爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 be

2014年10月04日 | 悪童の書
be

 チョコレートをもらえなかっただけの話を読み物にする。

 二月の中盤。その頃は、経理関係の仕事なので、四半期の時期は激しく忙しかったが、その合間には時間もできた。ぼくが気に入っている女性は社交辞令として、少し距離がある別部署のビルからチョコをもってくる。だが、ぼくはそこにいない。すべて、世の中はタイミングである。

 アリバイ。

「ローマに行ってるよ、女性と」という情報がその耳に入ってしまう。ぼくは自分に隠し事がなかったことに今更ながら驚いている。彼女が、どういう表情をしたか見ることもない。そう! とも、残念でショックとも、可能性としては両方あるが、知らないものは知らないままである。

 二月になる前。さかのぼる。

 年が変わり、旅行代金が安く設定されたコマーシャルがテレビで流れている。アルファベット三文字のだ。じゃあ、行くか、という話になった。予約をしてもらい、ぼくは自分の代金だけ払う。おごったという記憶もあるが、それは記憶のマジックである。

 深川あたりの神社にいる。宗教は、どう考えてもベストではなくなっていた。ベターである。彼女は賽銭をはらうが、ぼくはもうそうした行為に興味すらない。遠縁のおじさんと同じ立場にいる。はっきりいえば関係ないのだ。無縁である。願って良くなるような願いもしたくない。好転など自分に似つかわしくない。健康も不幸も身から出た錆びであってほしい。慎ましく振る舞いながらも限りなく傲慢でもある。

 となりの敷地には、骨董品が売っている。さまざまな古い道具がある。ちらっと見て、ひとつの映像を記憶にのこす。その後、旅行のしおりのようなパンフレットのようなものをコーヒー・ショップで受け取る。そして、女性には決して言ってはいけないことばをぼくはこの人生に刻む。

「キューピーちゃん人形みたいな体型だよね、自分」

 悲しむ女性。なぐさめる気もない自分。さっき、あの広場に置いてあるピンクで裸体の人形を見てしまったのだ。言わないわけにはいかない。その女性とローマにいる。

 脱線。いま似たような失言ができるか敢えて考える。「家電メーカーのアイワのような女性だよね、君!」お手頃。

 しかし、ぼくの記憶はお返しを買っている情景になる。ぼくは、だから、チョコの余りでも、二、三個食べたのだろうか? キツネとタヌキに全女性を分類すれば、明らかにキツネ顔である女性はよろこんでいた。あるいは、よろこんでいるフリをした。ぼくは仕事の休憩とみなして、その女性と人目を避けるように別のフロアのソファに座って話している。電話番号も訊いたはずだが、かけても素っ気なかったので数回で止めた。それでも、確実に思い出のひとりである。

 日比谷公園から有楽町方面を歩くと、決まってこの女性のことを思いだす。ものすごく賢いわけでもないが、前向きな性格が欠点ですらない欠点を補って余りあるものにしていた。魅力というものの方向転換も自分に強いられた。

 女性のベストも手に入らない。ベターでごまかす。結果、ボギーであるし、ダブル・フォルトである。サービス・エースなどキザな人間だけに許される行為だ。

 ウォルト・ディズニーという方もひとつの国の神であった。クリエィターとしても。秩序を生み、守らせた立憲者としても。なぜ、突然もちだすのかといえば、後日、似ている顔の女性(五、六年の隔たりを挟む)のことも好きになり、生活上での役柄(独身と離婚経験者)も異なっていたのだが、ふたりはとても似ている。そして、話をきくとどちらも夢の国の住人である幸せを説いた。その国の法は尊いのだ。彼女たちはベストだと思っている。ある意味では信者であった。ぼくは別の形のベストを探している。手垢ですべすべになったカウンターに座り、身体の背骨が抜き取られていく魔法を信じている。いまでも。

「久遠」ということばがあるそうだ。さっきまではっきりとした意味合いも知らず、字面とも無縁であった。彼女らの容貌はあのときだから美しいのだろうが、もし、その前後に会ったとしたら、ぼくに対して永続する記憶をのこしてくれたのだろうか。世の中はなにかがどこかで合致する。スクラムを組む。

 カカオというものでチョコレートを作り、その最上のレシピの分量を考えたのは誰なのだろう? 目と鼻と口の微妙なバランスでの設置。部屋の模様替えとは違い、一度、決めてしまえば動かすことはできない。そして、その容姿に魅力を感じるようにこれまたデザインされている自分がいた。

 にこやかにプレゼントを受け取り、過度な遠慮などせずにご飯をおごられる。そして、おいしい表情をする。もし、仮に娘がいたとしたら教育できるのはそのふたつだけのような気もする。結局、子どもがいる似ている女性の側と飲む機会があり、あまりにも楽しく愉快なので泥酔する自分がいる。ゴールはいつも決まってここであった。二駅で降りるはずの積もりが終点にいる。そのまま戻ってくれば良いのだが、なぜか改札を一度でてしまったようで、電子切符の残金は減っていた。彼女らはキューピーではなく、バービーであったのか。ぼくはならばケンなのか? ど根性ガエルの梅さんなのか。試す機会を失った。チョコのように溶けたのだ。少し苦い。大人の味。