狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

落書きもみんなで書けば怖くない?

2008-07-03 08:37:10 | 県知事選

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落書き:伊紙「あり得ない」 日本の厳罰処分に

「教員、大聖堂に落書きで解任の危機」--。
イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きをした日本人が、
日本国内で停学や務めていた野球部監督の解任など厳しい処分を受けていることに対し、
イタリアでは「わが国ではあり得ない厳罰」との驚きが広がっている。

 イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。
メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』は
あまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。

 フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、
アルプスの山々には石を組んだ文字があふれる。その大半がイタリア人によるものだ。
同紙は「日本のメディアによる騒ぎは過剰だ」と、
日本人の措置の厳しさに疑問を投げ掛けた。
コリエレ・デラ・セラ紙も「行為はひどいが、解任や停学はやり過ぎ」と論評した。

 一方でレプブリカ紙によると、大聖堂の技術責任者、ビアンキーニ氏は
日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」と語った。

(毎日新聞 2008年7月1日 22時11分)

                                             ◇

昨日あたりのテレビワイドショーは「イタリアの世界遺産」に落書きした新婚夫婦の話題で持ちきり。

では、これまで落書きはなかったのかといえばそうではない。

マスコミが取り上げなかっただけの話。

発端はここらあたりのようだ。⇒岐阜市立女子短大生6人、フィレンツェの大聖堂壁に落書き(6月24日読売報道)

冒頭に引用記事の見出しの、<伊紙「あり得ない」>に、ついつられて、「落書きはイタリアではあり得ない」のかと思ったが、

落書きした野球部監督への処罰が厳しすぎてあり得ないのだというのだ。

「日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」

落書きされた大聖堂の技術責任者がこんなことを言うくらいだから、イタリア人の落書きは日本人の比ではないのだろう。

日本の厳しい処分の是非はともかく、公共物への落書きは許されてよいわけはない。

落書きの心理は割れ窓理論で説明されるが、沖縄ではあまり見ない「  放置自転車」や空き地のごみ捨て場化 なども、同じ心理が働くのだろう。⇒「落書きもみんなで書けば怖くない」

落書きがエスカレートして他人のシャッターや壁に落書きをして芸術だと公言するヤツらはもはや確信犯的犯罪者というべきだ。

それが「進化」したのか、こんなのもある。⇒路地裏美術館「Web餓鬼の眼」

落書きが落書に進化したのどうかはともかく、

日本史の教科書に出てきた落書は今でもそらんじている。

「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」。

ペリーが浦賀に蒸気船を率いて来航したのは1853年(嘉永6年)のこと。

そのときの日本人の右往左往振りを見事にあらわした落書の傑作だが、以後司馬遼太郎の『翔ぶが如く』の世界が展開されることになる。

一時代さかのぼると、これも教科書で覚えた傑作中の傑作がこれだ!

「白川の清き流れに魚棲まず、濁れる田沼いまは恋いしき」

何やら、、エコ、エコを連発してCО2を目の敵にしている現代社会を象徴しているような気もする。
 
蛇足をあえて書かしてもらうと、

「白川」は奥州白河の藩主だった松平定信の通称「白河公」のこと。

「清き流れ」は田沼意次時代の賄賂政治を刷新しようとした松平定信の「寛政の改革」のこと。

だが、行き過ぎた倹約令で清貧を求め、世は一挙に不況に陥る。

コンビニの夜間営業禁止を含む行き過ぎたCО2排除令は、世を更に不況に陥れることになる。

 

落書きといえばトイレの落書きをはずしては語れない。

これについては過去にウンチクを傾けているので、興味のある方は覗いてください。 

読んでバカバカしいと思っても責任は取れません。

トイレの哲人 (続・哀しきオヤジギャグ)

 

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