昨日の日記、「
有朋自遠方來不亦樂乎」でこの世捨て人のあばら家にも来客がある、嬉しいなということを書いておりました。
隠遁の私には久しぶりのお客様。
いや、チビ太やノスリさんたちとのお話も大事ですけど、やはり友人との歓談、心躍り、良きものでございますな。
ところで、彼のサプライズ。
お軸を二幅お持ちになりました。
一つは伝曾我蕭白のお軸。「飲中八仙図」というのだそうです。
(ごめん、画科の名前を間違っておりまして、訂正のメールが入りましたので、訂正しておきます。堪忍ね)
私的に言わせると集合人物画でございますけど、いや、実に自由闊達な筆さばき、東洋の文物には全く浅学な私の目から見ても、心の踊るような見事な物でございました。絵の人物(多分詩聖たち)がその時を謳歌し、さんざめいているだけじゃなくって、その雰囲気が見る私にまで伝染してくる力を持ったものでした。
世俗的に言えば、万が一本物であってもなくても、重文の価値のあるようなもの、、、
なんて言うと叱られるかな。
なんせ、この方、自分のコレクションだけで展覧会を開かれるほどのコレクターでござんすからして、極めて本物の可能性の高いもの。でも仮にそうでなくても、本当に質の高いものでありました。
私も、価値の定まらない現代作家の紹介を生業としてきた人間ですので、日本画は分からないとは言いながらも、素晴らしくいいものということは自信をもって言えるような代物でしたよ。
ところで、もう一つのお軸。
最初の蕭白で十分に堪能したと思ったら、またまたの驚き。
書でございました。
いろんなお茶席で、所謂高僧たちのミミズののたくりを拝見し、うんざりしている私でございますが、これは全く異質のものでございました。
よく、古典を読むと、香るような文字というのが出てまいりますが、まさしくそれを目の当たりにした思いで拝見いたしました。
大雅も自由、闊達。ならこれは何にも囚われない自由な筆。そして気持ちの暖かさ、まっすぐさがそのまま伝わってくるような、上品で、のびやかな筆。
画以上に書は分からないと匙を投げていた私の乾いた胸にもするすると春風が忍び込むようなそんな思いに駆られるような一幅でございました。
彼の見立てでは、伏見天皇のお筆だそうです。
後伏見天皇とは良く似た筆だけど、ちょっと違うのだそうです。
私はただただ自分の無知を思い知らされるだけですけど、その無知な、情けなき心にも十分に理解できました。
自分の書いたものさえ判読不能なような悪筆の私にとって、
筆が持てなければ恋もできない昔のシステムを哀れんでおりましたが、書かれたもので、字の上手下手だけでなく、書き手の人柄まで伝わってしまうのだなって、、、
昔はそれが分かることが常識的に知られていたんだなって
あぁ、昔に生まれなくってよかった。
なに? 今だってもてなかったくせに?
あんた、喧嘩売ってんの?