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自分が、自分という存在になったこと。なってしまったこと。
十五才など、横並びに過ぎない。差もついていないし、レールも路線も確定していない。だが、現在の地点はちがう。もちろん、景色も。良いとも、悪いとも簡単に判別できる単純な問題でもない。過去を振り返る。そういう題材なので。
性質が自分を導く。助手席でうとうとしているうちに自分の性質がどこぞに連れ去ってしまう。
やんちゃな人間であった。しかし、観察する能力や興味を有した。そのことを、ここでずっと書いている。その前にむさぼるように本を読んだので、書くという地道な行為を可能にした。なぜ、本を読んだのかといえば疑問があったからだ。疑問とは、この地上の営みへの違和感があるからだろう。この世の中は、まっとうに進んでいるのだろうか? おそらく、完全ではない。完全ではない世界で、自分だけがパーフェクトでいる必要もない。分解しなくても、見事なぐらいに欠陥品。粗大ゴミで運ばれるのを待つゴミ。ゴミが、ずっと語っている。ゴミに似た日々を。
美学という幻が自分の行動を規定する。しちゃいけないこと。格好悪くて、できないこと。規範。無法地帯に住んでいるのでもない。「法律を破らなければ、いいんだろう?」という居直りは美学とは相容れない。美学と表現すると美しいという幻想も勝手に生まれてしまう。自分の脳に潜む格好良さ。それを破ることを恐れている。
絶対的な共有のルールもある。ひとは他人(自分も含む)を殺さない。ひとのもの(回収した税金を含む)を盗まない。戦時中や災害時は状況による。ロンダリング後の税金(議員さんの旅費や遊行費として再利用可)も一時借用しない。美学以前のもの。いや、あいまいなところにある。自分のふところも充分に潤ってほしい。脱水が必要なぐらいに。遠心分離機にあたまを突っ込んで核をつかむ。
見栄を切ったばかりの当事者のぼくは財布を出す気もなく、アルコール類を飲んでいる。やはり、美学は許していないのだが、やむに已まれず飲んでいる。その見返りは、笑い話の提供に徹するべきなのだ。幇間。ぼくは、この技に徹することを忘れている。イライラを前面に出して、行われたいざこざを酒の場にもちこんでしまっている。
酒への誘惑がぼくをガイドしている。盲目のひとの手を引っ張るように。前にもどる。この現実の映像をぼんやりと霞のようにさせなければならない。近視のひとの裸眼のように。直視できない世の中。
この酔いを含んだ地点をデフォルトにしてしまっている。ゼロ・メートル地点。朝は、マイナスからのスタート。海抜からの目覚め。うつ状態と似ている。何をやっても、テンションは上がらない。
滑稽な質問をされる。イライラを笑いに転化できない。恋人という海抜をゼロにしてくれる力があれば、笑えるような気もする。財布のなかに現金がなくてもカードがある。女性というのは、ぼくにとってそういう役割だったのか。確かに、確かに軽んじている。
ひとは判断をする。本当はしているようで誰かの判断に委ねている。ぼくも過去の本の集積と重みで、状況を打破しようと挑んでいる。まったくのゼロからの計画と決定など、あるはずもない。井戸は勝手に水をためつづけている。汲むという力技はいるにせよ、ぼくはその無言の恩恵にあずかっている。
すると、美学というのも、しつけと罰としての鞭打ちとの合体ということにもなり得る。誰かが規定した。ぼくはその拘束下にいる。能力も体力も獲得したものではない。ただの相続物。そこに多少の訓練を加える。
遺伝しない。あるいは、させない。
前から親子が歩いてくる。そっくりの顔をしている。ある日、子どもは泣いている。朝から泣かなければいけない原因も、無駄に消費されるエネルギーも自分には分からない。泣くに美学もない。ただの感情。
堰き止められない感情も、盲目のぼくのもう片方の手を引っ張る。いや、感情すら制球が上手な投手のようにアウトコースいっぱいをねらう。もう半分。
いずれにも、ならなかった自分を想像してみる。頑固な子どものようにひざを抱え、泣きながら動こうとしないで、どこにも連れ去られなければ。ぼくという偽善と卑怯の混成物を世間に披露しないで済んだ。書くという無意味な浪費もなく、のどかな日曜の連続であった。税金から派生した資金をやりくりして、旅行にも行けた。妻にもおいしいものを食べさせられた。身内と家族が幸せになれば、その円周がぼくの幸福と頑張りの源として完成する。となりの猫や犬が野垂れ死にしようとぼくの問題ではない。家に帰って、子どもの寝顔を見ることだけを追求すれば良かったのだ。
利己的という美学をもちこめなかった。これも嘘の上塗りで充分に利己的だった。野心と倹約と欲が、ぼくに黒い覆面をかぶせてトランクに放り込んだ。投げ込まれたぼくの芯。ぼくは、どこかに運ばれる。いま居る場所と似ている。まったく同じだ。では、明日はどこにいるのだろう? もう車線変更もできない。ただ道なりにすすむだけであった。衝突物があっても、ブレーキも利かない。それで被害もないのだ。これが、ぼく。等身大のぼく。抽象的で、立体さも欠ける観念としてのぼく。
