狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「呪われたポスト」農水大臣 どこまで続くぬかるみぞ

2007-09-04 13:10:20 | 県知事選

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盧溝橋の銃声一発を機に泥沼のようなシナ事変にのめり込んでいく関東軍の様を歌った「討匪行」という軍歌がある。http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/TouHiKou.htm

その出だしの「どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ」という一節は、その後の日本の運命を象徴しているようでメロディーも何故か哀調を帯びて聞こえる。(上記リンクにmidiあり)

「呪われた」農水大臣のポストを一週間で明け渡した遠藤新大臣の辞任劇。

松岡⇒赤城⇒若林⇒遠藤⇒若林、とめまぐるしく変わる大臣の顔、そしてその間に防衛大臣も、久間⇒小池⇒高村と大臣席の温まる間もない交代劇を見ていると、

「我等がテナー」藤原義江が歌う悲しき軍歌の一節と重なってしまう。

♪ どこまで続くぬかるみぞ ♪

我等がテナー藤原義江は「討匪行」を歌ったが、

我等が首相安倍晋三は何処かへ「逃避行」でもしたい心境だろう。

                     *

現役大臣でではなかったが玉沢徳一郎元農相の場合は、領収書の二重計上なら事務上のミスと言い逃れられても、五重塔じゃあるまいし「五重計上」ともなると弁解も不可能だろう。

玉沢・元農相が自民離党表明、収支報告書の多重計上問題で写真付き (9月3日 17:40)

このお方も、かつて農水大臣に座った経験者なので、やはり農水大臣の席は「呪われた」ポストだったのか。

「呪われたポスト」ならぬ「呪われた家族」という皮肉いっぱい小話を今朝の北國新聞コラムが紹介している。

コラム子は「笑いすぎて涙が出る」そうだ。

≪ 農相にだけはなりたくなかったと言った政治家が農相になり、一週間でクビになるのは悲劇というより「喜劇」である

三カ月余の間に三人の農相が次々と消えていくのは「怪談」である。三年も前に不正を指摘されながら、それを周りも自分も放置しておき大臣になった途端にバレるのは「ミステリー」である。「そして誰もいなくなった」という結末が見えてきそうだ

落語家の桂文珍さんがジャパンテントの講演で「呪(のろ)われた家族」と題する小話をした。ある村に祖父と両親にかわいがられた子どもがいた。ある日「おじいさーん」と叫ぶと翌朝おじいさんは亡くなった。翌年「お母さーん」と叫ぶとお母さんが死んだ

次の年「お父さーん」と叫んだ。父は死を覚悟した。が、亡くなったのは「隣のおっさんでした」。オチの理解には少々時間が掛かるが、ミステリー仕立ての恐怖の連鎖が一転、不倫話の笑いになる。欲と打算渦巻く人の世の悲劇は喜劇と紙一重である

「政治と金」と、だれかが叫ぶと呪われたように大臣のクビが飛ぶ。この政治レベルの低さは悲劇だが、ここまでくると喜劇だ。笑い過ぎて涙が出る。≫(時鐘 9月4日)

                     ◇

>「政治と金」と、だれかが叫ぶと呪われたように大臣のクビが飛ぶ。

まさに農水大臣のクビは呪われたクビの名に相応しい。

ついこの間まで5万円以下の領収書は添付に及ばないといっていたのが、一転、一円から領収書が必要だという。

だが、一円の使途不明金もない帳簿を作るには大変な人手と時間がかかる。

意図しない二重計上などのミスや収支が合わぬ事態は人間がやる以上絶対起こらないとは言い切れない。

「政治とカネ」に厳正な目を向けるのは当然としながらも、

「不正とミス」を峻別して判断することも必要だ。

帳簿のクリーン度の基準をどのレベルに置くか。

これを明確にしないと、枝葉末節、木を見て森を見ずの愚に陥りかねない。

北國新聞社説は次のようにも主張している。

≪完ぺきな政治資金収支報告書を作成するのは、なかなか難しい。いっそのこと、政治活動に国民の税金を投入する現行の制度を見直してはどうか。そこまで踏み込まないと、自民党はいつまでも政治とカネの問題に苦しめられることになるだろう。≫

