表面は、変哲のない日常の会話の世界に戻ってきています。
震災直後の,”内服薬が!薬をとる暇もなく逃げたので” ”食べ物あるの?” ”家族は無事?”などの会話は、
”今年は収穫できたんだ!”
”見つかった?” ”まだなんだ。ふんぎりがつかないけど、葬式はそろそろださなければいけないかな。”
”仮設から出られたんだけど!二重返済になるから大変” などと変化しながら
時間の経過につれ、復興が勧められる地域と、
放射能の影響があり停滞せざるを得ない地域との差は大きくなってきています。
放射線の影響下にある福島県で,農業、漁業に従事していた患者は、話をしていくと
やりきれなさがひしひしと伝わってきます。耐えるしかないのです。身体表現として,消化管潰瘍が発症などが起きています。
漁業の復活もまだまだ。収穫量が安定していないので、販路の確保がままならないという現実があります。地元で,個人的に消費するだけでは、産業としての復活には限界があるのを実感しています。
一切合切流され、トラック運転手として生計を立て、再起をうかがっているようですがもう少し時間がかかるのだなと、大病から生き延び、天災からも生き延びた患者にひっそりとエールをおくっています。
震災の影響もあり、仙台血液疾患センターは閉院となり、
当時大震災をともに乗り越えた人は散り散りになり、今は十指に満たない人と
名前の変わった、富田病院で仕事をしています。
(つい最近、1年に一回だけ健診をかねて受診する患者が,ネットにHPがなく、電話も不通で、驚いたんだ!先生元気でいてくれよ。)
震災直後、命の糧になっている病院の運命を案じて連絡をくれた患者も多かった。
いつもの日常であったら、
発病せず、死なないで済んだのでは?
手遅れになる前に、病院を受診していたならば、
家の事情がいつも通りだったら、死ななかったかもしれない!
震災がなかったら、まだ、まだ診療を続けられる状態だったろうな!
時間がたっても、忘れない、忘れられない、それぞれの患者。
記憶を生かして、ともに支えながら、
教訓を、天災の多い日本の未来に生かせるよう生き続けなければ。