スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

サンケイスポーツ盃船橋記念&不当な要求

2019-01-16 19:45:05 | 地方競馬
 第63回船橋記念
 発馬後はクルセイズスピリツ,アピア,ドラゴンゲートの3頭が並ぶ形。アポロリュウセイ,ビヨンドボーダーズの順で前の3頭を追い,ここまで一団。前に行かれずに下がったウェイトアンドシーとラッキープリンスが並んでその後ろにユアマイラブ。ここからまた差が開いてジョーオリオン,ユメノヒト。また離れて最後尾にアメリカントップと,この距離にしては縦長の隊列。最初の400mは22秒8のハイペース。
 3コーナーを回ってから単独で先頭になったアピアが,後ろを離していき,事実上ここでレースに決着をつける形。クルセイズスピリツは何とか追っていきましたが,ドラゴンゲートは一杯に。直線でもアピアはさらに差を広げて圧勝。追ったクルセイズスピリツは苦しくなり,馬場の中ほどから差し込んだビヨンドボーダーズが3馬身差で2着。大外を追いこんだユアマイラブが1馬身半差の3着。クルセイズスピリツはクビ差で4着。
 優勝したアピアは前走のオープンから連勝。南関東重賞は昨年の習志野きらっとスプリント以来の4勝目。船橋記念は第62回からの連覇で2勝目。今日はメンバー構成から負けることはほぼないだろうと思っていましたが,予想以上の圧勝になりました。ただ,時計はさほど早くないので,ほかの馬が走らな過ぎたという面もあったのではないかと思います。母の父はアグネスタキオンビューチフルドリーマーオーマツカゼの分枝。
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は東京シンデレラマイル以来の南関東重賞32勝目。船橋記念は連覇で2勝目。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞11勝目。船橋記念は連覇で2勝目。
 船橋競馬は騎手の防寒対策のためアンダーウェアを着用。このために斤量が一律に加算されています。500gのこととはいえ,競走馬に負担を強いて競馬を開催することには僕は反対します。

 第四部序言から分かるように,僕たちは排泄を完全に統御することができる,あるいは管理することができる人間を想定し,そういう人間について,排泄を完全に統御しまた管理できる人間であると判断します。この意味において,排泄を完全に統御しまた管理できる人間は現実的に存在しません。このことは僕も肯定します。ですがより多く排泄を管理しまた統御できる人間はより完全で,より少なくしか管理し統御することができない人間はより不完全であるということは否定するのです。それは謬見でありまた偏見であるからです。これは単により少なくしかできない人間に対する偏見であるというわけではなく,より多くできる人間に対しても偏見であると僕は考えます。ただ,もし偏見というのが否定的ニュアンスだけを伴うのだというなら,それは少なくしかできない人に対してのみ偏見であるといういい方にも僕は異を唱えません。
                                
 ある人間の現実的本性actualis essentiaと別の人間の現実的本性は異なるのですから,よく統御できる人間とあまり統御できない人間が現実的に存在することは何ら不思議なことではありません。このとき,あまり統御することができない人間に対して,よりよくできる人間のようになれと要求するのは,ある与えられた現実的本性から別の現実的本性になれと要求していることになり,これは不当な要求です。本性という点でいえば,猫に対して馬になれといっているのと同じ要求であり,人間に対して神Deusになれといっているのと変わるところがない要求であるからです。ですから実はトイレトレーニングによって獲得される,あるいは獲得し得るレベルには,予め個体差があると考えておくべきです。したがってすべての人間に対して同じレベルの要求をするトイレトレーニングがあるとすれば,それは人間の現実的本性を無視した不当なトレーニングを課していることだと僕は考えます。そしてこの考えは,トレーニングすなわち訓練一般について考えてみればよく理解できるでしょう。たとえばサッカーの技術を万人に同程度に要求することとか,将棋を指す能力を万人に同じだけ要求するのは,無茶な要求であると判断されるのではないでしょうか。
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王将戦&偏見

2019-01-15 19:08:21 | 将棋
 13日と14日に掛川城二の丸茶室で指された第68期王将戦七番勝負第一局。対戦成績は久保利明王将が16勝,渡辺明棋王が15勝。
 掛川市長による振駒で渡辺棋王の先手と決まり,久保王将の角道オープン中飛車。後手から角を交換して持久戦に。後手が馬を作ったのに対して先手が玉頭戦に持ち込むという展開になりました。
                                    
 後手が8筋に歩を連打して金を上ずらせた後に7四の歩を取って手を戻した局面。ここから先手は☗8四銀☖同銀☗同角と進めました。後手は☖5五馬。
 ここから先手は☗8三歩と打ち☖同王に☗6六角とぶつけました。この順は危険なようにも思えますので,先手はもしかしたら読み切っていたのかもしれません。
 後手は☖同馬☗同銀と交換して☖6九角と打ちました。
                                    
 この手が詰めろ金取りなので先手の手順は危険に思えるのですが,ここから☗8四歩☖9二王としてから☗7八歩と受けた局面は☖5八角成に☗8三銀と打ち込んでいって先手の一手勝ちでした。ただ,第2図の☖6九角のところでは☖8七歩の王手をして☗同金と引かせてから☖6九角と打つ順もあり,それだと☗8四歩に別の変化があるかもしれません。もし☗8四歩が成立しない手順があったのなら,後手にもまだチャンスがあったのではないでしょうか。
 渡辺棋王が先勝。第二局は26日と27日です。

 第四部序言から,なぜ僕たちがものを完全といったり不完全といったりすることが偏見であるといえるのかといえば,それはものについての真の認識cognitioに基づいてはいないからです。いい換えればそれは混乱した観念idea inadaequata,誤った観念idea falsaに基づく判断であり,ものについては虚偽falsitasであり,単に自分の精神mensの状態だけを表示しているのすぎません。とりわけこのような仕方でものを完全といったり不完全といったりすることが正しいと信じている人は,単に虚偽に基づいてそのものを判断しているだけではなく,そのものについて誤謬errorを犯しているということになります。よってそれは偏見あるいは謬見なのです。
 こうした謬見に基づいて排泄の管理あるいは統御について判断を下せば,どんな人間であっても排泄を完全に統御したり管理したりすることはできないということについては肯定するとしても,たとえばAという人間とBという人間がいたとして,Aという人間はよく排泄を管理しまた統御できるのに対し,Bという人間はさほど排泄を管理も統御もできないとしたら,Aという人間の方が排泄の管理や統御に対してより完全であるということになるでしょう。しかしすでに説明したことから理解できるように,これは謬見あるいは偏見であるのです。僕はこのような意味で排泄の管理ないしは統御に対して完全であるということは否定します。あるいはスピノザの哲学においてもそれは否定されなければならないと考えます。
 なぜなら,第二部定義六が明らかにしているように,あるものの実在性realitasがそのものの完全性perfectioにほかならないからです。そして実在性というのはあるものの本性essentiaを力potentiaという観点からみた概念notioですから,Aの本性とBの本性が異なっているだけAの実在性とBの実在性は異なります。よってAの完全性とBの完全性は異なるのです。ゆえにAに与えられた現実的本性actualis essentiaが,Bに与えられている現実的本性より,排泄をよく統御したり管理したりすることができるのであれば,Aの現実的本性とBの現実的本性はその分だけ異なるのですから,完全性も異なるのです。つまりそこに差異はあっても,AもBも同じように完全であるといわなければならないのです。
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和歌山グランプリ&第四部序言

