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昭和61年沖縄で開催された「海邦国体」は、全国1巡目の最後の国体であった。
その翌年の昭和62年、2巡目のトップとして「京都国体」開催された。
前年の沖縄国体の熱がまだ覚めやらなかったのか、沖縄の老人会グループが郷土の選手団の応援に京都国体を訪れた。
その中にの一人の座間味島の戦争体験者の長老が,座間味島に駐屯していた旧軍人を訪ね、懐かしい昔話に花を咲かせた。
そのときの長老の談話が聞き取りされている。
「昭和19年の11月3日か12月8日のこと、(日付がどちらかは不明確)那覇市の護国神社で決起大会があり、そこで在郷軍人(沖縄出身の武勲者)たちが主となって、県民鼓舞の大演説をぶち上げた。 中でも印象に残ったのが直前まで那覇市長を勤めていたT氏は演壇で日本刀を振りかざし、『米軍が来たら、戦国時代の落城と同じ、女子供は自決させるべし』と演説をし、『決議』となり、それを参加していた座間味村三役がそれを帰島後、村民に伝えた」
島に駐屯していた軍人たちはこの民間主導の決起大会には参加しておらず、この事実も戦後40数年を経ってから京都国体に応援に来ていた島の長老から初めて聞かされた事実だったのだ。 ちなみに抜刀して大演説したT氏とは戦後、米軍民政府に琉球政府の主席に任命された人物だという。
試しに昭和19年の11月3日前後と、12月8日前後の「沖縄新報」を調べてみたら、11月3日前後の新聞自体が県立図書館などには保存されていないが、12月8日付けの新聞は保存されていた。
以下は過去エントリー「カミングアウトする加害者たち」よりの一部抜粋です。
<米軍が座間味、渡嘉敷両島に殺到して猛攻撃を開始する約二ヶ月前の「沖縄新報」(昭和19年12月8日)に次のような記事がある。
けふ大詔奉戴日
軍民一如 叡慮に応え奉らん
一人十殺の闘魂
布かう滅敵待機の陣
戦時の新聞なので見出しと記事がやたらと勇ましいのは何処の新聞も同じだが、
沖縄新報の見出しによると、特に昭和19年の大詔奉戴日は10月10日の那覇大空襲の後だけに、
県庁、県食料営団、県農業会などの各団体が主催して沖縄各地で関連行事が行われた様子が報じられている。
ちなみに大詔奉戴日とは日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことをいう。
真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。
そして、同記事では「鬼畜米英」についても各界の体験者の談話を交えて、次のような大見出しを使っている。
米獣を衝く 暴戻と物量の敵を撃て
お題目で獣性偽装
野望達成で手段選ばぬ
昔も今も新聞が国民を扇動するのは同じこと。
新聞が舞い上がって県民を鼓舞しているのが分かる記事だが、慶良間島からも県庁で行われた「大詔奉戴日」式典には島のリーダーたちが参加している。
村長を始め村のリーダーたちはこの雰囲気に煽られて、島に帰った後数ヶ月で目前に迫った米軍上陸にパニックを起こし判断を誤ったのではないのか。
島のリーダーたちにとって、「鬼畜米英」の話は単なる新聞記事の見出しだけではなく、その数ヶ月まえの7月ににサイパン陥落の際、鬼畜米兵から逃れた多くの日本人が、崖から身を投げた「集団自決」があり、その大部分は慶良間出身の沖縄県人であったという。>
◇
「集団自決は軍の居た所にのみ発生した」という「軍命あり派」の主張は読谷村チビチリガマやその他の例で否定されている。
集団自決実行の分岐点は避難時のグループリーダーの判断の如何だった述べた。
自決実行の間一髪。
子供の泣き声で我に返ったリーダーの一瞬の判断で集団自決を免れたグループ。
その目撃談を紹介しよう。
座間味国民学校上級生(今の中学2年生)の宮里米子の体験談である。
忠魂碑の前に集まった宮里米子の家族は敵の砲弾を受けて逃げ惑う。
<轟く艦砲の恐怖と寒さに震えながら、米子の家族は避難所を探して近くの山を目指して歩いていきました。 丘の斜面を登っている途中、砲弾のうなり声の合間から、ひそひそと人の声がもれてくるのに気がつきました。話がよく聞き取れないので、敵か見方かはっきり分かりません。おそるおそる声の方に近づいていきました。そして気づかれないように、雑木の間からのぞいてみました。すると、月明かりの下でひとつの家族が寄り添っているのが目に止まりました。年寄りと子供たちのようでした。うつむいた人たちの髪に雲間からもれてくる月が淡くさしています。 そしてすぐ側に銃を持った一人の兵隊が立っていました。米子は「どうするんだろう」と、息を殺して見ていました。長い沈黙をやぶったのは、群れの中の男性の悲壮な声でした。
