爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 bt

2014年10月19日 | 悪童の書
bt

 ユトリロとだけ書く。

 モーリス・ユトリロ。あの静かな絵。その反対にある生活。すでに十代でアルコール依存の治療を受ける。

 牧水と記す。若山牧水。

 死んでも、長年で蓄積したアルコールが大量にあったためか、身体が腐敗しない。

 現実の作品と、実生活上でのエピソード。酒はひとに迷惑をかける要因にもなる。だが、誰が後世のひとびとが見て(読んで)感銘をあたえる作品をのこしたのだろう。逆に、後世になにものこさないのもいさぎよい。

「道楽」という表現が無限の生命力を帯びる。辞書では本業以外と書かれていた。

 結論を急ぎ過ぎないこと。酔いと同じで最初の快楽を持続させること。結論ありきで物事がすすんでしまいがちになる。ぼくは、結果をどうするかなど、あらゆる意図的な振る舞いを、この部分では入り込ませないことにする。

 自分の父も酒を飲んだ。美人な妻にお酌されて数杯という美しいものではない。大量消費ということばがふさわしい。ある日、「あれ、もしかしたら、あの量を抜いてしまったんじゃないの?」という疑問が子どもに生じる。自慢ではない。ただの哀しみである。別に誰が記録しているわけでもない。本業以外の楽しみ。これが、最前列にいる。

 お金をもらう拘束下にいるうちは当然のこと飲まない。飲めない。夕方以降に許される自由であった。寸暇を惜しんで本を読まなければいけない。本業以外の何番目かの楽しみとして。映画も網羅したい。音楽もコレクションしたい。それらを差し置いても酒であった。

 何を追い求めて飲んでいるのだろう? 疑問はある。反対に、あらゆるものから追い駆けられないために飲んでいるとも言えた。自分という気ままでありながら、たくさんの枠組みを有したがる傾向を手放す必要もあった。翌朝に杓子定規への憧憬はきちんと戻ってきている。賢い犬のように。

 散歩前の犬のような歓喜、と書いてみる。段々とよろこびの源泉が枯れる。大人は病気の話題が大好きになる。長命という観点を欲しがらない自分は、病気をおそれていないが、痛みはいやだった。

 酔って転んだりもしている。愚かさしか生まない状況の必然の結果ともいえた。貯蓄という将来のうまみ成分より、このいまの自由を欲した。そして、見知らぬ駅で終電後の改札口にて困惑している。

 漫画喫茶で夜を明かそうと願う。

「ベロベロじゃないですか!」と店員は不快な表情と声音をつくる。

「いいよ、ほか、探すから」と、いいつつも周囲に一晩明かせそうな店もない。

 自分は二十数年も吐いていなかった。その自信を店員は分かってくれないのかもしれない。

 始発から数本、時間が経ったころ、見知らぬ駅のホームにひとりたたずむ。昨夜の楽しさは、今日のむかつきを呼んだ。すべて、自業自得の世の中であった。

 ぼくは、同じ路線で女性を駅まで送っている。下心もなく、心配だけがぼくの動機だった。彼女は、倒れそうになりながらもハイヒールで走った。追いつきそうになると、また逃げた。妹のように慕っている、というのは表現としてどうかと思うも、こういう感じでしか例えられない。

 駅に着くと、走るように去った。翌週、ぼくの親切心は彼女の記憶から抹消されている。ディレートとエンターの世の中でもあった。ぼくらの子犬のじゃれ合いのようなののしり合いを、本気の仲違いの決定的瞬間と判断を誤るひとも多くいた。

 ぼくは集団のなかで真っ先に酔わなければならない。その座を簡単に奪われている。職場のひとがマリオネットのようにカクカクと動いている。ぼくの酔いは遠退く。ひとの心配をする了見などない。

 ひとりでぼんやりと酔いが発生させる状態でまどろんでいると、いくつかのスイッチが動くのが分かる。マジンガーZの発進である。ぼく自身が、ぼくを操縦させ、ぼくの過去の行いが遠いときを経て、恥辱とともに戻ってくる。

 酒も旅行も気が置けない友人と無駄話をしながらした方がこころも快適であるそうだ。ひとりというのは単位として、窮屈すぎる。ぼくは、ひとりになったために見知らぬ駅にいるのだ。「ベロベロだ」と指摘される憂き目にもあうのだ。

 映画や本のなかでアルコール類の断酒を誓い合うグループがでてくる。みな、ときに誘惑に負ける。その愚かな振る舞いを同じ痛みを有するひとびとの円に向かって語り合う。結果として、一滴も飲まないというのが最初の一歩であり、ゴールへの近道であった。もしかしたら、唯一の道かもしれない。

 きまじめなひとから見れば同程度であるかもしれない。ぼくは、ひとをからかう。口喧嘩ぐらいにならないかなと酒を飲んでからの無意識で望んでいる。でも、ここ止まりだった。暴力への道もあるようだし、痴漢に似た行為も生じる。ぼくには、なぜだか訪れない。歓迎もできないのだが。躊躇なく。

 翌日の自己嫌悪があまりにも多過ぎ、すべて河川に流してしまった。しかしながら、治療の必要性も感じていない。偉大なパリの風景も描かず、俳句も歌の趣味もない。そもそも本業というものもない。この地球に置いても日雇いの身分でいる。今日の酒の銭だけあれば、もう充分だった。格好良い結末を考えすぎている。だから、失敗だった。失敗を元手に今日も楽しく飲める。勝利者のビール掛けという美酒の横で、同じ量を敗者のために飲みたいと思う。つまりは、自分自身のために。過去の偉大な才能のためにも、不本意ながら。

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