スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

羽田盃&第一部定理一〇

2011-05-11 20:43:14 | 地方競馬
 25周年を迎える大井競馬場での夜の競馬は,予定より遅れて今週から開始。最初の南関東重賞となったのが第56回羽田盃。内田博幸騎手が負傷したためキスミープリンスは柴山雄一騎手に騎手変更。
 ゴーディーが逃げ,2番手にブラックサンダー。クラーベセクレタは3番手から。最初の800mは49秒5でミドルペース。
 3コーナー手前あたりからブラックサンダーの手応えがやや怪しくなり始め,クラーベセクレタが自然と2番手。そして直線に入るとゴーディーも交わして先頭に。そこからは後ろを引き離していく一方となり,7馬身差をつける圧巻の優勝。クラーベセクレタについていこうとしたドラゴンウィスカーやキスミープリンスは苦しくなり,それらの後ろから追い込む形となったシングンボスとヴェガスが2,3着。
 優勝したクラーベセクレタは前哨戦の京浜盃の優勝馬。これで転入後は無敗で南関東重賞4連勝。今年は牡馬勢に強力な馬がいないということもありますが,予想以上の圧勝になりました。東京ダービーに向うことになると思いますが,当然ながら最有力候補でしょう。母の父にタイキシャトル。馬名はスペイン語で秘密の鍵。
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は先週のかしわ記念を制覇。羽田盃は一昨年以来の2勝目。管理している船橋の川島正行調教師はやはり一昨年以来の羽田盃制覇でこちらは3勝目。

 第二部定理四〇の4つの意味のうち,第四の意味というのが示しているところは,もしも人間の精神のうちにある混乱した観念が結果として形成されるならば,その原因となっている観念は,その同じ人間の精神のうちにすでにある別の混乱した観念であるということです。このことは一般的にそうであるわけですから,具体的などの個々の混乱した観念がある人間の精神のうちに発生するという場合にも妥当します。したがって,もしも人間の精神のうちに,思惟ないしは延長の属性の混乱した観念が発生するということがあるとすれば,その属性の観念の原因は,その人間の精神の一部をすでにその時点において構成していたある混乱した観念であるということでなければなりません。いわばこれが,人間が属性の混乱した観念を形成するときのメカニズムであるということになるわけです。
 ところが,そもそも『エチカ』には,このこと自体を否定するような定理があるのです。それが第一部定理一〇です。
 「実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ」。
 この定理は,第一部定義四により,属性というのは実体の本性を構成しているものであり,第一部定義三により,実体というのはそれ自身によって考えられなければならないものであるということによって,明白であるといえるでしょう。とくにこの場合は,第一部定義四を認識論的に理解した場合により明確です。なぜなら,実体というのがそれ自身によって認識されるようなものであるとするなら,当然のごとくその実体の本性というのもそれ自身によって,つまりほかの観念ないしはもっと広く思惟の様態に依存することなく認識されなければならないのは当然だからです。これは第二部定義二により,ある事物の本性というのはその事物がなければ考えられ得ないものであるけれども,逆にある事物というものはその事物の本性をほかにおいては考えることができないものであるということから明らかでしょう。
 なお,現在の論考とは少し離れますが,この定理で実体といわれているのは,第一部定義三の実体であると理解するよりありません。第一部定義三の立場は名目的であると理解するよりありませんから,この定理は実在的な意味をもっているわけではなく,名目的であると理解しなければならないでしょう。
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マイナビ女子オープン&属性の混乱した認識

2011-05-10 18:35:32 | 将棋
 挑戦者の連勝で迎えた第4期マイナビ女子オープン五番勝負第三局。
 上田初美女流二段の先手で甲斐智美女王のごきげん中飛車。①Aから相穴熊となりました。
 今日は観戦できませんでしたので中盤のところをひとつ。
                         
 ここで☖2五桂と跳ねているのですが,これが並べていて最も驚いた手でした。☗3四飛という最も自然と思われる応手に☖2四角と出るのが狙いだったようです。対して☗3五歩は相当打ちにくい感じがあります。☖3三歩☗5四飛☖5三歩☗5五飛(第2図)は自然な進行と思いますが,お互いに大駒のすべての働きが乏しく感じられる珍しい局面だと思います。
                         
 ここから後手が☖3四歩と突き,捌き合いになったのですが,そこで先手が少し指しやすくなったように思います。その後,延々と9筋での攻防が続きましたが,つばぜり合いを制して先手の勝ちとなりました。
 3連勝で上田新女王の誕生。タイトル挑戦は2度目での初戴冠となりました。

