狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

俺達は作家ではない!夕刊が消える沖縄タイムス記者の誇?

2009-03-02 08:45:18 | ★集団自決

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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沖縄タイムス社は一昨日の2月28日をもって、1952年7月以来発行していた夕刊を廃刊にした。

その日の朝刊コラムには半世紀以上も続いた夕刊に対する惜別の情が綿々と綴られている。(涙)

沖縄タイムス2009年2月28日コラム[大弦小弦]

 新聞の業界用語で「勧進帳」とは、電話で記事をそらんじること。締め切りまでに原稿を書く時間がないときにやらされた▼取材メモを見ながら「えーっと」を連発し、頭の中で文章を組み立てるのだが、うまくいかない。電話の向こうで受けのデスクが「で相手は何と言った」とか「…指摘した、だな」などと誘導し、しっかり原稿にまとめてくれた▼そんな胃の痛くなる思いをするのも夕刊作業ならでは。特に先島には飛行便で送るから、発送が遅れるとアウトなのだ。取材、原稿化、編集、印刷と、どの工程もピリピリ、まさに時間との勝負だ▼紙面編集の担当だったころ、こんなことがよくあった。締め切りは迫るのに記事が出ない。割り付け用紙は真っ白だ。画面で組む技術さんたちも帰ってしまった。始末書じゃ済まされないな、という場面で夢が覚めてほっとする▼「おれたちは作家じゃないぞ。短い時間で目の前の出来事を的確に説明する文章を書けるのが新聞記者なんだ」と先輩たちはよく言っていた。モタモタせず書く速度を上げろ、との戒めでもあった▼その夕刊が、きょうを最後に役目を終える。活字としての速報性は落ちるが、統合先の朝刊は厚みを増す。新しいネタ、ためになる情報を盛り込みつつ、分かりやすい紙面づくりを心がけたい。(山城興朝)

                                             ◇

おれたちは作家じゃないぞ。短い時間で目の前の出来事を的確に説明する文章を書けるのが新聞記者なんだ

コラム筆者の山城記者は「おれたちは作家じゃないぞ」と、真実を報道する新聞記者の矜持を示しているが、

今をさかのぼる50数年前、沖縄タイムスの大先輩記者が新聞記者としての誇りをかなぐり捨てて、

自社から目と鼻の先の「事件現場」に取材にいくこともなく、想像力巧みに「事件」をでっち上げる連載企画記事を書いたことをご存知だろうか。

沖縄タイムス創生期の昭和24年。

30歳過ぎてから、突然、速成で記者に仕立て上げられ、沖縄タイムスの特別企画記事の執筆を全面的に委ねられた「作家志望」の新米記者がいた。

伊佐良博、後の太田良博氏である。

伊佐記者は、後に太田良博というペンネームで活躍するが、そのプロフィールは『太田良博著作集』によると次のようになっている。

1918年、沖縄県那覇市に生まれる。早稲田大学中退。沖縄民政府、沖縄タイムス、琉球放送局、琉球大学図書館、琉球新報などに勤務。その間、詩、小説、随筆、評論など発表。2002年死去。著書に『沖縄にきた明治の人物群像』『異説 沖縄史』(月刊沖縄社、1980)、『太田良博著作集1〜4』(ボーダーインク、2003〜2006)『戦後占領期4 1949年 短編小説コレクション』(藤原書店、2007)に「黒ダイヤ」収録。

太田記者は30歳すぎて当時の沖縄タイムス社長高嶺朝光氏の入社面接を受けることになるが、そのとき高嶺社長より「30過ぎての新聞記者は無理ではないか」といわれたと聞く。

戦前からのベテラン記者がひしめいていた当時の沖縄タイムスに記者経験のまったく無い中年男を『鉄の暴風』という社を挙げての企画特集の執筆者として抜擢した理由は二つある。