2019-01-14 19:09:46 | 競輪
 和歌山記念の決勝。並びは三谷‐椎木尾‐東口の近畿,小川真太郎‐池田‐岩津の四国中国,中川‐小川勇介の九州で簗田は単騎。
 三谷と椎木尾が飛び出して三谷の前受け。最初は4番手に中川がいましたが,外から上がってきた簗田に譲り簗田が4番手で中川が5番手。7番手に小川真太郎で周回。残り3周のバックから小川真太郎が上昇。直後のコーナーで三谷がすぐに引いたので,小川真太郎が誘導の後ろに。三谷が4番手,梁田が7番手,中川が8番手の一列棒状に隊列が変化。このままペースが上がらず誘導が退避しないまま打鐘。直線に入ってようやく三谷が動いていきましたが,小川真太郎が突っ張りました。叩けなかった三谷は岩津の牽制も受けバックで苦し紛れにインに斬り込みました。この影響で隊列に乱れが生じ,小川真太郎の後ろは内に岩津で外が池田。池田の後ろに東口‐椎木尾で続く形に。直線に入るとインの岩津は動けず,外から踏み込んだ池田が突き抜けて優勝。2着は池田マークになった東口とその内の椎木尾で身体をぶつけての接戦でしたが,踏み勝った東口が1車身差の2着。椎木尾が8分の1車輪差で3着。
 優勝した香川の池田憲昭選手は12月の佐世保記念の最終日に行われた一発勝負のエボリューション競走以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースはまず三谷が有力と思いましたが,地元のふたりを連れていることもあり,場合によっては引き出そうとする競走をする可能性があり,早めに駆ければ番手の椎木尾は自力脚があるタイプではないので,後方で脚を溜めるであろう中川が有利になるのではないかと予想していました。中川が8番手になることは想定していた通りだったのですが,三谷があまりに中川を気にしすぎて発進を遅らせたために,小川真太郎のラインが有利になりました。やはりあの位置からの発進では,格下の小川真太郎といえども叩くのは難しく,もう少しレースに工夫が必要だったのではないでしょうか。

 僕たちはいくら眠らないようにしようとしても,いい換えれば自分が眠るという観念ideaに対してそれを否定する意志作用volitioを有していたとしても,眠ってしまう場合があります。排泄の場合もこれと同じであって,自分の排泄行為の観念に対してこれを否定する意志作用を有しているからといって,あるいは積極的ないい回しをすれば,自分の排泄行為を我慢するという観念にそれを肯定する意志作用を有しているからといって,常に排泄しないでいられるわけではありません。第三部定理二が示しているのはこのことであり,僕たちの身体corpusは僕たちの精神mensによってある運動motusをなしたりなさなかったり決定されるわけではないのです。ですから睡眠をそれ自体では完全に抑制することができないのと同じように,排泄をそれ自体で完全に統御したり管理したりすることができるわけではありません。またこのことは同時に,食欲,とりわけ過剰な食欲である美味欲luxuriaという欲望cupiditasに対抗する節制temperantiaが,精神の力potentiaであって,トレーニングの効果として習得される技術とは異なるということの説明にも役立つでしょう。
                                
 ここで僕がいっておきたいのは,僕たちが排泄を完全には統御したり管理したりできないというとき,この完全というのは一般的な意味を有するのであり,スピノザの哲学での特有の意味ではないということです。スピノザは人間が完全というようになった理由を,第四部序言の中で次のように示しています。
 「人間が一般的観念を形成して家,建築物,塔などの型を案出し,事物について他の型よりもある型を選択することを始めてからというものは,各人はあらかじめ同種の物について形成した一般的観念と一致するように見える物を完全と呼び,これに反してあらかじめ把握した型とあまり一致しないように見える物を,たとえ製作者の意見によればまったく完成したものであっても,不完全と呼ぶようになった」。
 これは人工的なものについてですが,この人工的なものについての見方が,自然物についてもいわれるようになったとスピノザは指摘しています。同時に,ここから分かるのは,僕たちがものを完全とか不完全と呼ぶのは,偏見であるということです。
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JRA賞&学習の基礎

2019-01-13 19:23:51 | 中央競馬
 昨年のJRA賞の競走馬部門は8日に発表されました。
 年度代表馬はシンザン記念,桜花賞,オークス,秋華賞,ジャパンカップと5戦全勝のアーモンドアイ。牝馬三冠を制したのみならず古馬最高峰のレースも制したのですから当然の満票でした。部門別では最優秀3歳牝馬でこちらも当然の満票。
 最優秀2歳牡馬はデイリー杯2歳ステークス,朝日杯フューチュリティステークスを含め4戦全勝のアドマイヤマーズ。例年なら文句なしの受賞となるところですが,票は割れました。僕はレースの内容からサートゥルナーリアの方が選出されるのではないかと予想していました。
 最優秀2歳牝馬はファンタジーステークスと阪神ジュベナイルフィリーズを勝ったダノンファンタジー。唯一の大レースの勝ち馬ですから順当な受賞でしょう。
 最優秀3歳牡馬は毎日杯,新潟記念,有馬記念を勝ったブラストワンピース。ここは5頭に票が入っているように,難しい選択だったようです。ですが僕なら迷わずにルヴァンスレーヴに投票したでしょう。逆にいえば大レースを複数勝した馬がほかにない中で3勝,しかも古馬相手に2勝しているルヴァンスレーヴ級の実績でこの賞を獲得できないのなら,ダート馬がこの部門で選出されるのは不可能ではないかという気がします。
 最優秀4歳以上牡馬はオールカマーと天皇賞(秋)を制したレイデオロ。昨年はジャパンカップと有馬記念を3歳馬が勝ったようにこの路線はやや低調でした。その中ではこの馬の選出が妥当という気はします。2017年の最優秀3歳牡馬で2年連続の受賞。
 最優秀4歳以上牝馬は東京新聞杯とエリザベス女王杯に勝ったリスグラシュー。この部門の選択は難しくない筈で,当然だと思います。
 最優秀短距離馬はシルクロードステークス,高松宮記念,セントウルステークス,スプリンターズステークスを勝ったファインニードル。1200m路線の大レースとその前哨戦を完全制覇ですから文句なし。満票であるべきだったと思います。最優秀4歳牡馬に選出されてもよい実績でした。
                                
 最優秀ダートホースはユニコーンステークス,ジャパンダートダービー,南部杯,チャンピオンズカップを制したルヴァンスレーヴ。これは当然の受賞で,満票でなかったのが不思議です。
 最優秀障害馬は中山グランドジャンプを勝ったオジュウチョウサン。障害はこの1戦だけで夏以降は平地競走を走りましたが,この1戦だけでこの馬が最強ということは明らかなので十分に受賞に値すると思います。2016年,2017年の同部門に続き3年連続の受賞。