 一般的な意味における事物とその事物の本性essentiaの混乱した認識の様式というものがこのようなものであるとすれば,第一部定義四は,属性attributumというのは実体substantiaの本性を構成すると規定しているわけですから,実体と属性の混乱した認識cognitioというのは,そのままこの様式に当てはめるということができることになります。とりわけこの第一部定義四を名目的な意味で理解する場合には,おそらくこの傾向がさらに顕著になるだろうと思います。
 現実的な意味において人間の精神mens humanaが認識するcognoscereのは思惟の属性Cogitationis attributumと延長の属性Extensionis attributumだけです。そしてもしも人間の知性intellectusが思惟の属性についてそれを混乱して認識するならば,それは取りも直さず思惟の実体に関してそれを混乱して認識しているということになるでしょう。同様に,もしも延長の属性の混乱した観念idea inadaequataを有するのであれば,それは延長の実体の混乱した観念を有しているという意味であるということになります。また,もし第一部定義四を実在的な意味で解釈するのであれば,実際には第一部定理一四により,実在する実体は神Deusだけですから,どちらの場合も神,すなわち第一部定義六における絶対に無限な実体について,それを混乱して認識しているのだということになると思います。
 そこで次の問題は,もしもそうした神の,ないしは実体の属性について,人間の精神がそれを混乱して認識するということがあるのだとすれば,そうした混乱した観念は,どのような様式によってその人間の精神のうちに発生してくるのかという点に移行します。当然ですがそうした混乱した観念というのはある何らかの結果effectusとしてある人間の精神のうちに形成される筈ですから,第一部公理三により,そこには必然的な原因causaというものがあるのでなければなりません。
 ここではすでに人間の精神による事物の表象imaginatioだけでなく,混乱した観念一般というのをその対象としていますので,表象に関する第二部定理一七ではなく,第二部定理四〇の方を援用します。ただしこの定理Propositioをそっくりそのまま援用したところで何も得られることはありませんので,この定理のうちにすでに含まれていると僕が考えている4つの意味,とくにそのうちの第四の意味を利用します。なお,この意味が成立していることはすでに考察済みなので,ここでは繰り返しません。
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東日本大震災被災地支援宇都宮記念&混乱した認識

2011-05-09 18:37:43 | 競輪
 競輪の連休開催の結びは宇都宮記念で今日が決勝。並びは矢口-稲村-諸橋の上越,神山-真崎の栃木,東口-山口の近畿中部で園田に渡辺。
 山口がSを取り東口の前受け。3番手が園田,5番手が神山,7番手に矢口で周回。動きがないまま打鐘。ようやく神山から動いて東口を叩いて前に。さらに外から矢口が抑え,このラインの先行に。バックで6番手から東口が発進。山口を連れて捲りきると矢口の番手から稲村が3番手にスイッチ。直線はこの3人での勝負。並ぶようなゴールとなりましたが,外を伸びた稲村が僅かに交わして優勝。2着は中の山口で,微差の3着が東口。
 優勝した群馬の稲村成浩選手は2001年の熊本記念以来となる記念競輪11勝目。この年のダービーを勝った選手で,この前後は捲りを主武器に大活躍していました。そんなに年齢がいっていたわけではないのにその後は停滞。当時の輝きを取り戻せといってもさすがに無理かとは思いますが,ビッグを勝ったような選手というのは衰えを感じさせても侮れない面はあり,それが今日は発揮されたといったところではないかと思います。

 この十全な観念における本性の認識の様式というのが,属性の認識と実体の認識という関係においては,混乱した観念の場合にも同じように妥当するのではないかと僕は考えています。これまで考察の対象としてきた人間の精神による事物の表象というのは,あくまでも人間の知性の一部を構成する混乱した観念の代表者という意味でしたが,ここから先の探求においては,必ずしも表象のみにこだわる必要はありませんので,もちろんそこに回帰するということはあるでしょうが,もっと広く一般に混乱した観念というのをその考察の対象とします。
 ある知性が属性の混乱した観念を有するというとき,これはある実体の本性を構成するようなものについて,それを混乱して認識するということを意味します。これは第一部定義四から明らかだといえるでしょう。ただし,この知性を人間の精神と限定するなら,このことの現実的な意味は,ある人間の精神が,思惟の実体か,そうでなければ延長の実体に関して,その本性を構成しているところのものを混乱して認識するということです。こちらの方は第二部公理五によって明らかです。
 ところで,別に思惟ないしは延長の実体に限らず,もっと一般的な意味である事物を知性が十全に認識するということのうちには,知性がその事物の本性を十全に認識するということが含まれています。つまり知性がAを十全に認識する,つまりAの十全な観念を有するということは,Aの本性を十全に認識するということを,少なくとも含んでいなくてはなりません。これは,十全な観念とは内的特徴からみられた場合の真の観念であるという第二部定義四と,真の観念がその対象ideatumと一致するということを示した第一部公理六により明白です。
 したがって,これらのことから,一般的に次のことが帰結します。もしもある知性が,Aの本性に関して,それを混乱して認識するならば,その同じ知性は単にAの本性の混乱した観念を有しているということだけを意味するのではなく,Aそのものに関してもそれを混乱して認識しているということになるでしょう。なぜなら,たとえそれが混乱した観念であったとしても,知性はAなしにAの本性といわれるようなものを認識するということはあり得ないであろうからです。
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NHKマイルカップ&本性の認識

