[ローマの休日」というハリウッドの名作がある。1953年の作であるから約70年前の映画である。しかし、たびたびテレビで放映され、つい先日もこれを観た。日本で公開されたのが1954年、私が大学一年生の時だった。その後、テレビを含め何度観たか数えきれない。
そして何度見ても飽きることなく、常に新鮮さを感じる。名画と言われるゆえんであろう。ところでこの映画は、何を伝えようとしているのだろうか? ヨーロッパの一王国である某国の王女アン王女の、一昼夜に及ぶ逃避行、アメリカの新聞記者ジョー・ブラッドレーとローマの町を駆け巡る、そして激しい恋に堕ちていく、娯楽映画、恋愛映画と言えばそれまでだが、この映画の中で私が一番好きなシーンは別にある。
一昼夜に及ぶ逃避行から宿舎に帰ったアン王女に、侍従や大使が「この間どこに行かれていたのですか? 王女としての自覚に欠けるようでは困ります」と詰めよる。それに対し王女は応える。
「私は、王女としての自覚を持っていたからこそここに帰った。もし自覚がなければ、私は帰ってこなかった。しかも永久に、ずーっと……」
そしてこのシーンは、ブラッドレーの居室で、激しい恋心に惹かれながらも、
「わたし、もう、行かなければ…」
と、彼の腕を逃れて決然と去るシーンと呼応する。
アン王女は、王室という鳥かごからたった一昼夜離れて、様々な庶民生活を経験した中で一段と成長したのだ。自己を確立し、王女としての自覚を高めたのだ。
しかしこれがテーマとなれば、「ローマにお休日」という題名は軽すぎることになるが…?
久しぶりに映画『武器なき闘い』を見た。既に4.5回は見たと思うが、見るたび感動が勝る映画だ。練馬区栄町のギャラリー「古藤」の山本薩夫監督映画特集(膳13本)の中の一本だが、山本監督映画の中でも最高傑作のひとつではないかと思っている。
京都は宇治の料亭「花やしき」の御曹司で、京大教授の生物学者山本宣治(通称“山宣”)が、昭和4年の治安維持法改悪法案に反対する国会演説の前夜、右翼に殺害されるまでの短い生涯を描いたもの。とかく「弱い人間」の代表のように言われるインテリゲンチャであるが、科学的信念に裏付けられたインテリの強さを、これほど鮮明に示した例があるだろうか。
見るたびに心に残る「山宣の名セリフ」をいくつか書き残しておく。
・若い活動家の結婚祝いに指輪をあげると、「ブルジョワ趣味だ」と突き返されて
「いつか君に言いたかったことは、張り詰めた糸は切れやすいいうことや」
…この若者はやがて闘いの激しさの中で裏切る…
・料亭の酒の燗番でチビチビやりながら、番頭さんに
「一杯どうやや、こんな酒今に飲めなくなり、芋ばかり食わされるぞ」
・選挙演説の後、「先生本当に頼みますよ」と不安げな支持者たちに、
「ウソを言わないのが私のとりえや。みんなの声は国会でそのまま話す」
・野党議員も全て懐柔され、治安維持法反対演説をやる者はいない。「君しかいない。日本の将来のため何としてもやってくれ」とオルグされて、彼は寂しく呟く
「殺されてもやらんとあかんのかなあ…」
彼の不安は的中する。しかし「ウソをつかない」唯一のとりえは彼を動かし、関西の全農党大会で「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は怖くない。後ろに大衆が付いているから」と言い残して上京する。その夜、国家権力の差し金で殺害されたのである。
久しぶりに孫の遥人に会えた。昨年11月の七五三以来である。昨年に引き続き、遥人としては第二回目のピアノ発表会が、家族ごとの入れ替え制という厳重なコロナ対策の下に開かれた。
昨年同様、お母さんとの連弾一曲、ソロ一曲を立派に演じて成長の跡を見せた。体も逞しくなったが演ずる音も正確で力強さを感じた。しかも、私と女房に対しては、「…きてくれてありがとう…」とお礼状まで用意していた。来年はいよいよ小学一年生、ますますたくましさを増してきた。
たくましさと言えば、既に読売ジャイアンツの営む野球教室に通っており、小学校入学前の児童にしては、投力、走力共に優れており、少年野球チームのコーチ陣から目を付けられているという。新築したばかりの家のリビングでビュンビュン振り回すバットの鋭さに驚いた。
「将来何になりたいか?」という問いには、即座に「野球選手!」と答えた。バットを振り終えると間をおかず私に「おじいちゃん将棋をやろう」と駒を並べる。囲碁も覚えようとしているし、ピアノで感性も磨いていることだろう。知力体力ともに豊かな野球選手に育つだろう。
立派な体つきになりました
先生との記念撮影などでは、テレてポーズをとる年ごろ
遥人君からのお礼状
永福町に、地上三層、地下一層の立派な家を建てました。
コロナ感染症の蔓延状況に対する緊急事態宣言下という悪条件の中で、ミャゴラトーリの本年オペラ公演は、演奏会形式という制約された公演となった。しかし、二日間(6月4,6日)のオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』は、中に挟んだスペシャルコンサート(5日)ともども成功裡に終わった。
