スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典平和賞&舞台経験

2024-10-31 19:03:18 | 地方競馬
 北海道から2頭が遠征してきた昨晩の第70回平和賞
 逃げたのはハセノブライアン。向正面に入って2馬身くらいのリードになりました。2番手にガバナビリティーで2馬身差でアッカーマン。2馬身差でオニアシとウィルオレオールとキングミニスター。3馬身差でプレミアムハンド。2馬身差でプローラーティオー。レッドサラマンダーは8馬身ほど遅れました。頭数のわりに縦長の隊列でしたが前半の800mは51秒4のミドルペース。
 3コーナーではハセノブライアンのリードは1馬身くらいに。ガバナビリティーとアッカーマンの差も縮まり,ウィルオレオールとキングミニスターまでの5頭が集団に。直線の入口ではガバナビリティーが先頭に。それを外からアッカーマンとウィルオレオールが追い,大外からプレミアムハンドの追い込み。直線先頭のガバナビリティーをフィニッシュ前にウィルオレオールが差し切って優勝。ガバナビリティーがクビ差で2着。大外のプレミアムハンドが5馬身差で3着。アッカーマンが1馬身差の4着で最内から脚を伸ばしたオニアシがアタマ差で5着。
 優勝した北海道のウィルオレオールはここまで2勝。栄冠賞で2着があり,例年通りなら優勝候補になる馬。距離も前走でこなしていましたから,順当な優勝といっていいと思います。2着馬を差すのに苦労した感はありますが,見た目ほどペースが速くなかったことと,重馬場で前の馬がやや有利だったことが影響したからだと思います。父は2019年にデイリー杯2歳ステークスを勝ったレッドベルジュールでその父がディープインパクト。母の父がフサイチコンコルドで祖母の父がグラスワンダー。母の従弟に2021年のゴールドジュニアを勝ったママママカロニ。Aureoleは後光。
 騎乗した北海道の石川倭騎手は南関東重賞は初勝利。管理している北海道の小国博行調教師は南関東重賞2勝目。第68回以来2年ぶりの平和賞2勝目。

 スピノザがファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenのラテン語学校でラテン語を学んでいたこと,そしてある程度までラテン語に習熟した後は助手的な役割を務めていたことは,おそらく史実です。そしてこのラテン語学校の授業に演劇があったということは確定的な史実です。だからといってそこで『Βάτραχοι』が教材として用いられ,スピノザがそれを演じたことがあると確定することができるわけではありません。よって『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』で書かれていることが史実であり得たということを,このことだけでいうことはできません。もっと重要な史実があります。
                            
 ファン・デン・エンデンは,単に演劇を授業に取り入れていたというだけでなく,その演劇を生徒たちに上演させていました。ここでいう上演というのは,授業中に演じるとか,生徒たちの保護者にそれを見せるという意味ではなく,一般の観客から金を取って上演していたという意味です。つまり演劇は単に授業内容のひとつだったわけではなく,本格的な稽古を積んで,客に見せるためのものだったのです。そしてそうした公演の中にテレンティウスPublius Terentius Aferの劇作があり,その上演にスピノザが参加していたことはかなり確実だと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に書かれています。つまりスピノザが,ファン・デン・エンデンのラテン語学校の生徒のひとりとして,興行としての演劇に参加していたことは,史実としてかなり確定的にいえることです。
 こうした演劇のためには,単に台本があるだけでは十分ではなく,演出が必要不可欠であるということは間違いないでしょう。おそらくその演出もまたファン・デン・エンデンがしていたと思われますが,演者として舞台を踏んでいたスピノザは,舞台演劇の演出がいかなるものであるのかということを,内部の人間として知っていたということは確実視することができます。さらにいえば,ナドラーSteven Nadlerがいうように,スピノザがエンデンの助手的な役割を果たしていたのだとすれば,ある時には演出の手伝いをしたことがあったとしてもおかしくありません。そしてそうであればなおのこと,スピノザは舞台演出がいかなるものであるのかということを,より知ることができたでしょう。
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リコー杯女流王座戦&演出

2024-10-30 19:13:14 | 将棋
 23日に目白で指された第14期女流王座戦五番勝負第一局。対戦成績は福間香奈女流王座が43勝,西山朋佳女流三冠が37勝。NHK杯の予選を含んでいます。
 リコーの社長による振駒で福間女流王座の先手。先に向飛車に振ったのが後手の西山女流三冠で,後から福間女流王座も向飛車にしての相振飛車。後手が玉を左に戻すという力戦になりました。
                            
 ここで後手は☖6四歩と打ちました。これは☗6五桂と跳ねさせないという意味。先手は☗7五銀と銀を進出させました。
 桂馬が跳ねてくる手はなくなったので☖5三金と歩を払いました。先手は☗7四歩☖8二銀とへこませてから☗1五歩。
 後手はここから☖7六歩☗同飛に☖8七角と打ったのですが☗2六飛と回られました。
                            
 馬を作ることはできるのですが,働きに乏しくさほど効果的ではないため,大きな差がついてしまいました。感想戦では☖7六歩と打ったところで☖3五歩と取ればまだやれたとのことですので,それなら第1図で☖3五同歩と取るのがさらに有力だったのではないかと思います。
 福間女流王座が先勝。第二局は福間女流王座の休場が明けた後,来年の2月に指される予定です。

 『Βάτραχοι』の台本があったとは書かれていませんが,ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの写本が出てきたと書かれているくらいですから,書かれていなくてもその台本らしきものもヨットの中にあったかもしれません。むしろそうしたものが見つかったから,一行はそれを上演しようとなったという方が自然です。また,そうでなくとも『蛙』は有名な話ですから,一行の中にそれを詳しく知っている人がいて,その人が台本を書くからそれを上演してみようと提案したということもなくはないでしょう。不自然に感じることは否定しませんが,この点については問わないことにします。
 しかし,台本があれば上演することができるわけではありません。上演するとなれば演出が必要であって,その専門的知識を持った人が一行の中にいなかったとすれば,これを上演することなど不可能であったといわなければなりません。これは実際に僕たちが『蛙』に限らず何かを演じなければならないとなった場合を想定すれば明らかでしょう。つまり,このプロットの中で最も不自然に感じられるのはこの点なのです。確かに台本が本当にあったのかということも問わなければならないのですが,仮に台本があったとしても,それを実演するのにだれがどのように演者を指導したのかということは,より強く問われなければなりません。一行が『蛙』を本当に上演したのであれば,台本と演出のふたつは不可欠だからです。
 それでもこのことが史実であり得たということができるのは,スピノザは演劇を演出するやり方というのを知っていたと想定されるからです。スピノザはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenの下でラテン語を学び,後に助手的な役割を果たしていたということは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では確定した史実とされています。そしてエンデンのラテン語学校の授業では,演劇が採用されていました。つまりラテン語で劇を演じることでラテン語を習得するということが,教育の一環として行われていたのです。ですからまず,原語はギリシア語とはいえ,ラテン語に訳されたアリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙』がその教材のひとつであったかもしれませんから,スピノザはかつてそれを演じた経験があったかもしれません。
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ゴールドカップレース&台本

