● 酒井啓子 「シャルリー・エブド襲撃事件が浮き彫りにしたもの」を読んで
『世界』3月号
須山敦行
◎ 少々私には難しい文章であったが、本質的な思考をしようとする視点は鋭く、力があり、惹かれる。
自分は、この事件について明確な視点を確立出来ていなかったが、参考になった。
◎ 事には、本質的な対立項と、本質を見失って新たな問題を生んでしまう対立項、がある。が、この問題の実際の進展の中で、本質的な対立項が確立される局面が、そうでない状況へ進んでしまった、と指摘している。
◎ それでは、本質的な対立項とは、何であったのか、を論じている。
そして、本質的な対立項を対立項たらしめるために、重要なムーブメント、考え方、は何であるか。その逆は何であったか、を示している。
◎ 《本質的な対立項》
本質的な対立項は
「暴力を行使する側と暴力の圧力に苦しんでいる人々」という対立項である。
標語としては『私はアフマド』(襲撃犯の凶弾に倒れたイスラーム教徒の警官の名)
「どこから来るにせよ暴力的急進派に対する戦い」
「暴力と暴力に反対する対立項」
◎ 《ずれてしまった対立項》
ずれてしまった対立項は
「イスラームと欧米」という対立項
「イスラーム=表現の自由に反対する者 と考える側」と「欧米=イスラームを侮蔑する者 と考える側」という対立項
標語として『私はシャルリー』
「表現の自由は宗教に対する侮辱を認めるかどうか」
「リベラル派とイスラーム主義」
◎ 事件直後のアメリカのツイート の 鋭い指摘
「撃った人が黒人なら黒人という人種全体が有罪で、
イスラーム教徒ならイスラームという宗教全体が有罪で、
犯人が白人ならメンタルにおかしい一匹狼だとされる」
※ 「民族、宗教による、一括り」 の 差別 に対する、鋭い見方で、我が国のレイシストにそのまま聞かせたい。
◎ 《「私はシャルリー」批判 タブー批判とは 勇気と差別》
「イスラームへの侮辱を止めてほしい。とのイスラーム社会からの批判を、表現の自由に対する反対と位置付ける『私はシャルリー』の感性は、イスラーム社会内部に表現の自由を求める声がある、という事実に目を瞑る。タブーは、自分たちの社会のものについて挑戦することは勇気だが、他人のそれを笑うことは差別だ。」
◎ 《結論》
今、必要で、欠けているのは、
イスラーム社会内部からの「表現の自由」への志向であり、
殺人をイスラームのテロではなく「個人の犯罪」と見なす欧米の視点だ。
というのが、筆者の結論だ。
※ 本質的な対立項を捉える必要は、
イスラム国の後藤さん惨殺事件などについての考え方にも重要だろう。
それは、筆者のように、鋭い反暴力思想が根本にあって成り立つものだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます