スピノザがファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenのラテン語学校でラテン語を学んでいたこと,そしてある程度までラテン語に習熟した後は助手的な役割を務めていたことは,おそらく史実です。そしてこのラテン語学校の授業に演劇があったということは確定的な史実です。だからといってそこで『蛙Βάτραχοι』が教材として用いられ,スピノザがそれを演じたことがあると確定することができるわけではありません。よって『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』で書かれていることが史実であり得たということを,このことだけでいうことはできません。もっと重要な史実があります。
ファン・デン・エンデンは,単に演劇を授業に取り入れていたというだけでなく,その演劇を生徒たちに上演させていました。ここでいう上演というのは,授業中に演じるとか,生徒たちの保護者にそれを見せるという意味ではなく,一般の観客から金を取って上演していたという意味です。つまり演劇は単に授業内容のひとつだったわけではなく,本格的な稽古を積んで,客に見せるためのものだったのです。そしてそうした公演の中にテレンティウスPublius Terentius Aferの劇作があり,その上演にスピノザが参加していたことはかなり確実だと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に書かれています。つまりスピノザが,ファン・デン・エンデンのラテン語学校の生徒のひとりとして,興行としての演劇に参加していたことは,史実としてかなり確定的にいえることです。
こうした演劇のためには,単に台本があるだけでは十分ではなく,演出が必要不可欠であるということは間違いないでしょう。おそらくその演出もまたファン・デン・エンデンがしていたと思われますが,演者として舞台を踏んでいたスピノザは,舞台演劇の演出がいかなるものであるのかということを,内部の人間として知っていたということは確実視することができます。さらにいえば,ナドラーSteven Nadlerがいうように,スピノザがエンデンの助手的な役割を果たしていたのだとすれば,ある時には演出の手伝いをしたことがあったとしてもおかしくありません。そしてそうであればなおのこと,スピノザは舞台演出がいかなるものであるのかということを,より知ることができたでしょう。
『蛙Βάτραχοι』の台本があったとは書かれていませんが,ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの写本が出てきたと書かれているくらいですから,書かれていなくてもその台本らしきものもヨットの中にあったかもしれません。むしろそうしたものが見つかったから,一行はそれを上演しようとなったという方が自然です。また,そうでなくとも『蛙』は有名な話ですから,一行の中にそれを詳しく知っている人がいて,その人が台本を書くからそれを上演してみようと提案したということもなくはないでしょう。不自然に感じることは否定しませんが,この点については問わないことにします。
しかし,台本があれば上演することができるわけではありません。上演するとなれば演出が必要であって,その専門的知識を持った人が一行の中にいなかったとすれば,これを上演することなど不可能であったといわなければなりません。これは実際に僕たちが『蛙』に限らず何かを演じなければならないとなった場合を想定すれば明らかでしょう。つまり,このプロットの中で最も不自然に感じられるのはこの点なのです。確かに台本が本当にあったのかということも問わなければならないのですが,仮に台本があったとしても,それを実演するのにだれがどのように演者を指導したのかということは,より強く問われなければなりません。一行が『蛙』を本当に上演したのであれば,台本と演出のふたつは不可欠だからです。
それでもこのことが史実であり得たということができるのは,スピノザは演劇を演出するやり方というのを知っていたと想定されるからです。スピノザはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenの下でラテン語を学び,後に助手的な役割を果たしていたということは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では確定した史実とされています。そしてエンデンのラテン語学校の授業では,演劇が採用されていました。つまりラテン語で劇を演じることでラテン語を習得するということが,教育の一環として行われていたのです。ですからまず,原語はギリシア語とはいえ,ラテン語に訳されたアリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙』がその教材のひとつであったかもしれませんから,スピノザはかつてそれを演じた経験があったかもしれません。