2024-10-29 18:59:26 | 競輪
 京王閣記念の決勝。並びは新山‐新田の北日本,小林‐木暮の群馬,真杉‐鈴木の関東,古性‐南の大阪で犬伏は単騎。
 スタートを取りにいったのは古性と小林。古性が誘導の後ろに入って前受け。3番手に小林,5番手に新山,7番手に真杉,最後尾に犬伏で周回。残り3周のバックから真杉が上昇。ただし新山の横で併走し,そのままホームからバックへ。ここから小林が発進。古性を叩くとさらに真杉も発進して打鐘。真杉の逃げになり,3番手に小林,5番手に古性,7番手に新山,最後尾に犬伏という一列棒状になりました。バックに戻って新山が発進するとそれに合わせて古性も発進。古性が前を捲って先頭で直線に。古性より後ろにいた5人の争いとなり,最後尾から大外を伸びた犬伏が優勝。古性の外から捲った新山が4分の3車輪差で2着。古性と古性マークの南が同着で半車輪差の3着。南と新山の間を突こうとした新田は伸びを欠いて半車身差で5着。
 優勝した徳島の犬伏湧也選手は前々回出走の小松島のFⅠ以来の優勝。記念競輪は7月の小松島記念以来で3勝目。京王閣記念は初優勝。このレースは分かれて戦った関東勢が協力したようなレースになったのですが,どうもペースが速すぎたようで,後方に控えていた選手たちの捲り合戦になりました。犬伏は最後尾にいて,真杉が上昇したときにもついていかず,最終周回のバックでもまだ最後尾でしたが,結果的にはだれよりも脚を溜められるレースができ,それが勝因となりました。単騎だったのですが,その他のラインが4つあったこともプラスになったと思います。

 現実的なことをいえば,同じ戯曲であっても演出家の演出次第で上演のあり方は変化します。したがって,ファン・ローンJoanis van LoonがフォンデルJoost van Voendelの戯曲の上演を観劇したことがあった,それも複数回にわたって観劇したことがあったとしても,そこにどのような演出があったかということは異なった筈であって,フォンデルの戯曲が上演されるときの共通の演出というのがあったかどうかは分かりません。ですからフォンデルの戯曲であるかのように上演したという表現は,表現としては不適切だと僕は思います。なのでこの部分は不自然であると思いますが,ファン・ローンがそう書いたのかヘンドリックHendrik Wilem van Loonがそのように書いたのかは別として,このような表現になり得るということは理解しますので,この点について深く詰めることはしません。ローンが書いてもこのような表現にはなり得るだろうし,ヘンドリックがフォンデルの戯曲を観劇したことがあったかどうかは不明ですが,ヘンドリックがフォンデルはこの当時のオランダにおける著名な詩人にして戯曲家であったということさえ知っていれば,このような表現をすることもあり得るでしょう。いい換えればこの部分を詰めて考えても,ヘンドリックが完全に創作したか,何らかの資料に依拠したかということは分からないと思います。
                            
 もっと不自然に感じられるのは,アリストファネスἈριστοφάνηςの『Βάτραχοι』を上演するにあたって,何らかの台本があったと仮定されていないことです。ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの古い写本が出てきたとは書いてありますが,アリストファネスの書いたものがヨットの中にあったとは書いていないのです。もしもそうしたものがなかったのなら,一行は台本もなしに『蛙』を上演したと解さなければなりませんが,そんなことが本当に可能だったのかはかなり疑問です。『蛙』というのがとても有名な話で,だれでもそのあらすじを知っているような戯曲であったとしても,上演するのであれば台詞の段取りなどがなければならないのであって,定まった台本なしにそれができたかは疑問です。いい換えればこの場合は,一行のだれかが,簡単なものであったとしても何らかの台本を作成したのでなければならないと思います。
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新人王戦&上演

2024-10-28 18:58:32 | 将棋
 21日に指された第55回新人王戦決勝三番勝負第二局。
 高田明浩五段の先手で角換わり相腰掛銀。後手の服部慎一郎六段が待機策を採用したので,序盤も中盤も長い将棋になりました。
                            
 先手が馬で飛車取りを掛け,後手が飛車を逃げるという手順が続いたところ。このまま千日手になると思って見ていましたが,先手が打開しました。
 ☗9二歩☖8一飛☗8三香☖3一飛☗7六歩というのがその手順。後手は☖同歩☗同銀☖7五歩☗同銀☖同金と最も素直に応じました。
                            
 9三に馬がいたのでこのように打開したのですから,この局面では☗同馬と取れなければいけません。しかしそれは☖7四歩で先手の攻めが頓挫します。よって☗6七桂と打ったのですが☖8六金☗同金☖7四桂と切り返され,後手の勝ちになりました。第2図では☗7九飛の方が難しく,それでもダメなら千日手にするほかなかったようです。
 連勝で服部六段が優勝。一昨年の新人王戦以来となる3度目の棋戦優勝。新人王戦は2度目の優勝となりました。

 船旅を企画して出港したのに,いくら突風があったとはいえ,2時間や3時間でマストが折れてしまったというのは,本当のことだったか疑わせるような要素になると思います。ただ文脈を検討してみると,この船はそれほど手入れが行き届いていなかったコンスタンティンConstantijin Huygensのヨットだったという可能性が高く,それならそうなってしまったということもあり得るでしょう。なのでこの部分は,史実であったとしてもおかしくないですし,そうではなくヘンドリックHendrik Wilem van Loonの純粋な創作であったとしても,著しく不自然であるとはいえないことになるでしょう。
 最後の晩に上演されたのがアリストファネスἈριστοφάνηςの『Βάτραχοι』です。ファン・ローンJoanis van Loonは我々はそれをフォンデルJoost van Voendelの作であるかのように上演したと書いています。このフォンデルというのは詩人でもありまた戯曲も多く書いた人物です。この船旅がされた時期には存命で,おそらく有名であったでしょうから,ローンがこの人の名前を出していることは不自然ではありません。同様に,ヘンドリックがローンが書いたものだという体での創作にこの名前を持ち出すのも不自然ではないといえるでしょう。それからローンは我々は上演したといっているのですから,一行の6人で上演したと解するのが自然でしょう。
 スピノザはロープで作ったとてつもなく大きなかつらをかぶり,ディオニュソスDionȳsosの役を演じました。そしてその上演中に,ヘブライ語の祈りを長々と唱えて熱演したので,一行に招かれて『蛙』を見に来た村人たちが大笑いして足を踏み鳴らしたので,スピノザはアンコールに応えなければなりませんでした。これは実際に応えたという意味に理解できる文脈になっています。
 フォンデルの戯曲に『蛙』が実際にあったのかどうかは分かりません。ローンの記述ではフォンデルの作であるかのように上演したとなっているのですから,実際にそうした戯曲があるかないかは問わなくてよいでしょう。ただ,そうであるかのように上演したということは,フォンデルの戯曲が演劇として上演されるときに,どのような演出の下で上演されるのかということは,少なくともローンの念頭にはあったということでなければなりません。
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天皇賞(秋)&所有者