 身体的技能の習得の際に,僕たちには何らかの思惟作用が必要とされています。これと逆に,知的な事柄を学習によって習得するときには,何らかの運動作用,すなわち身体corpusの働きactioが必要とされているのだというのが,「スピノザ的スピノザ」の当該部分の主旨です。田島正樹は人間が学習という行為をするときには,精神mensと身体の双方が働かなければならないというときに,知的作業の方に重点を置いて説明しています。なので僕はここでは逆に,身体的技能の習得にも知的作業は欠くべからざるものであるということを重点的に示しました。田島の論述と僕の探求を合わせれば,身体的技能の習得も知的作業の上達も,同じ意味で学習といわれなければならないということを,補完し合えるのではないかと思います。そして人間にとっての学習がこのようなものであるのは,人間の身体とその人間の精神は合一した同一個体であるということ,いい換えれば人間の精神とは第二部定理一三で示されているように,その人間の身体の観念であるということに由来するのです。このことと無縁の,あるいはこれを無視した学習というのは成立しません。トイレトレーニングという学習は,このことをよく示している一例であるといえるでしょう。
 本論とは無関係ですが,ここで誤解を招かないために次のことをいっておきます。
 トイレトレーニングというのは,排泄を自己の統御の下に,あるいは自己の管理の下に置くことの習得を意図した訓練です。ただしこの訓練は,完全に習得されることはあり得ません。僕たちの精神のうちには,自分の身体が排泄への移行期にあるという観念ideaは必然的にnecessario存在し,よってそれを意識化することは可能です。ただし第三部定理二が示すように,精神は自分の身体に対して,ある運動motusをなしたりなさなかったりするようには決定することができません。ですから僕たちがいくら自身のある個別の排泄の観念に対してそれを否定する意志作用volitioを有しているとしても,身体はそれとは無関係に排泄という作用をなす場合があるからです。これは排泄の観念と同様に第二部定理一二で説明される,睡眠の場合で考えればより明らかだといえるでしょう。
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小鹿の雑感⑧&身体的技術の習得

2019-01-12 19:01:28 | NOAH
 小鹿の雑感⑦でロッキー・羽田のことが語られた後,伊藤正男,プリンス・トンガ,百田義浩と百田光男の兄弟のことも語られているのですが,この部分は短いので割愛します。この4選手のうち伊藤のことは僕は知りません。
 小鹿は馬場が百田兄弟を全日本に入団させたのは力道山の後継者であることをアピールしたかったからだという主旨のことを言っています。天龍は百田家と日本プロレスの選手を引き受けた上で,日本テレビで放映されることが重要だったのだと言っています。馬場と日本テレビの関係は特殊なもので,必ずしも馬場が一方的に日本テレビでの放映を望んだわけではなく,日本テレビもプロレス中継を継続していくために馬場を必要としたという側面もあったのは事実でしょうが,馬場が全日本プロレスを設立する決心をしたのは,日本テレビでの放映が確約されてたからなのは確かな筈で,天龍の言っていることにも一理あるでしょう。ただ,仮にそれがなくても馬場は日本プロレスを退団したのは間違いないと僕は思います。
 小鹿は,馬場は日本プロレスの悪しき面を変革したい気持ちがあったと言っています。日本プロレスは力道山が設立し,絶対的なエースとして君臨した団体でした。力道山は大相撲を廃業してプロレスラーに転向しましたので,日本プロレスには相撲界のしきたりのようなものが色濃く残っていたようです。野球を断念してプロレス界に入った馬場には,そのしきたりが肌に合わなかった面があったのは間違いありません。これは馬場自身が示唆していることでもあります。そして実際に全日本プロレスは,で示したように,少なくとも1976年までは馬場以外の選手には付き人がいませんでした。それは馬場が付き人制度は派閥を作るからダメだと言っていたと天龍は証言していて,これは真実味があるのですが,そもそも付き人という制度を馬場が嫌っていたという可能性もあるのかもしれません。馬場の小橋への指導からみる限り,馬場は付き人に対して,おそらく力道山ならしていたであろう無茶な要求をするようなことはなかったと思われますので,こちらの可能性の方も否定はできないと思います。

 身体的機能の習得という意味での学習について,思惟的作用も必要とされているということは,トイレトレーニングのように,第二部定理一二と関係する場合にだけ妥当するわけではありません。第二部定理一七とか第二部定理一九のみによって説明されなければならない身体的機能の習得の場合にも同様です。
                                
 たとえばある楽器の演奏技術を習得するということは,確かに身体的機能の習得であるといえるのですが,これは第二部定理一二とは何の関係ももちません。楽器が演奏できようができまいが,身体corpusの現実的存在は同じように維持されるからです。いい換えれば,何らかの楽器が演奏できないということは,僕たちの身体の「中に起こること」ではありません。ですが,楽器を演奏するということは,単にその楽器から何でもいいから音を出せればよいというものではありません。もちろん,音を出すことがそれ自体で困難であるという楽器は存在するのであり,その場合は音を出すということ自体が演奏の第一歩になることは間違いありません。けれどもそれは演奏とはいえません。演奏というのは決まった旋律に則して音を出すということを意味するからです。したがってこの旋律の観念ideaというのは演奏することよりも本性naturaの上で「先立つ」形であるのでなければなりませんが,それは身体がある,あるいは楽器があるといわれるような意味で,知性intellectusの外に形相的にformaliterあるのではありません。知性のうちに客観的にobjectiveあるのです。
 この場合と同じように,ある道具を使用するという場合も,その道具を使用する目的あるいは方法といったものが前もって知性のうちにあるのでなければ,僕たちは正しい意味でその道具を使用したことにはなりません。たとえば包丁は調理のために食材を切る道具であって,それが正しいとされる使用法です。包丁で俎板を叩けば音が出ますが,そのような楽器の一種として包丁を用いる技術を習得したとしても,それは包丁という道具を正しい意味で使用する技術を習得したとはいえないでしょう。ですから何であれ,道具を使用する技術を習得するためには,その道具の正しい使用法というのを知っているのでなければならないのです。
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あほう鳥①&第二部定理一三系

2019-01-11 19:08:33 | 歌・小説
 「化粧」は「わかれうた」も収録されている「愛していると云ってくれ」というアルバムの中の楽曲です。このアルバムの中にはほかにも僕が聴いてみたり口ずさんだりする歌があります。今回はその中から「あほう鳥」を紹介します。
                                     
 奇妙なタイトルと思われるかもしれませんが,これは歌い手である「あたし」とおそらくはつきあっているのだろう「あんた」のことを指示しています。

     あたしはとても おつむが軽い
     あんたはとても 心が軽い
     二人並べて よくよく見れば
     どちらも泣かない あほう鳥


 あほう鳥が鳴くのか鳴かないのかは僕は知りません。ただこのふたりはあほう鳥ではあっても泣かないあほう鳥なのです。

     あたしはいつも ねぐらを探す
     あんたはいつも 出口を探す
     二人あわせて 二つにわれば
     どちらもいいとこ あほう鳥


 よくてアホウドリだという表現は,分かったような分からないような表現だと思います。ただ,アホウドリがなぜこんな名前をつけられているのかといえば,簡単に捕まえることができる鳥だからです。その意味では,おつむが軽くてねぐらばかりを探している歌い手の方は,確かにアホウドリのように簡単に捕まえられてしまうのかもしれません。