速報でこんなニュースも入ってきた。高村防衛相、収支報告書の費目訂正 05年の900万円(12:21)

本人は「事務的ミス」といっているが、どこまで続く泥濘ぞ。

これでは防衛大臣の席も「呪われたポスト」になりかねない。

 

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コメント

「渡嘉敷の真実」 重要証言者・金城武徳さんが語る 【追記】

2007-09-04 06:24:13 | ★集団自決

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地元紙が沖縄戦がらみに証言を連日紙面で大安売りしていることを皮肉って、 <「集団自決」 続々出てくる証言者  “証言”すれば良いってモノではない>というエントリーをした。

最近では「集団自決」に関して特に新しいネタが無くとも、琉球新報も、沖縄タイムスも何らかの形で関連記事で毎日紙面を飾らないと心配なのだろう。

沖縄タイムスは9月1日は読者欄の「論壇」で渡嘉敷在住の61歳の方の「『真実』は消せない 軍命による集団自決」という記事を載せている。

琉球新報は新たな連続特集「言わせて教科書検定」を掲載し始めた。

第1回目の4日は平和ガイドの女性の方が証言している。

年齢は記されていないが写真で見る限り50歳くらいだろうか。

 

■証言者の条件■

以前にも再三書いたが、筆者はこれら証言者の証言内容の「真偽」を語る立場に無い。

何よりも沖縄戦当時沖縄に在住していなかった。

仮に沖縄戦を体験し、しかも問題の「集団自決」の生き残りであったとしても、当時満三歳の筆者が証言者として適格かに疑問を持つからだ。

地元紙に連日登場し、「集団自決は軍の命令だった」と証言できる人は、少なくとも次の2点を条件として具備しなければ証言者としての資格を疑われても仕方が無い。

①集団自決当時現場に居た生き残りで、

②尚且つ当時少なくとも記憶力の確かな10歳前後の人に限られる。

ということは現在少なくとも72歳前後の「体験者」でなければ自信を持って証言できないはずだ。

タイムス「論壇」の証言者の方は現在61歳というから、昭和20年の「集団自決」発生の年に生まれているはず。

生まれたその年の記憶で証言する人の話が信用できるだろうか。

61歳の方の証言内容を読むとほとんどが『鉄の暴風』に記載されていることの繰り返しで、「村史」に記述されているというが、その「村史」自体が『鉄の暴風』の引き写し、つまり「盗作」であるということはよく知られた事実である。

琉球新報の証言者はどう見ても戦後生まれであり、『鉄の暴風』を始め偏向した沖縄メディアの洗礼を受けて育った世代であろう。

このような人々が連日新聞に登場して負の連鎖を県内に撒き散らしていく。

 

■封殺される「適格者」の証言■

去る7月、沖縄県議会の文教厚生委員で構成する調査団が地元マスコミを伴ってん「集団自決」の現地聞き取り調査をした。

その結果をタイムス、新報両紙が報道したがあいまいな証言はでも「軍命があった」を連想させる証言は大見出しで報道されたが軍命令の存在に否定的な証言は見事に記事から封殺されていた。【新聞が報じない現地調査の実態!】 県議団調査団の醜態

 

県議会文厚委 検定撤回へ現地調査

集団自決」の生存者から当時の話を聞く県議会文教厚生委員会の委員ら=6日午前10時半ごろ、渡嘉敷村

 文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する日本軍強制などの記述が修正・削除された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午前、渡嘉敷島で「自決」現場を視察したほか、「集団自決」の生存者らから聞き取り調査を始めた。午後には座間味島に渡り調査する。

(7/6 16:05)全文 >> 

県議会 検定撤回へ現地調査  【金城武徳さんの証言】

 