2011-05-08 18:50:42 | 中央競馬
 はっきりとした軸馬が不在で,混戦模様となった今年のNHKマイルカップ
 発馬は揃いましたがコティリオンはダッシュがつかずに最後尾。フォーエバーマークの逃げとなり,向正面では2番手とやや差が開きました。グランプリボスは掛かりそうなのをぐっと抑え込むといった感じで中団。リアルインパクトやダンスファンタジアがほぼ同じ位置取り。前半の800mは45秒7でこれはミドルペース。
 先行していたエイシンオスマンやプレイが粘るところ,坂下から馬場の中ほどに持ち出されたグランプリボスが一気の伸びでこれらを捕え,そのまま抜け出しての快勝。直線入口でもほぼ最後尾だったコティリオンが大外を鋭く伸びて2着。内から馬群を捌いて伸びたリアルインパクトが3着。
 優勝したグランプリボスは昨年の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース2勝目。今年の2戦は明らかに折り合いを欠く内容でそれでも小差の掲示板確保。抑え込めれば能力は高いので順当な勝利ともいえます。そういう意味ではやはり騎手の腕が大きかったかもしれません。今日の内容だともう少しはこなせそうですが,距離には限界があるタイプだと思われます。父は死亡したばかりのサクラバクシンオー
 騎乗したオーストラリアのクレイグ・ウィリアムズ騎手は日本では昨春の天皇賞以来の大レース2勝目。管理する矢作芳人調教師は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース2勝目。

 僕の疑問がどういう類のものであるのかということを理解してもらうために,先に,混乱した観念ではなく,十全な観念と観念されたものideatumの関係がどういうものであるのかということを確認しておくことにします。こういう場合の好例として,ここでも平面上の三角形の観念を利用します。
 平面上の三角形の本性には,内角の和が二直角であるということが含まれます。よって,人間の精神がこの三角形を十全に認識するならば,その観念のうちには,その図形の内角の和が二直角であるということが必然的に含まれています。すなわちその内角の和が二直角であるということなしでは,三角形の十全な観念というのは,これは人間の精神に限らず,どんな知性のうちにもあることができません。しかし一方で,もしもある図形に関して,その内角の和が二直角であるということを知性が認識するという場合には,そうした図形というのは平面上の三角形以外には存在しないわけですから,すでにこの十全な認識のために,この三角形の十全な観念があるということが前提となっています。これは第二部定理四九の証明で,スピノザが個々の観念と個々の意志作用の同一性を示すときに用いているのと同一です。
 そこで今度はこれを属性に当てはめてみます。すると,第一部定義四というのは,認識論的に理解するのであれ実在論的に理解するのであれ,属性というのはある実体の本性を構成しているという点では変わりありません。したがって属性と実体との関係というのは,内角の和が二直角である図形ということと,平面上の三角形との関係に同一であるということになるでしょう。いい換えれば,知性が属性を十全に認識するということは,その属性によって表現される実体の認識を前提しているということになりますし,逆にある実体を十全に認識するということは,その実体を構成している属性というのを十全に認識しているという意味でなくてはならないことになります。すなわち,平面上の三角形の認識とその内角の和が二直角であるという認識が,十全な認識である場合には,一方がなければ他方が,しかし他方がなければ一方があることができない関係であるように,実体と属性の十全な認識の場合にも,双方がもう一方に対して不可欠な認識となっているのです。
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震災復興支援競走日刊スポーツ賞東京湾カップ&表象の特性

2011-05-07 19:12:02 | 地方競馬
 2着までの馬に貴重な東京ダービーへの優先出走権が付与される東京湾カップは,3日に船橋競馬場で行われました。
 主張してジャクソンライヒの逃げ。転入初戦のリアライズペガサスが2番手で追い,リバーキンタローとファジュルがその後ろ。ペース自体はハイペースであったと思います。
 先行勢では人気のファジュルが最も先に一杯に。さらに直線に入るとリアライズペガサスも追走が困難になりました。これを尻目に快調に逃げ脚を伸ばしたジャクソンライヒが,結局は並ばれるところなく2馬身差で逃げ切って優勝。インを追走していたリバーキンタローが2着に流れ込み,最後尾からの追走となっていたゴールドスガが後半からよく追い上げて3着。
 優勝したジャクソンライヒはデビュー2連勝の後,2戦は大敗。前走は再び逃げ切って3勝目を上げていました。どうもすんなりと逃げないと持ち味を生かせないようで,今後も展開面は活躍のための大きなキーポイントとなりそうです。そういう意味では稍重馬場になったのはプラス材料だったのではないでしょうか。1951年のオークスを勝ったキヨフジの子孫になります。
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は昨年のニューイヤーカップ以来の南関東重賞3勝目。管理している川崎の鬼沢裕充調教師は開業およそ10年半で初の南関東重賞勝利。