 排泄が第二部定理一二だけで説明される現象であると想定すれば,それは人間の「中に起こること」ですから,身体corpusが移行期にあるときは必然的にnecessarioその人間の精神mens humanaのうちにその観念ideaがあります。そしてここでいう排泄の場合は僕たちは大抵はこの様式に則してそれを認識します。だから僕たちの精神が,自分の身体が排泄への移行期にあると表象するimaginariときには,現に僕たちの身体はそうした移行期にあることになるのです。
 実は僕たちがトイレトレーニングが可能であると思っているとすれば,それはこのことを前提としているのです。そしてこの定理Propositioから第二部定理一三すなわち人間の精神は自分の身体の観念であるということが帰結するのですから,僕たちは精神は身体の観念であるということを前提として,トイレトレーニングを課している,あるいは課されているのです。いい換えればトイレトレーニングの第一歩目は,自分の精神が確かに自分の身体の観念であることを知るという点にあるといって過言ではないのです。スピノザの哲学の中で,こうしたトレーニングが人間にとって可能であるということを示しているのは,第二部定理一三系であるといえるでしょう。
 「この帰結として,人間は精神と身体とから成り(hominem Mente, et Corpore constare),そして人間身体は我々がそれを感ずるとおりに存在する(Corpus humanum, prout ipsum Sentimus, existere),ということになる」。
 単に人間は精神と身体から構成されている,いい換えれば精神と身体が合一した一個体であるだけではないのです。僕たちの身体は,僕たちの精神がそれはあると感じている通りに存在しているのです。とりわけ,第二部定理一二でいわれているようなことであれば,単に身体があると感じられている通りに存在しているというだけでなく,身体がそのような運動motusをしていると感じている通りに存在しているのです。
 これで,トイレトレーニングという一種の身体的機能の獲得の学習について,それは単に人間の身体の運動と静止quiesだけで説明できるような学習ではなく,思惟作用が必然的に要求されている学習であるということ,かつそれはある人間の精神はその人間の身体と同一個体であることを前提とした学習であるということは理解できたと思います。
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書簡六十六&移行期

2019-01-10 19:14:44 | 哲学
 書簡六十五チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの質問に対するスピノザの返信が書簡六十六です。
                                     
 質問は,なぜ人間は第二部公理五でいわれているように,思惟の様態cogitandi modiと延長の様態しか,あるいは思惟の属性Cogitationis attributumと延長の属性Extensionis attributumしか認識できないのかというもので,チルンハウスがスピノザの哲学を検討すれば,それとは違うこと,すなわち人間は第一部定義六でいわれている神Deusの本性essentiaを構成する無限に多くの属性constans infinitis attributisを認識することができる筈だというものでした。
 スピノザの解答はわりと素気ないもので,第一部定理一〇により,各々の属性はそれ自身によって考えられなければならないのだから,無限に多くの属性から無限に多くの様態が生じるとしても,人間の精神mens humanaすなわち人間の身体humanum corpusの観念ideaは人間の身体だけを表現するexprimere精神なのであって,その他のものを表現することはできないというものです。
 このやり取りが何を意味するのかということは,僕も別個に詳しく探求します。また,『個と無限』の第二章はこのことを主題とした論考ですから,それもよく参照してみてください。ここでは,なぜスピノザの返信があまりに素気ないものになっているのかということについてだけ,僕の考え方を示しておきます。
 端的にいうと,人間の精神が人間の身体だけを表現し,その他のものを表現することはないということ,別のいい方をすれば,神の無限に多くの属性から無限に多くのものが発生するとき,その原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoがどの属性においても一致するのだとしても,それらがひとつの個物res singularisとして単一の精神を構成するというわけではなく,無限に多くの個物が無限に多くの観念として無限に多くの精神を構成するということは,スピノザにとってはあまりに明白なことだったのです。
 ここでもチルンハウスはスピノザの哲学を検討するときに,ある誤解をしているのです。そしてスピノザには,なぜそのような誤解が生じてしまうのかということ自体がよく分からなかったのではないでしょうか。

 この要求については,トレーニングの結果effectusとして得られるとされる状態がどういう状態であるかということから考えた方が分かりやすいです。
 僕たちの身体corpusは排泄をしなければ現実的存在を維持していくことができませんから,排泄は必ずします。これは人間の身体の現実的本性actualis essentiaであって,コナトゥスconatusであると考えて差し支えありません。ただ,それは必要である場合になされるのであって,常になされているわけではありません。というか,排泄ということの意味を広くとれば,実際にはそれは常になされているということもできるのですが,トイレトレーニングによって習得することを要求されている技術という観点からだけ排泄を考えれば,それは常になされているわけではありません。そもそもそれが常になされているなら,それを管理したり統御したりすること自体が不可能であるといわなければならないでしょう。
 したがって,身体は排泄をしているときもあればしていないときもあり,していない状態からする状態へと移行しているときもあることになります。僕がこれまで排泄に関する観念ideaといっていたのは,この移行期の観念のことです。まずこの観念,正確にはその観念の観念idea ideaeですが,それを精神mensのうちに有するということが,トイレトレーニングの第一歩として求められていることであることになります。
 ただし,これは当然のことのように思われるかもしれませんが,その観念あるいは観念の観念は,自分の身体の状況,自分の身体が排泄への移行期にあるという状況を,正確に表示しているのでなければなりません。もしこの観念がないとトイレトレーニングは何らの成果も生み出せませんが,仮にそういう観念があるとしても,それが自分の身体について正しい状態を表示していないとしたら,すなわち,自分の身体が排泄への移行期にあるという観念がその人間の精神のうちに発生したとき,実際にはその身体は移行期にあるのではないとしたら,やはり同じようにトイレトレーニングは何らの成果も生み出すことはできない筈なのです。
 もしこのことを当然だと思うとすれば,このように状況を誤って表示する認識をしないからです。
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ニューイヤーカップ&管理のための要求

2019-01-09 19:17:33 | 地方競馬
 第62回ニューイヤーカップ
 マムティキングは立ち上がり3馬身の不利。アギトはダッシュがつかず5馬身の不利。内目の枠に入ったヒカリオーソが逃げると予想していましたが,まず先頭に立ったのはトーセンボルガ。正面に入って外からこれを追い抜いたレベルフォーの逃げに。向正面に入ったところでリードは3馬身。2番手にトーセンボルガ。4馬身差で3番手がヒカリオーソ。アイアスがその外。4馬身差の5番手にトーセンガーネット。5馬身差でマイコート。6馬身差でカネトシテッキンとレオズソーダライト。3馬身差でスズブルースカイとマムティキング。3馬身差の最後尾にアギトというとても縦に長い隊列。前半の800mが47秒9という猛烈なハイペース。
 レベルフォーの逃げは向正面まで。どうやら心房細動を発症したようで競走中止。トーセンボルガが先頭に立ち,アイアスが2番手。内にヒカリオーソで外からトーセンガーネット。さらにマイコートが追ってくるという形でコーナーを通過。アイアスは一杯になり,トーセンガーネットがトーセンボルガに並び掛けて直線の入口へ。ここでトーセンボルガも一杯。トーセンガーネットがやや外に膨れたので,その外を回っていたマイコートはトーセンガーネットの内に進路を取り,ずっと内を回ってきたヒカリオーソと並んで追い上げようとしましたが,直線ではトーセンガーネットが差を広げる形になり優勝。内目を何とか捌いてきたヒカリオーソが1馬身半差で2着。マイコートはクビ差の3着。
 優勝したトーセンガーネットはこれが2勝目で南関東重賞初制覇。平和賞ではヒカリオーソの2着でしたが,今日はヒカリオーソがスムーズさを欠いた分,逆転したという形。ですからこの2頭は実力の差はさほどないとみてよいようです。となると牡馬のクラシック路線ではやや厳しいという気がするのですが,この馬は牝馬ですから,同じ条件の桜花賞では可能性があるとみておいた方がいいでしょう。父はアグネスデジタル。母の父はクロフネ。祖母のひとつ下の全弟に2004年にデイリー杯2歳ステークス,2005年にシンザン記念に勝ったペールギュント
 騎乗した浦和の短期免許を獲得中の五十嵐冬樹騎手は2001年2月に報知グランプリカップを勝って以来の南関東重賞2勝目。同年の12月には全日本2歳優駿も勝っています。管理している浦和の小久保智調教師第57回,58回に続く4年ぶりのニューイヤーカップ3勝目。南関東重賞は33勝目。