 上記写真の前の方で、県議調査団に両手を広げて説明している黒ぶちメガネで帽子の方は「集団自決」の生き残り金城武徳さん(76)さんである。

金城さんは当時14歳で「集団自決」の生き残りであり、証言者としてこれほど適格な人は現在希少である。

後に添付の【動画証言】でも明らかな通り、記憶もしっかりしておられ、現地に居た人で無ければ分からない話を含めて話し方も明瞭でしっかりしていらっしゃる。

これまで何度も現地調査団に現場説明、証言をしてきた重要証人だが、

何故か沖縄のマスコミは彼の証言は封殺してきた。

これまで金城さんは学術調査団の質問に何度も「『集団自決』に軍の命令は無かった」と断言している。

「当時の村長から手りゅう弾をもらったが不発だったので、600名ほどで軍の陣地に言って、機銃で殺してくれと頼んだ。」

「戦争をするのは軍人だ、バカなことをしてはいかんと言われた。」

「現場に残った阿波連の人たちが殺し合いをした」

当時満14歳の金城さんは当時のことをはっきり覚えていると言う。

 

だが、予想通りというか上記記事では金城さんの証言は封殺されて、当時満6歳の吉川さんの証言のみを報じている。

同じ記事を沖縄タイムスで見ると、

「集団自決」の現場では、体験者の金城武徳さん(76)と吉川嘉勝さん(68)が当時の状況を語った。金城さんは「軍の命令があり、村民は集落から移動した。米軍の迫撃砲が着弾する中で村民が集合し、村長が『天皇陛下万歳』と叫び、手榴弾が破裂した」と証言した。

(米軍の迫撃砲のため)軍の命令で場所を移動しただけで、

軍命令で自決したとは言っていない

  吉川さんは「防衛隊員だった義兄が手榴弾を爆発させようとしたが、爆発しなかった。父は火をおこし、その中に手榴弾を放り込んで爆発させようと試みた」「母が『死ぬのはいつでもできるじゃないか。手榴弾を捨てなさい』と叫び、そうして逃げられた」と証言した。

吉川さんも自決の状況の証言であり、軍の命令で自決したとは言っていない。 何よりも吉川さんは当時満6歳で自決の命令系統が同だったか理解できたとは考え難い。

 

いずれにせよ、マスコミは自分等に不都合な事実は報じない。(これは金城さんも言っている)

琉球新報、沖縄タイムスが「集団自決」の生き残りで当時14歳の金城さんの証言をどのように歪曲して報じたか、つぎの【動画】で確かめて欲しい。

【動画・金城武徳さんの証言】http://www.youtube.com/v/P16oG_3X89o

 

 

次に【桜・ニュース・ダイジェスト 第2号 2006.10.28】より抜粋して、
http://www.ch-sakura.jp/mailmagazine/224.html

桜ニュース取材班が金城さんにインビューに成功した状況と「動画」証言のテキストを引用します。

 

金城武徳氏の証言
  
 
 五月十七日、私達取材チームは、那覇に向かい、現地で奥茂治氏と沖縄技術スタッフと合流し、七月、九月と三回にわたる沖縄(渡嘉敷・座間味)取材を開始した。チャンネル桜のキャスターでジャーナリストの井上和彦氏も同行してくれた。証言をしてくれる照屋氏は、当時の公文書を那覇の陸上自衛隊広報室に預けていたが、そこも訪問し、広報室長の国場三等陸佐にお会いして、撮影協力の快諾を得た。
 
 翌朝、私達はフェリー「けらま」で那覇泊港から渡嘉敷島へ向かった。照屋氏に会う前に、何とか、島民の証言を撮れないかと考えたからだ。アポイントも何も無かったが、とにかく現地へ行く、ドキュメンタリーの監督をしてきたこれまでの私のやり方である。集団自決の場所や島全体の様子など、撮影だけでなく見て、空気を味わい、感じておきたかった。
 天候は曇りで時々思い出したように晴れ間が見えた。
 