 これらのことから理解できることのうち,現在の考察において重要なのは次のふたつの点になると思います。
 まず,人間の精神がもしもある属性を表象するということがあるとしても,それは神の無限に多くある属性のうちの,思惟の属性であるか,延長の属性であるかのどちらかであるだろうということです。ただ,このことはそれ以前に想定できていたことでもありますから,これ以上の説明は繰り返しません。
 もうひとつは,人間の精神が何らかの事物を表象するという場合には,この観念は混乱した観念ではあるけれども,観念されているものideatumについて,その本性を含んではいるということです。なぜそういえるのかといえば,これは表象の特性に依拠します。すなわち,人間の精神がある事物を表象するということは,これまたその表象の種類がどういうものであるかということとは関係なく,その事物が現実的に存在すると認識することなのです。ところで,第二部定義二に含まれている意味として,事物の本性というものはその事物の存在を定立するものであり,排除するものではないということがありました。したがって,人間の精神がある事物が現実的に存在するというように認識するのであれば,その認識のうちには,ただそれだけで,その事物の本性は含まれているということになるのです。よって,延長の属性であれ思惟の属性であれ,人間の精神がそれを表象するということがあるとするなら,その認識のうちには,その属性の本性が含まれてはいるということになるでしょう。ただ本性を含んではいるけれども,本性そのものの十全な認識ではないということです。
 したがって,次に問題となってくるのは,ある属性の本性を含むような認識というのはどういうものであるのかということです。もちろんそれがたとえば物体Aの認識であるとするなら,それは物体Aが現実的に存在するという認識が,そうした認識であるということになるでしょう。これは前述の説明の通りであり,これ以上は追及する余地がありません。しかし属性の場合にもこれと完全に同じことがいえるのかということになると,そこの部分に僕は疑問の余地を感じるのです。というのは,第一部定義四が示しているのは,属性は実体の本性を構成しているということだからです。
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東日本大震災被災地支援別府記念&実在論的理解の根拠

2011-05-06 19:12:03 | 競輪
 連休中は競輪もグレード競走が連続開催。そのうち別府記念は2日に決勝が争われました。並びは松坂-白戸-中村の南関東,深谷-山口の中部,松岡-小野-安東の九州で藤木は単騎。
 藤木が一目散に飛び出して誘導の後ろへ。それ以外の選手は若干の牽制があり,一旦は水が開きましたが,2番手に深谷,4番手に松岡,7番手から松坂という周回に。残り2周に入るあたりから松坂が上昇開始。打鐘前のバックで前に出るとペースダウン。藤木が4番手,松岡が5番手,深谷が8番手という隊列に。チャンスはあったと思いますが後ろは動かず,このままホームから松坂の先行に。自力のふたりはやはり動けず,小野がインから上昇を企てましたがこれも前まではいけず。結果的に南関東勢の直線勝負となり,1着は神奈川勢で接戦の写真判定。微差で残った松坂が優勝で白戸は2着。中割の中村もかなり詰め寄っての3着。
 優勝した神奈川の松坂洋平選手はこれが記念競輪初の決勝進出。いきなりの大仕事をやってのけました。日程の関係でS級S班が不在の開催,レースの展開にもかなり恵まれ,番手の白戸にもやや油断があったような印象が残ったのも事実。ただ,28歳という年齢からはまだ伸びる余地もあると思われ,いずれは上位に定着してほしい選手です。

 第二部定理一と二に関しては,第一部定義四第一部定義六の内容をよく精査すればそれだけで証明が可能であると思いますし,実際にスピノザ自身が第二部定理一の備考ではそうした方法に訴えていますので,詳しい証明についてはここでは省略します。そもそも現在の考察において重要なことは,これらの定理がいかにして証明されるのかということではありません。むしろ今はこれを単に思惟の属性と延長の属性のみを認識し得ると考えられる人間の精神を対象にして示したわけですが,このことはどんな有限な知性,僕が想定するのは人間が認識し得るのとは別の属性を認識するような有限知性ですが,そうした有限知性の場合にも,同様に妥当するであろうということの方です。そうした観点からいうならば,無限に多くある神の属性のすべてについて,第二部定理一と第二部定理二のような仕方でそれらの属性が実在するということがいえる筈で,第一部定義四は,思惟と延長のふたつの属性のみに限らず,無限に多くあるすべての属性に関して,認識論的にではなく,実在論的に理解することができるということになるのです。そしてこのゆえに,僕は第一部定義四は実在論的な意味を含有すると考えるのです。これは『エチカ』について『エチカ』に訴えることによって得られる結論であるといえると思います。
                         