2024-10-27 18:57:55 | 中央競馬
 第170回天皇賞(秋)
 べラジオオペラが好発でしたが2コーナーでホウオウビスケッツが前に出ての逃げに。べラジオオペラとシルトホルンが2番手。4番手にタスティエーラで5番手にマテンロウスカイとダノンベルーガとリバティアイランド。7番手にステラヴェローチェとソールオリエンスとキングズパレス。10番手にノースブリッジとジャスティンパレスとレーベンスティール。2馬身差でドウデュース。2馬身差の最後尾にニシノレヴナント。前半の1000mは59秒9の超スローペース。
 道中でシルトホルンが単独の2番手となり,3番手がべラジオオペラ,タスティエーラ,リバティアイランドの併走という形になって直線に。逃げたホウオウビスケッツがここからよく粘り,インからその外に持ち出したべラジオオペラなどの追い上げは振り切りました。後方から大外を一気に伸びたのがドウデュースで,内の馬たちをすべて差し切って優勝。そのすぐ内に進路を取っていたタスティエーラが1馬身4分の1差の2着。逃げ粘ったホウオウビスケッツが半馬身差の3着。
                       
 優勝したドウデュース有馬記念以来の勝利で大レース4勝目。後方からの差し脚が持ち味の馬ですが,あまりペースが速くはならない瞬発力勝負というのが最も持ち味が生きる馬。今日はそういう展開になったので豪快な差し切り勝ちとなりました。高い能力を持っているのですが,ペースにやや注文がつくタイプなので,安定して上位に入ることができていないという馬だと思います。父はハーツクライ
 騎乗した武豊騎手は有馬記念以来の大レース制覇。第100回,116回,120回,136回,138回,156回に続く7年ぶりの天皇賞(秋)7勝目。第99回,101回,103回,105回,119回,133回,153回,155回を制していて天皇賞は15勝目。管理している友道康夫調教師は皐月賞以来の大レース22勝目。天皇賞(秋)は初勝利。第137回163回を制していて天皇賞は3勝目。

 船旅の出発地がどこであったのかということは『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』では示されていません。ただその時期にはスピノザがすでにハーグDen Haagのウェルフェの家に移っていたとはいえ,そのことがスピノザが船旅に参加することの障害になったというようには考えなくてよさそうです。
 出発地がどこであったのかは分かりませんが,船はホウダGoudaの町へ向かいました。これは先述したように水運で栄えた町です。ところが出発して2,3時間もしないうちに突風のために6人が乗ったヨットの大きなマストが折れてしまいました。この修理が終わるまでヨットは動かないので,一行は村に上陸したのです。この村はブレイスウェイの村とされています。今までに訪れたことがないような寒村と表現されていますので,よほど小さな村という設定でしょう。このような小さな村でマストがすぐ手に入らないのはごく当然だと思います。なのでここで一行は3日間を過ごすことになりました。動くことはできなくても寝泊りはヨットの中でできたものと思われますから,そこを不自然に思う必要はないでしょう。
 このとき,ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの古い写本が出てきたので,それほど難しくない詩のいくつかをオランダ語に訳そうとして,一行は楽しい時間を過ごしたと書かれています。おそらくその写本は,ヨットの中から出てきたのでしょう。以前にだれかがヨットに持ち込んだものがそのまま残され,時間を持て余した一行が船の中に何かないかと捜索したらそれが出てきたというディテールに思えます。実はこのヨットの所有者がだれであったかということは書かれていないので不明なのですが,このディテールからすると,一行の中のだれかの所有物であったと想定され,そしてそうであればおそらくコンスタンティンConstantijin Huygensのヨットと解するのが適切であるように思われます。たぶんこのヨットはそれほど頻繁に使用されるものではなかったのではないでしょうか。だから以前に持ち込んだ本がこのときにも船内に残されていたのだし,またそれほど使用するヨットではなかったから手入れもそれほど十分ではなく,いくら突風が吹いたとはいっても大きなマストが折れてしまったのでしょう。
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コックスプレート&有力者との交際

2024-10-26 18:59:22 | 海外競馬
 オーストラリアのムーニーバレー競馬場で行われたコックスプレートGⅠ芝2040m。
 外枠が不利のコース形態で,外の馬が逃げようとしたため,隊列が定まるまでに時間を要しました。向正面に入って外の馬が先手を奪い切り,プログノーシスは3馬身差の2番手を追走。3コーナーから4コーナーにかけて差を詰めていき,逃げた馬が激しく手を動かしているのに対してよい手応えで並び掛けました。この間に外から勝った馬が捲り上げてきて,それに対応して追い出されましたが,直線の入口では捲り切られて2番手。直線は勝ち馬の独擅場となり,プログノーシスは離される一方。しかし後続の追い上げは凌いで8馬身差の2着でした。
 この馬は大レースは勝っていませんが,2000mは日本馬が世界のトップに立っているカテゴリーなので,2000mでGⅡを3勝,大レースでも2着と3着があるこの馬なら十分に勝負になると思っていました。それでこれだけの差をつけられての2着ですから,これは勝ち馬が強かったというほかありません。世界でも屈指の能力をもった馬なのではないでしょうか。

 スピノザがヨハン・デ・ウィットJan de Wittや,政治家に転身しアムステルダム市長になったフッデJohann Huddeなどと親しく交際を続けたのには,身の安全を守る意図があったのではないかといっている学者もいます。ですからスピノザがそのような意図をもっていたという可能性は必ずしも否定できるわけではありません。
 コンスタンティンConstantijin Huygensは外交家と説明されていますので,政治家であったかどうかは分かりません。ただ,オラニエOranje家,これは現在のオランダの王家の先祖にあたりますが,オラニエ家とは密接な関係があったとされています。オラニエ家はこの時代の王党派のシンボル的存在ですから,コンスタンティン自身が政治家ではなかったとしても,オラニエ公とおそらく関係があったと思われるコンスタンティンは,有力者であるのは疑い得ません。ですからコンスタンティンと親密に交際することは,スピノザにとっては自身を守る手段になり得たと思えるのです。コンスタンティンの子であるホイヘンスChristiaan Huygensとスピノザの間に関係があったことは歴史的事実なので,コンスタンティンとスピノザの間にも交流があったことは,スピノザの身の安全とは無関係とみることもできますが,王党派よりは議会派の考え方に近かったスピノザにとって,王党派の有力者と交際していることは,確かに身の安全にとっては有利に働いただろうと思えます。
                       