 原理に例外はあるのですが,食とか睡眠,排泄に関わる観念ideaは,基本的には第二部定理一二が原理となって現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに発生ます。これが原理となっているということが重要なのは,この定理Propositioは続く第二部定理一三,すなわち僕たちの精神は僕たちの身体の観念であることを導くための鍵となっている点なのです。とりわけ僕たちは食欲の赴くままに食べるとか,睡眠欲に従属するがままに眠ることについては,排泄の場合のようなトレーニングすなわち学習を課せられることがありません。食を管理するとか統御するとかいうのは一般的には食べ過ぎないように注意するという意味をもつのであって,これは節制temperantiaに属します。節制は精神の力potentiaなのであって,僕たちがそれについて学習して習得する技術とは異なります。睡眠を管理するとか統御するというのは,寝不足に注意するか,そうでなければ寝坊とか寝過ごしをしないようにすることを意味するのであって,これは睡眠そのものというより自分にとっての時間tempusを管理したり統御したりすることを正確には意味するのであり,睡眠をそれ自体で統御したり管理することを意味はしません。というか,眠っている間に何かを統御したり管理したりすることは僕たちには不可能なので,これは当然といえば当然といえるでしょう。
                                
 ところが,僕たちが習得を求められるトイレトレーニングの場合には,排泄をそれ自体で統御したり管理したりすることを要求されます。そして統御するとか管理するということの意味は,適切な場所で適切な仕方で排泄するということなのです。なので,ある場合には排泄に関する欲望cupiditasに従ってはいけないけれども,ある場合には従ってもよいということを意味することとなり,従ってよい場合にはむしろ積極的に従うということを求められ,そうでない場合は従わないことを求められるのです。よってそうした欲望があるということが意識されているということが第一歩の段階で必要になるのです。このために,精神が身体の観念であるということが,食や睡眠の場合よりもずっと重要になります。というか,そのことも知っているということを実際には要求されているのです。
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印象的な将棋⑯-1&別の喜び

2019-01-08 19:04:31 | ポカと妙手etc
 今回は中盤で派手な応酬があった第44回NHK杯の準決勝の将棋を紹介するのですが,その将棋に関連する将棋を事前に何局か紹介します。まずは第11回全日本プロトーナメントの準決勝の将棋です。
                                     
 飛車先交換相腰掛銀の将棋で,局面は先手が銀を移動させたところ。その前に後手が玉も6一の金も動かさずに☖4三銀直と雁木の形を作ったのが珍しい指し方で,あるいは新手であったかもしれません。
 狙いは第1図でいきなり☖6五銀とぶつけることにありました。この戦型はこのように銀をぶつけるのが狙い筋になるのでガッチャン銀という俗称があるのですが,このように居玉で後手からぶつけていくのは考えにくく,先手も意表をつかれたのではないかと思います。
 この局面は放置しておけば☖7六銀と進出されてしまいますから☗同銀☖同歩は必然です。そこで先手は☗8六歩と銀冠を目指したのですが,銀の交換で伸ばした歩を☖6六歩と突き捨てるのが好手でした。
                                     
 ☗同角は☖6五銀と打たれてしまって先手がいけません。なので☗同歩ですがこれは後手の大きな利かし。この後,先手に失着が出たこともあるのですが,64手という短手数で後手の勝ちになっています。

 こうした例外は,食の場合にだけ発生するわけではありません。たとえばだれかが欠伸をしているのを目撃することによって自分も眠気を感じてしまうとか,あろ特定の音を聞いたりある特定の匂いを嗅ぐことによって尿意なり便意なりを催すということは僕たちには確かにあるのであって,こうした現象はそのような表象像imagoなしにはあり得ません。つまりそれは第二部定理一二だけで説明することができるわけではなく,第二部定理一七ないしは第二部定理一七系によって説明されなければならないのです。
 睡眠や排泄の場合より,食の場合の方がこうしたことは頻繁に生じるといっていいかもしれません。これにもはっきりとした理由があります。それは僕たちにとって食欲という欲望cupiditas,あるいはその観念ideaは,別の知覚perceptioである味覚や味覚から発生する喜びlaetitiaと関連している場合が多いからです。これに対して睡眠とか排泄に関連する欲望は,喜びとの関連でいえば,その欲望自体が充足される喜びとは別の喜びと関連していることが少ないのです。このゆえに僕たちは,食欲には二種類があるということは理解しやすいのですが,睡眠や排泄と関わる欲望にも実は二種類あるのだということには気付きにくいのです。だから僕は食との関連で説明するのが分かりやすいと思い,まずその例を用いたのです。
 ただし,次の点にも気を付けておいて下さい。
 食欲という欲望が,その欲望自体が充足されるのとは別の喜びと結び付きやすいのは,それだけ多くの食糧が存在している,あるいは存在していると表象されるからです。いい換えれば食べきることができないほどの食糧で溢れかえっているからです。ですからもしも食糧が極度に不足しているという状態では,食欲自体が充足される喜びが,それと関連する別の喜びよりずっと大きくなるでしょう。他面からいえば,食欲が充足される喜びが,それとは別の喜びとはそれだけ関連付けにくくなるでしょう。よって人間はそのような状態に置かれれば,あるいは現にそのような状態に置かれている人間は,食に関する観念も,排泄に関する観念や睡眠と関連する観念と,そう大差がないものとして認識するcognoscereことになります。
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鳳凰賞典レース&原理の例外

2019-01-07 19:13:32 | 競輪
 立川記念の決勝。並びは鈴木‐河村の関東,桐山‐大塚の南関東,竹内‐浅井の中部,稲垣‐中野の近畿で清水は単騎。
 前受けをしていた竹内を稲垣が叩きにいったのが残り3周のバック。竹内がやや車を下げたのでバックの出口で稲垣が誘導の後ろに。このラインに鈴木が続きました。竹内は後ろまでは下げずに3番手のインで鈴木と併走。ホームで浅井の後ろにいた桐山がホームで上昇。清水はこのラインには続かず浅井の後ろに。桐山が稲垣を叩くと鈴木がスイッチ。バックに入ってから発進していくと稲垣も仕掛け,先に桐山を叩いた鈴木の前に出て打鐘。ここから竹内の巻き返し。清水まで連れてホームで稲垣を叩きました。清水の後ろには桐山がスイッチ。後方からの巻き返しはなく,最終コーナーで桐山がインを突いたものの前には出られず,前3人での直線勝負。早めに踏んで大外から前のふたりを差した清水が優勝。番手の浅井は4分の3車身差の2着。逃げた竹内が1車身半差で3着。
 優勝した山口の清水裕友選手は昨年11月の防府記念以来の優勝で記念競輪2勝目。ここは単騎での戦いになりましたが,脚力だけでいえば浅井が勝つか清水が勝つかというメンバー構成でしたから,好位置を確保できれば優勝の目もあるだろうと考えていました。竹内の先行になったので展開的には浅井の方が有利でしたが,やはり浅井も無碍に早い段階から踏んでいくというわけにもいかなかったのでしょう。ですからこのラインの3番手を取れたのが大きな勝因になったといえそうです。中国地区は有力選手が少ないため,今日のようにラインができないケースも他地区の選手より増えるのかもしれませんが,脚力でそれを補うことが可能な筈ですから,今年は昨年以上の活躍を期待してよいものと思います。

