よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします。
沖縄タイムス 2007年9月26日(水) 朝刊 1面
渡海文科相 柔軟姿勢/「県民感情考え慎重に」
【東京】高校教科書から沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に対する日本軍の強制を示す記述が削除された問題で、福田内閣で初入閣した渡海紀三朗文部科学大臣は二十五日の会見で、沖縄側が検定意見の撤回を求めている問題について「県民感情を考えたときに、より慎重に取り扱っていかなければいけない」と柔軟に対応する考えを示唆した。
渡海文科相は、同検定が歴史的事実を理解する専門家が参加し、内容を検討しているとの認識を示し、「政府がとやかく言うべきではないと正直思っている」とも発言。その上で「しかしながら、中身の問題については沖縄の中で非常に大きい。率直に私自身の実感だ。もう少し具体的事実がどうなのか精査した上で取り組みたい」と述べた。
◇
沖縄タイムスも琉球新報も、文科大臣が変れば、教科書の記述が変えられるとでも思っているのだろうか。
日本は中国や北朝鮮のような一党独裁の国ではない。
政治家の一存で歴史教科書が書き換えられるはずがない。
新報も社会面トップに新文科大臣の写真入で次のような大見出し。
渡海文科相 会見で柔軟姿勢
「県民感情」へ配慮
実行委 撤回に望み 「声無視できないでは」
前任の伊吹文科大臣は「教科書検定意見」の経緯・事情を良く承知していた。
経緯・事情を知っていたからこそ「検定意見」の撤回を否定した。⇒文科相 撤回に否定的/「集団自決」修正
新任のしかも経緯を知らない文科大臣なら、教科書問題を聞かれて、記者会見で次のように答えても何ら不思議はない。
新任大臣としてはごく真っ当なコメントだと思われる。
≪政府がとやかく言うべきではないと正直思っている≫
≪しかしながら、中身の問題については沖縄の中で非常に大きい。率直に私自身の実感だ。もう少し具体的事実がどうなのか精査した上で取り組みたい≫
「具体的事実の精査」を怠って、政治運動のみに専念してきたのがマスコミを中心にした左翼勢力の方ではないのか。
今からでも遅くはないから新大臣の下で専門家の議論・検証を開始して欲しいものだが、むしろ困るのは沖縄マスコミのほうだろう。
■最後の切り札「県民感情」■
だが、左翼勢力は新大臣の次の一言を針小棒大に取り上げる。
「県民感情を考えたときに、より慎重に取り扱っていかなければいけない」
そう、ここでも「県民感情」という魔法の言葉が登場する。
当日記では再三、左翼勢力は「“理”で行き詰ると“情”を持ち出してくる」と批判してきた。
時と場合によっては情の訴える力を無視するわけではないが、教科書の記述という極めて学術的な問題に“情”を刺しはさんで歴史を改ざんするべきではない。
「県民感情」という言葉は黒を白にも変え、歴史の事実をも書き換える魔法の言葉ではないはずだ。
そこで、一夜明けた(8日)閣議終了後に何とか言質をとろうとしつこく同じ質問をぶつけたら次のようなコメントを得た。
渡海文科相 県民大会見極め対応 (9/26 16:03)
「県民大会」実行委員長の「毒おむすび」の仲里県議会議長は「教科書の書き換えは政治運動で変えよ」と沖縄テレビのインタビューで語っていた。
渡海文科相は「県民大会を見極めて対応」というが、教科書の記述は「県民大会」等の政治運動で書き換えるべきものではない。
新大臣は前任者の伊吹大臣の次の言葉を噛み締めて欲しい。
≪「私が修正できるとか、こうあるべきだと言った途端にとんでもないパンドラの箱を開いた汚名を着る」と述べ、意見撤回に否定的な見解を示した。安倍内閣改造後の会見で答えた。
伊吹文科相は、県民の気持ちには理解を示した上で、「(撤回すれば)今度は日中、日韓、その他の問題で、ある意見を持った人たちが『こうしろ』と言ったら、大臣の権限でできるという国であってはならない」≫(沖縄タイムス 2007年8月28日)
■教科書記述に「県民感情」は歴史を見誤る■
以下は「県民感情」に関するエントリーの再掲です。
