フロイデンタールJacob Freudenthalは,シュラーGeorg Hermann SchullerがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して『エチカ』の遺稿の買取りを打診しているという事実を重視して,このようなことはシュラーの独断ではできないので,遺稿集Opera Posthumaの編集者たちの間の総意として,スピノザの遺稿の売却というのがあったとみています。しかし後に編集者たちは考えを改め,遺稿集として出版することを決意しました。だから遺稿の売却も断ることになったということです。これもまた,シュラーとライプニッツの間の書簡のやり取りからの解釈です。
ただ,この説明には不十分なところがあります。編集者たちがなぜ考えを改めたのかがまったく説明されていないからです。編集者たちが遺稿の売却を考えたのは,スピノザの遺産からその発行のための費用が十分ではなかったからだとフロイデンタールはいっています。ということはその資金について何らかの目途が立ったから遺稿集の出版へと舵を切ったと考えるのが自然でしょう。しかしその目途というものがどのようなものであったのかということがまったく説明されていないので,僕はその点に疑念を感じてしまうのです。
フロイデンタールの説明が示しているのは,もしシュラーが独断でライプニッツに対して遺稿の買取りを打診したのであれば,それは遺稿集の編集者たちの総意ではなかったということです。いい換えればその場合は,少なくともシュラー以外の編集者たちは,最初から遺稿集を売却しようなどというつもりは毛頭なく,それを何とかして出版しようと考えていたということになります。この路線で説明しているのが『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』です。もちろんこれはスチュアートMatthew Stewartによる創作が入ったものですから,史実がどうであったのかを確定するためにはあまり有益ではないという一面があります。しかしこのことに関しては,スチュアートがいっていることにも一理あるし,こちらの方が正しいのではないかと僕には思えるのです。
ライプニッツがオランダを訪れて以降,ライプニッツとシュラーの間では,定期的な書簡のやり取りがありました。だから少なくともシュラーは,ほかの編集者たちの知らないところで,遺稿の買取りを打診することはできました。
スピノザの遺品の競売は11月4日に行われました。この売上からスペイクは葬儀費用も含めた,自身が負担したスピノザのための費用のすべてを賄うことができたとフロイデンタールJacob Freudenthalはいっています。この部分ではコレルスJohannes Colerusがかなり詳しい報告をしていて,たとえば事務処理のために働いた弁護士のためにいくらの支払いがあったかということも明らかになっています。フロイデンタールの計算ではそうしたすべての支払いを終えて,売上金からは僅かのものが残ったとなっていますので,スピノザが本来であれば支払わなければならなかった費用は,これですべて賄うことができて,僅かとはいえ剰余金が発生したということになります。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaによれば,この売上金をレベッカRebecca de Spinozaが差し押さえたのだけれども,残金が僅かだったから遺産の相続を放棄したとなっています。したがって剰余金はたぶんスペイクの収入になったのではないでしょうか。
なお,フロイデンタールは,これ以外に蔵書の売上があった筈だといっています。スピノザにどのような蔵書があったのかということは記録が残っていて,全部で161冊に上ります。競売の中にも何冊かの本が含まれてはいますが,それにはまったく届いていません。したがって残りの蔵書は密かに売却されたのだとフロイデンタールはみているわけです。ただしフロイデンタールの記述は,この蔵書のいわば密売が,遺稿集Opera Posthumaの出版費用を捻出するために行われたと読むことができるようになっています。なので売上はスペイクのものになったわけではなく,遺稿集の編集者たちの手に入ったと解することもできます。遺稿集の編集者たちが先に売却できそうな蔵書を選別して,その残りが11月4日の競売に出されたということは,可能性としてはあるのかもしれません。
遺稿集の編集者たちは,遺稿集を出版するだけの費用が捻出できなかったから,スピノザの遺稿そのものを売却しようとしたとフロイデンタールはいっています。この論証の軸になっているのは,シュラーGeorg Hermann SchullerがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して売却を打診しているという史実です。ただしこれは本当に遺稿集の編集者たちの総意であったか,僕は疑わしく思います。
スペイクが依頼したのでなかったら,だれが何の目的でスピノザの遺産の目録を作らせたかが謎として残ります。したがって,実はスピノザが死んだ日に目録を作らせたのもスペイクで,しかしそれが不正確であることをスペイクが看取したので,改めて別の人に目録の作成を依頼したということだったかもしれません。