自分が、自分という存在になったこと。なってしまったこと。
十五才など、横並びに過ぎない。差もついていないし、レールも路線も確定していない。だが、現在の地点はちがう。もちろん、景色も。良いとも、悪いとも簡単に判別できる単純な問題でもない。過去を振り返る。そういう題材なので。
性質が自分を導く。助手席でうとうとしているうちに自分の性質がどこぞに連れ去ってしまう。
やんちゃな人間であった。しかし、観察する能力や興味を有した。そのことを、ここでずっと書いている。その前にむさぼるように本を読んだので、書くという地道な行為を可能にした。なぜ、本を読んだのかといえば疑問があったからだ。疑問とは、この地上の営みへの違和感があるからだろう。この世の中は、まっとうに進んでいるのだろうか? おそらく、完全ではない。完全ではない世界で、自分だけがパーフェクトでいる必要もない。分解しなくても、見事なぐらいに欠陥品。粗大ゴミで運ばれるのを待つゴミ。ゴミが、ずっと語っている。ゴミに似た日々を。
美学という幻が自分の行動を規定する。しちゃいけないこと。格好悪くて、できないこと。規範。無法地帯に住んでいるのでもない。「法律を破らなければ、いいんだろう?」という居直りは美学とは相容れない。美学と表現すると美しいという幻想も勝手に生まれてしまう。自分の脳に潜む格好良さ。それを破ることを恐れている。
絶対的な共有のルールもある。ひとは他人(自分も含む)を殺さない。ひとのもの(回収した税金を含む)を盗まない。戦時中や災害時は状況による。ロンダリング後の税金(議員さんの旅費や遊行費として再利用可)も一時借用しない。美学以前のもの。いや、あいまいなところにある。自分のふところも充分に潤ってほしい。脱水が必要なぐらいに。遠心分離機にあたまを突っ込んで核をつかむ。
見栄を切ったばかりの当事者のぼくは財布を出す気もなく、アルコール類を飲んでいる。やはり、美学は許していないのだが、やむに已まれず飲んでいる。その見返りは、笑い話の提供に徹するべきなのだ。幇間。ぼくは、この技に徹することを忘れている。イライラを前面に出して、行われたいざこざを酒の場にもちこんでしまっている。
酒への誘惑がぼくをガイドしている。盲目のひとの手を引っ張るように。前にもどる。この現実の映像をぼんやりと霞のようにさせなければならない。近視のひとの裸眼のように。直視できない世の中。
この酔いを含んだ地点をデフォルトにしてしまっている。ゼロ・メートル地点。朝は、マイナスからのスタート。海抜からの目覚め。うつ状態と似ている。何をやっても、テンションは上がらない。
滑稽な質問をされる。イライラを笑いに転化できない。恋人という海抜をゼロにしてくれる力があれば、笑えるような気もする。財布のなかに現金がなくてもカードがある。女性というのは、ぼくにとってそういう役割だったのか。確かに、確かに軽んじている。
ひとは判断をする。本当はしているようで誰かの判断に委ねている。ぼくも過去の本の集積と重みで、状況を打破しようと挑んでいる。まったくのゼロからの計画と決定など、あるはずもない。井戸は勝手に水をためつづけている。汲むという力技はいるにせよ、ぼくはその無言の恩恵にあずかっている。
すると、美学というのも、しつけと罰としての鞭打ちとの合体ということにもなり得る。誰かが規定した。ぼくはその拘束下にいる。能力も体力も獲得したものではない。ただの相続物。そこに多少の訓練を加える。
遺伝しない。あるいは、させない。
前から親子が歩いてくる。そっくりの顔をしている。ある日、子どもは泣いている。朝から泣かなければいけない原因も、無駄に消費されるエネルギーも自分には分からない。泣くに美学もない。ただの感情。
堰き止められない感情も、盲目のぼくのもう片方の手を引っ張る。いや、感情すら制球が上手な投手のようにアウトコースいっぱいをねらう。もう半分。
いずれにも、ならなかった自分を想像してみる。頑固な子どものようにひざを抱え、泣きながら動こうとしないで、どこにも連れ去られなければ。ぼくという偽善と卑怯の混成物を世間に披露しないで済んだ。書くという無意味な浪費もなく、のどかな日曜の連続であった。税金から派生した資金をやりくりして、旅行にも行けた。妻にもおいしいものを食べさせられた。身内と家族が幸せになれば、その円周がぼくの幸福と頑張りの源として完成する。となりの猫や犬が野垂れ死にしようとぼくの問題ではない。家に帰って、子どもの寝顔を見ることだけを追求すれば良かったのだ。
利己的という美学をもちこめなかった。これも嘘の上塗りで充分に利己的だった。野心と倹約と欲が、ぼくに黒い覆面をかぶせてトランクに放り込んだ。投げ込まれたぼくの芯。ぼくは、どこかに運ばれる。いま居る場所と似ている。まったく同じだ。では、明日はどこにいるのだろう? もう車線変更もできない。ただ道なりにすすむだけであった。衝突物があっても、ブレーキも利かない。それで被害もないのだ。これが、ぼく。等身大のぼく。抽象的で、立体さも欠ける観念としてのぼく。