現実的なことをいえば,同じ戯曲であっても演出家の演出次第で上演のあり方は変化します。したがって,ファン・ローンJoanis van LoonがフォンデルJoost van Voendelの戯曲の上演を観劇したことがあった,それも複数回にわたって観劇したことがあったとしても,そこにどのような演出があったかということは異なった筈であって,フォンデルの戯曲が上演されるときの共通の演出というのがあったかどうかは分かりません。ですからフォンデルの戯曲であるかのように上演したという表現は,表現としては不適切だと僕は思います。なのでこの部分は不自然であると思いますが,ファン・ローンがそう書いたのかヘンドリックHendrik Wilem van Loonがそのように書いたのかは別として,このような表現になり得るということは理解しますので,この点について深く詰めることはしません。ローンが書いてもこのような表現にはなり得るだろうし,ヘンドリックがフォンデルの戯曲を観劇したことがあったかどうかは不明ですが,ヘンドリックがフォンデルはこの当時のオランダにおける著名な詩人にして戯曲家であったということさえ知っていれば,このような表現をすることもあり得るでしょう。いい換えればこの部分を詰めて考えても,ヘンドリックが完全に創作したか,何らかの資料に依拠したかということは分からないと思います。
もっと不自然に感じられるのは,アリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙Βάτραχοι』を上演するにあたって,何らかの台本があったと仮定されていないことです。ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの古い写本が出てきたとは書いてありますが,アリストファネスの書いたものがヨットの中にあったとは書いていないのです。もしもそうしたものがなかったのなら,一行は台本もなしに『蛙』を上演したと解さなければなりませんが,そんなことが本当に可能だったのかはかなり疑問です。『蛙』というのがとても有名な話で,だれでもそのあらすじを知っているような戯曲であったとしても,上演するのであれば台詞の段取りなどがなければならないのであって,定まった台本なしにそれができたかは疑問です。いい換えればこの場合は,一行のだれかが,簡単なものであったとしても何らかの台本を作成したのでなければならないと思います。
船旅を企画して出港したのに,いくら突風があったとはいえ,2時間や3時間でマストが折れてしまったというのは,本当のことだったか疑わせるような要素になると思います。ただ文脈を検討してみると,この船はそれほど手入れが行き届いていなかったコンスタンティンConstantijin Huygensのヨットだったという可能性が高く,それならそうなってしまったということもあり得るでしょう。なのでこの部分は,史実であったとしてもおかしくないですし,そうではなくヘンドリックHendrik Wilem van Loonの純粋な創作であったとしても,著しく不自然であるとはいえないことになるでしょう。
最後の晩に上演されたのがアリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙Βάτραχοι』です。ファン・ローンJoanis van Loonは我々はそれをフォンデルJoost van Voendelの作であるかのように上演したと書いています。このフォンデルというのは詩人でもありまた戯曲も多く書いた人物です。この船旅がされた時期には存命で,おそらく有名であったでしょうから,ローンがこの人の名前を出していることは不自然ではありません。同様に,ヘンドリックがローンが書いたものだという体での創作にこの名前を持ち出すのも不自然ではないといえるでしょう。それからローンは我々は上演したといっているのですから,一行の6人で上演したと解するのが自然でしょう。
スピノザはロープで作ったとてつもなく大きなかつらをかぶり,ディオニュソスDionȳsosの役を演じました。そしてその上演中に,ヘブライ語の祈りを長々と唱えて熱演したので,一行に招かれて『蛙』を見に来た村人たちが大笑いして足を踏み鳴らしたので,スピノザはアンコールに応えなければなりませんでした。これは実際に応えたという意味に理解できる文脈になっています。
フォンデルの戯曲に『蛙』が実際にあったのかどうかは分かりません。ローンの記述ではフォンデルの作であるかのように上演したとなっているのですから,実際にそうした戯曲があるかないかは問わなくてよいでしょう。ただ,そうであるかのように上演したということは,フォンデルの戯曲が演劇として上演されるときに,どのような演出の下で上演されるのかということは,少なくともローンの念頭にはあったということでなければなりません。
船旅の出発地がどこであったのかということは『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』では示されていません。ただその時期にはスピノザがすでにハーグDen Haagのウェルフェの家に移っていたとはいえ,そのことがスピノザが船旅に参加することの障害になったというようには考えなくてよさそうです。
出発地がどこであったのかは分かりませんが,船はホウダGoudaの町へ向かいました。これは先述したように水運で栄えた町です。ところが出発して2,3時間もしないうちに突風のために6人が乗ったヨットの大きなマストが折れてしまいました。この修理が終わるまでヨットは動かないので,一行は村に上陸したのです。この村はブレイスウェイの村とされています。今までに訪れたことがないような寒村と表現されていますので,よほど小さな村という設定でしょう。このような小さな村でマストがすぐ手に入らないのはごく当然だと思います。なのでここで一行は3日間を過ごすことになりました。動くことはできなくても寝泊りはヨットの中でできたものと思われますから,そこを不自然に思う必要はないでしょう。
このとき,ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの古い写本が出てきたので,それほど難しくない詩のいくつかをオランダ語に訳そうとして,一行は楽しい時間を過ごしたと書かれています。おそらくその写本は,ヨットの中から出てきたのでしょう。以前にだれかがヨットに持ち込んだものがそのまま残され,時間を持て余した一行が船の中に何かないかと捜索したらそれが出てきたというディテールに思えます。実はこのヨットの所有者がだれであったかということは書かれていないので不明なのですが,このディテールからすると,一行の中のだれかの所有物であったと想定され,そしてそうであればおそらくコンスタンティンConstantijin Huygensのヨットと解するのが適切であるように思われます。たぶんこのヨットはそれほど頻繁に使用されるものではなかったのではないでしょうか。だから以前に持ち込んだ本がこのときにも船内に残されていたのだし,またそれほど使用するヨットではなかったから手入れもそれほど十分ではなく,いくら突風が吹いたとはいっても大きなマストが折れてしまったのでしょう。
さらに畠中は,この時期はスピノザに限らず,多くの人びとが思想的内容の手紙を書くことに用心していたのであって,そうした手紙を受け取ったら,直ちにそれを破る習慣だったという意味のことをいっています。そうしたことが確かにあったかもしれませんが,スピノザのこの時期の書簡が少ないことについてこれを該当させられるかということについてはやや疑問も感じます。これ以前にもこれ以後にも,思想的内容の手紙というのをスピノザは受け取ったり自身で書いたりしていて,それは残っているのです。この時期に書かれたものだけに用心する必要があって,過去のものには用心する必要がなかったという理由が僕にはよく分かりません。たとえばこの時期にスピノザが思想的内容の書簡を受け取って,用心のためにそれを残さずにすぐに捨てるのであれば,それ以前の同じような内容の書簡についても,それを保管しておくことには用心する必要があるからそれも捨てようとするのが自然ではないかと僕には思えるからです。
いずれにしても,船旅が実施されたと思われる時期には『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』はすでに発刊されていたわけですから,その執筆に多忙であったからスピノザが船旅に出るのは不自然であるということはありません。一方でこの状況というのは,むしろスピノザに船旅に向かわせる意欲を高めるようなものだったように思われます。 ヨハン・デ・ウィットJan de Wittが民衆によって虐殺されたのは1672年のことですから,このときはまだ政治の実権を握っていました。しかしオランダの政治状況は騒乱の時代を迎えていたのは間違いありません。実際にクールバッハAdriaan Koerbachはこれより前,1668年には獄死しています。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,共和主義者であったデ・ウィットは,民主主義的内容の『神学・政治論』に対して不快の念を表明したとあり,スピノザを取り巻く状況も安全なものとはいえなかったのです。なのでこの時期のスピノザにとって,政治的な意味での有力者と親しく交際することは,自身の身の安全のためにはプラスに働いたと思われます。スピノザ自身がそのような認識をもっていたとしてもおかしくはないのではないでしょうか。