仮に遺産目録を作成させたのがスペイクであったとすれば,その目的は葬儀費用の捻出であったと解するのが,『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』を読む限りは適切だと思います。前もっていっておいたように,21日に死んだスピノザの葬儀と埋葬が25日になったのは,葬儀費用の問題があったからだとフロイデンタールJacob Freudenthalはいっているからです。実際に葬儀も埋葬も行われたのですから,一時的にそれを行うだけの経済的余裕はスペイクにあったとみるのが妥当ですが,無償でそれを行うほど余裕があったわけではなく,立て替えた葬儀費用に関しては何らかの形で返却してもらう必要があったのでしょう。おそらくスペイクはスピノザの友人のことは知っていたかもしれませんが,スピノザの親族にだれがいるかは知らかったと思われます。したがって確実に立て替えた葬儀費用を返却してくれると思える人がスペイクにはいませんでした。だからスピノザの遺品を売却することによって,どの程度の売り上げが見込め,それで葬儀費用を賄うことができるかということをスペイクは知る必要があったということです。
正確な目録が作成されたのは3月2日になってからでした。しかしスピノザの葬儀と埋葬はその前に行われています。これは遺体をあまり長く放置することができなかったという事由によるものかもしれませんが,フロイデンタールはこの間に立て替えた葬儀費用を返却してもらえる目途がスペイクに立ったからと説明しています。いうまでもなくこれは,リューウェルツJan Rieuwertszによる保証です。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,3月6日付の手紙でリューウェルツが保証したとなっていますが,確かにこの手紙は葬儀費用そのものを支払ったということを意味する内容になっていますから,それより前にリューウェルツがそれを保証していたということはあり得るでしょう。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの当該部分から僕が理解できることはここまで記してきた通りです。そしてその中に数々の疑問点があるということは分かってもらえたと思います。それは解決可能なものではありません。ただこの部分に関して,ほかの伝記の中により詳しい記述がありますから,それもみておくことにしましょう。
フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では,スピノザの葬儀に出席した人物が書かれています。フッデJohann Hudde,イエレスJarig Jelles,リューウェルツJan Rieuwertsz,マイエルLodewijk Meyerは確かに出席したとされていますが,出席したであろうという書き方ですので,確証があるわけではないかもしれません。一方,シュラーGeorg Hermann Schullerは出席していなかったとされていて,それはシュラーがこの葬儀の翌日,すなわち1677年2月26日にはアムステルダムAmsterdamにいて,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに手紙を書いていることが根拠とされています。葬儀および埋葬にどれほどの時間を要し,それが何時に終わったのかということが定かではないので,前日にハーグDen Haagで葬儀に出席したシュラーが,翌日にアムステルダムで手紙を書くということが本当に不可能なのかどうか僕には分かりません。また,フロイデンタールはスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであると考えていて,この人はコレルスの伝記によれば臨終の日のうちにアムステルダムに帰ってしまい,そのままスピノザを顧みることはなかったとされています。それはつまり葬儀および埋葬には顔を出さなかったということを意味するのであって,マイエルが出席しシュラーが出席しなかったということは,コレルスの伝記が意味するところがスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであったということと辻褄が合います。むしろこちらの考え方から,フロイデンタールはマイエルは出席したけれどもシュラーは出席しなかったといっているのかもしれませんから,この部分のフロイデンタールの記述は,そのまま信用するには値しないかもしれません。
スピノザが死んだのが2月21日で,埋葬が25日になった理由について,これは葬儀費用の問題であったというようにフロイデンタールはいっています。要するにだれがそれを支払うかが決まらなかったということです。
繰り返しになりますが,スペイクと面会したレベッカRebecca de Spinozaは,自身がスピノザの遺産の相続人であると申し出ました。しかしレベッカが葬儀費用と借金の前払いを承諾しなかったので,スペイクは公正証書を作らせ,その証書を基にレベッカにその代金を請求しました。正確にはレベッカとダニエルDaniel Carcerisに請求したのです。ところがレベッカもダニエルもその請求に従いませんでした。これが法的に問題なかったのかどうかは分かりません。ただ,相続した遺産が葬儀費用および借金を上回れば,それを支払うことはできるわけですから,先に相続できる遺産の額をレベッカが知りたかったという点は,理解できないわけではありません。したがってレベッカは,もしも葬儀費用と借金を支払った後に残る遺産の額が僅かであったり,むしろ支払わなければならない額の方が多くなった場合には,当初から遺産を相続する権利そのものを放棄するつもりであったものと僕は思います。
