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中学生である。壁の上部のガラスを同級生が台のうえに乗り雑巾で拭いている。ジャージ姿だった。さぼることを生き甲斐にしているぼくらは、下着もろとも勢いよく下に引っ張る。下半身があらわになる。彼はそのまま振り向いた。
「やめろよ!」と遅れて言う。その後、はじめて自分の姿の無防備さに気付き、ジャージを目一杯の速さで引っ張り上げる。ぼくらは快活に笑う。作戦成功であった。
ある女生徒は、小さな悲鳴をあげながらも、手の指のすき間を充分に離して保ち、目を覆う。見たくないのだ。表面上は。ぼくは好奇心が人間にとっていちばん大事なのだという実例をあげようとしている。進歩には欠かせないもの。
誉めことばも成長と自尊心に果たす役割として大きなものだった。長所も指摘されないと闇のなかに住みつづける。ぼくという洞窟の穴に、なされた数回の呼びかけ。思い出そうと頭を揺する。遭難していた記憶たち。
図工の時間だった。風景を描いている。人間には陰影があり、風景も一色で塗りつぶせば済むということではないことを知る。ぼくはパレットに青と白の絵の具をしぼり、完全に混ぜ合わすのも面倒なので、途中のような段階の色を画用紙に塗る。教師はその色合いをほめた。ぼくは努力の途中での放棄をほめられたため納得がいかない。しかし、後年、印象派の絵を見れば、空というのはそういうものなのだった。青というもので表現されても、別の色も含まれての青だった。白い雲もある。輪郭も溶けて。犬の顔に眉を描くひとは論外であるが、絵を描くことは楽しいことだった。カラオケの歌唱能力があった方が、見た目には生きやすい世の中なのに。ぼくはリボンのついたその箱を悲しいことに受け取っていない。最初から配達されてもいなかったので仕方がない。
次に中学生になり、濃くやわらかい鉛筆で、手首から上の握った拳をデッサンしている。このときもほめられた。形は濃い部分と薄い部分でまざまざと表現できるのだ。これは観察する能力に基づいている。犬に眉毛などそもそもない。しかし、モジリアーニの女性の首も目も現実とはちょっと違った。
高校生になり、試験を受けている。見回る試験官は高校野球の監督だった。
「いい身体してるな!」とぼくの肩あたりを不意に触りながら率直に告げる。どちらかといえばカンニングの有無より彼にはこちらの方がより興味があるのだろう。まるで、奴隷商人の選別にかなったような気が自分でもしてくる。早速、船に乗らねば。その先生は、毎日、毎日、鍛え上げられた身体を見ているはずなのに、それに比べても劣っていないという口調だった。ぼくはダビデ像なのだ。もしくは、視線に耐えるグラビア・アイドルなのだ。レース場にいる水着姿の女性たちなのだ。あれを保持できなかった自分がいる。彼女たちのその後と同じように。
興味のあるものだから観察する。
「髪、切ったんだね?」と中学の二学年後輩の女性が訊く。差が分かっているという前提があった。
「足、速いんだ!」と、ある日、同級生の女性が感嘆するように言う。ぼくは、毎日、飽きもせずにグラウンドを走っていたというのに。節穴なのか? その走り回った全身運動(腕の振りがスピードを生む)で奴隷商人の視線を釘付けにした。
美人はスカウトされる。大男は新弟子検査を受ける。ぼくは、そこまでにはならない。
ある会社のトップは孫という立場の子ども時代に祖母から、「あなたは偉くなるから」と言いつづけられたらしい。そういう洗脳はあると思う。信頼を寄せられる。それを叶えたいと願う。もちろん、反対も起こり得る。あまりの期待にそぐわず、金属バッドを振り回す。見極めが肝心でもあった。
「はやく、孫がほしいんだけど」
自分が口にした愉快なことの個人的な最高峰である。順番を無視することなど誰もできない。
好奇心と疑いと探究。それを混ぜ合わせて知的な遊びに発展させる。新聞は小説なのか。記事は創作なのか。ウソを書いてもいいのだろうか。多くのひとが新聞を絶対的に信頼している。ネットで数行のトピックスを確認し、汗も体臭も含んでいないニュースを楽しむ。ぼくはウソというものを多分にまぶした小説の真実らしさを愛している。新聞は真似ては良くない。特権というのを恐れている。
褒められることは最終的に賞につながる。栄誉。「いまの、わたしがあるのは……」
こんなに思い上がった発言は知らない。過度な謙虚は度外視するが、少しの謙虚さは美しさに唯一、匹敵する。
ぼくは絵をほめてくれた図工の先生に死ぬほど怒られた記憶がある。そのことを思いだそうとしているが、脳のすみの記憶はなかなかシャイである。勝手な振る舞いをしたからだろうが、どこが? と自分の胸に問うてもなかは空だった。歌う能力といっしょである。
クリーニング屋に行く。「おしゃれな洋服だね」と言われる。おしゃれには少量の奇抜さが不可欠になる。埋没ということをもっとも嫌う。埋没の不安におそわれ、自己宣伝に走るひとも多い社会になった。アピールと見落としのせめぎ合いの社会。注視する。指の間をつくる。まぶしいのだ。好奇心はまぶしさと恥じらいに突き当たる。あんな無茶をした時代がなつかしい。あれがきっかけで学校に来なくなれば後味も悪い。だが、まったくそんなことはない。やんちゃが許される地域の、いつもの一場面だった。