 僕の考えは以上の通りですので,ここからは人間の精神による事物の表象の方に話を戻します。基本は第二部定理一七でしょう。これは人間の身体の外部にある物体のみを対象にしているのであり,人間の精神は現実にはこれら以外の様ざまなもの,たとえば物体でいうなら自分自身の身体とか,あるいは物体以外でいうなら自分自身の精神といった思惟の様態も表象しますが,そうしたものについて逐一考察していてはきりがありませんし,現在は表象そのものについて探求しているというわけではありませんから,その必要もないでしょう。ただ,やはりひとつだけ留意しておかなければならないのは,表象の種類というものがどのようなものであるとした場合でも,表象というのはあくまでも人間の精神による認識のひとつですから,その対象となるのは第二部公理五により,思惟の属性に含まれるものか,そうでなければ延長の属性に含まれるもののどちらかであるということです。
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震災復興支援競走農林水産大臣賞典かしわ記念&第二部定理一・二

2011-05-05 18:54:28 | 地方競馬
 2強対決という戦前のムードであった第23回かしわ記念
 エスポワールシチーはやや出負け。ラヴェリータの逃げは事前に考えていた展開のひとつ。グランシュヴァリエが並ぶように追走し直後にフリオーソ。ロードバリオスを挟んでエスポワールシチーも巻き返していきました。前半の800mは48秒3で,これはミドルペースの部類でしょう。
 グランシュヴァリエは3コーナーまでで後退。自然と2番手となったフリオーソがラヴェリータに並び掛けていき,エスポワールシチーも3番手まで進出。直線は前を行く2頭が叩き合い,ラヴェリータもかなり食い下がって一瞬は差し返す脚さえあったように見えましたが,最後は底力の差でフリオーソが前に出て優勝。ラヴェリータが2着に粘り,エスポワールシチーは1馬身半遅れての3着。
 優勝したフリオーソは1月の川崎記念以来の大レース6勝目。ここはエスポワールシチー以外には負けることが考えにくいメンバー構成。その相手が発馬で不利があり,状態も万全とは思えませんでしたので,順当といっていい勝利かもしれません。逃げるのがベストであったのが,差しても能力を発揮できるようになってきていて,年齢的には考えづらいのですが,さらに成長したという印象があります。Furiosoはイタリア語で猛烈に。音楽用語です。
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は先月は京浜盃を勝ちました。大レースは川崎記念以来でかしわ記念は初勝利。管理している船橋の川島正行調教師は2006年以来の3勝目。

 有限なfinitum知性intellectusの代表としての人間の精神mens humanaに的を絞って,人間の精神がどのようなものをどのようにして表象するimaginariのかということを確認してみることにします。これによって,僕が腑に落ちないものを感じてしまう疑問の在処というのももう少し具体的に理解してもらえるのではないかと思います。
 まず,第二部公理五が示していることは,人間の精神が認識するcognoscereものは,物体corpus,すなわち延長Extensioの様態modusであるか,そうでなければ思惟の様態cogitandi modi,たとえば観念ideaとか意志voluntasとかいったものだけだということです。第一部定義六が示しているのは,神Deusの本性essentiaは無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されているということであり,僕はこの定義Definitioを名目的ではなく実在的な意味で理解しますので,現に無限に多くの属性が実在すると考えますが,人間の精神が認識することができるのは,そのうちのたかだかふたつにすぎないということになります。
 人間が物体か思惟の様態しか認識しないということはごく当然のことですが,現在の考察の観点からみると,そんなに無視することができるものとは思えません。というのも,第一部定義四の知性を人間の知性と規定した場合には,上述のことから,無限に多くある神の属性のうち,ただ延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumのみを人間は認識し得るということになると思われるからです。
 実はこのことからすでに,第一部定義四というのを,認識論的にではなく,実在論的に理解するべきであるということが,『エチカ』の中から出てきていると僕は考えています。それを示しているのが第二部定理一と第二部定理二です。
 「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である」。
 「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物(res extensa)である」。
 思惟についてが第二部定理一,延長についてが第二部定理二です。そしてこれらの定理Propositioが,実在論的な観点からいわれているということはあまりに明白でしょう。ここでは人間の精神のみをその対象として扱っていますから,それに限定していいますが,これらふたつの定理というのは,人間の精神がそれらふたつの属性をどのように認識するのかという観点とは無関係に成立しているからです。いい換えれば人間の精神がふたつの属性を誤って認識したとしても,あるいは認識しないとしても,思惟も延長も神の属性であるでしょう。
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農林水産大臣賞典兵庫チャンピオンシップ&神との関連