『スピノザ往復書簡集Epistolae』では,書簡四十一が1669年9月5日付になっていて,これはフォールブルフVoorburgから出されています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死ぬ少し前のものです。次の書簡四十二はフェルトホイゼンLambert van Velthuysenが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の要約をオーステンスJacob Ostensに送ったもので,これは1671年1月24日付です。スピノザはオーステンスを介してこの手紙を読み,フェルトホイゼンに対する反論をオーステンスに送ったのですが,この書簡四十三には日付がありません。書簡四十四は1671年2月17日付でハーグDen Haagから送られています。現行の『スピノザ往復書簡集』は時系列で番号が付せられていますので,書簡四十三は書簡四十四より前で,書簡四十二への返信ですからそれより後です。なので1671年1月後半から2月中旬までに送られていたとみるべきでしょう。
これでみると分かるように,船旅が実施されたと考えられる1670年の書簡というのはありません。これは単に掲載するほどの書簡が存在しなかったからかもしれませんが,別の事情が考えられないわけでもありません。というのは書簡四十二と書簡四十三が『神学・政治論』に関係しているように,『神学・政治論』が発行されたのが1670年だったのです。スピノザが執筆していたのはフォールブルフに滞在していた頃です。というのも1670年の初めには発行されていますので,実際に執筆していたのはそれより前の筈だからです。スピノザはこの発行のタイミングでフォールブルフからハーグへ移ったのですが,この移住が出版と何らかの関係を有していたかもしれません。いずれにせよ匿名で発行されたわけですが,執筆者がスピノザであるということはすぐに噂として流布しましたので,スピノザが思想信条を明らかにするような書簡を書くことを控えていたという可能性があるのです。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,『神学・政治論』と直接的に関係させているわけではありませんが,1667年3月から1671年1月までのスピノザが少ないことについて,当局の圧迫や監視を理由のひとつとして挙げています。そしてもうひとつの理由が,『神学・政治論』の執筆による多忙となっています。
『蛙Βάτραχοι』のプロットは大筋を簡潔に紹介しただけなので,ここからは詳しくみていきます。
時期が特定されていませんが,ファン・ローンJoanis van LoonがコンスタンティンConstantijin Huygensの別荘で襲われた病気から恢復した直後とされています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死んだのは1669年10月4日です。ここでいわれている病気は,レンブラントの死後のローンの鬱状態のことを指すのは間違いありません。ローンはスピノザのアドバイスでレンブラントとのことを書いた設定で,1670年4月に効果が現れたという主旨のことを書いていますので,1670年になってから,たぶん4月か5月ではなかったかと想定されます。スピノザがレインスブルフRijnsburgからフォールブルフVoorburgに移住したのは1663年で,フォールブルフからハーグDen Haagに移住したのは遅くとも1670年の初めです。ですからコンスタンティンとスピノザはすでに知己になっていたのは間違いありません。ただスピノザはこの時点ではフォールブルフに住んでいたわけではないと想定されます。ただしフォールブルフとハーグは隣接しているので,それほど遠いわけではないです。
コンスタンティンの提案で,ファン・ローンに気晴らしをさせるために,船旅をしたことになっています。全体のプロットは,コンスタンティンがファン・ローンの身を案じてスピノザに会うように助言したことになっていますから,コンスタンティンがそう提案をすること自体は,ストーリーの全体の中で不自然ではありません。目的地はホウダGoudaという町であったとされています。この町は水運で栄えた町とされていますので,そこへ船旅をするというのも不自然な設定であるとは思えないです。一行は6人となっていて,これはコンスタンティン,ファン・ローン,スピノザを含めていると思われますので,ほかに3人が乗船していたということでしょう。前にもいったように,この船旅の時期にはスピノザはフォールブルフには住んでいなかったと思われるのですが,ファン・ローンの気晴らしのための旅にコンスタンティガスピノザを招待するのは不自然ではなく,ハーグとフォールブルフも遠くはないので,スピノザが受けることも可能ではあったでしょう。
それが脚色であるとすれば,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが意図したような脚色になっていないということは,それがヘンドリック自身による純然たる脚色ではないからだと僕は判断します。いい換えればヘンドリックは何らかの資料にはあたっているのであって,その資料にそうしたことが書かれているから,ヘンドリックもそのように書いたのだと判断します。そしてその資料というのは,ファン・ローンJoanis van Loonが書き残したものであったとしか考えられません。そもそも自身の9代前の先祖が書いたものだという設定でヘンドリックが何かを書くということ自体が不自然なのであって,実際にファン・ローンが書き残したものをヘンドリックが入手したから,ヘンドリックはそれを書こうとしたとする方が自然なのではないでしょうか。
ですから,ファン・ローンが何かを書いていた,それも『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の基になるものを書いていたことは間違いないと思います。ヘンドリックがそれを正しく全訳しているかどうかは分かりませんが,ヘンドリックが出版したものの中には,ファン・ローンが書いたものの残骸は間違いなく残っているのであって,ファン・ローンは出版する意図があってそれを書いているとは必ずしもいえませんから,読者に喜んでもらうような脚色を加える必要はありません。もちろんファン・ローンの記憶が確かであるとは断定できませんから,ファン・ローンが史実と異なったことを書いているという可能性は考慮しなければなりませんが,たとえばファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが船の模型をもってきたというようなことは,記憶として鮮明に残る筈なので,実際に書かれていてヘンドリックがそれを誤訳をしていない限り,そのことは実際にあった出来事だと判断していいように思えます。同様に,スピノザがロープで作ったかつらをかぶったというようなことも,記憶違いとして生じるようなことだとは思えませんから,それは同じ条件の下に実際にあったのではないかと思えます。
このことをさらに強化するために,『蛙Βάτραχοι』のプロットというのは,その大筋からして信憑性を疑わせるものとなっているけれども,それは真実であったとしてもおかしくはなかったということを示していきます。
設定自体が不自然ではなく,大筋のプロットに対する肉付け部分の説明が真実らしく思われないというのは,その作品が創作物であるということを強化する要素になります。しかし僕の考えでは,まさにこの点が,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』が純粋な創作物であるということを疑わしくさせるのです。その理由は,これがヘンドリックHendrik Wilem van Loonの純粋な創作物であると仮定したときに,ヘンドリックがそれをどのような意図で著したのかということと関係します。
ヘンドリックはこれを,自身の先祖に当たるファン・ローンJoanis van Loonが書いたものであるとして,それを自身が翻訳したとしています。つまり,実際の著者はファン・ローンで,ヘンドリックではないという前提で,ヘンドリックはこれを発刊しています。そしてファン・ローンが書いたとされているのが,『レンブラントの生涯と時代』です。したがってその内容はファン・ローンが見聞きしたことであって,ファン・ローンが見聞きしたことである以上,それは史実であるということもまた前提されているとしなければなりません。
このような前提でこれをヘンドリックが書いたのだとしたら,ヘンドリックはその内容をリアルなものとして書くことになるでしょう。前提がリアルな史実であるということなのですから,内容もまたそうしたものとして創作しなければなりません。もちろんこうした創作の中にはいくらかの脚色が入りますが,そうした脚色というのは作品の内容が史実であるということを失わせるようなものとなることはあり得ず,むしろそれを強化するものにならなければおかしいのです。ところが実際は,それが脚色であるとすれば,リアルな出来事であったということを失わせるような脚色が多く入り込んでいるのです。これは単にヘンドリックが作家として無能であったというか,そうでなければ実際にはそれは脚色ではなく,ヘンドリックが実際にあたった資料に,そのままではないとしてもそれに近いことが書かれていたからかのどちらかでなければなりません。しかしヘンドリックは吉田がいうように,職業作家として生きていたのですから,作家として無能であったということはできないでしょう。
