ミャンマーチーク屋さんのわが道を行く

日々の出来事と旅と愚痴と文句を勝手に語る日記。

オーストラリア シドニー編(3)

2017-08-07 20:05:16 | 旅行(海外)
腹もふくれたので、そろそろつぎの場所へ。

時計を見ると、そろそろ夜の8時。地下鉄駅のあるボンダイジャンクションの駅にバスで向かう。
そこから地下鉄に乗りキングスクロスへ。シドニー版(SUICA)のオパールカードは、日曜日に
こそ最大のメリットがある。一日2,5ドル(およそ250円)でバス、地下鉄、郊外への鉄道まで
乗り放題という大盤振る舞い。作るのもタダ。残ってしまった場合、返金出来ないのが難点だが、
そこは小まめにチャージをすればクリアできる。物価の高いシドニーでは、数日の旅行者でも、
絶対、購入すべきアイテムだと思う。

キングスクロス。

ひと昔前、南半球最大の歓楽街と謳われた場所。安宿も多く、バックパッカー御用達の街だった。
当然、お世話になった場所で、思い出も多い。
ただ南米から来た者にとって、当時から南半球最大の歓楽街とは、ちょっと大袈裟な気がしていた。
今回、久しぶりに来て、さらに控えめになってしまった印象がぬぐえない。もはや歓楽街などとは
言えないレベルだと思う。

それでも飲み屋やセクシーショップのいくつかは健在で、水っぽい街なのは確か。歩いていると、
すぐにアボリジニの飲んだくれ男に5ドルせがまれる。立ちんぼらしき女性も数人いた。
昔、夜になると閉まる店のシャッター前に布を敷き、アクセサリーを並べて売っていた。当時、
オーストラリアで人気だったオージーバンド「ACDC」のバッジは、2ドルで良く売れた。
5つ売れると1日の宿代が出た。
当時の店の前に行ってみたが、今は違う店になっていてちょっと残念。

テイクアウトでコーヒーを買って、キンクロの中心近くにある公園でしばしブレイクタイム。

26年前、確かにあの店の前にアクセサリーを並べて座っていた。一つ売れると、うれしかった。
雨の日は一つも売れない日もあった。

けれど、どういう訳か不安もなく楽しかったし、明日は、もっと楽しいことがあると思って過ごし
ていた。今では、到底、そんなふうには思えないけれど。

若さというのは、楽観的なのか思考がポジティブなのか、どうなんだろう?

時計を見ると9時過ぎ。けれど、すでに深夜の雰囲気。

シドニーの夜は、結構、早い。

つづく。

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オーストラリア シドニー編(2)

2017-08-06 20:14:07 | 旅行(海外)
今回のシドニー滞在で、ガイド的役割から解放されたのは、夕方4時から翌日、昼までの
たった1日だけ。

この時を逃すと、もうどこへも行けそうにないので、早々、かつて住んでいた場所へ向かう。
四半世紀前、長期滞在していた時、ボンダイビーチに隣接するタマラマというところに住んで
いた。記憶はおぼつかなかったが、日が完全に落ちる前にたぶんそうだろうと思われるフラット
を見つけた。この辺りは静かな住宅街で、周囲に人影もなくひっそりとしていた。長い時間フ
ラフラしているとなんだか怪しまれそうなので、名残惜しかったが、早々、次の目的地へ向かう。

暮らしていた当時、ここから毎日、ボンダイビーチを通りノーズボンダイにあるアルバイト先
である「チャコールチキン」というチキンの炭火焼の店まで歩いて通っていた。片道およそ30分。
天気の良い日はほんとうに爽やかで気持ちよかったのを覚えている。
すでに陽は落ちて真っ暗だったが、週末だったせいかボンダイビーチはそこそこ賑やかだった。
当時と同じように歩いて店の前までやってきた。

けれど、かつての店は見当たらない。ただ同じ場所にチキンやさんはある。店はすっかり改装され、
店名も「チャコールチキン」から「リトル エル」に変っている。
メニューや商品を見ると、それは昔と同じような気がした。とりあえず、チキンのハーフとポテト
のセットを頼んで、店員さんにちょっと尋ねてみた。

店名が変ったのは、もう何年も前らしく店員さんも詳しくはわからないようだった。
ポルトガル人のオーナーのトニーは、今も経営者だが店には、もう時々しか来ないらしい。昔は
私を除くアルバイトの全員がブラジル人の留学生で、店内はポルトガル語オンリーだったが、今
は、もう完全なオージーの店のようだった。