 スピノザがハーグDen Haagに移ったのは,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』が出版された時期の前後,1669年の暮れから1670年の初めです。ハーグに移ったスピノザは,まず後にコレルスJohannes Colerusがそこに住むことになるファン・デ・ウェルフェの寡婦の家に間借りしました。後にそこを出てスペイクの家に移りますが,それは『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では1671年5月初旬となっています。船旅があったと想定されているのは1670年4月ですから,スピノザはまだウェルフェの家の方に住んでいたことになります。このウェルフェの家の場所はデ・スティーレ・フェールカデとなっていますが,これは静かなる船着き場という意味があるようです。実際に近くに船着き場があったようで,ウェルフェの家は波止場の裏通りに面していたとナドラーSteven Nadlerはいっています。
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竜王戦&風習

2024-10-25 18:58:21 | 将棋
 19日と20日に芦原温泉で指された第37期竜王戦七番勝負第二局。
 佐々木勇気八段の先手で矢倉。ただし1筋の位を取って右玉にするという将棋で,後手の藤井聡太竜王が対応に苦慮して時間を使うことになりました。
                            
 ここで☖8六角と取りましたが,これは問題の一手だったかもしれません。
 先手は☗6四歩☖7二銀とへこませてから☗8六角。☖同飛に☗7七桂とぶつけました。
 後手は☖9三角と王手をして☗6六角☖同角☗同銀と進めました。
                            
 第2図から☖8八歩成としましたが☗6八金と逃げられ,これは先手玉が遠い関係で6四の拠点が大きい先手が優勢です。
 第1図では後手の方から☖6四歩と打ってしまった方がよかったようです。また☖9三角の王手も余計だったようで,攻めるのであれば銀を引かせずにすぐに☖8八歩成とした方がよかったようです。
 佐々木八段が勝って1勝1敗。第三局は今日と明日です。

 さらに畠中は,この時期はスピノザに限らず,多くの人びとが思想的内容の手紙を書くことに用心していたのであって,そうした手紙を受け取ったら,直ちにそれを破る習慣だったという意味のことをいっています。そうしたことが確かにあったかもしれませんが,スピノザのこの時期の書簡が少ないことについてこれを該当させられるかということについてはやや疑問も感じます。これ以前にもこれ以後にも,思想的内容の手紙というのをスピノザは受け取ったり自身で書いたりしていて,それは残っているのです。この時期に書かれたものだけに用心する必要があって,過去のものには用心する必要がなかったという理由が僕にはよく分かりません。たとえばこの時期にスピノザが思想的内容の書簡を受け取って,用心のためにそれを残さずにすぐに捨てるのであれば,それ以前の同じような内容の書簡についても,それを保管しておくことには用心する必要があるからそれも捨てようとするのが自然ではないかと僕には思えるからです。
 いずれにしても,船旅が実施されたと思われる時期には『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』はすでに発刊されていたわけですから,その執筆に多忙であったからスピノザが船旅に出るのは不自然であるということはありません。一方でこの状況というのは,むしろスピノザに船旅に向かわせる意欲を高めるようなものだったように思われます。
 ヨハン・デ・ウィットJan de Wittが民衆によって虐殺されたのは1672年のことですから,このときはまだ政治の実権を握っていました。しかしオランダの政治状況は騒乱の時代を迎えていたのは間違いありません。実際にクールバッハAdriaan Koerbachはこれより前,1668年には獄死しています。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,共和主義者であったデ・ウィットは,民主主義的内容の『神学・政治論』に対して不快の念を表明したとあり,スピノザを取り巻く状況も安全なものとはいえなかったのです。なのでこの時期のスピノザにとって,政治的な意味での有力者と親しく交際することは,自身の身の安全のためにはプラスに働いたと思われます。スピノザ自身がそのような認識をもっていたとしてもおかしくはないのではないでしょうか。
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加古川青流戦&書簡

2024-10-24 19:14:46 | 将棋
 14日の午前に鶴林寺で指された第14回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
 上野裕寿四段の先手で矢倉。後手の岡部怜央四段は中住い。この将棋は後手の攻めが決まって優勢になりました。
                            
 第1図は後手にとって岐路の局面。☖3八角成と飛車を取って☗8一角成に☖4三銀と受けに回るのが手堅く,それが最善だったようです。
 実戦は☖6七同角成と取りました。これでも後手の優勢なのですが,先手玉が一気に寄るわけではないので局面が複雑化することに。
 ☗6七同玉☖8七飛成は一本道。先手はそこで☗3六飛と成銀を取りました。
                            
 後手は☖5四角成から攻め合ってくると読んでいたようで,この手は読みになかったとのこと。☖7八銀から攻めていきましたが,これが王手は追う手の格言通りで先手玉を逃がすことになり逆転しました。第2図では☖4三金右と受けに回らなければいけませんでした。
 連勝で上野四段の優勝。昨年の新人王戦以来の2度目の棋戦優勝となりました。

 『スピノザ往復書簡集Epistolae』では,書簡四十一が1669年9月5日付になっていて,これはフォールブルフVoorburgから出されています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死ぬ少し前のものです。次の書簡四十二フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の要約をオーステンスJacob Ostensに送ったもので,これは1671年1月24日付です。スピノザはオーステンスを介してこの手紙を読み,フェルトホイゼンに対する反論をオーステンスに送ったのですが,この書簡四十三には日付がありません。書簡四十四は1671年2月17日付でハーグDen Haagから送られています。現行の『スピノザ往復書簡集』は時系列で番号が付せられていますので,書簡四十三は書簡四十四より前で,書簡四十二への返信ですからそれより後です。なので1671年1月後半から2月中旬までに送られていたとみるべきでしょう。
 これでみると分かるように,船旅が実施されたと考えられる1670年の書簡というのはありません。これは単に掲載するほどの書簡が存在しなかったからかもしれませんが,別の事情が考えられないわけでもありません。というのは書簡四十二と書簡四十三が『神学・政治論』に関係しているように,『神学・政治論』が発行されたのが1670年だったのです。スピノザが執筆していたのはフォールブルフに滞在していた頃です。というのも1670年の初めには発行されていますので,実際に執筆していたのはそれより前の筈だからです。スピノザはこの発行のタイミングでフォールブルフからハーグへ移ったのですが,この移住が出版と何らかの関係を有していたかもしれません。いずれにせよ匿名で発行されたわけですが,執筆者がスピノザであるということはすぐに噂として流布しましたので,スピノザが思想信条を明らかにするような書簡を書くことを控えていたという可能性があるのです。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,『神学・政治論』と直接的に関係させているわけではありませんが,1667年3月から1671年1月までのスピノザが少ないことについて,当局の圧迫や監視を理由のひとつとして挙げています。そしてもうひとつの理由が,『神学・政治論』の執筆による多忙となっています。
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埼玉新聞杯埼玉新聞栄冠賞&船旅