2011-05-04 18:36:07 | 地方競馬
 3歳のダート路線では初めての重賞となる第12回兵庫チャンピオンシップ(動画)。トキノゲンジが除外となって10頭。
 マルモセーラとリアライズノユメが出遅れ。この影響もあったでしょうか,先手を奪ったのはエーシンブランで2番手にホクセツサンデー。ラヴィアンクレールは中団を追走。行きたがるのを宥めながらといった感じの逃げで,スローペースだったと思われます。
 道中で目立った動きをみせる馬がないまま2周目の向正面。ここでラヴィアンクレールがようやくといった感じで3番手まで進出しましたが,結果的にいえば時すでに遅し。前とは水を開けられ,前の2頭も逃げていたエーシンブランの方が差を広げていって6馬身差の圧勝。ホクセツサンデーが2着で,さらに5馬身差の3着がラヴィアンクレール。
 優勝したエーシンブランは昨夏にデビューすると2連勝。しかしその後は7連敗を喫していて,よくある早熟タイプかと思わせました。ここは初めてのダート戦でしたが,適性があったという面はあるでしょう。ただ,何もかもがうまくいったという感じも否めず,今後も活躍できるのかどうかはまだ分からないように思います。曾祖母にオークスを勝ったエイシンサニー。ブランはフランス語で白。
 騎乗した岩田康誠騎手は2007年以来のこのレース2勝目。管理している坂口正則調教師は初勝利。

 混乱した観念の問題は,以下のような方法で解決することが可能であるかもしれません。
 まず第二部定理三二に示されているように,どんな観念もそれが神と関連付けられるなら真の観念,すなわち十全な観念です。これは第二部定理七系からも明らかだといえます。したがって,もしも人間の精神のうちに属性の混乱した観念というのが形成されたとしても,第二部定理一一系にあるように,その混乱した観念も神の無限知性の一部ということになる,いい換えればそれは神と関係づけて考えることができる観念であるということになり,よってそれは真の観念あるいは十全な観念であるということになるというやり方です。神がなくては何も,すなわちどんな観念もあることができないということを示した第一部定理一五から考えても,確かにこれは『エチカ』における正しい方法だといえるでしょう。
 ただし,僕自身は,上述のようなやり方には,いまひとつ腑に落ちないものを感じるのです。というのは,ここでの仮定が,属性の混乱した観念というのを対象としているからなのです。
 ここでもう一度,ある人間の精神を現実的に構成している観念が,どのように神と関係づけられるのかということを確かめておきます。
 ある人間Aがいて,このAの精神の本性を構成する限りで神のうちにある観念,ここでの考察に合わせて今は属性の観念と限定しますが,属性の観念があるなら,これはAが属性の十全な観念を有するという意味です。ただ,この場合は認識論と実在論の問題は生じません。一方,神がAの精神を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちに属性の観念があるなら,Aは属性の混乱した観念を有しているということになります。なるのですが,これだけでみれば,この観念は十分に神と関連付けられていますから,別のいい方をすれば明らかに人間Aの精神が神の無限知性の一部として規定されていますから,やはり認識論をそのまま実在論へと置き換えてしまうことの問題は発生していないことになります。ただ,僕が腑に落ちないものを感じるのは,このとき,ほかのものといわれているものの観念というのを,具体的にどのようなものとして理解すればよいのだろうかということなのです。
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農林水産大臣賞典かきつばた記念&混乱した観念の問題

2011-05-03 18:41:56 | 地方競馬
 今週は4日続けてダート重賞。今日はかきつばた記念(動画)。
 ラブミーチャンの逃げは予想された通り。セイクリムズンが2番手でがっちりとマーク。ミリオンディスクがインの3番手を追走しました。最初の600mは37秒0でこれはスローペース。
 上位の隊列は変わらないまま直線に。楽な逃げだったということもあるでしょう,ラブミーチャンも直線の半ばまでは抵抗しましたが,並び掛けていったセイクリムズンが交わすとあとは抜け出して2馬身差の快勝。外に持ち出したミリオンディスクがゴール寸前でラブミーチャンを捕まえて2着。ラブミーチャンが3着。ペースがペースだっただけに,前に位置していた馬たちでの決着となりました。
 優勝したセイクリムズンは1月の根岸ステークス以来の重賞制覇で重賞3勝目。ここは力関係では上位と思われ,地方の馬場への適性というのが焦点であったかと思いますが,問題ありませんでした。稍重馬場になったのはあるいは好都合だったかもしれません。ここで勝ったことで今後の展望も広がったと思いますし,まだ重賞勝ちを増やしていくだろうと思います。アストニシメントヤマトナデシコの分枝で,甥に3月の阪神スプリングジャンプを勝ったオープンガーデン
 幸英明騎手と服部利之調教師のコンビはかきつばた記念初勝利。