 一時間近く過ぎて、船上から渡嘉敷島が見えてきた。思ったよりずっと小さな島だった。米軍の上陸部隊も、こうしてこの島を眺めたのかと考えながら、どんよりとした空と海に浮かぶ渡嘉敷島を撮影した。

 渡嘉敷港に着くと、私達はバン形式の観光タクシーを雇った。戦跡を撮影したいとの目的を告げると、中年の運転手は、慣れているのか簡単に肯き、直ぐに車をスタートさせた。島の北側の山上にある「集団自決跡地碑」、戦死者や集団自決者の遺骨を納め、祀った「白玉之塔」、「戦跡碑」、そして、赤松大尉らが海上特攻を目指して準備した「特攻艇秘匿壕」、島にいた朝鮮人工夫や慰安婦を記念し韓国人が作ったという「アリランの碑」なども回った。「アリランの碑」は、随分、大掛かりに作られたモニュメントだったが、訪れる人もないらしく、入り口の看板が朽ちて地面に落ちていた。
 
 「集団自決跡地碑」付近には、誰もいなかった。風が強く、石碑の周りを囲む低い木々が、音を立ててざわめいていた。ここで三百人以上の
 人々が自決したのである。案内してくれた運転手が、手馴れた様子で入り口のゲートを開けてくれた。私達は碑のまわりにあったゴミを片付け、献花し二礼、二拍手、一礼の参拝をした。私はその後、般若心経を奉唱した。私達の思いが伝わったのか運転手は急に親切になり、
 親しさを見せるようになった。撮影機材の持ち運びなども手伝ってくれた。
 
 撮影が一巡した後、遅い昼食をとりながら、私は運転手に、集団自決について証言してくれる人がいないか相談した。少しためらった後、彼は承知してくれ、島にいるお年寄りを訪ねることになった。しかし、何軒もの民家を訪ね回ったが、留守だったり、居留守のようだったり、断られたりと、中々、見つからなかった。「これが渡嘉敷か…」と運転手が本当は証言者を紹介したくないのではないかという疑念がよぎったものの、彼は「金城さんなら話してくれると思う」と言い、その家に私達を連れて行った。
 
 金城武徳氏は、『ある神話の背景』にも出てくる人である。最初、金城氏は私達のことが良く分からぬまま、「家を撮影するな」「カメラを回すな」と厳しい調子で、我々に対応した。しかし、運転手の話や私の説明を聞く内、態度を和らげ、集団自決跡地碑の前なら話してもいいと、撮影に応じてくれることになった。私達は再び「集団自決跡地碑」に向かった。碑の前に立った金城氏は、碑の後方にある低い木々の密生する場所を指差し、ここを訪れる霊感の強い人は、今でも叫び声を聞いたり、きれいな女の人が立っている姿を見るのだと話した。以下が、金城武徳氏の証言の核心部分である。


  混乱のなかで自決を呼びかけた村の幹部と村民の意志が招いた

 「終戦直後から、沖縄のマスコミは日本軍を悪く書こうとするクセがあった。渡嘉敷の集団自決も赤松が命令してるんだ、こう言いよったんですが、赤松大尉は集団自決命令はしていないんです。保証人は、渡嘉敷の住人全部です。(昭和二十年)三月二十三日から空襲がはじまって、四日間空襲されたんですよ。島の周囲は二十キロの小さな島、その時の人口は一千五百名ほどでした。空襲を避けるためには、自分たちの家から近いところに、防空壕を掘って、そしてそこで空襲を避けておったわけですよ。
 空襲警報が鳴ったら、そこに駆け込んで。そしてまた、長期戦にそなえて、そして自分たちの勝手のいいところで、畑とかあるところに小屋を作ってあるんです。そこに食料品、玄米とか黒砂糖、鰹節なんかを貯蔵してあったんです。