2024-10-23 18:54:17 | 地方競馬
 第34回埼玉新聞栄冠賞。御神本騎手が体調不良でデスティネはライアン・クアトロ騎手に変更。
 ナニハサテオキは発馬のタイミングが合わず1馬身の不利。ヒーローコールが前に出てカイル,ラッキードリームの順。2馬身差でパワーブローキングとユアヒストリーとアイブランコ。ナニハサテオキがその後ろまで巻き返し,デスティネ,ホウオウトゥルース,ゴールドハイアーの順で発馬後の向正面を通過。ナニハサテオキはそのまま上昇していき,正面ではヒーローコール,カイル,ナニハサテオキが並び2列目にラッキードリームとアイブランコとデスティネ。3列目にパワーブローキングとユアヒストリー。ゴールドハイアーが9番手に上がり少し離れた最後尾にホウオウトゥルースとなりました。前半の1000mは65秒6のスローペース。
 2周目の向正面で前の3頭が4番手以下に2馬身くらいの差をつけました。3コーナーで外からナニハサテオキが前に出たところでカイルは後退。ヒーローコールが内からまた巻き返していきましたが,直線の入口でまたナニハサテオキが前に出て,そのまま抜け出して優勝。ヒーローコールが直線で一杯になったので早めに追い上げてきたユアヒストリーが差し込んで2馬身半差の2着。一旦は位置を下げ,後から追い上げてきたパワーブローキングがさらに外から伸びて半馬身差の3着。ヒーローコールは1馬身差で4着。
 優勝したナニハサテオキフリオーソレジェンドカップ以来の勝利で南関東重賞2勝目。その後の日本テレビ盃でも4着に健闘していましたのでこのメンバーでは大本命。発馬で不利がありましたが,ペースが緩かったのでそれほど無理なく前につけることができました。逃げたヒーローコールも力はある馬ですが,それを競り潰す形でしたので,内容も文句なしだったと思います。まだ5歳ですから,しばらくは大崩れなく走れるのではないでしょうか。父はジャングルポケット
 騎乗した船橋の森泰斗騎手はフリオーソレジェンドカップ以来の南関東重賞63勝目。第23回,28回に続く6年ぶりの埼玉新聞栄冠賞3勝目。管理している浦和の平山真希調教師は南関東重賞3勝目。埼玉新聞栄冠賞は初勝利。

 『Βάτραχοι』のプロットは大筋を簡潔に紹介しただけなので,ここからは詳しくみていきます。
                            
 時期が特定されていませんが,ファン・ローンJoanis van LoonがコンスタンティンConstantijin Huygensの別荘で襲われた病気から恢復した直後とされています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死んだのは1669年10月4日です。ここでいわれている病気は,レンブラントの死後のローンの鬱状態のことを指すのは間違いありません。ローンはスピノザのアドバイスでレンブラントとのことを書いた設定で,1670年4月に効果が現れたという主旨のことを書いていますので,1670年になってから,たぶん4月か5月ではなかったかと想定されます。スピノザがレインスブルフRijnsburgからフォールブルフVoorburgに移住したのは1663年で,フォールブルフからハーグDen Haagに移住したのは遅くとも1670年の初めです。ですからコンスタンティンとスピノザはすでに知己になっていたのは間違いありません。ただスピノザはこの時点ではフォールブルフに住んでいたわけではないと想定されます。ただしフォールブルフとハーグは隣接しているので,それほど遠いわけではないです。
 コンスタンティンの提案で,ファン・ローンに気晴らしをさせるために,船旅をしたことになっています。全体のプロットは,コンスタンティンがファン・ローンの身を案じてスピノザに会うように助言したことになっていますから,コンスタンティンがそう提案をすること自体は,ストーリーの全体の中で不自然ではありません。目的地はホウダGoudaという町であったとされています。この町は水運で栄えた町とされていますので,そこへ船旅をするというのも不自然な設定であるとは思えないです。一行は6人となっていて,これはコンスタンティン,ファン・ローン,スピノザを含めていると思われますので,ほかに3人が乗船していたということでしょう。前にもいったように,この船旅の時期にはスピノザはフォールブルフには住んでいなかったと思われるのですが,ファン・ローンの気晴らしのための旅にコンスタンティガスピノザを招待するのは不自然ではなく,ハーグとフォールブルフも遠くはないので,スピノザが受けることも可能ではあったでしょう。
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加古川青流戦&脚色

2024-10-22 19:11:42 | 将棋
 13日に鶴林寺で指された第14回加古川青流戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は岡部怜央四段が0勝,上野裕寿四段が2勝。
 加古川市長による振駒で岡部四段の先手となり角換り。先手の腰掛銀に後手の上野四段の早繰り銀。この将棋は中盤で千日手となりました。
 上野四段が先手になっての指し直し局は後手の岡部四段の一手損角換り1-Ⅱ。先手の早繰り銀に後手の腰掛銀に。この将棋は先手の端攻めが甘かったために後手が優勢になりました。
                            
 先手が金を打ったところ。先手が苦しいのですがこの局面では最善の粘り。しかし後手の読みにはなかったようです。
 ☖7七桂成と攻めていきました。☗同玉に☖5七馬ですが☗6四金と飛車を取られました。☖7五銀と上から押さえたところで☗3一銀。
                            
 これを☖同玉は☗7一飛,☖同金は☗7二飛で銀を抜かれ,駒が少ない後手に勝ち目はありません。なので☖1二王と逃げましたが☗2四桂からの追撃が厳しく先手の勝ちになりました。
 第1図から攻めていったのが敗着で,飛車を引いておけばまだ後手に分があったようです。
 上野四段が先勝。第二局は14日の午前に指されました。

 それが脚色であるとすれば,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが意図したような脚色になっていないということは,それがヘンドリック自身による純然たる脚色ではないからだと僕は判断します。いい換えればヘンドリックは何らかの資料にはあたっているのであって,その資料にそうしたことが書かれているから,ヘンドリックもそのように書いたのだと判断します。そしてその資料というのは,ファン・ローンJoanis van Loonが書き残したものであったとしか考えられません。そもそも自身の9代前の先祖が書いたものだという設定でヘンドリックが何かを書くということ自体が不自然なのであって,実際にファン・ローンが書き残したものをヘンドリックが入手したから,ヘンドリックはそれを書こうとしたとする方が自然なのではないでしょうか。
 ですから,ファン・ローンが何かを書いていた,それも『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の基になるものを書いていたことは間違いないと思います。ヘンドリックがそれを正しく全訳しているかどうかは分かりませんが,ヘンドリックが出版したものの中には,ファン・ローンが書いたものの残骸は間違いなく残っているのであって,ファン・ローンは出版する意図があってそれを書いているとは必ずしもいえませんから,読者に喜んでもらうような脚色を加える必要はありません。もちろんファン・ローンの記憶が確かであるとは断定できませんから,ファン・ローンが史実と異なったことを書いているという可能性は考慮しなければなりませんが,たとえばファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが船の模型をもってきたというようなことは,記憶として鮮明に残る筈なので,実際に書かれていてヘンドリックがそれを誤訳をしていない限り,そのことは実際にあった出来事だと判断していいように思えます。同様に,スピノザがロープで作ったかつらをかぶったというようなことも,記憶違いとして生じるようなことだとは思えませんから,それは同じ条件の下に実際にあったのではないかと思えます。
 このことをさらに強化するために,『Βάτραχοι』のプロットというのは,その大筋からして信憑性を疑わせるものとなっているけれども,それは真実であったとしてもおかしくはなかったということを示していきます。
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寛仁親王牌・世界選手権記念&ヘンドリックの意図