「トー、ナマヤシガ(さー!今だよ)」
するとその日本兵はおもむろに家族の方に銃を構えました。腰には弾丸を詰めたベルトが重そうに巻かれています。銃身が月影に鈍く光ります。引き金に指をかけた時、一人の子が緊張に耐えられなくなったのか、突然わめき出しました。その瞬間、兵隊の指が引き金から離れました。泣き出した子どもは抱きしめている母親の両腕から抜け出ようと、もがきます。 母親も泣き声でさとしながら必死になって止めています。突然、この親子の姿を見ていたおばぁさんらしい人が、銃を向けていた兵を止めました。
「ナー、シムサ、シムサ(もう止めなさい、止めなさい)」
兵隊は間をおいて、銃を降ろしました。そして、その家族から目を背けるように、こちらを向きました。兵隊の姿をしていたのは、何と村役場の職員一人でした。>(『潮だまりの魚たち』クリエイティブ21刊、P149、150)
生きるか死ぬかの緊迫の瞬間。
この家族の生死を分けた分岐点は「軍命令の有無」ではなく、その家族のリーダーの判断だった。
そのリーダーの判断に従った村役場職員は、銃の引き金から指を離した。
ところがこの哀れな村役場職員、別の壕で自決して果ててしまう。
<息も絶え絶えに着いたところは産業組合の壕でした。 そこは村の三役などの避難所で、書類や食料なども保管されています。村で一番大きな防空壕でした。そこにはちょうど誰もいません。ほっとした疲れがどっと押し寄せてきて、米子の家族はいつの間にか深い眠りに落ちていきました。「新神里の家族は出てください。新神里の家族は出てください。ここは役場の家族が入ります。出てください」 何度もそう繰り返されて目が覚めました。 その声の主を見ると、先程、銃を構えていたあの役場の男の人でした。 当時の役場の職員といったら、とても怖い存在だったので、米子たちは何も言わずに、素直に従うしかありませんでした。(略)米子たちが出た後、役場職員の家族を中心に大勢の人たちが、その壕の「集団自決」をしたのです。生き残った者は一人もいませんでした。>(p151、152)
村役場の職員は軍人より怖い人が多かったという証言があるが、
助役が腰には弾薬帯を巻いて三八銃を持ち歩いていたという証言と役場には常に2~3丁の三八銃があったという証言から、
座間味島の助役が、渡嘉敷島の金城兄弟のような役割りで銃で自決の「手助け」をして回ったことも推測できる。
>「トー、ナマヤシガ(さー!今だよ)」
>「ナー、シムサ、シムサ(もう止めなさい、止めなさい)」
いずれもグループリーダーのとっさの判断である。
「軍命の有無」なんて彼らにとってはどうでもよかったのだ。
繰り返し述べよう。
野生の動物でも人間でも、グループのリーダーはパニックに瀕すると往々にして判断を過つ。
ここにもパニックで判断を誤った長老(リーダー)の悲しい話がある。
子供を殺し自分は生き残った長老と伯父。
金城重明氏は特殊な例ではなかったのだ。
慶良間島の集団自決には他にも沢山の「金城重明」がいたのだ。
ただ、彼らは「軍の命令」と責任転嫁することなく自分で贖罪の十字架を背負って生きた。
ここが、金城重明氏と他の「金城氏」との大きな違いである。
整備中隊の壕 -3- (8月23日朝刊総合3面)
「父さんも来るんでしょ」
(40)子どものために伯父「自決」
四月一日朝、座間味村阿護の浦に米軍の船団が近づいて来るのが見えた。「大変だ。速く逃げよう」。壕入り口に出ていた宮村文子(81)は、奥でひざを抱え一塊に座っている人々に呼び掛けた。
伯父は「私は逃げない。やーん、死にぃー?(あんたも死ぬね)」。「いーいん、わんねぇ死なん(嫌だ、私は死なないよ)」。親にも家族にも会えずに、死ぬわけにはいかない。文子は即座に断った。
一方の伯父は家族を失っていた。自らが手にかけた妻や二人の子の遺体は壕入り口に毛布を掛けて横たえられていた。伯父はポケットを探り、黒砂糖を取り出した。「これを食べて、お母さんに会いなさい。会ってから死ぬんだよ」と、文子に渡した。