会場の杉並公会堂小ホールは、定員195席であるがコロナ対策入場制限で半数の95席に制限され、加えて強い自粛要請から観客動員は難しかった。状況によっては公演停止や無観客も覚悟しなければならない情勢にあったが、「無観客になってもやろう。それが芸術家の使命だ」という演出家を含む主宰者側の方針で行われたものであった。結果は、5日のコンサートこそ半数弱の観客であったがオペラは両日ともほぼ満員であった。
そして、参加者からは熱いエールが数多く寄せられた。
「みなさん力量にあふれ卓抜の美声、驚愕のルツボでした」(H.Iさん)
「けっこう理屈っぽいオペラとして観てきたが、なんとも楽しく、明るく、歯切れよく演出してくれた。楽しかった!」(A.Hさん)
「コロナ制限を逆に生かし、小劇場的に、観客と一体感のある演奏。本来のオペラの雰囲気を伝えてくれた感じだ}(M.M君)
「(初日、二日目と連続観て、特にコンサートにおける岩田さんの歌手と声の質の解説を聞いて)オペラ公演とコンサートは一体となっているのだ。今日の解説を聞いてすべてがわかった」(Y氏)
……
などなど、高い評価がいくつも寄せられた。
練習風景から触れてきた私は、「無観客でもやる。それが芸術家の務めだ」という芸術家の執念みたいなものを感じてきたが、そこから生まれてきた芸(演出と美声)に導かれた“モーツァルトの類まれな美しい音楽”に酔った。
初日の『コシ・ファン・トゥッテ』カーテンコール
(左)富岡明子、(右)高橋絵理
(左)薮内俊哉 (右)寺田宗永
(左端)向野由美子
(左)大澤恒夫
二日目の『スペシャルコンサート』カーテンコール
二日目記念撮影
三日目カーテンコール
大河ドラマ『麒麟が来る』が終わった。今、最終回の再放送も見終わって、それなりの感慨に襲われている。
歴史上の人物のそれぞれの実態は分からない。良くも悪くも書かれ、また相当の装飾が施されているだろう。それらはさておき、あの戦国時代に、もし「平安な時代の到来を夢見てそのために身を投じた人物」がいたとすれば、それは明智十兵衛光秀という男を除いていなかったのではないかと私は思う
家康が麒麟を連れて来たという説がある。しかし彼は積極的に戦うことはしなかったし、続く徳川時代は鎖国によって人類の進歩に立ち遅れ、それは明治以降の反動、激動を準備した。
光秀は理想の実現のために積極的に戦った。しかし麒麟は来なかった。しかも、二十一世紀を迎えた現時点にも来ていない。それどころか、世界はむしろ荒れ果てている。トランプ政権をはじめとしたアメリカの体たらく、中国、ソ連の覇権主義と非民主政治、日本に至っては、戦後築き上げた経済も民主主義も食いつぶして、政治も経済も貧困のどん底だ。
麒麟はいつ来るのだろうか?
我が家の庭の紅梅
こうしてわが音楽室は、小さいながらもピアノ教室の子供たちの遊び場となり、オペラ歌手たちの練習場となり、また小宴会場となっていったのである。私が顧問を勤める会社の社員たちのビアパーティの場所ともなった。
娘は将来、私たち夫婦がいなくなれば、隣接する私たちの寝室と書斎を潰して、子供たちの音楽教育の場として音楽室を拡大したい夢を持っているようだ。折しも30年点検を受けて、屋根や外壁補強をやったので、「この家は、あと30~40年は大丈夫」という三井ホームの言葉もあった。
このような度に悔やまれるのは、前述したように、何故妻が使用していた時に部屋の拡充をやらなかったかということだ。妻はピアノ教室のほかに二つのコーラスグループに参加しており、今の広さであったら、もう少し使い方があっただろう。
妻は色々と工夫したが、「ちょっと狭すぎる」ためにそれらの試みをあきらめてきた。自分の配慮の不足が悔やまれてならない。妻はどう思っているのだろうか、聞いてはいないが。
晩秋の松澤病院
やがて妻は、ピアノ教室を弟子ともども娘に譲った。娘は、ピアノのレッスンを続ける傍ら、予てから計画していたオペラ普及集団ミャゴラトーリを立ち上げた。10年ぐらい前のことである。
わが音楽室は、「首藤ピアノ教室」兼、NPO法人「ミャゴラトーリ」の活動拠点となった。子供たちのレッスンが終わると、オペラ歌手たちが現れ歌の練習を始める。「練習場が欲しい」と娘はいい続けていた。
私は予てから気になっていた部屋の改造に踏み切った。全体を拡張するゆとりはないが、せめて音楽室に食い込んでいた洗面所を外に移し、効率的に使用できるようにと思ったのだ。2015年のことであったが、改造により玄関まわりはやや狭くなったが音楽室は正常な形になり、奥にグランドピアノが収まって、8~10畳の正方形に近い空間が取れた。指揮者とピアニストに加え、2,3人の歌手の歌稽古ぐらいはできる。決して満足ではないが。
こうしてわが音楽室は、小さいながらも娘の仕事場と化したのである。(つづく)
獲物を狙う将軍池(松澤病院)のサギ(?)
