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沖縄戦中の1945年3月末、米軍が上陸した渡嘉敷・座間味両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、日本軍の隊長命令があったとする岩波新書『沖縄ノート』などの記述は誤りで名誉を傷つけられたとして、当時の戦隊長と遺族が出版元の岩波書店と作家の大江健三郎氏を相手に出版差し止めなどを求めている訴訟で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷(所在尋問)を開く。 住民329人が「集団自決」で亡くなった渡嘉敷島で「集団自決」の当事者だった金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)=当時16歳=が証人として出廷。同島での「集団自決」について軍の強制や関与があったことや当時の状況などを証言する。法廷は非公開。訴訟は今後、11月に大江氏らの尋問、12月に最終弁論を行って結審し、来年3月までに判決が言い渡される見通し。金城氏の出廷で訴訟は大詰めを迎える。
原告の元戦隊長側は「集団自決は住民の自然な発意によるもの」などと主張してきた。金城氏は島で起きた「集団自決」に対する日本軍の強制や関与について、体験に基づき具体的に証言。原告側が隊長命令の有無だけを争点として主張しているのに対しては皇民化教育や日本軍の「軍官民共生共死の一体化」の方針など「集団自決」の背景にも触れながら、法廷で「集団自決」の実相を明らかにするとみられる。
金城氏が「集団自決」の当事者として法廷の証言台に立つのは、1988年の第3次家永教科書訴訟沖縄出張法廷以来、19年ぶり、2度目。97年の最高裁判決は「集団自決」の原因として軍の存在や誘導を認定した。
9日午後6時からは那覇市古島の教育福祉会館で前日集会、10日は午後一時から那覇地裁前で事前集会、午後4時半からは同市松尾の八汐荘で金城氏や弁護団による報告集会が行われる。
(琉球新報 9/9 9:51)
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大阪地裁は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷を開き「渡嘉敷島集団自決」の生き残り金城重明氏の法廷尋問を行う。
この裁判のハイライトとも言える金城氏の法廷証言でこの裁判も愈々大詰めを迎える。
これを受けて9日の琉球新報はまるで開戦前夜のような大騒ぎで紙面を「集団自決」関連記事で埋め尽くしていた。
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今日(9日)の午後、「県民大会」が行われる宜野湾市海浜公園近くの会場で行われた講演会に参加した。
「沖縄戦『集団自決』の真実を探る」と題したフォーラムで、会場は96席準備されていたが雨天にも関わらずほぼ満席の盛会だった。
講師の奥茂治氏は南西諸島安全保障研究所副理事長で長年「集団自決」の真相を検証している方。
講演内容は勉強になり且つ興味を引かれる話も沢山あったが、後日別稿でご報告するとして、とりあえず本日午後の出張尋問の証言者金城氏の証言に関わる部分のみ報告したい。
出張尋問は非公開なので当然証言内容を知ることは出来ないが、金城氏はいろんなメディアで証言しており、その証言の概略は本土新聞の記事から見ることが出来る。
2007年4月1日付の「筆洗」より。
東京新聞:六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さん…:社説・コラム(TOKYO Web)
以下引用。
六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さんのまぶたには焼き付いている。村長の「天皇陛下万歳」の三唱を合図に、多くの家族が次々と手榴(しゅりゅう)弾を爆発させた。約一週間前、日本軍が一人に二個ずつ配った。一つは敵に備えるため、もう一つは自決用だったという▼沖縄県に属する慶良間(けらま)諸島最大の島、渡嘉敷(とかしき)島での出来事だ。当時十六歳の金城さんには手榴弾が回ってこなかった。だから二つ年上の兄と一緒に泣き叫びながら、石を持った両手を母親の上に打ち下ろした。次に九歳の妹と六歳の弟の命も絶った。どうやったのか記憶はない▼米軍が三月下旬に慶良間諸島、四月一日に沖縄本島に上陸して始まった沖縄戦は「軍民一体」の戦争だった。渡嘉敷島では軍の指示を受けた村長のもと、住民は日本軍の陣地近くに移動させられ「ともに生き、ともに死ぬ」と教えられた。手榴弾の配布は「自決せよという言葉以上の圧力だった」という▼文部科学省による高校教科書の検定では、集団自決を日本軍が強制したという趣旨の記述が修正された。例えば「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」と▼同省は「近年の状況を踏まえると、強制したかどうかは明らかではない」と説明している。自由意思とでも言いたいのだろうか。金城さんは「歴史の改ざん。軍の駐留先で集団自決が起きている。本質はそこにある」と訴えている▼金城さんにとって、語りたい過去ではないはずだ。過ちを繰り返さないため、歴史の証言者になっている。耳を傾けたい。
(東京新聞 2007年4月1日付コラム 「筆洗」)
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偶然にも一週間前の9月2日の沖縄タイムス「論壇」に渡嘉敷在住の源哲彦氏が手りゅう弾に関する重要な発言をしていた。
その該当部分を抜粋次に引用する。
≪・・・既に米軍上陸前に、兵事主任新城真順氏(戦後改姓して富山)を通じて「玉砕(自決)命令」が出されていたのである。 島の住民と軍との関係を知る重要な立場にいたのは兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を取り扱う専任の役場職員である。戦場においては軍の命令を伝える重要な役割を負わされていた。
戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊長から伝令が来て平時主任に対し渡嘉敷の住民を役場に集めるように命令した。 兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持ってこさせた。 兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。
このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」が無かったとは言えまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。≫(沖縄タイムス)
長々と源氏の「論壇」を引用したのには金城重明氏の証言に重大な関連があるからだ。
>戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
講師の奥氏が実際に『渡嘉敷村史・通史編』の該当部分を確認したら、富山証言のいたるところに「軍命により」との書き込みが挿入され、その部分はインクの色、筆跡からいって後日書き込まれたことが明らかだったという。
>兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
・・・兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。
当時16歳の金城重明氏はその証言で「手りゅう弾は貰っていない」という。 そのため二つ上の(18歳)の兄と二人で母や弟、妹を石で撲殺するという悲惨な体験をすることになる。
貰ってなかったから結果的に生き残ことになったのだ。
当時16歳の少年より、当時の実情を知っていたのは村長や兵事主任の富山氏だろう。
だが、金城氏が実際に手りゅう弾を貰っていない以上、「村史」に書かれた富山氏の証言は嘘ということになる。
源氏が富山氏の生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」という言葉を直接聞いたとすると、
富山氏が今まで話してきた証言は嘘だということになる。
富山氏は(何らかの目的の為に)嘘を「村史」に残して真実は墓場の中まで持っていったことになる。
計らずも源氏は富山氏の生前漏らし言葉を直接聞くことにより富山氏の嘘を自ら証言する形になった。
してみると源哲夫氏の「論壇」の、
「真実」は消せない 軍命による集団自決
というタイトルが妙に意味深に思える。
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