みっつのプロットの共通点として示しましたが,これは『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全体を貫いているといってもそれほど遠くありません。つまりこの作品は,真実とは思えないような多くのプロットと,そのディテールとして確かな史実という組み合わせで構成されているのです。そしてここが重要なのですが,このプロットの大筋が真実らしく思われないのが,そのプロットに対する細かい説明に含まれているのです。『蛙Βάτραχοι』の場合は,同じところに滞在しなければならなかったので,『蛙』の劇めいたものを同行者で行ったということならあり得そうですが,それを本格的な劇として,金は取らなかったものとは思いますが,本格的な劇として客を呼んで見せたと書かれているから,かえって信憑性を失わせています。アメリカの場合は,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelが,アメリカにはユダヤ人がいるというくらいであれば,そのように言うこともあり得そうだと思えるのですが,それがまだアメリカが陸続きの時代のことだなどと言うから,信憑性を失ってしまうのです。そして模型のプロットは,金に困窮したファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが,砲火装置の新しいアイデアをもってきたというなら,あってもおかしくないと思えますが,船の模型まで創作していたなどと加えられているので,信憑性が失われることになっています。
これら細かい部分が書かれていること自体は,不自然ではありません。ウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの部分はファン・ローンJoanis van Loonがその場にいたわけではないので,その場での会話があまりに詳しく書かれているのは,作品として不自然といわなければならないかもしれませんが,これらみっつの部分は,いずれもファン・ローンが同席していたわけですから,ファン・ローンが書いたものであるという設定を崩すようなものとはなっていないからです。つまり文学評論という観点からすれば,これらの部分は創作であったとしても不自然なものとはなっていないがゆえに,作品として成立しているということになります。よってこのことは,むしろ吉田がいっているように,この作品が完全な創作であるということを補強しているように見えるかもしれません。
ここまでに示してきた3つのプロットは,いくつかの共通点を有しています。
まず第一に,これらのプロットの大筋は,常識的に考えるといかにもフィクションのように感じられます
『蛙Βάτραχοι』のプロットは,たまたま船の故障で滞在せざるを得なくなった村で,そのような用意を何もしていなかった,演劇に関しては素人と思われる集団が,村人を集めて演劇の興行を行うということがあり得るようには思えません。アメリカのプロットは,ユダヤ人の学校ではスピノザの師匠に当たるメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelというユダヤ教会で高い位のラビが,アメリカがまだヨーロッパないしはアフリカと陸続きだった時代の話,聞いている人からすれば妄想としか思えなかったような話を,真実のこととして話すなどということがあり得るのか疑問を感じざるを得ないでしょう。模型のプロットでは,一介の教師であるファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが,戦艦の砲火装置に新しい工夫を考え出した上に,わざわざその模型を製作して,海軍省の人に売り込もうとするのはあまりに常識外れの行動だと思われます。つまりこれらのプロットの大筋は,史実というより創作であることを強く窺わせます。
一方,これらのプロットのディテールには,世の中にはそれほど知られているとは思えないような,史実もまた含まれています。『蛙』のプロットではスピノザがヘブライ語で長い祈りを唱えたことになっていますが,これはスピノザがそれを知っていたということが前提です。もちろんスピノザはそういう教育を受けていましたからそれができたことになりますが,それが広く知られているかといえばそうでもないでしょう。アメリカのプロットではレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnがメナセ・ベン・イスラエルのエッチングを創作したといわれています。レンブラントはアムステルダムAmsterdamのユダヤ人街のすぐそばに住んでいたので,メナセに限らずユダヤ人を相手にそうしたものを数多く創作しているのですが,このことも広く知られている事実とはいえません。模型のプロットではファン・デン・エンデンが足の悪い娘がいると言っていますが,この史実はこれらの中でもとくに知られていないことだと思われます。