前回の『ドン・カルロ』の投稿で、我が家の音楽室に触れた。この小さな音楽室にも、歴史の経過と好悪さまざまな思い出がある。
妻は子供の頃からピアノを愛していたらしく、私と結婚したとき、鍋かまは持って来なかったがピアノ(もちろんスタンドピアノ)だけは持ってきた。当初は6畳一間の間借りで、その床の間にピアノをすえて弾いていた。
やがて家を建て、ピアノはリビングに据えられ、近所の子供たちにピアノを教えるようになった。彼女の夢は、いつの日かグランドピアノを買って、本物の音を子供に聞かせ指導することだった。
第二の人生で三井ホームに勤めることをなったのを機に、私は思い切って家を建て替え(三井ホーム三階建)、一階の半分を音楽室にした。それとて11畳か12畳のものであったが、妻は浜松まで出かけ、念願のグランドピアノを購入してきた。
ところが、私の設計ミスで、一階にどうしても必要なトイレを、音楽室に食い込ませてしまった。いびつになった音楽室へのピアノの収まり具合が悪く、子供のレッスンには支障はないが、発表会や妻の属するコーラスの練習には「チョット狭すぎ」た。
妻はやがてこれらの計画をあきらめざるを得なかった。「妻の夢を十分に適えられなかった」…、私はこれを、今も後悔している。(つづく)}
散歩の花(松澤病院周辺)
苦しみながら公演に辿り着いたミャゴラトーリの『ドン・カルロ』(演奏会形式)は、素晴らしい出来栄えで参加者の絶賛を浴びた。私のような素人にも、歌手たちが120%の実力を発揮したのではないかと思えるくらい感動した。
ヴェルディ晩年のこの大作(原作シラー)は、長大かつ難解なテーマであるが、司会者の適切な解説と、素晴らしい字幕が観客の理解を助けた。何よりも歌手たちの圧倒的な歌唱力が、聴く者の心を打った。
私は、ミャゴラトーリにこのような力を持った歌手たちが集まっていることを心から嬉しく思った。加えてこの演奏会の成功には、公演に至る過程を身近に見てきた者として代えがたい喜びがあった。
思えばこの企画は、コロナですべての演奏の機会を奪われた歌手たちが、我が家の音楽室で始めた勉強会に端を発する。「こんな機会に、じっくりと基礎的勉強に取り組みたい」、「できることなら難しい課題に挑戦したい」と選んだ曲が『ドン・カルロ』であったと聞く。
夏のさ中、三々五々集まって続けた勉強会の成果は、やがて文化庁の認めるところとなって、その支援も得て今回の演奏会になった。我が家の小さな音楽室が何らかのお役にたった、ということも、この老体の喜びの一因であったのである。
カーテンコールで観客の拍手に応える出演者
参加者と懇談するテラッチ(寺田宗永)さん
10年ぶりミャゴ出演のジョン・ハオさん(右)
「泣いた赤鬼」は、浜田廣介の名作童話をオペラ化したもの。鬼という日本独特の存在を通じて、日本人の伝説的な行動と友情を説いている。
3年前に娘のミャゴラトーリが公演したものを、森真奈美さん(ソプラノ歌手)率いる「わらびこども夢プロジェクト」が取り上げ、ミャゴラトーリ後援で、この3日公演された。文化の月11月の始まりと、女房ともども「川口リリア」まで出かけた。
子供たちの生き生きとした元気な姿は、いつ見てもいいものだ。
「泣いた赤鬼」のフィナーレ
うれしそうな出演者たち