは,可能性としてはあるのかもしれません。
 遺稿集の編集者たちは,遺稿集を出版するだけの費用が捻出できなかったから,スピノザの遺稿そのものを売却しようとしたとフロイデンタールはいっています。この論証の軸になっているのは,シュラーGeorg Hermann SchullerがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して売却を打診しているという史実です。ただしこれは本当に遺稿集の編集者たちの総意であったか,僕は疑わしく思います。
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帰無智法&返却の目途

2024-09-28 19:54:00 | 哲学
 書簡七十五でスピノザは,奇蹟miraculumの上に宗教religioを築こうとする人びとが採用している方法は,帰無智法であるといっています。この帰無智法というのが具体的にどのような方法を意味するのかをみておきます。
                            
 帰無智法というのは文字通りに,ある事柄を証明するために,人の無知を基礎づけることをいいます。つまりある人が,自分にとって不明な事柄を証明するために,より不明瞭なことを基礎づけるとすれば,一般にそれは帰無智法といわれることになります。宗教の正当性について証明するために,あるいは神Deusの存在existentiaを証明するために,奇蹟を基礎づけるなら,すなわち奇蹟が現にあるから宗教は正当であるとか,奇蹟が起きるのだから神は存在するというなら,奇蹟という不明瞭な事柄によって宗教や神を証明しているから,それは帰無智法であるとスピノザはいっているのです。宗教,ここでいわれている宗教とはキリスト教を意味するのでキリスト教ですが,その正当性については『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で語られていますし,神の存在は『エチカ』で証明されていますから,帰無智法に基づかない証明がいかなるものであるのかはここでは詳しく説明しません。
 『エチカ』の第一部の付録では,こうした帰無智法がなぜ発生するのかということが説明されています。これは単純にいうと,神は自然Naturaを人間のために創造したと解することが起点となっています。ところが実際には自然は人間に対して利益を齎すだけではなく,多様な不利益をも与えます。これは単に自然が人間のために創造されたわけではないからというほかないのですが,そうして自然についての新しい原理を導入するよりも,諸々の自然災害を神が人に齎す理由を,自分自身の無知に帰することの方を選んだのです。これはそうする方が容易だったからです。要は諸々の自然災害は,人間には図り得ないような神の業によって生じるのだから,神の叡智を人は知り得ないという方法で解決したということです。
 スピノザはこのような帰無智法は,帰謬法とは異なるといっています。帰謬法についてはまた別に説明します。

 スペイクが依頼したのでなかったら,だれが何の目的でスピノザの遺産の目録を作らせたかが謎として残ります。したがって,実はスピノザが死んだ日に目録を作らせたのもスペイクで,しかしそれが不正確であることをスペイクが看取したので,改めて別の人に目録の作成を依頼したということだったかもしれません。
 仮に遺産目録を作成させたのがスペイクであったとすれば,その目的は葬儀費用の捻出であったと解するのが,『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』を読む限りは適切だと思います。前もっていっておいたように,21日に死んだスピノザの葬儀と埋葬が25日になったのは,葬儀費用の問題があったからだとフロイデンタールJacob Freudenthalはいっているからです。実際に葬儀も埋葬も行われたのですから,一時的にそれを行うだけの経済的余裕はスペイクにあったとみるのが妥当ですが,無償でそれを行うほど余裕があったわけではなく,立て替えた葬儀費用に関しては何らかの形で返却してもらう必要があったのでしょう。おそらくスペイクはスピノザの友人のことは知っていたかもしれませんが,スピノザの親族にだれがいるかは知らかったと思われます。したがって確実に立て替えた葬儀費用を返却してくれると思える人がスペイクにはいませんでした。だからスピノザの遺品を売却することによって,どの程度の売り上げが見込め,それで葬儀費用を賄うことができるかということをスペイクは知る必要があったということです。
 正確な目録が作成されたのは3月2日になってからでした。しかしスピノザの葬儀と埋葬はその前に行われています。これは遺体をあまり長く放置することができなかったという事由によるものかもしれませんが,フロイデンタールはこの間に立て替えた葬儀費用を返却してもらえる目途がスペイクに立ったからと説明しています。いうまでもなくこれは,リューウェルツJan Rieuwertszによる保証です。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,3月6日付の手紙でリューウェルツが保証したとなっていますが,確かにこの手紙は葬儀費用そのものを支払ったということを意味する内容になっていますから,それより前にリューウェルツがそれを保証していたということはあり得るでしょう。
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サッポロビール盃マリーンカップ&フロイデンタールの推測

2024-09-27 18:51:26 | 地方競馬
 昨晩の第28回マリーンカップ
 アンモシエラとアンデスビエントが競り合い,後続に5馬身ほどの差。内のアンモシエラが前には出ましたが,アンデスビエントも引かずに半馬身差の外に並ぶ形がずっと続きました。3番手はザオ。3馬身差でクラヴィコード。4馬身差でフォルトリアンとテンカジョウが併走と,頭数のわりに縦長の隊列。向正面に入ってザオは3馬身差の3番手まで差を詰め,すぐ後ろにクラヴィコード。その後ろも3馬身差でテンカジョウが単独の5番手となり,4馬身差の最後尾にフォルトリアン。最初の800mは48秒1の超ハイペース。
 3コーナー手前からザオがさらに前との差を詰めていくとアンデスビエントは一杯になって後退。2番手となったザオが最終コーナーでアンモシエラの前に。直線では外からクラヴィコードがザオを追っていき,その間に進路をとったのがテンカジョウ。間を割ったテンカジョウが突き抜けて優勝。クラヴィコードがぎりぎりでザオを差して5馬身差の2着。ザオがアタマ差で3着。盛り返してきたアンモシエラが2馬身半差の4着。
 優勝したテンカジョウは重賞初勝利。このレースは春に重賞で実績を残した2頭と,古馬を相手に2勝クラスを勝ち上がった2頭の争いという構図。この4頭のうち3頭が逃げて実績を残していたのですが,春に重賞で実績を残した2頭が超ハイペースで競り合うことになり共倒れ。アンモシエラは逃げなくても結果は出せていたので,この2頭の枠順が逆であればレースの形態も変わり,結果も変わっていたかもしれません。差し脚が身上のテンカジョウには願ってもない展開でしたから,着差に準じた能力の差があるというようには思わないです。従姉の子に昨年のゴールドジュニアを勝った現役のクルマトラサン
 騎乗した国分優作騎手と管理している岡田稲男調教師はマリーンカップ初勝利。