中学生である。壁の上部のガラスを同級生が台のうえに乗り雑巾で拭いている。ジャージ姿だった。さぼることを生き甲斐にしているぼくらは、下着もろとも勢いよく下に引っ張る。下半身があらわになる。彼はそのまま振り向いた。
「やめろよ!」と遅れて言う。その後、はじめて自分の姿の無防備さに気付き、ジャージを目一杯の速さで引っ張り上げる。ぼくらは快活に笑う。作戦成功であった。
ある女生徒は、小さな悲鳴をあげながらも、手の指のすき間を充分に離して保ち、目を覆う。見たくないのだ。表面上は。ぼくは好奇心が人間にとっていちばん大事なのだという実例をあげようとしている。進歩には欠かせないもの。
誉めことばも成長と自尊心に果たす役割として大きなものだった。長所も指摘されないと闇のなかに住みつづける。ぼくという洞窟の穴に、なされた数回の呼びかけ。思い出そうと頭を揺する。遭難していた記憶たち。
図工の時間だった。風景を描いている。人間には陰影があり、風景も一色で塗りつぶせば済むということではないことを知る。ぼくはパレットに青と白の絵の具をしぼり、完全に混ぜ合わすのも面倒なので、途中のような段階の色を画用紙に塗る。教師はその色合いをほめた。ぼくは努力の途中での放棄をほめられたため納得がいかない。しかし、後年、印象派の絵を見れば、空というのはそういうものなのだった。青というもので表現されても、別の色も含まれての青だった。白い雲もある。輪郭も溶けて。犬の顔に眉を描くひとは論外であるが、絵を描くことは楽しいことだった。カラオケの歌唱能力があった方が、見た目には生きやすい世の中なのに。ぼくはリボンのついたその箱を悲しいことに受け取っていない。最初から配達されてもいなかったので仕方がない。
次に中学生になり、濃くやわらかい鉛筆で、手首から上の握った拳をデッサンしている。このときもほめられた。形は濃い部分と薄い部分でまざまざと表現できるのだ。これは観察する能力に基づいている。犬に眉毛などそもそもない。しかし、モジリアーニの女性の首も目も現実とはちょっと違った。
高校生になり、試験を受けている。見回る試験官は高校野球の監督だった。
「いい身体してるな!」とぼくの肩あたりを不意に触りながら率直に告げる。どちらかといえばカンニングの有無より彼にはこちらの方がより興味があるのだろう。まるで、奴隷商人の選別にかなったような気が自分でもしてくる。早速、船に乗らねば。その先生は、毎日、毎日、鍛え上げられた身体を見ているはずなのに、それに比べても劣っていないという口調だった。ぼくはダビデ像なのだ。もしくは、視線に耐えるグラビア・アイドルなのだ。レース場にいる水着姿の女性たちなのだ。あれを保持できなかった自分がいる。彼女たちのその後と同じように。
興味のあるものだから観察する。
「髪、切ったんだね?」と中学の二学年後輩の女性が訊く。差が分かっているという前提があった。
「足、速いんだ!」と、ある日、同級生の女性が感嘆するように言う。ぼくは、毎日、飽きもせずにグラウンドを走っていたというのに。節穴なのか? その走り回った全身運動(腕の振りがスピードを生む)で奴隷商人の視線を釘付けにした。
美人はスカウトされる。大男は新弟子検査を受ける。ぼくは、そこまでにはならない。
ある会社のトップは孫という立場の子ども時代に祖母から、「あなたは偉くなるから」と言いつづけられたらしい。そういう洗脳はあると思う。信頼を寄せられる。それを叶えたいと願う。もちろん、反対も起こり得る。あまりの期待にそぐわず、金属バッドを振り回す。見極めが肝心でもあった。
「はやく、孫がほしいんだけど」
自分が口にした愉快なことの個人的な最高峰である。順番を無視することなど誰もできない。
好奇心と疑いと探究。それを混ぜ合わせて知的な遊びに発展させる。新聞は小説なのか。記事は創作なのか。ウソを書いてもいいのだろうか。多くのひとが新聞を絶対的に信頼している。ネットで数行のトピックスを確認し、汗も体臭も含んでいないニュースを楽しむ。ぼくはウソというものを多分にまぶした小説の真実らしさを愛している。新聞は真似ては良くない。特権というのを恐れている。
褒められることは最終的に賞につながる。栄誉。「いまの、わたしがあるのは……」
こんなに思い上がった発言は知らない。過度な謙虚は度外視するが、少しの謙虚さは美しさに唯一、匹敵する。
ぼくは絵をほめてくれた図工の先生に死ぬほど怒られた記憶がある。そのことを思いだそうとしているが、脳のすみの記憶はなかなかシャイである。勝手な振る舞いをしたからだろうが、どこが? と自分の胸に問うてもなかは空だった。歌う能力といっしょである。
クリーニング屋に行く。「おしゃれな洋服だね」と言われる。おしゃれには少量の奇抜さが不可欠になる。埋没ということをもっとも嫌う。埋没の不安におそわれ、自己宣伝に走るひとも多い社会になった。アピールと見落としのせめぎ合いの社会。注視する。指の間をつくる。まぶしいのだ。好奇心はまぶしさと恥じらいに突き当たる。あんな無茶をした時代がなつかしい。あれがきっかけで学校に来なくなれば後味も悪い。だが、まったくそんなことはない。やんちゃが許される地域の、いつもの一場面だった。