友人の画家から散歩の写真を褒められました。私の散歩コースのちょっと上で写生をされているので、なじみのあるものばかりとのこと。
でも散歩の折の写真は、何度も書いているように、散歩を飽きないための付加的なメモ。ほんとうはいすみの写真などを見ていただいたほうがもっと嬉しいのかもしれない。
35年以上に渡って、文化催事を企画することを仕事にしてきました。現代物などは評価の基準がない。自分の感性の勝負でした。
今、なにかを論理的に分析したり、組み上げたり、あるいは記憶の面で、若いころからみるととても恥ずかしいくらいに能力が落ちてきています。
しかたのないことであると思う反面、感覚的な面、感性に関してはまだそれほどには落ちていないだろうとの思いにしがみついているのもまた事実です。
文章や、写真でつづっているものなど、例えば写真にアオサギが写っているということではなく、
そのアオサギをどう捉え、どうフレームしていくか、そんなことにわずかながら自分の気持を入れられるのではないかと思っています。
だから珍しい鳥がよく撮れましたねって言われるよりも、雀でもいいから自分なりの表現が素晴らしいって言われるほうが嬉しい。
そんなチャンスはあまりないのですけど。
昨日養老渓谷へ行って来ました。
房総の紅葉はそれほど綺麗なものではないかもしれません。海が近く、温度差がそれほどないのも原因なのでしょう。
でも、それでも自分の思いを撮ったものの中に埋め込みたいっていつも思っています。
そして、それは、何も特別な被写体を必要とすることではありません。
ごく身近なものでも、乏しい養老の紅葉でも、自分の思いを伝える材料になるのではないかと思います。
だから養老渓谷のまだまだ早い紅葉でも、私には充分に価値のあるもの。
けっして、綺麗な写真ではないと思います。
でも一枚では無理でも、何枚か見ていただいて、何か感じていただけほんとうに嬉しいことです。
でも散歩の折の写真は、何度も書いているように、散歩を飽きないための付加的なメモ。ほんとうはいすみの写真などを見ていただいたほうがもっと嬉しいのかもしれない。
35年以上に渡って、文化催事を企画することを仕事にしてきました。現代物などは評価の基準がない。自分の感性の勝負でした。
今、なにかを論理的に分析したり、組み上げたり、あるいは記憶の面で、若いころからみるととても恥ずかしいくらいに能力が落ちてきています。
しかたのないことであると思う反面、感覚的な面、感性に関してはまだそれほどには落ちていないだろうとの思いにしがみついているのもまた事実です。
文章や、写真でつづっているものなど、例えば写真にアオサギが写っているということではなく、
そのアオサギをどう捉え、どうフレームしていくか、そんなことにわずかながら自分の気持を入れられるのではないかと思っています。
だから珍しい鳥がよく撮れましたねって言われるよりも、雀でもいいから自分なりの表現が素晴らしいって言われるほうが嬉しい。
そんなチャンスはあまりないのですけど。
昨日養老渓谷へ行って来ました。
房総の紅葉はそれほど綺麗なものではないかもしれません。海が近く、温度差がそれほどないのも原因なのでしょう。
でも、それでも自分の思いを撮ったものの中に埋め込みたいっていつも思っています。
そして、それは、何も特別な被写体を必要とすることではありません。
ごく身近なものでも、乏しい養老の紅葉でも、自分の思いを伝える材料になるのではないかと思います。
だから養老渓谷のまだまだ早い紅葉でも、私には充分に価値のあるもの。
けっして、綺麗な写真ではないと思います。
でも一枚では無理でも、何枚か見ていただいて、何か感じていただけほんとうに嬉しいことです。