 有限な知性を代表する人間の知性についても,ドゥルーズの論証のようなやり方で認識論と実在論の問題を片付けようとするのであれば,第二部定理一一系に訴える手法が考えられます。すなわち人間の知性は神の無限知性の一部であるから,第一部定義四の知性というのを神の無限知性であると理解するならば,人間の知性もそこには含まれていると解釈することが可能になるからです。スピノザの哲学の場合,第二部定理一三備考に示されているように,すべてのものが精神を有するということになっていて,第二部定理一一系はこのうちの人間の精神だけをとくに対象としていますが,実際にそこで示されている内容は,すべての有限知性に妥当します。
 ただ,やはり認識論的に記述されているものがそのまま実在論的な意味でも妥当するという主張をする場合には,混乱した観念の問題に関しては避けて通ることはできないだろうと僕は思うのです。第四部定理三と第四部定理四から,人間が受動を完全に免れるということは不可能です。これは人間の精神にも人間の身体にも同じように妥当します。そして第三部定理一により,人間の精神が働きを受ける,すなわち受動状態になるということは,混乱した観念を有する限りでのこととされています。これらのことを合わせるなら,人間が一切の混乱した観念をもたないということ,別のことばでいうならば,現実的に存在するある人間の精神の少なくとも一部が,混乱した観念によっては構成されていないということは不可能であるということになります。したがって少なくとも可能性としては,人間の精神が属性の混乱した観念を有するということは否定できないでしょう。また,仮に人間の精神は属性に関しては何らかの方法で十全な観念を形成することができるのだということが証明されるのだとしても,第四部定理一からして,そのことが属性の混乱した観念の現実的存在を除去するわけではないのです。
 混乱した観念というのはいうまでもなく非実在的なもの,つまり有か無かでいうならば無に該当します。よってこの場合には認識論的な記述をそのまま実在論的な記述に置き換えることは不可能,あるいは少なくとも危険だと僕は思います。よってもう少し検証が必要だということになるのではないでしょうか。
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震災復興支援競走農林水産大臣賞典ダイオライト記念&第二部定理七備考の前提

2011-05-02 18:41:50 | 地方競馬
 開催日程の関係から船橋競馬は2開催が中止となってしまいました。このうち,3月16日に予定されていた第56回ダイオライト記念は今日に順延して実施されることになりました。
 ブラボーデイジーの逃げもあるかと考えていましたが,スマートファルコンが先手を奪いました。おそらく逃げも想定していたと思われるブラボーデイジーが2番手。3番手にはフリートアドミラルがつけましたが,ここらあたりは集団での追走。最初の1000mは62秒5。これはハイペースです。
 向正面で動いたのがキングスエンブレム。これが2番手まで上がったのですが,そこでスマートファルコンがペースアップするとついていけなくなりました。スマートファルコンはそのまま快調に後ろを離していき,直線の入口ではほぼ独走状態。ラップをみるとだいぶ失速しましたが,これに乗じて追い上げるだけの余力を残した馬もなく,8馬身差の快勝。3番手集団のインから4コーナーで2番手に上がったカキツバタロイヤルが流れ込んで2着。外を追い上げたインバルコが3着。
 優勝したスマートファルコンは昨秋のJBCクラシック,浦和記念,東京大賞典と3連勝した後,休養に入ってここが今年の初戦。4連勝で重賞14勝目。相手関係から負けることは考えにくく,問題は距離でしたが,とくに適性が高かった馬もいなかったようで,能力の差をみせつける圧勝となりました。父はゴールドアリュール,兄に1999年の東京大賞典を勝ったワールドクリーク,曾祖母がアリアーン
 武豊騎手,小崎憲調教師はダイオライト記念初勝利となります。
                         

 僕が考えるドゥルーズの論証のような方法で第一部定義四の認識論と実在論の問題を片付けるのは,別にドゥルーズだけに特有のやり方であるとは僕は考えていません。たとえば岩波文庫版の『エチカ』の訳者である畠中尚志は,当該部分の訳注において,この知性は無限の知性を含めているという見解を示しています。そしてこのゆえにこの定理は実在論的に解釈するべきであると主張するなら,その論証過程はおそらく同一のものになるのではないかと思います。
 こうした考え方を補強する部分がさらに『エチカ』にはあります。それが第二部定理七備考の冒頭です。そこでスピノザは「無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは…」といっています。この,実体の本質を構成すると知覚するという表現が,第一部定義四を念頭においていることは確かだと思えます。したがってこの文章は要するにすべての属性は…という意味になるかと思いますが,このとき,明らかに実体の本性を認識する知性として,スピノザは無限知性を前提としているといえます。そしてこの知性が無限知性であるならば,確かに認識論と実在論は,同じ秩序,いい換えれば単に観点が異なるだけで同様の意味を有しているということになるでしょう。すなわち第一部定義四は,少なくとも実在論的に理解することが可能であるということになります。
 ただし,このことは別の観点から考えた場合,ある種の問題を孕んでいるとはいえます。というのは,この文章の全体の構成から考えると,もしも第一部定義六が実在的ではなく名目的であると仮定した場合にも,上述したような論証が可能であるのかといえば,そこにはいささか疑問の余地も残るのではないかというように思われるからです。とくにドゥルーズにはこの問題は大きく関係するように思いますが,僕自身は第一部定義六というのをそれ自体で実在的意味を含有していると考えていますので,このことに関してはそれ以上は深入りしません。
 ただ,いかにこの部分でスピノザが無限知性を前提しているからといって,第一部定義四自体のうちに,そこでいわれている知性を神の無限知性と理解しなければならない理由が含まれているとは僕には思えません。だから,有限な知性,たとえば人間の知性である場合にどうなのかということは,やはり考えておかなければならないだろうと思います。
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天皇賞&ドゥルーズの論証