集団自決は県民感情で 噴飯モノの「県決議」と「現地調査」
記者の余録
「県民感情への配慮」とは (6/24 10:05)
最近どうも引っ掛かる言葉がある。「県民感情に配慮する」という、政府との関係でよく耳にするフレーズだ。
高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」について、日本軍関与の有無を断定的に記述しないよう検定意見が付された。
1982年の検定意見でいったんは消された「住民虐殺」の記述が、後に復活したことがある。これについて文部科学省は13日、県関係者に「当時は県民感情に配慮した」と説明した。何となくありがたく感じる。つい「じゃあ今回も」と同じ基準を求めそうになる。実際、抗議行動や撤回要請の中でそんなやりとりが出ることもある。
だがよく考えてみる。「配慮」なのだろうか。
沖縄県民であれば必ず、近親に戦死者あるいは体験者がいる。戦争の傷跡がいまだ色濃く残る地で、人々が今回の検定に憤り、撤回を求めるのはまっとうな主張だと思う。求めているのは「配慮」ではなく、「事実」の記述にほかならない。(略)
(与那嶺路代、東京報道部) (琉球新報 /24 10:05)
◇
>1982年の検定意見でいったんは消された「住民虐殺」の記述が、後に復活したことがある。
高嶋欣也琉球大学教授が、「教科書検定意見書は撤回できる」と自信満々に叫ぶ根拠はこの先例による。
高嶋教授といえば、国立大学教授という肩書きながら、歴史の事実検証にはそっぽを向き、専ら「市民運動」を煽動することをその職務と勘違いしている市民運動男。
沖縄戦について語るとき、必ずついてくる枕詞がある。
「日本唯一の地上戦を経験した・・・」
「戦後も75%の米軍基地が集中する・・・」
そして、この「県民感情を配慮して・・・」。
これらの枕詞無しに沖縄戦の議論が始まると定番の恨み節が乱れ飛んでくる。
「本土防衛の捨石にされた・・・」
「県民感情を踏みにじる・・・」
そして「県民をバカにしている」と来る。
もうそろそ、沖縄戦を感情論を抜きにして冷静に論議・検証する場があってもおかしくないはずだ。
それは専門家・歴史化の仕事だと思うが、沖縄の専門家は歴史家というより市民運動が本業としか思えない。
>これについて文部科学省は13日、県関係者に「当時は県民感情に配慮した」と説明した。
そう、1982年といえば四分の一世紀前のこと。
当時は文部省も事実の検証と言うより、本土復帰後間もない沖縄の「県民感情」に押し流されたというのが本音だったのだろう。
しかし、もう既に戦後62年。
「県民感情抜き」で冷静に歴史の検証をしなければならぬ時期に来ている。
さもなくば、必ず将来に大きな禍根を残すことになる。
>つい「じゃあ今回も」と同じ基準を求めそうになる。実際、抗議行動や撤回要請の中でそんなやりとりが出ることもある。
語るに落ちたとはこのことだろう。
抗議行動や撤回要請をした運動家の本音はそんなところだったのでしょう。
<事実はどうでも、県民感情を配慮して撤回して欲しい>、これが本音。
62年前の文部省に代わって、今度は沖縄の運動家達が“感情”に訴えている。
全会一致で「撤回要請」を議決したという県議団の先生方も、議決した後になって現地聞き取り調査に行った。
この事実だけでも彼等が歴史を検証によらず“感情”で決めていることが分る。
また、その聞き取り調査事態も、
「もう決まったことだから、早く片付けよう」
と先に結論ありきの発言をする議員もいたという。
まことに噴飯モノの「県議会決議」であり「現地調査」であった。
◆
大臣の一存で歴史教科書が変るようでは、共産党の一党独裁で教科書を自由に変える中国と何ら変らない。
教科書の記述は大臣が決めるものではなく、国、文化省の担当部門が然るべき手順で決めるものである。
民主主義国家であるわが国では大臣が変っても担当部署は粛々と次の意見を述べている。
「審議会委員任命は適切」 撤回要請に文科省 (9/26 10:40)
よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします。