裁判尋問「言葉失った」 「集団自決」で金城さん <所在尋問で金城さんは被告の岩波書店の証人として出廷した。法廷は非公開だったが、金城さんは「あれは法廷なのか。法廷は公平と正義ではないのか。原告側弁護団は『ああしただろう、こうしただろう』と犯罪を吐かせるような形だった。私は腹が立ったというより言葉を失った」と、怒りを込めて振り返った。 自らの体験を語りながら金城さんは「軍官民共生共死一体化」という日本軍の方針が住民を精神的に追い込んだと強調。「軍隊なしに集団自決は起こり得なかった。命令がなかったという意見があること自体おかしい」と述べた。>(2/6 16:07)
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>原告側弁護団は『ああしただろう、こうしただろう』と犯罪を吐かせるような形だった。私は腹が立ったというより言葉を失った」
金城氏のこの発言を見て思わず脳裏に浮かんだ諺がある。
金城氏には失礼だとも思ったが、あえて書かせてもらうと、
雉も鳴かずば撃たれまい。
悲惨な体験をした金城氏がその体験を語ることに異議を挟むものはいないだろうが、体験の事実を語るに留まらず、自己弁護とも思われる「軍命令」をかたくなに主張し、裁判の証人にまでなって「軍命」を主張すれば、原告側弁護団に厳しく追及されるのは当然のこと。
これに対して「私は腹が立ったというより言葉を失った」というのは、むしろ論理の矛盾を突かれ狼狽して「言葉を失った」というのが正しいのではないのか。
肉親に手をかけた贖罪意識で、論理を踏みにじるような「軍命」発言をしなければ、弁護団に追及されるような禍を招かずに済んだはず。
不謹慎ながら古い諺を想いだした次第。
金城重明氏の証言はこれまで地元紙は勿論本土大手紙でも幾度となく報道されている。
特に地元紙では肉親を手にかけた「悲劇の主人公」といった点を強調して紹介されているが、マスコミは彼が犯したもう一つの「原罪」については触れていない。
裁判ではその「原罪」について原告弁護団に追求された結果、狼狽して「言葉を失った」と想像される。
金城重明氏は当時18歳の兄重栄氏と二人で自分の親兄弟のみならず現場に居た他人の親子にまで手をかけていたのである。
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■NHK特番「渡嘉敷島の集団自決■
2月1日19時30分に放映されたNHK「渡嘉敷島の集団自決」を見た。
「集団自決」の生き残り 金城重栄、重明兄弟が改めて証言した。
弟の重明氏は戦後島を出て本島に在住し「集団自決」の語り部として地元マスコミは勿論本土大手新聞でも再三登場し、証言を綴った著書もある有名人である。
一方、兄の重栄氏(81歳)は戦後も島に残り、農業に従事していたというが、少なくとも私の知る限り、これまで証言者としてマスコミに登場することはなかった。
弟重明氏の証言はこれまであらゆるところで発言しているので、主として兄重栄氏の発言を追ってみた。
6人妹弟の長男で当時18歳の重栄氏は病弱のため兵役に就けなかったが、その分だけ「日本軍の役に立ちたい」という気持ちが多く「島を守ってくれる」と信じる日本軍に親近感を持っていたという。
3月25日米軍の艦砲射撃が始まる。
後の計算でいうと、砲弾の平方あたりの破壊力と島の面積からはじき出して、179発の艦砲射撃があれば島は全滅していたはずだが、実際は1250発の砲弾が島に打ち込まれている。 島の有効破壊率というのがあるとすれば実にその69倍の砲弾が打ち込まれたことになる。
金城一家は両親と弟妹の6人で壕で隠れるが艦砲射撃は朝から晩まで続き、米軍はついに3月27日上陸を開始。
その時軍服らしきものを着た二人の人物が現れ長老達に何か話していたようだが内容は砲弾の音で聞こえない。
その男は手りゅう弾を二個ずつ呉れたが、彼が兵器係であったことは 後で知った。
自分達兄弟には手りゅう弾はなかった。
3時過ぎ村長が「天皇陛下万歳」を叫び、次々「集団自決」が始まった。
「生き残ることへの恐怖」が自決を加速させた。
木の枝で作った木の棒で肉親に自ら手を下す、・・・それは家族への愛であった。
このまま死ぬより1人でも敵を倒して死のうと切り込みに向かう途中、日本兵に遭遇し島がまだ玉砕していないと知った。
番組では語られなかったがその後二人は日本軍の陣地で数日過ごすことになる。