 自分の食に関する観念idea,自分の睡眠に関する観念,自分の排泄に関する観念が発生する原理はこの通りですが,厳密にいうなら第二部定理一二が絶対的な意味で原理を説明するわけではありません。これは次のような事情によります。
                                
 食に関する観念,あるいは食に対する欲望cupiditasである食欲の場合で説明するのがもっとも簡潔だと思いますので,まずこの例で示しましょう。僕たちは食欲という同じことばで表現される欲望であっても,その感じ方は大まかにいうと二種類に分類するのが一般的です。ひとつはたとえば飢餓状態における食欲であり,もうひとつは美味しそうなものを表象したときに感じる食欲です。前者は分かりやすくいえば腹が減っているときでなければ感じない食欲ですが,後者はそれとは異なり,必ずしも腹が減っていなくても感じる場合がある食欲です。たぶんこれら二種類の食欲があるということは,ほとんどの人が経験的に知っているのではないかと思います。
 これを表象imaginatioのあり方として説明すれば,前者の食欲は第二部定理一二により,かつそれのみによって説明されなければなりません。しかし後者の食欲は,美味しそうなものという外部の物体corpusの表象像imagoなしにあり得ないことが明白なので,第二部定理一七なしには,あるいは第二部定理一七系なしにはあることができない食欲です。もう少し別のことばでいえば,前者は何でもいいからとにかく何かを食べたいという食欲であり,後者はある特定のものを食べたいという食欲です。実際に腹が減っているときは,目の前に食べ物があろうとなかろうと関係なく腹が減っているのですから,この食欲は食物の表象像があるかないかと関係なく湧く食欲です。後者はある特定のものを食べたいという食欲なのですから,その特定のものの観念すなわち表象像なしにはあることができない食欲なのです。
 これらが別の食欲であるということは,第三部定理五六から明らかです。この定理PropositioはAに対する食欲とBに対する食欲は,同じ食欲でも別の食欲であることを示します。なのでラーメンに対する食欲とカレーに対する食欲は別の食欲です。よって何でもいいという食欲もまた別の食欲なのです。
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荒法師&観念の起源

2019-01-06 19:09:39 | NOAH
 『外国人レスラー最強列伝』の第7章は荒法師と呼ばれたジン・キニスキーです。なぜ荒法師といわれているのかは僕には分かりません。プロレスラーとしての最大の実績は,鉄人からNWAの王座を奪取したことで,その後約3年間,王者として君臨し,ひとつの時代を築きました。
                                      
 僕はキニスキーの試合はテレビの過去映像でもほとんど視たことがありません。ですからどんなプロレスラーであったのかは語ることができません。それでもキニスキーは排除せずにとりあげたのには,いくつかの理由があります。
 キニスキーは身長が193㎝あり,大型でした。このために馬場の好敵手となり得ました。日本プロレス時代の馬場にとって,本当の意味で好敵手といえたのは,このキニスキーとボボ・ブラジルではなかったかと思います。馬場とブラジルが1966年6月に蔵前国技館で戦った試合は高く評価されているようですが,馬場は生涯のベストバウトのひとつとしては,翌年の8月の大阪球場でのキニスキー戦の方をあげています。ブラジルとキニスキーは共に馬場を破ってインター選手権の王者になっていますから,やはりこのふたりは特別だったとみていいのではないでしょうか。
 僕はブラジルは生で見たことがありませんが,キニスキーはあります。1993年6月に,馬場の5000試合出場記念大会というのが日本武道館で行われ,このときに特別ゲストとしてキニスキーが呼ばれ,リングに上がりました。僕もこの日は武道館で観戦していましたので,生のキニスキーを目撃することができたのです。
 このときに特別ゲストとして来日したように,ライバルではありましたが馬場との間では友情が成立し,それが続いていました。人間発電所ほどその関係が伝えられていないのは,キニスキーは馬場より10歳も年上だったからでしょう。ハンセンとサンマルチノの邂逅があった馬場の引退試合に,サンマルチノのパートナーとして選出されているのですから,馬場の終生の友人のひとりであったことは間違いないと思います。

 人間が何かを知るとき,何かを意識するとき,その精神mensのうちでどのような作業が行われているのかということは分かりました。次に重要なのは,何かを知るためにはその何かの観念ideaがその人間の精神のうちになければならない,あるというとき,その観念がなぜあるのかということを解明することです。自分の排泄に関わる観念についていうなら,その観念がその人間の精神のうちに生じているのはなぜかということです。
 これを最も単純に説明するのは第二部定理一九です。人間の身体corpusが外部の物体corpusから刺激を受けると,人間の精神は第二部定理一七によりその外部の物体が現実的に存在すると表象するimaginariのですが,それと同時に,自分の身体も現実的に存在すると表象するからです。ただしこのことは,この説明においては基礎中の基礎です。というのは,すでに説明したように排泄というのは身体がなすある運動motusなのであって,精神がなす思惟作用ではありません。したがって自分の排泄行為に関連する観念を有するためには,自分の身体の観念がまずなければなりません。この定理Propositioはそのことだけを説明します。ただしこれがなければ自分の排泄に関する観念が生じ得ないことは明白ですから,基礎であるといっても絶対的な意味において必要な基礎ではあるといえます。
 排泄というのは,人間の身体が現実的な存在existentiaを維持していくためには必要な運動です。他面からいえば,排泄が行われないならば,その人間の身体は現実的に存在していくことが不可能になります。したがってそれは身体の現実的本性actualis essentiaを変化させてしまうようなことだといえます。こうしたことがその身体の「中に起こること」であると僕は考えています。よって,排泄に関する観念がある人間の精神のうちに生じるということは,第二部定理一二によって具体的に説明されることになります。
 少し前に検討したように,人間は食べていかなければ現実的存在を維持していくことができませんし,眠らなければ現実的存在を維持していくことができません。ですから自分の食に関する観念とか睡眠に関連する観念も,これと同じことによってその人間の精神のうちに生じるのだといえるでしょう。
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化粧④&意識と無意識の間

2019-01-05 19:01:22 | 歌・小説
 化粧③で,凡庸なことばで示された歌い手の矜持といった部分は,この楽曲の1番と2番の両方に出てきます。そしてその後,さらに同じフレーズがリフレインされています。

                                     

     バカだね バカだね バカだねあたし
     愛してほしいと 思ってたなんて
     バカだね バカだね バカのくせに
     愛してもらえるつもりでいたなんて


 手紙の束を送った相手が自分のことを愛してくれる筈もなかった。そんな相手に愛してほしいと思っていた自分はバカだったし,そんなバカなことを思いながら,愛してもらえる気になっていた自分はバカだった。
 「化粧」という楽曲の全体からは,この部分をそのように解釈しておくのが妥当かもしれません。けれど僕は,この部分はそれとは異なった解釈もできると考えています。
 最初の2行は,愛してほしいと思っていたとはバカだったと解釈できます。これは愛してくれるわけのない人に愛してほしいと思っていたのはバカだったとも解釈できるのですが,愛してほしいとだけ思っていた,いい換えれば,自分から愛そうとは思わずに愛してほしいと思っていた,愛を与えることなく受け取ろうとしていた自分はバカだったという解釈も成り立つと思うのです。
 その解釈が成り立つなら,残りの2行は,愛そうとすることなく愛してほしいと思っていたバカのくせに,それでも愛してもらえるつもりでいた時分はバカだったという解釈になります。バカのくせに愛してもらえるつもりでいた,といういい方からすると,実はこちらの解釈の方が,楽曲全体を無視してこの部分の文意だけからみれば,より正しいことばの使い方のように思えるのです。
 もしかしたらこの歌い手は,愛そうとせず愛されようとしていた自分を後悔しまた反省しているのかもしれません。