先ず一つ目は太田氏は直前まで沖縄を統治する米民政府に勤務しており語学に堪能であったこと。

次に太田氏は作家志望であり、詩や短編小説を地元紙に寄稿する文学青年であった。

後輩の山城記者は「俺達は作家ではないぞ」と意気軒昂だが、記者になってからの太田氏は、

作家も真っ青のねつ造記事を書きまくり、後に単行本『鉄の暴風』として数々の害毒を全国にバラ撒くことになる。

『鉄の暴風』を驚異的に短い期間で書き上げた伊佐(太田)良博記者は、米軍を通じて持ち込まれたウワサの類を何の検証もなく想像力を駆使して『鉄の暴風』を3ヶ月の短期間で書き上げたのだ。

同書の共著者とされる豊平良顕氏や牧港篤三氏は戦前からのベテラン記者だったが、執筆はほとんど太田氏一人が行った。

そして太田記者の入社前に『鉄の暴風』の執筆を担当したといわれる稲嶺盛国、志良堂盛栄の両敏腕記者は何故か途中で執筆を止め、米民政府から急遽リクルートされた太田氏によって書き上げられることになる。

ちなみに稲嶺、志良堂両記者は1945年6月9日に沖縄県庁の行政機能が事実上中止になるまで、島田知事や新井警察部長と同行しガリ版刷りの新聞を発行し続ける記者魂の持ち主であった。

『鉄の暴風』の執筆者が稲嶺、志良堂両記者から太田記者に変ってからは、一方的に米軍側からもたらされる情報を基に何の検証も無く書き綴られたことは周知のことだ。

だが、数ある捏造記事の中でも特に酷い記事は、現在「集団自決訴訟」の原告の一人として頑張っておられる梅澤元隊長の「死亡記事」である。

梅澤元隊長は初版から約30年もの間、次のような侮蔑的表現で沖縄タイムスによって「殺されて」いたのである。

梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。>(1950年の初版より1980年版で削除されるまで記載)

あまりにも酷いこの捏造記事は30年後に削除されることになるが、この捏造記事に対して、執筆者の太田氏が1986年8月15日の沖縄タイムスで<梅澤隊長“生死”の誤記 -「解せぬ真相表明の遅れ」>と題して弁明しているが、これが開き直りと逆ギレに終始し、とても弁明にならない噴飯ものである。

以下に弁明の該当部分を抜書きするが、要するに「当時はあのような(不明死)ウワサがあったので仕方なかった。 30年も経った今頃抗議するのは不可解」というもの。

 あれは座間味の戦争体験者の座談会をそのまま記録したものであって、梅沢隊長の消息については、あの「誤記」のような説明を私はうけたのである。 正直なところ、梅沢隊長が降伏したことを島の人たちは知らなかったらしい。 ただ、「誤記」のようなウワサがあったようである。あの小さな島で、しかも、当時、一番重要であった人物が、その後どうなったかも知らないほど、島の人たちはすべての情報から遮断され、孤立した状況のなかにおかれていたことがわかる。 『鉄の暴風』執筆当時、私としては、島の人たちでさえ知りえなかった事実をさぐり出すほどの余裕は、当時の私にはなかったのである。「生きている」のに「死んだ」と報じられたことを梅沢氏は抗議しているようだが、「おれは死んではいない」「投降したのだ、そしてこの通り生きているではないか」という意味の抗議なのだろうか。

 それにしても、と私は思う。 というのは『鉄の暴風』の初版が出されたのは1950年の6月15日である。 あれから三十余年間、タイムスが自主的に「誤記」の部分を削除するまで、梅沢氏は自分の所在さえ知らせていないようだし、「誤記」訂正の申し入れもしていないという。 『鉄の暴風』の版元が自ら削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。 その辺の梅沢氏の心情は不可解というしかない。(沖縄タイムス 1986年8月15日)

                 ◇

ただ、「誤記」のようなウワサがあったようである。

「生きている」のに「死んだ」と報じられたことを梅沢氏は抗議しているようだが、「おれは死んではいない」「投降したのだ、そしてこの通り生きているではないか」という意味の抗議なのだろうか

>『鉄の暴風』の版元が自ら削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。 その辺の梅沢氏の心情は不可解というしかない。

読めば読むほど、あきれ返って言葉を失う。

 

太田氏の開き直り弁明については、集団自決問題の決定版ともいえる今週発売予定の『沖縄戦「集団自決」の謎と真実」(秦郁彦編 PHP研究所)に詳述されている。
 

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