伯父は文子に「子どものためにも、自分はどうしても死ななければいけない」と話した。幼い息子に手をかけようとした時、「お父さんも来るんでしょ」と問い掛けられたのだという。伯父は「絶対に行くから」と安心させていた。伯父は子どもたちの遺体の場所を示し「僕が死んだら、そばに寝かせて」と言った。
伯父はいつの間にか、壕の天井の丸太に掛けたひもを、自分の首に巻きつけていたようだった。文子を挟んで隣に座っていた老人にひもの先を押し付け、「おじー、へーくな、ひっぱてぃ、ひっぱてぃ(おじいさん、早くこの綱を引っ張ってください)」と懇願した。
伯父が本当に死のうとしていることに文子は驚いた。「やるな、やるな」。老人を押し留めようと強くつねった。しかし返事をしなかった。
暗闇の中、急に隣にいた伯父の体がパーッと上がっていく気配がした。「うっ、うっ、うっけけけけけ…」。うめき声が壕内に響いた。二、三分して声が途切れると、ひもが緩められたようで、伯父はドサリと地面にたたきつけられた。「なんで、そんなことするか」。文子が怒ると、ひもを引いた老人は「わんにん、なーふりむんなってぃよ、わきんわからんどぅやんどー(私はもう頭がおかしくなっている。訳も分からないんだよ)」と、泣き続けた。老人も伯父同様に、妻や子どもたち、親族たちを手にかけていたのだった。
文子らは壕を出て、ユヒナの浜へ急いだ。老人を急かすと、「わんねぇーふりむんなとぉくとぅ、あっちんしーうさんろー(頭がおかしくなって歩くこともできない)」。老人は苦しげにうめいた。=敬称略(編集委員・謝花直美)
◇
>(私はもう頭がおかしくなっている。訳も分からないんだよ)」と、泣き続けた。老人も伯父同様に、妻や子どもたち、親族たちを手にかけていたのだった。
パニックで判断を誤り妻子や親族に手をかけ、なお且つ死に切れなかった人たち(別の「金城氏」)の心中は平和な時代に生きる我々の思慮の到底及ばない世界である。
「おまけ」
『WILL』増刊号発売以来、当日記コメント欄を含めて「悪逆非道な日本軍」をお題目に掲げるグループのヒステリックな反応が見られる。
中にはひがみ根性丸出しで、こんな沖縄人もいるのかと、赤面したくなるような恥さらしのコメントもあるが、
今後のエントリーで恥ずべき例として利用するため、
しばらくはそのまま晒しておく。
再度言うが、
「痛いところを突かれるとヒステリックになる」という人間の心理学的理論を目の当たりに実体験できて興味深い。
しつこく、『WILL』の目次を貼り付けておく。
なお「ヒステリックな反応」の効果のせいか売れ行きは快調とのこと。
雑誌『WILL』 緊急増刊号 7月9日発売!
沖縄戦「集団自決」
狙われる沖縄
緊急特別対談
■田久保忠衛×櫻井よしこ
「沖縄的なるもの」の正体
■渡部昇一
歴史教育を歪めるもの
梅澤少佐独占手記
■梅澤裕 (聞き手・鴨野守)
私は集団自決など命じていない
■藤岡信勝
教科書記述問題の決定版
文科省再検定で大膨張する反軍記述
■曽野綾子
強制された死か、個人の尊厳か
■鴨野守
村民多数を手にかけた
「悲劇の証人」金城牧師
【特集】大江健三郎に問う!
■曽野綾子
神の座に就いた作家と裁判官
■藤岡信勝
大江健三郎“勝訴”の深見判決を斬る
■徳永信一
ノーベル賞作家のまやかしのレトリック
■松本藤一
大江健三郎と岩波書店は不誠実だ
■松本藤一
沖縄の言論封鎖で住民は再び殺される
■飯嶋七生
母の「遺言」はなぜ改変されたか
「反日」の沖縄
■藤岡信勝・鴨野守
沖縄タイムスの「不都合な真実」
■皆本義博
渡嘉敷島、中隊長が語る「集団自決」の現場
■奥 茂治
沖縄タイムスを使った米軍の住民洗脳工作
■勝岡寛次
米軍の「心理作戦」で日本軍は沖縄の敵となった
■江崎 孝
偏向ウォッチング これは沖縄の言論封殺だ
■グラビア特集
沖縄の「戦争」
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★WILLの目次
http://www.web-will.jp/
集団自決実行の分岐点はグループリーダーのパニックに瀕しての判断の過ちだった、
と思う方、クリックお願いします。
【追記】
『WILL』増刊号、
沖縄の書店でも本日入荷したようです。
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