 ここまでのことのうち,フッデがスピノザの葬儀に出席したということについては,訝しく感じる人がいるかもしれません。遺稿集Opera Posthumaが発刊されるとき,フッデは自身とスピノザの間に交流があったということを秘匿しようとしていたからです。しかし,僕はこのこと自体は不自然であるとは考えません。スピノザの葬儀は確かに大きな規模のものであったとはいえ,出席した人の数は限られますし,出席者の名簿が出回るというわけではありません。ですからフッデがスピノザの葬儀に出席したということを知ることができる人は限られるのであって,かつそうした人がそれを吹聴したとすれば,その人もまた自分はスピノザの葬儀に出席したといっているのに等しくなります。したがって,フッデがスピノザの葬儀に出席したということが,世間に広く知れ渡ってしまう可能性はきわめて低いということになるでしょう。ですからフッデがスピノザの葬儀に出席したとしても,おかしくはないと僕は思います。
 ただしこれは,フッデが確かにスピノザの葬儀に出席したということを意味するわけではありません。フロイデンタールJacob Freudenthalは何か確証があってスピノザの葬儀に出席した人の名前をあげているわけではなく,フロイデンタール自身の推測であると僕には思えるような文章になっているからです。ですから確かにフッデがスピノザの葬儀に出席したとは僕は解しません。ただ出席していたとしても,生前のスピノザとフッデとの関係を踏まえれば,まったくおかしなことではないと思います。
                            
 さらにフロイデンタールは次のことをいっています。
 スピノザが死んだのは2月21日ですが,この日のうちにスピノザの所有物の目録が作成されました。ところがその目録は不正確であったので,3月2日にほかのもの,これは正確なものという意味だと思いますが,それに差し替えられました。この差し替えはスペイクの申し出によるとされています。ということは,死んだ日のうちに作成された目録はスペイクの申し出によって作成されたわけではないようにも読めます。だれかが依頼して作られたものが不正確だったから,スペイクが正確なものを作らせたと読めるからです。
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日本テレビ盃&葬儀の出席者

2024-09-26 18:56:59 | 地方競馬
 昨晩の第71回日本テレビ盃
 ウィリアムバローズが逃げて2番手にデルマソトガケ。3番手にギガキングで4番手にメイショウハリオ。2馬身差でゴールドハイアーとナニハサテオキ。2馬身差でウシュバテソーロ。2馬身差でホウオウトゥルースとコラルノクターン。3馬身差でキャッスルトップ。シンコーマーチャン,マイネルヘリテージと続いて2馬身差の最後尾にソルトゴールドという隊列で発馬後の正面を通過。向正面の半ばで4番手がナニハサテオキとメイショウハリオの併走になり,2馬身差でゴールドハイアー。さらに2馬身差でウシュバテソーロに。前半の800mは49秒6のミドルペース。
 3コーナー前から逃げたウィリアムバローズが後続の追い上げを待たずにペースアップ。デルマソトガケの外からメイショウハリオが追ってきて,ナニハサテオキの外からウシュバテソーロ。直線に入ったところでウィリアムバローズが抜け出しました。追ってきたのは大外のウシュバテソーロ。よく差を詰めましたが届かず,鋭く逃げ切ったウィリアムバローズが優勝。ウシュバテソーロが1馬身差で2着。早めに3番手に上がったメイショウハリオが4馬身差の3着で追い上げたナニハサテオキが1馬身差で4着。一杯になったデルマソトガケは2馬身半差で5着。
 優勝したウィリアムバローズは東海ステークス以来の勝利で重賞2勝目。ここはそのときよりも相手関係が強化していたので,勝つまではどうかと思いましたが,詰め寄られたとはいえ危なげのない快勝で,追いかけてきた馬たちは突き放していますから,大きく評価できるところ。大レースを勝てるところまできているとみていいでしょう。父はミッキーアイル。母の父はシンボリクリスエス
 騎乗した坂井瑠星騎手と管理している上村洋行調教師は日本テレビ盃初勝利。

 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの当該部分から僕が理解できることはここまで記してきた通りです。そしてその中に数々の疑問点があるということは分かってもらえたと思います。それは解決可能なものではありません。ただこの部分に関して,ほかの伝記の中により詳しい記述がありますから,それもみておくことにしましょう。
                            
 フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では,スピノザの葬儀に出席した人物が書かれています。フッデJohann Hudde,イエレスJarig Jelles,リューウェルツJan Rieuwertsz,マイエルLodewijk Meyerは確かに出席したとされていますが,出席したであろうという書き方ですので,確証があるわけではないかもしれません。一方,シュラーGeorg Hermann Schullerは出席していなかったとされていて,それはシュラーがこの葬儀の翌日,すなわち1677年2月26日にはアムステルダムAmsterdamにいて,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに手紙を書いていることが根拠とされています。葬儀および埋葬にどれほどの時間を要し,それが何時に終わったのかということが定かではないので,前日にハーグDen Haagで葬儀に出席したシュラーが,翌日にアムステルダムで手紙を書くということが本当に不可能なのかどうか僕には分かりません。また,フロイデンタールはスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであると考えていて,この人はコレルスの伝記によれば臨終の日のうちにアムステルダムに帰ってしまい,そのままスピノザを顧みることはなかったとされています。それはつまり葬儀および埋葬には顔を出さなかったということを意味するのであって,マイエルが出席しシュラーが出席しなかったということは,コレルスの伝記が意味するところがスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであったということと辻褄が合います。むしろこちらの考え方から,フロイデンタールはマイエルは出席したけれどもシュラーは出席しなかったといっているのかもしれませんから,この部分のフロイデンタールの記述は,そのまま信用するには値しないかもしれません。
 スピノザが死んだのが2月21日で,埋葬が25日になった理由について,これは葬儀費用の問題であったというようにフロイデンタールはいっています。要するにだれがそれを支払うかが決まらなかったということです。
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フェノーメノ&売上金