 これは一般的にいえる事柄ですが,ある人間の精神mens humanaのうちにXの観念の観念idea ideaeがある場合,Xの観念ideaもその同じ人間の精神のうちにあります。いい換えれば,ある人間がXを意識することができるなら,Xの観念はその人間の精神のうちにあるのです。第二部定理四三は実はそれ自体で明らかな定理Propositioであって,これがそれ自体で明らかであるということは,このことに起因します。
 ではなぜそのようにいえるのかといえば,第二部定理二一により,ある人間の精神とその人間の精神の観念が合一している,つまり同一個体であるからです。よってその人間の精神のうちにある観念とその観念の観念も同一個体でなければなりません。なぜなら人間の精神というのはそれによって構成される個々の観念の集合体のことなのであり,精神と精神の観念が同一個体であるなら,精神を構成しているある観念とその観念の観念もまた同一個体でなければならないからです。
 このことが一般的に妥当するのですから,排泄に関連する観念,より具体的にいえば自分の排泄に関連する観念の場合にも妥当します。つまりある人間が自分の排泄に関連する事柄を意識することができるのなら,この人間の精神のうちには自分の排泄に関連する観念があるのです。実際には僕たちは何であれ,何かを意識するという場合に,このことまで意識するわけではありません。意識は観念の観念であると僕は考えますが,それに対比していうなら観念は無意識に該当するのであって,僕たちは何かを意識するときに,自分の精神のうちにある無意識を意識しているというようには把握しないからです。しかしながらこの把握は実際には行われているといわれるべきです。というのは僕たちは何かを意識しているならそれを意識しているということを知ることはできるのであり,これは意識と意識の間,観念の観念とその観念,つまり観念の観念の観念との間で行われるのですが,これを否定することはだれにもできないでしょう。これと同じことが無意識と意識との間でも行われているのです。他面からいえば,人間は何かを意識するとき,意識されたものとその観念が同一個体であることを知っているのです。
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チルンハウスの誤解②&訓練の第一歩

2019-01-04 19:13:21 | 哲学
 書簡六十三の第二の質問では,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがスピノザの哲学にある誤解を有していたことが明らかだと僕は考えます。ですがその誤解の源泉がどこにあったのかということは,ふたつの異なる点に求めることが可能に思えます。これを繙くためにまず,でチルンハウスの主張としてあげた三点は,字義通りに解したとき,スピノザの哲学において正しいのか誤りであるのかを確認しておく必要があります。
                                     
 Ⅰは誤りです。スピノザの哲学では,AとBの区別distinguereが様態的区別であるならAとBは共通点を有し,AとBの区別が実在的区別であるならAとBは共通点を有さないということになっています。Xという属性attributumによってその本性essentiaを構成される実体substantiaと,Xの属性の様態modusとの区別は,実在的区別に類する部分もあり,様態的区別に類する部分もあって,僕は様態的区別に類する部分の方が重要ではないかと考えますが,ここではこの議論の厳密性のために,その区別は実在的区別であり,Xの属性およびその属性によって本性を構成される実体と,Xの属性の様態との間には共通点はないとしておきます。
 書簡六十四でスピノザがいっているように,絶対に無限な知性intellectusいい換えればDeusの知性は思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態すなわち思惟の属性の様態です。人間の知性とはある有限個の観念ideaの集積のことですから有限様態ですが,当然ながらそれは思惟の属性の有限様態です。つまり神の知性も人間の知性も思惟の属性の様態なので,それらは共通点を有します。
 Ⅱは正しいです。これはスピノザが第一部定理三でいっていることであり,チルンハウスは所持を許されていた『エチカ』の草稿からこの主張をしているのです。
 Ⅲも正しいのです。なぜなら人間の知性は思惟の属性の有限様態すなわち個物res singularisですから,それが現実的に存在するとみられる限り,その原因causaは第二部定理九の様式で説明されなければなりません。それによればその原因は,それとは別の個物の観念です。ところが神の知性は思惟の属性の直接無限様態であり,個物の観念ではありません。ですから神の知性が人間の知性の原因であるということはないのです。

 排泄というのは人間の身体corpusがなす延長作用であって,人間の精神mens humanaがなす思惟作用ではありません。したがって第二部定理六により,それはDeusの延長の属性Extensionis attributumによって説明されなければなりません。あるいは延長の属性の直接無限様態である運動motusと静止quiesによって説明されなければなりません。ですから,排泄に関して現実的に存在する人間が何らかの技能ないしは技術を習得するということは,延長の属性の下で説明されなければなりません。これは大前提であって,僕も肯定します。
 しかし,トイレトレーニングという訓練に関しては,これだけで説明することはできないのです。なぜならこの訓練のためには,排泄に関する何らかの観念ideaが,その排泄をなす人間の精神のうちに前もってある,訓練そのものより本性naturaの上で先立つ形であることが要請されているからです。これはそれ自体で明らかで,もしこうした要請がないとしたら,人間は排泄に関して訓練をするということ自体が不可能であるといわなければならないでしょう。他面からいうなら,排泄に関する何らかの観念を有するということは,この訓練の少なくとも一部であり,訓練の第一歩に属するのだと考えなければなりません。いうまでもなく観念とは思惟の様態cogitandi modiですから,この訓練は実は思惟作用を伴わずにはあり得ないのであり,純粋に身体の運動と静止だけによって説明することは不可能なのです。
 このときに重要なのは,排泄に関する何らかの観念といっても,それは排泄一般の観念ではないということです。というのはこの訓練というのは自分の排泄についての訓練なのであって,それ以外の何かの訓練ではありません。よって排泄一般の観念がある人間の精神のうちに存在するだけでは,この人間はこの訓練を実行することはできないのであって,自分の排泄に関する観念が精神のうちにあるのでなければならないのです。つまり前に挙げた要請をもう少し具体化すれば,自分の排泄に関する観念が自分の精神のうちにあるようにするのが,この訓練の第一歩であるということになります。
 ただ,実際にはそれは観念ではなく観念の観念idea ideaeなのです。それは意識されていなければならないからです。
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報知オールスターカップ&学習

2019-01-03 18:51:38 | 地方競馬
 金沢から1頭,兵庫から1頭が遠征してきた川崎記念トライアルの第55回報知オールスターカップ。瀧川騎手が疾病のためガリバルディは町田騎手に変更。
                                     