レベッカが請求を拒絶している間に,スペイクはハーグDen Haagの裁判所から,スピノザの遺品を公売所で競売に出す権限を与えられました。なので実際に多くの品物を競売に付しました。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaによれば,この競売が行われたのは1677年11月4日であったとされています。つまりスピノザが死んでから9ヶ月弱後のことになります。レベッカとダニエルが請求に応じなかった期間というのも,それと同じだけのものであったと考えてよいでしょう。この競売の売上金はスペイクに届けられたのだけれども,その場でレベッカに差し押さえられたと書かれています。これがどういう意味なのかも分かりません。文章の全体からは,スペイクが依頼して公売所で競売が行われ,その売上金がスペイクの家に届けられたというように読めるのですが,その届けられた売上金をレベッカが差し押さえたのだとすれば,スペイクの家で差し押さえたということになりますが,そんなことが可能なのかとても疑問に思えるからです。したがって差し押さえたということの意味は,その売上金をスペイクが使うことを禁止したとか,そのような法的命令を用意してスペイクに伝達したというようなことなのかもしれません。
スペイクはスピノザの葬儀には名士が参列したとコレルスJohannes Colerusに証言したので,コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにはそう書いてあります。前にもいったように,この点に関してはスペイクにも誇張できない理由がありましたから,この点はそんなに疑う必要はないと思われます。そこでスペイクの証言を信頼するなら,多数の名士がその葬儀に出席するようなスピノザの死は,オランダにおいてそれなりの話題に上っていたかもしれません。ですから,たとえイエレスJarig Jellesのような,面識があったであろうスピノザの友人から報知されなくても,レベッカRebecca de SpinozaやダニエルDaniel Carcerisがスピノザの死を,死の当日から時間をおかずに知り得た可能性も高そうです。
スピノザはユダヤ教会から破門された後は,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人とは接触していなかったと思われます。ユダヤ人共同体でそのことが禁止されていましたし,スピノザからそれを望むということがあったとも思えないからです。したがって,スピノザとレベッカRebecca de Spinozaが最後に会ったのは,スピノザがユダヤ人共同体から追放される前であって,それ以降は接触していません。ですからそれ以降はスピノザはレベッカがどこで何をしているか知らなかったでしょうし,レベッカもスピノザがどこで何をしているのかは知らなかったと思うのです。もっとも,スピノザはオランダでは一定の知名度があったようですから,レベッカの方はスピノザのことを伝え聞くということがあったかもしれません。しかしスピノザがレベッカについて何かを知るということはまったくなかったでしょう。
なので,おそらくスペイクは,スピノザにレベッカという姉あるいは妹がいるということを知らなかったでしょうし,ダニエルDaniel Carcerisという甥がいるということはなおのこと知らなかっただろうと思います。よってスピノザが死んだということを,スペイクがレベッカなりダニエルなりに知らせるということはできなかったと思います。一方,スピノザが死んだときにはマイエルLodewijk MeyerかシュラーGeorg Hermann Schullerのどちらかがそれを見守ったのですから,スピノザの友人たちは早い段階でスピノザの死を知ることになったでしょう。そうした友人の中には,スピノザがまだ破門される前からの商人仲間であったイエレスJarig Jellesがいました。なのでイエレスはたぶんスピノザの親族と面識があり,少なくともスピノザと一緒に商店を経営していた弟のガブリエルのことは知っていたのではないかと思われます。それ以降も連絡を取り合っていたかは分かりませんが,スピノザが死んだということを伝えることくらいはできたと思います。とくにレベッカはスペイクの家に行ったのですから,単にスピノザが死んだということを知るだけではなく,スピノザがどこに住んでいたのかということまで知ったとしなければなりません。そうしたことから考えると,スピノザの知り合いからスピノザの死を伝えられた可能性が高いかもしれません。
レベッカRebecca de Spinozaの子どもたちが共同相続人に名を連ねなかった理由は定かではありませんが,たぶん制度上の理由だったろうと推測されます。それでダニエルDaniel Carcerisとレベッカのふたりが共同相続人として名乗りを上げたのですが,ふたりだけであった理由というのも考えておきましょう。
まずスピノザの兄のイサークは,まだスピノザが学生だったうちに死んでいます。ですから相続人にはなり得ませんでした。そしてスピノザの姉のミリアムMiryam de Spinozaも,ダニエルを産んだ直後に死んでしまったのですから,相続人にはなり得ません。また,スピノザの父のミカエルが死んでスピノザは弟のガブリエルと事業を継いだのですから,ミカエルもまた相続人にはなり得ません。さらにスピノザの母のハンナはミカエルよりも先に死んでいますからやはり相続人にはなり得ませんでした。また,ハンナの後にミカエルと結婚したエステル,スピノザの継母も,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』によればミカエルよりも先に死んだようなので,相続人にはなり得なかったのです。