2024-09-25 19:10:52 | 名馬
 東京記念を勝ったナッジの父はフェノーメノです。父はステイゴールド。Fenomenoはポルトガル語で怪物。
                            
 2歳10月にデビューし勝利。暮れのホープフルステークスに出走してこれは7着。
 3歳になり1月の条件戦で2勝目。弥生賞は6着でしたが青葉賞で重賞初制覇。ダービーディープブリランテの2着でした。
 秋はセントライト記念で復帰して重賞2勝目。菊花賞ではなく天皇賞(秋)に向かってエイシンフラッシュの2着。ジャパンカップは5着でこの年のキャンペーンを終了。
 4歳初戦となった日経賞で重賞3勝目。天皇賞(春)で大レース初制覇を達成しました。宝塚記念ゴールドシップの4着。
 秋は出走できず5歳春の日経賞で復帰。これは5着に敗れましたが天皇賞(春)で連覇を達成。
 秋になって天皇賞(秋)が復帰戦。ここで14着と生涯初の大敗を喫するとジャパンカップエピファネイアの8着,有馬記念も10着。6歳初戦の日経賞も8着に負け,競走生活から引退しました。
 ダービーや3歳の時の天皇賞(秋)で僅差の2着に入っているように,大レース2勝が天皇賞(春)の連覇だけというほどにはスタミナに偏った馬ではありません。ただ種牡馬としてはどうしても勝ったレースの方が印象として残りますし,現役引退間際の成績が悪かったこともあり,スピード全盛の現代競馬では種牡馬として苦戦しそうではありました。まだ産駒から重賞の勝ち馬が出ていないのですが,やはりそういったところが影響しているのではないでしょうか。

 レベッカRebecca de SpinozaもダニエルDaniel Carcerisも,スピノザの親族であり,遺産の正式な相続人ではあります。したがって,相続の権利を放棄していない間は,スピノザの遺品を整理したことによって得られた売上金について,それを相続する権利はあったといえます。差し押さえたということが具体的にどのような行為をレベッカが行ったという意味なのかははっきりしませんが,少なくともこの競売が行われた1677年11月4日の時点で,レベッカが遺産相続の権利を放棄していなかったということだけは明らかです。
 この売上金は借金と葬儀費用の総計を上回ったというように読めます。というのも剰余金が少ししか残らなかったので,レベッカはスペイクのなしたことに対して異議の申し立てをせず,遺産の相続の権利を放棄したとなっているからです。ここのところにもよく分からないことがあって,葬儀費用と借金はすでにリューウェルツJan Rieuwertszから送られていたのですから,スペイクはその費用を必ずしも必要とはしていなかったと思われるのです。この文章の全体は売上金のすべてがスペイクの収入になったというように理解できるものですから,現にそうであったのかもしれません。スピノザが死んだことによってスペイクは家賃の収入を得ることはできなくなっていました。その後にだれかにまた部屋を貸したかもしれませんが,少なくともスピノザの遺品が数多く残っているうちはそれはできなかったでしょう。なのでスペイクは,遺品を売って収入を得るという目的と同時に,部屋を片付けるために遺品を売却するという必要があったのかもしれません。レベッカは遺産を相続しなかったのですから,売上金はスペイクの収入になったと解するのが自然でしょう。
 スペイクの用を果たした代理人が,この代金の領収書を出しているとありますが,その日付が1678年6月1日付となっていて,競売より半年以上も後のことになっています。これは慣例としてそのようになっているのかもしれませんし,何らかの事情で代金の請求や支払いが遅れたということかもしれません。あるいは分割払いのような形で支払ったので,支払いの終了まで時間が掛かったということもあり得るでしょう。
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長良川鵜飼カップ&差し押さえ

2024-09-24 19:02:32 | 競輪
 岐阜記念の決勝。並びは青野‐小原の神奈川,深谷に三谷,村田‐笠松の中部,松浦‐阿竹の中四国で坂井は単騎。
 スタートは笠松と小原で取り合い。外の小原の方が誘導の後ろに入って青野の前受け。3番手に村田,5番手に松浦,7番手に深谷,最後尾に坂井で周回。残り3周のバックから深谷が上昇していくと,坂井も続きました。誘導との車間を開けていた青野が突っ張ると深谷は引きました。切り替えた坂井が笠松の後ろの7番手に入り,深谷が8番手の一列棒状になって打鐘。ここから村田が発進。これが猛スピードで笠松が離れ,青野も追うことができなかったので大逃げに。青野が第二先行のようなレースに。バックから深谷が捲っていきましたが,その前に松浦も発進。直線にかけて徐々に逃げる村田との差が詰まっていき,差し切った松浦が優勝。深谷も外から届いて半車身差で2着。大逃げの村田が半車輪差の3着に残り,深谷マークの三谷がタイヤ差で4着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は2月末から3月初めのの玉野記念以来の優勝で記念競輪21勝目。岐阜記念は一昨年に優勝していて,昨年は実施されなかったので連覇となる2勝目。このレースは近況から深谷が有力とみていましたが,位置取りの関係で松浦が逆転。このところ怪我なども多く明らかに不調だったのですが,これが復調の契機となるかもしれません。復調すれば脚力は記念競輪ならいつでも優勝候補でしょう。単騎になってしまいましたが村田はいいレースをしたと思います。