2024-10-21 18:57:40 | 競輪
 弥彦競輪場で開催された昨日の第33回寛仁親王牌の決勝。並びは新山‐渡部の北日本,郡司‐小原の神奈川,寺崎‐脇本‐古性の近畿で佐々木と河端は単騎。
 古性がスタートを取って寺崎の前受け。4番手に郡司。その後ろが佐々木と新山の取り合いになりましたが,新山が譲って6番手に佐々木で7番手に新山。最後尾に河端で周回。残り3周のバックに入ると寺崎が誘導との車間を開け始めました。バックを出るとさらにスピードを落として後方を牽制。新山がコーナーから発進すると寺崎も突っ張りました。新山は脇本の外に併走して打鐘。その後ろは内外が入れ替わり,内に渡部で外が古性の併走に。ホームに戻って寺崎の番手は脇本が守りました。ここから郡司が発進。新山が下がった影響で小原が続けず,単騎に。しかしこの動きで脇本がインに包まれてしまい,そのまま郡司が寺崎を捲ったので古性が郡司にスイッチ。追い上げてきたのが佐々木で,それを郡司自身がブロック。このためにインが空き,そこを突いた古性が直線で先頭に立って優勝。郡司から離れたので古性マークになった小原が1車身差で2着。佐々木の動きに乗って大外を追い込んだ河端が4分の3車身差で3着。郡司の牽制を受けてから立て直した佐々木が4分の1車輪差で4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は8月末からの富山記念以来の優勝。ビッグはオールスター競輪以来で9勝目。寛仁親王牌は昨年が完全優勝でしたので連覇となる2勝目。このレースは寺崎の先行が有力なので,脇本と古性の優勝争いとみていました。新山が叩きにいって脇本の外で併走になるというのは意外な展開でしたが,番手は守れましたので,そこまではよかったと思います。郡司が上がってきたとき脇本は発進するべきだったのですが,内に入ってしまったので不発に。もしかしたらこのようなケースでは寺崎が郡司を牽制するために外に行き,内が空くという作戦があったのかもしれませんが,そうとでも考えないと不可解ではありました。古性はそこで機敏に郡司を追ったのが優勝の要因でしょう。郡司が自身で牽制にいったのでインが空いたのはラッキーでしたが,このラッキーがなくても優勝だったのではないかと思います。レース自体はとても激しく,面白いものでした。

 設定自体が不自然ではなく,大筋のプロットに対する肉付け部分の説明が真実らしく思われないというのは,その作品が創作物であるということを強化する要素になります。しかし僕の考えでは,まさにこの点が,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』が純粋な創作物であるということを疑わしくさせるのです。その理由は,これがヘンドリックHendrik Wilem van Loonの純粋な創作物であると仮定したときに,ヘンドリックがそれをどのような意図で著したのかということと関係します。
                            
 ヘンドリックはこれを,自身の先祖に当たるファン・ローンJoanis van Loonが書いたものであるとして,それを自身が翻訳したとしています。つまり,実際の著者はファン・ローンで,ヘンドリックではないという前提で,ヘンドリックはこれを発刊しています。そしてファン・ローンが書いたとされているのが,『レンブラントの生涯と時代』です。したがってその内容はファン・ローンが見聞きしたことであって,ファン・ローンが見聞きしたことである以上,それは史実であるということもまた前提されているとしなければなりません。
 このような前提でこれをヘンドリックが書いたのだとしたら,ヘンドリックはその内容をリアルなものとして書くことになるでしょう。前提がリアルな史実であるということなのですから,内容もまたそうしたものとして創作しなければなりません。もちろんこうした創作の中にはいくらかの脚色が入りますが,そうした脚色というのは作品の内容が史実であるということを失わせるようなものとなることはあり得ず,むしろそれを強化するものにならなければおかしいのです。ところが実際は,それが脚色であるとすれば,リアルな出来事であったということを失わせるような脚色が多く入り込んでいるのです。これは単にヘンドリックが作家として無能であったというか,そうでなければ実際にはそれは脚色ではなく,ヘンドリックが実際にあたった資料に,そのままではないとしてもそれに近いことが書かれていたからかのどちらかでなければなりません。しかしヘンドリックは吉田がいうように,職業作家として生きていたのですから,作家として無能であったということはできないでしょう。
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菊花賞&設定

2024-10-20 19:08:12 | 中央競馬
 第85回菊花賞。川田将雅騎手が昨日の東京の3レースの終了後に落馬をして頭部を負傷したためメリオーレムは藤岡佑介騎手に変更。
 ピースワンデュック,ビザンチンドリーム,コスモキュランダの3頭は発馬で1馬身ほどの不利。エコロヴァルツが逃げて2馬身ほどのリード。ノーブルスカイが2番手で3番手にミスタージーティーで発馬後の向正面を通過。発馬で不利があったピースワンデュックが徐々に上昇していき,2周目の正面に入るところで先頭に。ついていったメイショウタバルとノーブルスカイが2番手で4番手にシュバルツクーゲル。5番手にミスタージーティーという先行集団に。2馬身差で控えたエコロヴァルツとウエストナウとアーバンシック。9番手にアドマイヤテラ。10番手にショウナンラプンタとメリオーレム。12番手にダノンデサイルとヘデントール。14番手にハヤテノフクノスケとビザンチンドリームとコスモキュランダ。2馬身差でアレグロブリランテ。2馬身差の最後尾にアスクカムオンモア。最初の1000mは62秒0の超スローペース。
 向正面からアドマイヤテラが外を上昇したので先行集団から前に出たシュバルツクーゲルとアドマイヤテラが並んで3コーナーへ。アーバンシックが3番手に上がり内からショウナンラプンタで外からはヘデントール。直線に入るとアドマイヤテラが単独の先頭に。それを追っていたアーバンシックが差して前に出るとそこからは抜け出して快勝。内目を回ったショウナンラプンタ,一旦先頭のアドマイヤテラ,外を回ったヘデントール,大外を伸びたビザンチンドリームの4頭で2着争い。ヘデントールが2馬身半差の2着。アドマイヤテラがハナ差の3着でショウナンラプンタがクビ差の4着。ビザンチンドリームがクビ差で5着。
 優勝したアーバンシックは前哨戦のセントライト記念から連勝。重賞2勝目で大レース初制覇。デビューから連勝した後,京成杯で2着に入ってクラシックへ。皐月賞は4着,ダービーは11着でした。休養明け初戦となったのが前走のセントライト記念で,これが鮮やかな勝利。春よりも力をつけているのは明白で,ローテーションや過去の菊花賞の傾向から最有力ではないかと思っていました。接戦となった2着争いを尻目にしての快勝で,これは距離適性の分もあったかもしれません。今後も大崩れはなく走れる馬だと思います。父はスワーヴリチャード。3代母がウインドインハーヘア桜花賞を勝ったステレンボッシュは従姉,昨年のホープフルステークスを勝ったレガレイラは従妹になります。Urban Chicは洗練された。
                            
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は先週の秋華賞に続く大レース制覇。第77回,79回,84回に続き連覇で菊花賞4勝目。管理している武井亮調教師は2016年の全日本2歳優駿以来の大レース2勝目。

 みっつのプロットの共通点として示しましたが,これは『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全体を貫いているといってもそれほど遠くありません。つまりこの作品は,真実とは思えないような多くのプロットと,そのディテールとして確かな史実という組み合わせで構成されているのです。そしてここが重要なのですが,このプロットの大筋が真実らしく思われないのが,そのプロットに対する細かい説明に含まれているのです。『Βάτραχοι』の場合は,同じところに滞在しなければならなかったので,『蛙』の劇めいたものを同行者で行ったということならあり得そうですが,それを本格的な劇として,金は取らなかったものとは思いますが,本格的な劇として客を呼んで見せたと書かれているから,かえって信憑性を失わせています。アメリカの場合は,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelが,アメリカにはユダヤ人がいるというくらいであれば,そのように言うこともあり得そうだと思えるのですが,それがまだアメリカが陸続きの時代のことだなどと言うから,信憑性を失ってしまうのです。そして模型のプロットは,金に困窮したファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが,砲火装置の新しいアイデアをもってきたというなら,あってもおかしくないと思えますが,船の模型まで創作していたなどと加えられているので,信憑性が失われることになっています。
 これら細かい部分が書かれていること自体は,不自然ではありません。ウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの部分はファン・ローンJoanis van Loonがその場にいたわけではないので,その場での会話があまりに詳しく書かれているのは,作品として不自然といわなければならないかもしれませんが,これらみっつの部分は,いずれもファン・ローンが同席していたわけですから,ファン・ローンが書いたものであるという設定を崩すようなものとはなっていないからです。つまり文学評論という観点からすれば,これらの部分は創作であったとしても不自然なものとはなっていないがゆえに,作品として成立しているということになります。よってこのことは,むしろ吉田がいっているように,この作品が完全な創作であるということを補強しているように見えるかもしれません。
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コーフィールドカップ&共通点

2024-10-19 19:09:59 | 海外競馬
 オーストラリアのコーフィールド競馬場で行われたコーフィールドカップGⅠ芝2400m。
 ワープスピードは最後尾からのレースになりました。先頭との差は10馬身から12馬身の前後でレースが進捗。最終コーナーのところで一旦は前から2馬身ほど離れた単独の最後尾となり,そこから追われました。直線の入口では馬群には取りついたものの位置は最後尾のまま。最後まで追われましたがばてた馬を差しただけの13着でした。
 後方からレースを進める馬なので,最後尾は意外でしたがレースの前半は後ろ目になったのは自然なところ。途中から動いていかなければ勝負にはならなかったのだと思いますが,もしかしたら馬あるいは馬場の状態でそういうレースができなかったのかもしれません。この距離は南半球の馬はそれほどレベルが高くないので,重賞を勝っていないこの馬にも通用の余地はあったと思うのですが,今日のレースだけでいえば,もっと距離があった方がよいようには感じます。

 ここまでに示してきた3つのプロットは,いくつかの共通点を有しています。
                            
 まず第一に,これらのプロットの大筋は,常識的に考えるといかにもフィクションのように感じられます
 『Βάτραχοι』のプロットは,たまたま船の故障で滞在せざるを得なくなった村で,そのような用意を何もしていなかった,演劇に関しては素人と思われる集団が,村人を集めて演劇の興行を行うということがあり得るようには思えません。アメリカのプロットは,ユダヤ人の学校ではスピノザの師匠に当たるメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelというユダヤ教会で高い位のラビが,アメリカがまだヨーロッパないしはアフリカと陸続きだった時代の話,聞いている人からすれば妄想としか思えなかったような話を,真実のこととして話すなどということがあり得るのか疑問を感じざるを得ないでしょう。模型のプロットでは,一介の教師であるファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが,戦艦の砲火装置に新しい工夫を考え出した上に,わざわざその模型を製作して,海軍省の人に売り込もうとするのはあまりに常識外れの行動だと思われます。つまりこれらのプロットの大筋は,史実というより創作であることを強く窺わせます。
 一方,これらのプロットのディテールには,世の中にはそれほど知られているとは思えないような,史実もまた含まれています。『蛙』のプロットではスピノザがヘブライ語で長い祈りを唱えたことになっていますが,これはスピノザがそれを知っていたということが前提です。もちろんスピノザはそういう教育を受けていましたからそれができたことになりますが,それが広く知られているかといえばそうでもないでしょう。アメリカのプロットではレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnがメナセ・ベン・イスラエルのエッチングを創作したといわれています。レンブラントはアムステルダムAmsterdamのユダヤ人街のすぐそばに住んでいたので,メナセに限らずユダヤ人を相手にそうしたものを数多く創作しているのですが,このことも広く知られている事実とはいえません。模型のプロットではファン・デン・エンデンが足の悪い娘がいると言っていますが,この史実はこれらの中でもとくに知られていないことだと思われます。
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ヒューリック杯白玲戦&模型のプロット

2024-10-18 18:54:48 | 将棋
 12日に京都で指された第4期白玲戦七番勝負第四局。
 西山朋佳白玲の先手で角道オープン三間飛車。先手から角を交換して相向飛車の相振飛車になりました。先手の金無双に後手の銀冠から攻め合いになり,後手に分のある分かれに。先手が入玉も含みに粘る将棋。
                            
 ここは先手の入玉がなくなり,後手が優勢。☖6六歩と取り込みました。これは☗同銀なら銀が確実に入手できるので後で☖1八銀と打つことができるという意味だったのではないかと思います。
 銀は渡せないので先手は☗同金と取りました。後手はそこで☖2四桂と打ちましたが,角も銀も持っていないのでこの時点では先手玉が詰めろになっていません。☗7五金☖同銀で角を入手して☗6五角と王手。合駒が無効なので☖9三玉と逃げましたが☗9五歩と突かれました。
                            