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重栄氏の顔が画面アップで「木の棒で肉親を手にかける」と言った時、一瞬表情がこわばって重栄氏の言葉が止まった。
その時彼の脳裏には肉親を自分の手にかけた地獄絵のほかにもう一つの地獄絵が思い浮んだと想像する。
重栄、重明兄弟は肉親の他に他人も手にかけていたのだ。
しかもそのうちの数人は生き残って島で生活している。
兄弟にとってこれ以上の地獄が他にあろうか。
弟の重明氏が戦後島を出て宗教の道に入った心境も理解できる。
だが、肉親どころか他人まで自分が手にかけた重明氏は自分達の取った行動を自責の念で「家族への愛だった」と弁明する。
その一方、責任転嫁で「軍の強制だった」と言い続けなければ生きてはいけなかった。
「集団自決」とは何だったのか。
追い詰められた末の、閉鎖空間における極限的な状況が生み出した「狂気」のなせる業であり、その「狂気」は元々人間の内部に潜む。
この解明には歴史家はもとより心理学者の検証研究が不可欠と考える。
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曽野綾子さんが『集団自決の真相(ある神話の背景)』を出版する1年前の1971年。
沖縄在住の作家星雅彦氏が、渡嘉敷村の村長や駐在巡査や村民から「集団自決」の取材をし、それをまとめて雑誌「潮」(1971年11月号)に発表した。
雑誌「潮」1971年11月号 特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか
一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。遠くで、迫撃砲が激しく炸裂するのを、生き残っている多数の村民は上の空で聞きながら、ある人たちはナタやガマを借りて生ま木を切って棍棒を作っていた。その側で、母や妹や弟を、青年になった息子が、ベルトでつぎつぎと締め殺していた。また手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では、持ってきた農具がそのまま凶器に変わって、血縁へ向かって理解しがたい怨念を打ち出すように、妻子を惨殺しはじめた。
(略)
ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。
その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。
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以下は金城氏証言「集団自決は家族への愛」よりの抜粋です。
金城氏「軍命出た」 岩波「集団自決」訴訟
渡嘉敷島で「集団自決」を体験し、生き延びた金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)が岩波側の証人として出廷。「(島に駐留していた)赤松嘉次隊長が指揮する軍の命令なしに『集団自決』は起こり得なかった」として、日本軍の強制を証言した。 (略)
当時16歳だった金城さんも母と妹、弟を手にかけた。 軍の命令で陣地近くに集められていた金城さんら住民の下に軍の自決命令が出たようだとの話が伝わり、村長の「天皇陛下万歳」の号令で「集団自決」を始めたと具体的に証言した。 「『天皇―』は玉砕の掛け声。村長が独断で自決を命じるなどあり得ず、軍命が出たということ」とし「集団自決」の直接の引き金に軍の強制があったと明言した。 金城さんは家族を手にかけた時の気持ちについて、「米軍が上陸し、(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常な恐怖で、愛するがゆえに殺した」と語った。 (略) 原告代理人は会見で「村長が自決命令を出すはずはなく、軍命だったという金城氏の証言は推論にすぎない」などとして「金城氏は集団自決の隊長命令を語る証人として資格がないことがはっきりした」と述べた。
(琉球新報 9/11 9:38)
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(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」
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