 繰り返しになりますが,スペイクと面会したレベッカRebecca de Spinozaは,自身がスピノザの遺産の相続人であると申し出ました。しかしレベッカが葬儀費用と借金の前払いを承諾しなかったので,スペイクは公正証書を作らせ,その証書を基にレベッカにその代金を請求しました。正確にはレベッカとダニエルDaniel Carcerisに請求したのです。ところがレベッカもダニエルもその請求に従いませんでした。これが法的に問題なかったのかどうかは分かりません。ただ,相続した遺産が葬儀費用および借金を上回れば,それを支払うことはできるわけですから,先に相続できる遺産の額をレベッカが知りたかったという点は,理解できないわけではありません。したがってレベッカは,もしも葬儀費用と借金を支払った後に残る遺産の額が僅かであったり,むしろ支払わなければならない額の方が多くなった場合には,当初から遺産を相続する権利そのものを放棄するつもりであったものと僕は思います。
                            
 レベッカが請求を拒絶している間に,スペイクはハーグDen Haagの裁判所から,スピノザの遺品を公売所で競売に出す権限を与えられました。なので実際に多くの品物を競売に付しました。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaによれば,この競売が行われたのは1677年11月4日であったとされています。つまりスピノザが死んでから9ヶ月弱後のことになります。レベッカとダニエルが請求に応じなかった期間というのも,それと同じだけのものであったと考えてよいでしょう。この競売の売上金はスペイクに届けられたのだけれども,その場でレベッカに差し押さえられたと書かれています。これがどういう意味なのかも分かりません。文章の全体からは,スペイクが依頼して公売所で競売が行われ,その売上金がスペイクの家に届けられたというように読めるのですが,その届けられた売上金をレベッカが差し押さえたのだとすれば,スペイクの家で差し押さえたということになりますが,そんなことが可能なのかとても疑問に思えるからです。したがって差し押さえたということの意味は,その売上金をスペイクが使うことを禁止したとか,そのような法的命令を用意してスペイクに伝達したというようなことなのかもしれません。
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農林水産大臣賞典白山大賞典&破門者の死

2024-09-23 18:58:49 | 地方競馬
 第44回白山大賞典
 オートヴィルは立ち遅れて1馬身の不利。ダイシンピスケスとメイショウフンジンが並んで逃げるようなレース。一時的に3番手との差が6馬身くらいになりました。アンタンスルフレ,ラバタンシン,ディクテオンの順で続き,2馬身差でサンマルパトロール。テンカハルとヴェレノは並んで追走。この後ろがまた6馬身くらい離れてモズプラチナ。2馬身差でミストラルウインドとファルコンウィング。最後尾にオートヴィルとかなり縦長の隊列。1周目の正面でディクテオンが3番手に進出。2馬身差の4番手にサンマルパトロールが上がって3馬身差でアンタンスルフレとテンカハル。ミドルペースでした。
 2周目の向正面に戻ってディクテオンが内から進出。逃げる2頭の内から前に出ました。ダイシンピスケスは外からついていきましたがメイショウフンジンは後退。サンマルパトロールが3番手に上がってきました。先頭で直線に入ってきたディクテオンはそこから後ろとの差を広げていって快勝。粘ったダイシンピスケスが5馬身差で2着。サンマルパトロールが1馬身差で3着。
 優勝したディクテオンは昨年の名古屋グランプリ以来の勝利で重賞3勝目。このメンバーでは実績が明らかに上で,負けられないといっていいくらいのメンバー構成。力を出しての快勝となりました。トップクラスとはまだ差がある印象ですが,それに続く勢力の中では上位といえる存在でしょう。父はキングカメハメハ。母がメーデイアでその父がキングヘイロー。Diktaeanはゼウスの誕生の地。
 騎乗した横山和生騎手と管理している吉岡辰弥調教師は白山大賞典初勝利。

 スペイクはスピノザの葬儀には名士が参列したとコレルスJohannes Colerusに証言したので,コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにはそう書いてあります。前にもいったように,この点に関してはスペイクにも誇張できない理由がありましたから,この点はそんなに疑う必要はないと思われます。そこでスペイクの証言を信頼するなら,多数の名士がその葬儀に出席するようなスピノザの死は,オランダにおいてそれなりの話題に上っていたかもしれません。ですから,たとえイエレスJarig Jellesのような,面識があったであろうスピノザの友人から報知されなくても,レベッカRebecca de SpinozaやダニエルDaniel Carcerisがスピノザの死を,死の当日から時間をおかずに知り得た可能性も高そうです。
                            
 スピノザはアムステルダムAmsterdamのユダヤ教会から破門された人物です。つまりアムステルダムで共同体を構成しているユダヤ人にとっては忌み嫌う存在でした。ですからそのスピノザが死んだということは,アムステルダムのユダヤ人たちにとっては喜ぶべき事柄です。なのでスピノザが死んだことがアムステルダムのユダヤ人たちの知るところとなったとしたら,それほど大きな共同体ではないのですから,共同体を構成しているすべてのユダヤ人がそれを知ったことでしょう。ですからこういう経路でレベッカやダニエルがスピノザが死んだということを知ったということも大いにあり得るでしょう。その場合はレベッカが自力でスピノザがどこで死んだかを調べて,スペイクに会いに行ったということになります。
 なおこの点は,ガブリエルが遺産相続人に名を連ねていないことと関連させて考えることもできます。ガブリエルはスピノザと共に商店を経営していたわけですから,スピノザがユダヤ人共同体から追放されることによって最も多大な迷惑を被った親族であったと推定されます。ですからガブリエルは,たとえ兄に遺産が残されていたとしても,それを相続したいという気持ちになれなかった,より積極的にいえばそんな遺産は相続したくないという気持ちが強かったとしてもおかしくはありません。ですからガブリエルは自ら遺産を相続することを放棄したのであって,その権利のすべてをレベッカとダニエルに譲ったというケースも想定できます。
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ヒューリック杯白玲戦&死の報知

2024-09-22 18:58:46 | 将棋
 奈良で指された昨日の第4期白玲戦七番勝負第三局。
 福間香奈女流五冠の先手。双方がなかなか態度を現しませんでしたが,後手の西山朋佳白玲が向飛車に。先手は居飛車を選択し,5筋位取りのような将棋。後手の振飛車穴熊を先手が抑え込みにいく将棋になりました。
                            