 第2図となっては先手勝勢。後手は角を取らせたのが失敗で,第1図ですぐに☖2四桂と打っておくべきでした。
 西山白玲が勝って2勝2敗。第五局は19日に指される予定でしたが,里見女流五冠の体調不良により不戦敗。西山白玲の3勝2敗となっての第六局は26日に指される予定になっています。

 最後のエピソードあるいはプロットは,1654年4月のものです。スピノザはまだユダヤ人共同体の一員で,破門宣告を受けていない時代のことです。
 在宅していたファン・ローンJoanis van Loonに,下女が外国人の紳士が面会を求めていると告げました。下女はあの頭のおかしな人の仲間だろうと告げています。そのおかしな人がだれを意味しているか不明ですが,こうした来客がファン・ローンには頻繁にあったのでしょう。ローンは面会したのですが,その外国人紳士というのはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenです。
 エンデンは小さな船の模型を抱えていたのですが,これは発明品でした。戦争用の船籍で,軽装備で砲火角度を高める工夫がされていました。ただ,ローンはこのようなことには関心がなかったので,海軍省にもっていくのがよいだろうと助言しました。ところがエンデンはすでに3人の海軍参事官にそれを見せていたのですが,それを吟味しようとすらしなかったとされています。
 エンデンはこのアイデアを売りたかったのです。貧しい教師で,足が不自由な娘がひとりいるので,金が必要なのだと告げています。エンデンの娘はクララClara Maria van den Endenという名前で,後にケルクリングDick Kerkrinkと結婚しているのですが,確かに足が悪かったと伝えられています。そして,お門違いと思われるローンのところを訪問してこれを見せたのは,教え子のひとりからローンのことを聞いていて,助けてくれると思ったからだと言いました。この教え子というのはスピノザを意味するのですが,スピノザがエンデンに対してどのようにローンのことを伝え,その話のどの部分からエンデンがローンは自分を助けてくれるだろうと思ったのかはまったく書かれていないので不明です。
 この後で,エンデンがいっている教え子がスピノザを意味することがローンにも分かりました。ローンはローンでスピノザから,エンデンは平凡な律法学者やタルムードの教師60人に匹敵すると聞かされていたそうです。なおこの部分でエンデンはスピノザのことを,ポルトガル出のユダヤ人,あるいは単にポルトガル人と表現しています。スピノザの父はポルトガル出身ですが,スピノザに対する表現としてはやや謎です。
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東京スポーツ盃マイルグランプリ&アメリカのプロット

2024-10-17 19:04:57 | 地方競馬
 昨晩の第31回マイルグランプリ
 コパノジャッキーは発馬後の加速が鈍く1馬身の不利。まず先頭に立ったのはリコーシーウルフ。枠入りをやや嫌っていたアランバローズは2番手。3番手にデュードヴァンとスマイルウィ。5番手にナンセイホワイト。6番手にムエックスとボイラーハウスとモダスオペランディ。9番手にスピーディキック。2馬身差でイグザルト。11番手にフォーヴィスム。12番手にマンダリンヒーローとボンディマンシュ。3馬身差でマースインディ。15番手がケイアイサクソニーで2馬身差の最後尾にコパノジャッキー。向正面に入ってからアランバローズが前に出て,そこからはアランバローズの逃げになりました。前半の800mは50秒0のミドルペース。
 途中からの逃げになったアランバローズは先頭に立ってから飛ばしていき,3コーナーでは5馬身くらいのリード。デュードヴァンとスマイルウィが並んで追いかけていきました。アランバローズはリードを保ったまま直線に。デュードヴァンは苦しくなり外からスマイルウィが差を詰めていきました。直線の途中でアランバローズは一杯になったので,スマイルウィが差し切って優勝。スマイルウィの後から追ってきたナンセイホワイトのさらに外からムエックスが差し込み,1馬身4分の1差で2着。一杯となったアランバローズがクビ差の3着でナンセイホワイトが1馬身4分の1差で4着。
                    
 優勝したスマイルウィテレ玉杯オーバルスプリントから連勝。南関東重賞は昨年のゴールドカップ以来の7勝目。マイルグランプリは第30回からの連覇で2勝目。ここは上昇馬のムエックスを除くと力量上位が歴然。大外枠になったことが不安材料でしたが,まずまずの発馬から発馬後の直線の間に好位につけられましたので,問題ありませんでした。アランバローズが力を出し切るというレースに徹したため,レース内容のレベルが高くなり,その分だけ実力通りの結果になりやすく,その点はプラスに作用したのではないかと思います。着順と着差が現状の能力を概ね反映した結果とみてよいでしょう。父はエスポワールシチー
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は東京記念以来の南関東重賞42勝目。その後にテレ玉杯オーバルスプリントを勝ちました。マイルグランプリは第28回,30回に続く連覇で3勝目。管理している船橋の張田京調教師は南関東重賞16勝目。マイルグランプリは連覇で2勝目。

 ふたつ目は1642年の秋の出来事です。ひとつ目よりも前の出来事ですが,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』では後に書かれている,というか後に訳出されているので,この順番になっています。
 ファン・ローンJoanis van Loonが帰宅すると,レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnからの書付がありました。これはよく意味が分からないのですが,たぶんレンブラントがローンの家を訪ねたら,ローンは不在で家人がいたので,その家人にローン宛のメモを渡しておいたという意味ではないかと思います。そのメモの内容は,ローンと友人に,次の木曜日の夜に立ち寄ってほしいというものでした。見せたい絵があると書かれていますが,実際はこの後でアメリカに行く予定になっていたローンの送別会を開くのが主目的です。
 その日の夜の9時になってからローンは立ち寄りました。これはアントニー・ブレーストラートの家となっていて,これは地名を表しています。レンブラントの家はそこにあったのです。その場にメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがいたのです。レンブラントはメナセのエッチングを制作したことがあって,知己の間柄でした。ローンはメナセの話をレンブラントから聞いてはいたようですが,このときが初対面であったと読めるようになっています。
 ローンがアメリカに行くことを知ったメナセとの間でアメリカの話になるのですが,イスラエル民族の行方不明になった種族が,太平洋がまだ陸地だった時代にそこを渡って今日のアメリカの土地に住んでいるので,自分もできればローンのようにアメリカに行きたいのだけれども,神の民すなわちユダヤ人が荒野から出る時節にはまだなっていないので,行くことはできないという主旨のことを言いました。
 もちろんメナセは真面目にこのように言った,つまり真剣にそう信じてそう言っているのであり,そのことが理解できるように,つまりその場にいた人びとにも,読者にも理解できる書き方になっています。ローンはそれが妄想であると分かったけれども,どんな人間にもひとつくらいは妄想を大事にする権利があるのだし,社会で有用な一員となるためには一点で狂っていなければならないから,何も言わなかったとしています。
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