当時の私の仕事は、頭と羽の取れた丸ごと一羽のチキンを捌くこと。お腹から包丁を入れ内臓をきれ
いに取り出し、そのチキンを秘伝のたれ、レモンジュース、蜂蜜、オレガノ、お酢、塩、などの調味
料を混ぜたものに一晩つける。これがすべてだった。捌く鳥の数は平日で150羽から180羽。休みの
前の日は280羽くらい捌いた。当時の時給13ドル。およそ1400円くらいだった。週6日で1日6時間か
ら7時間の仕事だった。昼に限らず、店の食べ物はなんでも食べ放題で、その後の旅行資金を稼ぐ身
したら、ほんとうにありがたい職場だった。

すっかり暗くなったボンダイビーチを見下ろす高台のベンチで、昔を思い出しながら、26年ぶりの
チャコールチキンを食べた。

それは、26年前と同じ味だった。

つづく。




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オーストラリア シドニー編(1)

2017-08-05 21:53:06 | 旅行(海外)
四半世紀ぶりのシドニー。

今回は旅行と言っても、事情があって人を案内することに徹する、まるでガイドそのもの
だった。気も遣ったし、ガイドの辛さがちょっとわかったような…。

別段、在住者というわけでもなく、四半世紀前の記憶なんてほとんどない。けれどどこどこ
に行きたいと言えば、そこまでの交通手段を考え、地下鉄、バスを使い案内する。先方も出
来る限り、ローカルな手段での移動を要望するので、タクシーは最後の手段として考えていた。
おかげでオパールカード(シドニー版、スイカ)のような交通系カード、様々な特典がある、
このカードににとても詳しくなった。

地下鉄では乗り換えで右往左往しないように、出口は目的地に一番近いところを先に確認し
わからなければすぐに人に聞く、バスでは降りる停留所を間違わないようにと、たったこれ
だけのことだが、着いた初日からスムーズにこれをやるのは以外と大変だった。

食事もシーフードにオージビーフ、フィッシュ&チップスに寿司などのリクエストにその都度
応えた。ガイドブックやスマホからも検索できるが、今いる場所から遠くないところ、となる
と人に聞かざる得ない。
普段、入ったことのないようなレストランでのオーダーにもひと苦労だった。「口あたりの
良い赤ワインを頼んで…」などと言われて固まってしまったことも。
最終日は朝からチャイナタウンで飲茶を…などとリクエストがあり気が遠くなったりもした。

シドニー在住者の接待もあり、食事はこれまで食べたことのないようなものばかりだった。
何種類ものロブスターにカニ、アワビにオイスターと、これで一体、どのくらいの費用がかかる
んだろうと、味よりもそっちの方が気になってしまった。

ロックス、サーキュラキーにダーリングハーバー、チャイナタウンにフィッシュマー
ケット、タウンホールにパディントンと、シドニーの観光スポットをほぼ案内した。
郊外のブルーマウンテンには日帰りツアーで楽をさせてもらったが、あとは、皆をタロンガ
動物園の宿泊プランに行ってもらった日の夕方から翌日の昼までが私の唯一の自由時間だった。

夕方4時に、サーキュラキーから皆をフェリーに乗せて見送った。

やっと一人になれた。

およそ半日の、ひとりシドニーを満喫しに出かけた。

つづく。



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帰国と田舎の家

2017-08-04 21:15:52 | つぶやき
帰国いたしました。

帰宅すると、母親から留守電が入っていた。
聞くと、祖父が亡くなったとの知らせだった。ちょうど、帰国日が本葬の日だった。
なんてタイミングが悪いのだろうと思った。

長野県に住む母方の祖父は、祖母が亡くなってからずっと一人で暮らしていた。跡取りだっ
た長男夫婦と折り合いが悪く、さらにうちの母をはじめ他の実子との関係まで悪く、「ひね
くれじいさん」のようなもの言いで呼ばれていた。

長男夫婦には子がおらず、当然のことながら外孫とも疎遠だった。唯一、私だけが小さな頃
から夏や冬、そして春の休みになると度々、田舎へ通った。今思えば、現実逃避先に近いも
のがあったし、長男夫婦に子がいなかったこともあって、田舎ではいつも皆に大歓迎しても
らえるのが心地よかった。なかでも、特に祖父には可愛がってもらっていた。欲しいものが
あると、電話で祖父にねだって買ってもらっていた。これは中学3年の頃まで続いた。

20代になると、さすがに田舎に行くこともなくなったが、30代になってからは2年に一度は
顔を出して、食事を一緒にしていた。昨年3月に行ったのが最後になってしまった。
3月くらいに、今年はどうしようかと一度は考えたが、結局、行かなかった。
今思えば、「あの時行っておけば…」と思えてならない。

95歳という年齢だったが、これといった大病もせず元気だったので、まだ数年は大丈夫だろう
と勝手に思っていた。

やっぱり、最後に会っておきたかった。

これで、「田舎のおじいちゃん家」というのが無くなってしまった。

旅の疲れなのか、心労なのか…。

お肉でも食べれば、少しは元気になるだろうか?



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