 先手が角の成り込みを狙った局面。飛車を寄って受けるのは☗5三歩成がありますから☖4五桂と角筋を通して受けました。☗同歩で先手の桂得に。
 後手は☖7四歩☗6六角と追ってから☖5四銀とぶつけました。ただこれは☗同銀☖同飛のときに☗5五銀と打たれ,☖5一飛と逃げたときに☗4四歩と取り込まれることに。
                            
 先手の狙いは抑え込みなので,駒損しても食い破ってしまえば戦えるのですが,これではかえって抑え込みが強まって桂馬を損しただけの後手が著しく不利になりました。☖7四歩のところで☖5四銀とすぐにぶつけるか,☖5四銀とぶつけたところで☖4五歩と取り込んでおくかしておかなければいけなかったようです。
 福間女流五冠が勝って2勝1敗。第四局は28日に指される予定です。

 スピノザはユダヤ教会から破門された後は,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人とは接触していなかったと思われます。ユダヤ人共同体でそのことが禁止されていましたし,スピノザからそれを望むということがあったとも思えないからです。したがって,スピノザとレベッカRebecca de Spinozaが最後に会ったのは,スピノザがユダヤ人共同体から追放される前であって,それ以降は接触していません。ですからそれ以降はスピノザはレベッカがどこで何をしているか知らなかったでしょうし,レベッカもスピノザがどこで何をしているのかは知らなかったと思うのです。もっとも,スピノザはオランダでは一定の知名度があったようですから,レベッカの方はスピノザのことを伝え聞くということがあったかもしれません。しかしスピノザがレベッカについて何かを知るということはまったくなかったでしょう。
 なので,おそらくスペイクは,スピノザにレベッカという姉あるいは妹がいるということを知らなかったでしょうし,ダニエルDaniel Carcerisという甥がいるということはなおのこと知らなかっただろうと思います。よってスピノザが死んだということを,スペイクがレベッカなりダニエルなりに知らせるということはできなかったと思います。一方,スピノザが死んだときにはマイエルLodewijk MeyerかシュラーGeorg Hermann Schullerのどちらかがそれを見守ったのですから,スピノザの友人たちは早い段階でスピノザの死を知ることになったでしょう。そうした友人の中には,スピノザがまだ破門される前からの商人仲間であったイエレスJarig Jellesがいました。なのでイエレスはたぶんスピノザの親族と面識があり,少なくともスピノザと一緒に商店を経営していた弟のガブリエルのことは知っていたのではないかと思われます。それ以降も連絡を取り合っていたかは分かりませんが,スピノザが死んだということを伝えることくらいはできたと思います。とくにレベッカはスペイクの家に行ったのですから,単にスピノザが死んだということを知るだけではなく,スピノザがどこに住んでいたのかということまで知ったとしなければなりません。そうしたことから考えると,スピノザの知り合いからスピノザの死を伝えられた可能性が高いかもしれません。
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モズアスコット&謎

2024-09-21 19:19:33 | 名馬
 若武者賞で2着以下を離して楽勝したベアバッキューンの父はモズアスコットです。5代母がアイドリームドアドリームの3代母にあたる同一牝系で,アメリカ産です。
                            
 デビューは遅く3歳の6月。3戦目に初勝利をあげると4連勝。暮れの阪神カップで重賞に初挑戦して4着でした。
 4歳になって阪急杯,マイラーズカップと連続して2着。5月のオープンも2着でしたが連闘で安田記念に出走すると見事に優勝。重賞初制覇で大レース制覇を達成しました。
 秋はスワンステークスで復帰して2着。しかしマイルチャンピオンシップが13着,遠征した香港マイルも7着と,連続して大敗を喫しました。
 5歳初戦のマイラーズカップも7着。連覇を狙った安田記念も6着。秋は毎日王冠で復帰して6着。スワンステークスは2着でしたがマイルチャンピオンシップは14着でした。
 6歳初戦でダートの根岸ステークスに出走するとこれを勝って重賞2勝目。さらにフェブラリーステークスも勝って大レース2勝目。芝に戻して高松宮記念に出走しましたが13着。ダートに戻したかしわ記念は6着でした。
 秋は南部杯で復帰して2着。武蔵野ステークスは7着。チャンピオンズカップで5着になって現役を引退しました。
 成績から分かるように,芝とダートの両方で大レースを勝った馬ではありますが,どちらの路線でもトップだったというわけではありません。近親には海外の活躍馬が多いので,種牡馬としてのセールスポイントはその点になるのではないかと思います。

 レベッカRebecca de Spinozaの子どもたちが共同相続人に名を連ねなかった理由は定かではありませんが,たぶん制度上の理由だったろうと推測されます。それでダニエルDaniel Carcerisとレベッカのふたりが共同相続人として名乗りを上げたのですが,ふたりだけであった理由というのも考えておきましょう。
 まずスピノザの兄のイサークは,まだスピノザが学生だったうちに死んでいます。ですから相続人にはなり得ませんでした。そしてスピノザの姉のミリアムMiryam de Spinozaも,ダニエルを産んだ直後に死んでしまったのですから,相続人にはなり得ません。また,スピノザの父のミカエルが死んでスピノザは弟のガブリエルと事業を継いだのですから,ミカエルもまた相続人にはなり得ません。さらにスピノザの母のハンナはミカエルよりも先に死んでいますからやはり相続人にはなり得ませんでした。また,ハンナの後にミカエルと結婚したエステル,スピノザの継母も,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』によればミカエルよりも先に死んだようなので,相続人にはなり得なかったのです。
 スピノザの弟のガブリエル,この人はアブラハムともいわれますが,ここではガブリエルといいます。このガブリエルが共同相続人に名乗りを上げていない理由は僕にはよく分かりません。少なくともスピノザが死んだ時点でも,ガブリエルは生きていたと思われるからです。ただ,後にレベッカがキュラソー島に移住したように,ガブリエルはその時点でオランダを離れて外国に住んでいた可能性があります。そしてそうであれば,スピノザが死んだということを知らなかったのかもしれません。このために,共同相続人として名を連ねることができなかったのではないかと推測します。
 また,レベッカとダニエルが共同相続人として申し出たということは,このふたりはスピノザが死んだということを知っていたことになります。とくにレベッカは,スピノザの葬儀の直後にはスペイクに会っているのですから,わりと早い段階でスピノザの死を知ったということになるでしょう。レベッカがどのような経路でそれを知ったのかということはちょっとした謎です。スピノザは破門された後は親族とは連絡を何も取っていなかったからです。
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王座戦&レベッカの子ども