2011-05-01 18:45:59 | 中央競馬
 強力世代と目される4歳の精鋭が揃った天皇賞
 逃げるかと思われていたナムラクレセントが出遅れ。1周目の3コーナーを回るところでゲシュタルトの先導に。しかし正面に入るとコスモヘレノスが先頭に立ち,これをさらにトゥザグローリーが交わして向正面。今度は出遅れたナムラクレセントが一気に動いてまた先頭を奪うという出入りの激しい展開。最初の1000mが64秒2という超スローペースだったのでこうした展開となったのですが,結果的には最後に動いたナムラクレセントを除くと,道中で動いた馬は総崩れというレースになりました。
 よく折り合って中団の内でじっとしていたヒルノダムールが直線で馬場の半ばへ持ち出して先頭に。これに外から襲い掛かったのはやはりその後ろで折り合っていたエイシンフラッシュ。最後のところでエイシンフラッシュが内にもたれる感じとなり,先んじていたヒルノダムールの優勝。エイシンフラッシュが2着でナムラクレセントが3着。ただ3分20秒6という勝ち時計では,レース全体のレベルについては論評に値しない気がします。
 優勝したヒルノダムールは4歳世代の1頭。クラシックでは好走してもなかなか勝てず,前走の大阪杯が重賞初制覇。今日はあまり人気がありませんでしたが,勝つ力はあるとみていた馬。よく折り合ったのが第一の勝因で,2着馬とは通ったコースの差があると思いますので,内枠も好条件だったということだと思います。レースレベルとは別に能力は高いですから,今後も活躍し続けられるでしょう。父は2002年にこのレースを勝っているマンハッタンカフェ。d'Amourはフランス語で愛の。
 騎乗した藤田伸二騎手フェブラリーステークス以来の大レース制覇。天皇賞は初勝利。管理する昆貢調教師は一昨年のスプリンターズステークス以来の大レース制覇。こちらも天皇賞は初勝利。
                         

 僕自身はそれに関して懐疑的ではありますが,ドゥルーズのように,認識論と実在論の問題を,スピノザの哲学における知性は,実在するものだけを認識するというやり方で一蹴してしまうことは,まったく理由がないことであるというわけではありません。ドゥルーズは『スピノザと表現の問題』の中ではただそういっているだけで,そういうことの論拠を具体的に示しているわけではありませんが,まずは,なぜドゥルーズがそのようにいうことができたのかという観点から,この問題にアプローチしていくことにします。
 『エチカ』のことは『エチカ』に訴えるというのが僕の方法ですが,この場合には第二部定理七系に注目するのが最もよいのではないかと思います。いうまでもなくこの系を,スピノザ自身は神のうちにあるすべての観念は十全な観念であるという意味で用います。しかしここではこれをもう一歩進め,次のように理解します。
 第一に,神の無限な本性から形相的に生じるすべてのことが,神の観念から同一の秩序で客観的に,すなわち観念として生じるのであれば,形相的に実在するすべてのものの十全な観念は神のうちにあるということになります。
 次に,これらの間には同一の秩序があるだけで,一方が他方の原因であったり結果であったりするわけではありません。これは第二部定理五および第二部定理六から明らかです。よって第一の事柄は逆からもいうことができます。すなわち神があるものを客観的に,すなわち観念として把握するならば,その観念の対象ideatumというのは形相的に,すなわち観念のないしは思惟の属性の外に実在するということになります。
 ところで,知性というものが,ある思惟の様態を構成している観念の総体のことを示すのであれば,こうしたすべての観念というものを,神の知性とみなすことが可能です。この知性は無限に多くのものの観念によって構成されますから,『エチカ』ではとくに無限知性といわれているわけです。しかるにこの無限知性は形相的に実在するすべてのものの観念によって構成され,かつ無限知性のうちにある観念の対象は形相的有として実在します。したがって,第一部定義四でいわれている知性をこうした無限知性であると理解するなら,ドゥルーズのやり方は確かに理があるということになると思うのです。
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