スピノザの弟のガブリエル,この人はアブラハムともいわれますが,ここではガブリエルといいます。このガブリエルが共同相続人に名乗りを上げていない理由は僕にはよく分かりません。少なくともスピノザが死んだ時点でも,ガブリエルは生きていたと思われるからです。ただ,後にレベッカがキュラソー島に移住したように,ガブリエルはその時点でオランダを離れて外国に住んでいた可能性があります。そしてそうであれば,スピノザが死んだということを知らなかったのかもしれません。このために,共同相続人として名を連ねることができなかったのではないかと推測します。
また,レベッカとダニエルが共同相続人として申し出たということは,このふたりはスピノザが死んだということを知っていたことになります。とくにレベッカは,スピノザの葬儀の直後にはスペイクに会っているのですから,わりと早い段階でスピノザの死を知ったということになるでしょう。レベッカがどのような経路でそれを知ったのかということはちょっとした謎です。スピノザは破門された後は親族とは連絡を何も取っていなかったからです。
ミリアムMiryam de Spinozaが結婚したのは1650年6月で,これは婚姻届が残っているので確実です。その相手がサムエル・カルケリスSamuel Carcerisであったことになります。そしてふたりの間にダニエルDaniel Carcerisという名の子が産まれたことになります。ところが吉田がいっているところによれば,ダニエルが産まれてすぐにミリアムは死んでしまったのです。よってサムエルはダニエルという幼子と残されることになりました。なのでダニエルは再婚したのですが,その再婚相手がレベッカRebecca de Spinozaだったのです。ですから,ダニエルの母はミリアムであって,戸籍上はそうなっているのでしょうが,レベッカとダニエルの関係は,叔母と甥というより,母と息子という関係に近かったと思われます。たぶんダニエルは実の母であるミリアムの記憶はまったくなかったと考えられますので,ダニエルとレベッカの結婚が,ミリアムが死んでからそれほど時を置いてのものでなかったとすれば,ダニエルにとってレベッカは,叔母というより実の母に近かったものと思われます。
前にもいったようにレベッカはこの後,キュラソー島に移住します。そのとき,ミカエルとベンヤミンという息子と一緒だったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』にあります。つまり,再婚したサムエルとレベッカの間には子どもがありました。さらにハンナという娘もいたと確定的に記されています。たぶんハンナは結婚したので,キュラソー島には移住しなかったのでしょう。ところが共同相続人としてレベッカとともに名前が出ているのはダニエルだけで,ハンナ,ミカエル,ベンヤミンの名前はありません。ハンナがどうなったかは分かりませんが,ミカエルとベンヤミンはキュラソー島に移住したので,スピノザが死んだ時点で生きていたことは確実です。なのに共同相続人として名前がないのは,たぶん制度上のことだと思います。ダニエルはミリアムの子で,ミリアムはすでに死んでいたのでその子どもとして叔父の遺産の相続人にはなり得るのですが,レベッカは健在だったので,レベッカの子どもたちは共同相続人としての権利がなかったのでしょう。このように考えないと,共同相続人がふたりだけであったことの説明がつかないように思えます。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの遺産相続および年金支給の件が,あたかもスペイクの目前で行われたように書かれています。しかしそれはあり得ません。フリースは1667年に死んでいて,スピノザがスペイクの家に住むようになったのは1670年になってからだからです。スペイクとフリースを繋ぐのはスピノザだけですから,フリースとスペイクが顔を合わせたことはなかったと解するべきです。
ただし,フリースの死後にスピノザがフリースの遺言によって年金を贈られていたということは,スペイクは知っていたと思われます。フリースとスピノザの関係は,家の貸し手と借り手の関係ですから,スピノザに一定の収入がないのであれば,家を貸すということはできません。ですからスピノザは自身の収入源が何であるかということについてスペイクに話した筈であり,その中にフリースからの年金が入っていたものと思われます。つまりスピノザがフリースからの年金を受け取っていたということは事実なのであって,しかしそれが決定されたのがスペイクの目前であったというわけではなかったというように解するのが適切でしょう。
前もっていっておいたように,スピノザの葬儀が執り行われたのは2月25日です。スペイクは葬儀代だけでなく,その他諸々の代金を肩代わりして支払ったということが,コレルスJohannes Colerusの調査によって明らかになっています。たぶんリューウェルツJan Rieuwertszがスペイクに送ったものは,そうしたものも含んだ分であったと思われます。
スピノザの葬儀には6台の馬車が随行し,多数の名士が葬列に加わったとされています。この部分は『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』の中で,みすぼらしかったとされるライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの葬儀と比較されている部分の根幹をなします。ただ,スペイクはスピノザについては誇張してコレルスに伝える可能性があるのですから,そのまま信じていいのかは分かりません。ただ,この時点でまだスペイクが生きていたように,スピノザの葬儀に参列した近隣住民で存命の人がいたでしょうし,葬儀に参列しなかったとしても,それがどの程度の規模のものであったのかを知っている人もまだ生きていたでしょう。