2024-09-20 19:04:57 | 将棋
 18日に名古屋で指された第72期王座戦五番勝負第二局。
 藤井聡太王座の先手で角換わり相腰掛銀。定跡にある進展から桂馬と香車の交換になり,後手の永瀬拓矢九段が端を攻めにいったところで前例から外れました。
                            
 ここで先手は☗4六香と打ちました。このような反撃筋が先手からあるということは後手は知っていたようなのですが,この局面で打ってくるのは研究の範囲外であったようです。先手はここで銀を逃げるのは利かされとみて反撃に出たとのこと。
 後手の研究から外れていたのは☖7六桂が王手になるからでここは☗7七玉と逃げる一手。これで先手の銀損なのですが,互角の範囲内のようです。先手も研究の範囲外であったと思われますが,さすがの大局観でした。
 後手は☖8六歩☗同歩の突き捨てを入れてから☖4五歩☗同香☖5四銀として香車を取りにいきました。7筋が薄くなったので☗7四歩。
                            
 これで先手が優勢になっていました。なので後手は第1図から第2図に至る間で何か変化が必要だったことになります。
 藤井王座が連勝。第三局は30日に指される予定です。

 ミリアムMiryam de Spinozaが結婚したのは1650年6月で,これは婚姻届が残っているので確実です。その相手がサムエル・カルケリスSamuel Carcerisであったことになります。そしてふたりの間にダニエルDaniel Carcerisという名の子が産まれたことになります。ところが吉田がいっているところによれば,ダニエルが産まれてすぐにミリアムは死んでしまったのです。よってサムエルはダニエルという幼子と残されることになりました。なのでダニエルは再婚したのですが,その再婚相手がレベッカRebecca de Spinozaだったのです。ですから,ダニエルの母はミリアムであって,戸籍上はそうなっているのでしょうが,レベッカとダニエルの関係は,叔母と甥というより,母と息子という関係に近かったと思われます。たぶんダニエルは実の母であるミリアムの記憶はまったくなかったと考えられますので,ダニエルとレベッカの結婚が,ミリアムが死んでからそれほど時を置いてのものでなかったとすれば,ダニエルにとってレベッカは,叔母というより実の母に近かったものと思われます。
 前にもいったようにレベッカはこの後,キュラソー島に移住します。そのとき,ミカエルとベンヤミンという息子と一緒だったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』にあります。つまり,再婚したサムエルとレベッカの間には子どもがありました。さらにハンナという娘もいたと確定的に記されています。たぶんハンナは結婚したので,キュラソー島には移住しなかったのでしょう。ところが共同相続人としてレベッカとともに名前が出ているのはダニエルだけで,ハンナ,ミカエル,ベンヤミンの名前はありません。ハンナがどうなったかは分かりませんが,ミカエルとベンヤミンはキュラソー島に移住したので,スピノザが死んだ時点で生きていたことは確実です。なのに共同相続人として名前がないのは,たぶん制度上のことだと思います。ダニエルはミリアムの子で,ミリアムはすでに死んでいたのでその子どもとして叔父の遺産の相続人にはなり得るのですが,レベッカは健在だったので,レベッカの子どもたちは共同相続人としての権利がなかったのでしょう。このように考えないと,共同相続人がふたりだけであったことの説明がつかないように思えます。
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霧島酒造杯女流王将戦&共同相続人

2024-09-19 19:25:47 | 将棋
 14日に放映された第46期女流王将戦挑戦者決定戦。対局日は8月13日。その時点での対戦成績は福間香奈女流五冠が28勝,伊藤沙恵女流四段が11勝。
 振駒で先手となった福間女流五冠の中飛車。伊藤女流四段が向飛車に振っての相振飛車になりましたが,先手が2筋に飛車を戻したので,先手の居飛車,後手の振飛車の対抗形に類似した将棋になりました。
                            
 後手はここで☖1三角と引きました。これには☗1五歩☖同歩☗同香とする手があります。
 もちろんそれは後手も承知の上。☖2四角と逃げて☗1一香成のときに☖1三飛と寄り,☗2一成香に☖1八飛成と進めました。
                            
 これは駒損でも飛車を成り込んで勝負ということ。ただこの局面は桂馬と香車を持った先手の☗9五歩からの端攻めが厳しく,あとは一方的に先手が攻め勝つ将棋になりました。飛車が成れるのは大きいとはいえ,駒損の方が大きかったことになります。このように勝負しなければならないのであれば,第1図のように進めたのが疑問だったということになるでしょう。
 福間女流五冠が挑戦者に。タイトルを失った第44期以来の三番勝負出場です。