 好発はジャーニーマン。内から追ってきたナガラオリオンよりは前に出たのですが外からトキノパイレーツが上昇し,2頭で競り合いながら逃げる形に。3馬身差でタービランスが単独の3番手。3馬身差でナガラオリオン,2馬身差でタガノゴールドとディアドムス。1馬身差でゴールドパテックとヤマノファイト。4馬身差でユーロビート。2馬身差でハセノパイロ。2馬身差でガリバルディ。大きく離れてキャッスルクラウンが最後尾を追走というとても縦に長い隊列。
 3コーナーを回ると徐々に差を詰めていたタービランスが2番手に上がり,直線の入口ではジャーニーマンにも並び掛けました。向正面から長く脚を使って追い上げてきたユーロビートも大外に回りこの3頭は一団で直線に。ヤマノファイトはユーロビートの後から追う形になり,タービランスとユーロビートの間に。直線では逃げたジャーニーマン,早目に脚を使ったユーロビートの順で一杯になり,優勝争いは2頭。競り合いはフィニッシュまで続きましたが,タービランスに追いつくところで少し前に出ていたヤマノファイトが,再び差を詰められるという形にはなりましたが差し返しは許さずに優勝。タービランスがハナ差の2着。最内からタガノゴールド,その外からディアドムスが伸び,ディアドムスはユーロビートに迫ったのですが,最後にまたユーロビートが踏ん張りをみせ3馬身差で3着。ディアドムスがアタマ差の4着でタガノゴールドは1馬身半差の5着。
 優勝したヤマノファイトは昨年の羽田盃以来の勝利で南関東重賞4勝目。その後,東京ダービーは発馬直後に不利があって競馬にならず。復帰戦に選んだ埼玉新聞栄冠賞で古馬相手の2着に入り,重賞の浦和記念でも離されたとはいえ5着と一応の格好はつけていましたので,ここは有力候補の1頭。2着馬も南関東重賞で実績を残し,能力の衰えは感じさせてない馬ですので,接戦になったのは仕方がないところでしょう。今日はペースも速かったのですが,差す形で結果を出したのは収穫だったのではないかと思います。父はエスポワールシチー
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は羽田盃以来の南関東重賞16勝目。報知オールスターカップは初勝利。管理している船橋の矢野義幸調教師も報知オールスターカップは初勝利。南関東重賞は18勝目。

 トイレトレーニングは哲学との関連で興味深い事柄がふたつあります。先にそれがどういった関連であるかということを示しておきましょう。
 現代思想の1987年の9月号に,田島正樹の「スピノザ的スピノザ」という論考が掲載されています。僕はかつてこの論考に,母が小脳出血を起こした後の後遺症やリハビリとの関連で,身体の可塑性という観点から言及しました。トイレトレーニングはその身体corpusの可塑性と関連するのです。というより,田島の論文の当該部分の主旨からすれば,こちらの方がより大きな関連性を有していると思われます。
 トイレトレーニングは文字通りのトレーニングすなわち訓練であって,これは学習の一種であると僕はみなします。そして僕たちは大抵の場合,学習というのを大まかに二種類に分類します。ひとつは身体的技能の習得で,もうひとつは知的作業です。たとえば楽器の演奏とか道具の使用といった事柄は,僕たちは確かに何らかの学習によって習得するのですが,その場合の学習は身体的技能に属するとみなされます。対してスピノザの書籍を読んで知識を向上させるとか,棋書を読んで将棋の実力を向上させるといったことも僕たちは明らかに学習の結果による習得とみなしますが,それは身体的技能の習得とはみなされず,知的作業の一種とみなされるのです。田島の論文の当該部分の主旨というのは,これらは同じ意味で学習といわれるべきであって,たとえばある運動能力を習得することとある知的能力を習得することは同じであり,それらはどちらも身体の知覚能力あるいは行為能力に平行してなされるという点にあります。
 僕は基本的に田島のこの主張には賛成します。つまり知識に,いい換えれば思惟作用に限定されるような学習というのはあり得ないと考えます。ただしそれとは逆に,身体的技能の習得,すなわち延長作用に限定されるような学習というのもあり得ないと考えます。後者の点に関しては田島がどう判断しているのかは定かではありません。
 トイレトレーニングという学習は,身体的技能の習得とみなされるのかもしれませんが,それに限定できないことも明らかだと僕には思えます。
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KEIRINグランプリ2018&下の世話

2019-01-02 18:56:15 | 競輪
 12月30日に静岡競輪場で争われたKEIRINグランプリ2018。並びは平原‐武田の関東,脇本‐三谷‐村上義弘‐村上博幸の近畿で新田と浅井と清水は単騎。
 新田がスタートを取って前受け。2番手に平原,4番手に浅井,5番手に清水,6番手に脇本で周回。残り2周のホームの入口からまず清水が単独で上昇。新田を叩いて誘導を斬りました。ホームを出ると脇本も上昇開始。浅井が絡むような動きを見せたため一気にスピードアップし,そのまま清水を叩いて打鐘から先行。5番手が清水,6番手に平原,8番手に浅井,最後尾に新田という一列棒状に。バックに入って清水が発進するも,村上義弘,三谷にそれぞれ牽制を受けて失速。平原は内に潜り込みましたが,コーナーで村上義弘と接触してしまいふたりとも落車。直線は番手から踏み込んだ三谷が脇本を差し,後ろの追い上げも凌いで優勝。8番手からの捲りになった浅井が4分の3車身差の2着で最後尾から捲った新田が4分の1車輪差で3着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は6月の高松宮記念杯以来の優勝でビッグは4勝目。グランプリは初優勝。このレースは脚力面からは脇本が中心ですが,この並びになると自分のタイミングより早めの発進になる可能性もあり,その場合には三谷にチャンスが回ってくるだろうと考えていました。脇本は1周半くらいの先行なら保つのですが,浅井がラインに斬り込んでくるのではないかとみたため,早い段階から全力で駆けざるを得ず,そのために末を欠いてしまったものでしょう。2018年の三谷の活躍は脇本抜きには語れない部分もありますが,三谷もそれに応じて自力のときはよい競走を見せていると思います。このコンビは今年も競輪界の中心を担っていくのではないでしょうか。個人的には,村上義弘は3番手でもタイプとして仕事をするので,三谷が優勝の場合は村上義弘が続くより脚力のある浅井や新田,立ち回りが上手な平原が食い込んでくる可能性が高いとみていました。アクシデントがありましたが的外れの読みでもなく,2018年の競輪をよい形で締めることができてよかったです。

 母が父に対してよき妻ではなかったと思っていたことを軽減させることができた別の要因もあったと僕は認識しています。
 母はS字結腸癌でした。それが発見されたとき,癌が肥大化していて時を置かずに腸閉塞を起こす可能性が高くなっていました。なので母はその癌を除去する手術に踏み切ったのです。父は横行結腸癌で,同じようにそれが発見されたときに腸閉塞の危険性がありました。父の場合は母より時間面の猶予がなく,切除する手術をすることはできず,人工肛門を取り付けたのです。
 父はその取り付けの手術をした頃は,それ以前と同様にというわけにはいきませんでしたが,体力は残っていました。実際にこの手術の後,父は退院してきたのですが,そのときは二階の寝室で眠りました。要するに階段を上って二階まで行くという体力は余裕で残っていたのです。ですから人工肛門の管理は基本的に自分で行っていました。ですがときに,外したり取り付けたりするのがうまくいかず,母が手伝うことがあったのです。僕はこのような世話を父に対してしたことは,おそらく母の気持ちを緩和させる要因になり得たのではないかと思っているのです。
 文字通りに下世話な話ですが,下の世話,排泄に関わる世話をするということ,また逆にそうした世話をされるということは,それがだれに対してなされ,まただれによってなされるかということと関係なく,人間にとって特殊な意味があるのではないかと僕は考えています。しかしそれは,排泄物,人工肛門の場合でいえば大便ですが,それが汚物であるからという理由ではありません。
 人間というのは現実的に存在するようになったとき,つまり産まれたときという意味ですが,その時点では排泄を自己統御することも自己管理することもできません。これは一般に人間の現実的本性actualis essentiaがそのようになっているからであり,それがだれであろうと妥当することです。そこから徐々に訓練,いわゆるトイレトレーニングを経て,排泄を完全にということはありませんが統御することができるようになり,また,やはり同様に完全にということはありませんが,管理することもできるようになるのです。
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