最後のエピソードあるいはプロットは,1654年4月のものです。スピノザはまだユダヤ人共同体の一員で,破門宣告を受けていない時代のことです。
在宅していたファン・ローンJoanis van Loonに,下女が外国人の紳士が面会を求めていると告げました。下女はあの頭のおかしな人の仲間だろうと告げています。そのおかしな人がだれを意味しているか不明ですが,こうした来客がファン・ローンには頻繁にあったのでしょう。ローンは面会したのですが,その外国人紳士というのはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenです。
エンデンは小さな船の模型を抱えていたのですが,これは発明品でした。戦争用の船籍で,軽装備で砲火角度を高める工夫がされていました。ただ,ローンはこのようなことには関心がなかったので,海軍省にもっていくのがよいだろうと助言しました。ところがエンデンはすでに3人の海軍参事官にそれを見せていたのですが,それを吟味しようとすらしなかったとされています。
エンデンはこのアイデアを売りたかったのです。貧しい教師で,足が不自由な娘がひとりいるので,金が必要なのだと告げています。エンデンの娘はクララClara Maria van den Endenという名前で,後にケルクリングDick Kerkrinkと結婚しているのですが,確かに足が悪かったと伝えられています。そして,お門違いと思われるローンのところを訪問してこれを見せたのは,教え子のひとりからローンのことを聞いていて,助けてくれると思ったからだと言いました。この教え子というのはスピノザを意味するのですが,スピノザがエンデンに対してどのようにローンのことを伝え,その話のどの部分からエンデンがローンは自分を助けてくれるだろうと思ったのかはまったく書かれていないので不明です。
この後で,エンデンがいっている教え子がスピノザを意味することがローンにも分かりました。ローンはローンでスピノザから,エンデンは平凡な律法学者やタルムードの教師60人に匹敵すると聞かされていたそうです。なおこの部分でエンデンはスピノザのことを,ポルトガル出のユダヤ人,あるいは単にポルトガル人と表現しています。スピノザの父はポルトガル出身ですが,スピノザに対する表現としてはやや謎です。
ふたつ目は1642年の秋の出来事です。ひとつ目よりも前の出来事ですが,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』では後に書かれている,というか後に訳出されているので,この順番になっています。 ファン・ローンJoanis van Loonが帰宅すると,レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnからの書付がありました。これはよく意味が分からないのですが,たぶんレンブラントがローンの家を訪ねたら,ローンは不在で家人がいたので,その家人にローン宛のメモを渡しておいたという意味ではないかと思います。そのメモの内容は,ローンと友人に,次の木曜日の夜に立ち寄ってほしいというものでした。見せたい絵があると書かれていますが,実際はこの後でアメリカに行く予定になっていたローンの送別会を開くのが主目的です。
その日の夜の9時になってからローンは立ち寄りました。これはアントニー・ブレーストラートの家となっていて,これは地名を表しています。レンブラントの家はそこにあったのです。その場にメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがいたのです。レンブラントはメナセのエッチングを制作したことがあって,知己の間柄でした。ローンはメナセの話をレンブラントから聞いてはいたようですが,このときが初対面であったと読めるようになっています。
ローンがアメリカに行くことを知ったメナセとの間でアメリカの話になるのですが,イスラエル民族の行方不明になった種族が,太平洋がまだ陸地だった時代にそこを渡って今日のアメリカの土地に住んでいるので,自分もできればローンのようにアメリカに行きたいのだけれども,神の民すなわちユダヤ人が荒野から出る時節にはまだなっていないので,行くことはできないという主旨のことを言いました。
もちろんメナセは真面目にこのように言った,つまり真剣にそう信じてそう言っているのであり,そのことが理解できるように,つまりその場にいた人びとにも,読者にも理解できる書き方になっています。ローンはそれが妄想であると分かったけれども,どんな人間にもひとつくらいは妄想を大事にする権利があるのだし,社会で有用な一員となるためには一点で狂っていなければならないから,何も言わなかったとしています。