 しかし、空襲がすんだから、次は上陸だとその小屋に来てたら、伝令の島の青年が各避難小屋をめぐって、部隊の裏の、盆地に避難しないといけないらしいですよ、と言ったんです。その時は大雨でした。大雨の中、赤ちゃんなんかも、年寄りなんかも雨にぬれて着いた。この谷間とあの谷間に分かれて避難してるんですが、三月二十八日の午後三時ごろから、迫撃砲飛んで来たんです。したらもう村の幹部が騒いでしまって、来たるべきものが来たんだと思ったんでしょう、両方の谷間に
 
避難してるのを集めて、当時の村長(古波蔵惟好氏)が訓示して、天皇陛下万歳三唱して、どこからもってきたのか十~二十名に一、二個ずつ配られている手榴弾を突いた訳です。それが爆発した人は死んでるんですが、我々は爆発しなかったもんだから生きていたわけです。

 飛んできた迫撃砲も当たってくれないし、結局、我々は生き残って、六百名ほど、軍の部隊本部に行って機関銃で殺してもらおうと移動したんです。却って怒られた。「軍人が戦(いくさ)をするんだ、なんでこんな早まったことをしたのか。生きられる限り生きるのが住民じゃないか。」ということで怒られた。
そこに残っていた人は、主に阿波連(アハレン)の人なんです。その人たちが殺し合いして、おじいさんもおばあさんも手にかけたと言ってるんですよ。そこで死んだ人で、意気地のいい女の人なんか、自分で首つっている。
 
 僕らのところには、昔、軍人の短剣、ごぼう剣いうのがありまして、何処から持ってきたのか、死にきれない女の人たちは、それで左の胸の下が心臓だからといって、これで刺したらしい。僕はその時数えで十五歳でした。お前も生きてるし、(家族を)殺した人も生きているんだから、このことはお母さんも話さないほうが(いい)といって、マスコミなんかに聞こえたら大変なことになるよと、しかし、渡嘉敷村史にぴしゃっと書いてあります。
 
 「では集団自決は、軍の命令じゃないんですか?」はい、違います。これは軍の命令ではないです。これはですね、自分たちで、やっぱり普段からそういう教育しかされてないもんだから、鬼畜米英に捕らわれたら、女はどんな辱めをうける(かわからない)。男はドラム缶に入れて丸焼きにされる。だから早く死んどかんといけないという教育だけしか、小さいときからされてないから、皆が同意でやった。
 しかし、マスコミとかが言いたい放題で、軍の命令で集団自決しているんだ、ということを言うんです。軍の命令ではないです。僕はこちらから(自決場)は早く逃げているから、後のことはわからないが、こちらで三百十五名の人が亡くなっています。今日明日のことは、夕方忘れても、六十年前の戦争のことは、一つも忘れません。全部覚えています。
 とにかくどうせ死ぬんだから、一人一人殺し合いした。お父さんお母さん殺すということは、愛ということでしかならない。」

 
金城氏の証言から、浮かび上がってくるのは、島民同士、家族同士が互いに殺し合う状況が、軍による強制的な自決命令ではなく、村長をはじめとする村の幹部の自決への呼びかけと村民自身の意志によっ
て、ごく自然に行われたことである。後述するが、彼らはサイパン玉砕
や隣の座間味島の集団自決を既に聞いており、それに続いたのである。
  
 金城武徳氏は、七月二十三日、再度、私達取材班が渡嘉敷島取材を行った渡嘉敷村歴史民俗資料館(村営)でも、インタビューに応じてく
れ、赤松大尉率いる赤松隊歌を歌ってくれた。当時そういう歌まであったのである。

引用終了

沖縄タイムス、琉球新報は重要証言者の証言は封殺して、連日「証言不適格者」の証言をあたかも新証言のような見出しで県民をミスリードし続けている

【追記】沖縄と日本の未来を考える講演会をリンクします。

後、下記のリンク貼り付け忘れていました。

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