 この部分は平板に解釈すればこのようになります。ただそこにスペイクの善意や悪意を介在させた解釈も可能です。スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszから肩代わりしていた葬儀費用は受け取ったけれども,遺産相続を主張するレベッカRebecca de Spinozaが現れたので,レベッカからもいくらかを受け取ろうとしたというようなことはあり得ないわけではないでしょう。同様に,遺産相続の権利を有さないリューウェルツが葬儀費用を出してくれたので,その権利を有するレベッカからそれを受け取り,その分をリューウェルツに返還しようとしたということも考えられるわけです。ただこの間の諸事情がどういったものであったのかということは不明なので,史実としては,レベッカはスペイクの家に現れて遺産を相続する権利を主張したけれども,葬儀費用や借金の支払いについては拒んだので,証書を基に請求されたということだけ確定することができるのです。
 この部分だけを読むと,レベッカだけがスピノザの遺産相続の権利を主張したように思えるのですが,実際にはそうではありません。前述した3月30日付の公正証書から明らかであるとコレルスJohannes Colerusが指摘しているのは,スピノザにはレベッカとミリアムMiryam de Spinozaというふたりの姉があって,ミリアムはサムエル・カリケリスSamuel Carcerisと結婚してダニエル・カリケリスDaniel Carcerisを産んで,このダニエルがスピノザの共同相続人であると申し出たということだからです。つまりスピノザの相続人であることを主張したのはレベッカだけではなく,レベッカとダニエルのふたりだったのであり,葬儀費用および借金の請求を受けたのもこのふたりだったのです。スペイクの家に現れたといわれているのはレベッカだけなので,それは本当にレベッカだけであったかもしれませんが,もしかしたらそのときにレベッカとダニエルのふたりでスペイクの家を訪れていたのかもしれません。
 レベッカがスピノザの姉であるか妹であるのかということについては,通説は姉であるけれども吉田は妹であると考えているということはすでに示しました。渡辺が訳した姉というのも,この定説に従ったものと考えられます。ミリアムはスピノザの姉で間違いなく,レベッカの姉でもあります。
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テレ玉杯オーバルスプリント&借金

2024-09-18 19:19:49 | 地方競馬
 第35回テレ玉杯オーバルスプリント
 キャプテンドレイクは発馬で立ち上がり2馬身の不利。シーサーベントが逃げて2馬身くらいのリード。2番手にイーグルノワール。3番手にスレイマンとスマイルウィで5番手にテーオーステルス。6番手がサンライズホークで2番手から6番手までは一団。キャプテンドレイクは大きく引き離されました。最初の600mは35秒8のハイペース。
 向正面でサンライズホークが外から追い上げていき,3コーナーでは2番手。その勢いのまま一旦は先頭に出ましたが逃げたシーサーベントも巻き返し,コーナーは併走。その後ろをイーグルノワールとスマイルウィが並んで追い,さらにテーオーステルスとスレイマンの併走。直線の入口でサンライズホークが前に出て,シーサーベントは一杯。先頭に立ったサンライズホークの外からスマイルウィが差し込み先頭に。さらに外からスレイマンも伸びてきましたが,抜け出していたスマイルウィには追いつけず,スマイルウィが優勝。サンライズホークは差したスレイマンが4分の3馬身差で2着。サンライズホークがクビ差で3着。
                         
 優勝したスマイルウィゴールドカップ以来の勝利。重賞は初制覇。このレースは能力ではサンライズホークでしょうが,凡走が続いていましたので,スマイルウィが最有力候補ではないかとみていました。前走が大敗だったのでその点は心配だったのですが,休養明けで態勢が整っていなかったということなのだと思います。今日は力を発揮しての勝利。この距離であれば重賞でも通用しますので,JBCスプリントに出走するならチャンスもあるのではないかと思います。父はエスポワールシチー
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は一昨年のさきたま杯以来となる重賞7勝目。テレ玉杯オーバルスプリントは初勝利。管理している船橋の張田京調教師は開業から9年2ヶ月で重賞初勝利。

 レベッカRebecca de Spinozaは葬儀費用および借金の前払いを承諾しなかったとあります。コレルスJohannes Colerusが調査した諸々の記録の中に,スピノザの存命中の借金と思われるものがあり,ここでいわれている借金はそれを意味しているかもしれません。ただこの文章はそれ自体で抽出すると,スペイクが個人的にスピノザに金を貸していて,その借金の前払いをレベッカに対して請求したというように読むのが自然になっています。ですから実際にはそうしたものがあって,それをもはやスピノザから返してもらえるあてがなくなってしまったから,スペイクがレベッカにそれを請求したのかもしれません。
 とはいえスペイクとスピノザの関係というのは,世帯主と間借り人だったわけですから,スペイクが金銭をスピノザに貸すということは,常識的には考えにくいように僕には思えます。なので,もしスピノザがスペイクに対して借金があったということなのであれば,それは未払いの家賃があったということだと思います。スペイクとスピノザとの間での家賃の支払いの契約がどのようになっていたのかは不明ですが,たとえばスピノザが死んだ2月の家賃は支払われていなかったということはあり得ますから,この種の借金をスピノザがスペイクに対して抱えていたということはありそうだと思えます。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,スピノザがスペイクに対して借金があったのであって,それが未払いの家賃であったという解釈が採用されています。
 借金がどういったものであったかを確定させることはできませんが,いずれにせよレベッカは葬儀費用も借金も支払うことを拒絶しました。このためにスペイクはリベールトゥス・ルーフLibertus Loefという人に依頼して公正証書を作成してもらい,スペイクの代理人であるロベルト・スフメディングRobert Schmedingという人物がその証書を基にレベッカに正式に支払いを請求したとあります。この公正証書が作成されたのは3月30日で,この時点ではリューウェルツJan Rieuwertszからスペイクは葬儀費用を受け取っていたと思われるのですが,レベッカが遺産相続人であると主張した時点では,その支払いが確定していなかったので,証書の作成を依頼したということだったのかもしれません。
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ヒューリック杯白玲戦&遺産目録

2024-09-17 18:53:10 | 将棋
 14日に指宿温泉で指された第4期白玲戦七番勝負第二局。
 西山朋佳白玲の先手で三間飛車。9筋で戦いが始まってから後手の福間香奈女流五冠が向飛車に振っての相振り飛車になりました。
                            
 ここで先手は☗6六香と打ちました。
 後手は☖2六歩☗同銀☖2二飛☗2五歩と2筋に手を付けてから☖7二金と6筋を受けました。先手は6筋を破るのは難しくなったので☗3六歩と突いたのですが,☖6四歩と突かれ,打った香車を目標にされてしまいました。
                            
 これで先手が苦しくしてしまいました。第1図では☗8四歩と攻めていくか☗6六歩と突いておくのがよかったようです。
 福間女流五冠が勝って1勝1敗。第三局は21日に指される予定です。

 スピノザの葬儀について記述するにあたって,コレルスJohannes Colerusがどの程度の裏付けをとっているかは分かりません。ただ,その規模がどれほどのものであったかを知っている人がまだいた時代のことですから,誇張するにしてもスペイクとしてもあまり大袈裟なことは言えなかったであろうと推測されます。ですから,あくまでもいくらかの誇張が含まれているかもしれないということは心得ておかなければならないと思いますが,その葬儀が大きな規模のものであったことは疑う必要はないのではないかと思います。したがって,葬儀費用というのもそれなりに高額だったと推察され,スペイクが肩代わりした葬儀代も高額であったでしょう。逆にいえば,それだけの代金を一時的にとはいえ肩代わりするだけの経済的な余裕がスペイクにはあったということになります。
 スピノザの葬儀が終わった後で,スペイクはスピノザの遺産の目録を作らせました。それを請け負った公証人は,その目録を作ったことの代金をスペイクに請求しているのですが,領収書は1677年11月14日付となっていて,スピノザが死んでから9ヶ月ほど経過しています。これは僕には時間が掛かりすぎているように思えるのですが,実際にそういう記録が残っているのですから,このこと自体は事実です。スピノザの遺品があまりに多岐にわたり,それに値をつけるのに時間を要してしまったか,そうでなければ何らかの事情があってその代金を支払うのをスペイクが遅らせたかのどちらかだと思われます。
 レベッカRebecca de Spinozaがスピノザの遺産相続人であるとスペイクに申し出たことは,その直後に記述されています。前にもいっておいたように,弟の家で申し出たとありますので,レベッカがスペイクの家に現れてそのように主張したということでしょう。いつかは分からないのですが,葬儀にかかった費用と残された借金の前払いを承諾しなかったとありますので,おそらく葬儀は終わった後のことです。一方,リューウェルツJan Rieuwertszが送った葬儀費用は,3月6日にはスペイクに届いていると思われますから,その請求があったということは,2月26日から3月6日の間のことだったのではないかと思われます。
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共同通信社杯競輪&年金

2024-09-16 19:11:49 | 競輪
 宇都宮競輪場で行われた第40回共同通信社杯競輪の決勝。並びは真杉‐恩田の関東,郡司‐深谷の南関東,古性‐南の大阪,山崎‐北津留‐荒井の九州。
 真杉,古性,郡司,荒井の4人がスタートを取りにいきました。枠なりに真杉の前受け。3番手に古性,5番手に郡司,7番手に山崎の周回に。残り2周のホームを出てから山崎が上昇開始。古性が合わせて動き,真杉の前に出てさらに外から山崎が叩いて打鐘。山崎ラインに続いていた郡司が打鐘後のコーナーで発進。ホームで山崎を叩いて先行。山崎は深谷のインで粘ろうとしましたが,バックに入って深谷が番手を守りました。ここで山崎の番手から北津留が発進。荒井が離れたので古性が北津留を追い,さらに真杉が古性を追う形に。北津留が郡司を捲って先頭で直線に。古性が抜きいくとさらに外から真杉が伸びて優勝。古性が半車身差で2着。真杉マークの恩田が大外から伸びて半車輪差の3着。北津留は4分の1車輪差で4着。
 優勝した栃木の真杉匠選手はサマーナイトフェスティバル以来の優勝でビッグ4勝目。地元となる宇都宮では昨年の記念競輪を勝っています。このレースは山崎の先行が有力でしたが,深谷の前を回った郡司の先行も十分に考えられたところ。先行争いとはならずに郡司の先行となりましたが,これは周回中の位置取りからそういう展開になったというところ。古性がうまく北津留の後ろに入ることができて,展開的には絶好でしたが,北津留の発進がやや早かった分だけ,追ってきた真杉に逆転されたというレース。荒井は北津留の後ろを,南は古性の後ろを守れなかったのですが,そこは真杉や古性の力が上だったということだと思います。

 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの遺産相続および年金支給の件が,あたかもスペイクの目前で行われたように書かれています。しかしそれはあり得ません。フリースは1667年に死んでいて,スピノザがスペイクの家に住むようになったのは1670年になってからだからです。スペイクとフリースを繋ぐのはスピノザだけですから,フリースとスペイクが顔を合わせたことはなかったと解するべきです。
                            
 ただし,フリースの死後にスピノザがフリースの遺言によって年金を贈られていたということは,スペイクは知っていたと思われます。フリースとスピノザの関係は,家の貸し手と借り手の関係ですから,スピノザに一定の収入がないのであれば,家を貸すということはできません。ですからスピノザは自身の収入源が何であるかということについてスペイクに話した筈であり,その中にフリースからの年金が入っていたものと思われます。つまりスピノザがフリースからの年金を受け取っていたということは事実なのであって,しかしそれが決定されたのがスペイクの目前であったというわけではなかったというように解するのが適切でしょう。
 前もっていっておいたように,スピノザの葬儀が執り行われたのは2月25日です。スペイクは葬儀代だけでなく,その他諸々の代金を肩代わりして支払ったということが,コレルスJohannes Colerusの調査によって明らかになっています。たぶんリューウェルツJan Rieuwertszがスペイクに送ったものは,そうしたものも含んだ分であったと思われます。
 スピノザの葬儀には6台の馬車が随行し,多数の名士が葬列に加わったとされています。この部分は『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』の中で,みすぼらしかったとされるライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの葬儀と比較されている部分の根幹をなします。ただ,スペイクはスピノザについては誇張してコレルスに伝える可能性があるのですから,そのまま信じていいのかは分かりません。ただ,この時点でまだスペイクが生きていたように,スピノザの葬儀に参列した近隣住民で存命の人がいたでしょうし,葬儀に参列しなかったとしても,それがどの程度の規模のものであったのかを知っている人もまだ生きていたでしょう。
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