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細身のズボンが流行っている。下着も段々とタイトになっている。
相変わらず、ズボンを極限まで引っ張り上げて履いているひともいる。心配性なのだろうか。
土管型の幅広のズボンを中学の学生時代に制服として履いている。周辺の仲間も。たまに没収される。不良たちに未来への心配も管理能力もあるわけもなく、翌日、新入生のような姿でやってくる。細いズボンは敗者の証しになる。
ぼくは陸上競技で鍛えた太ももを理由に、この検査を通過している。何本、ズボンを破けば足を曲げられるのかどうかと強引な説明を加味して。
だが、たまに白い靴という、生徒手帳に記載された事項で、腹立たしいやり取りがある。十戒の次の十一番目の掟として。汝、白い靴以外登下校で履くべきじゃなし。ぼくの白みがかったスニーカーはカラフル過ぎるそうである。明日への進歩も発展もない無駄な会話。その日は、修学旅行の数日前だった。腹が立った自分は、「じゃあ、修学旅行に行かない」という最後のとっておきの切り札を出す。数日の休暇の取得である。目の前のバケーション。
しかし、バスに乗って騒いでいる。男にも武士にも二言はないはずなのに、前言撤回の青春である。
ある日、夕方の職員室に入り、先生の引き出しから迷子のズボンを勝手に捕獲。熱い再会である。自分のがあったかどうかもう思い出せない。
窓ガラスを割って、盗んだバイクに乗って去る方がドラマチックだ。ぼくは、現実の人間である。自転車泥棒という映画の主人公にも似たリアルな人間だった。頬っかむりして、夕方の職員室をこそこそであった。
しかし、教師たちと敵対していたかといえば、まったくそうでもない。休み時間に職員室に入り浸り大人びた会話をしている。
「ねえ、試験範囲、どの辺からでるの?」と、斥候はちゃっかり情報入手にいそしんでいる。ヒントもあるのが人情というものだ。一週間ほど経って、ぼくは自分のテストを真っ先に採点してもらっている。間違いはひとつ。20番目というスペルを間違えている。おそらく、今後も、ぼくは外国人に20番目ということばを使う機会もないだろう。書きしたためて。あなたが二十番目と宣言されない限り。
お金がある友人は、オーダーメードの制服を買う。裏地は美学である。専門店に行くために自転車で連れ立って走っている。牧歌的な土手。誰かは、卒業をした先輩のお下がりをもらう。代々、藩に伝わる秘蔵の刀の授受のように。
先輩を真似たいという動機がある。みな、洗脳を避けられない世界である。シャネルは美である、というのも洗脳の一部である。貧乏人の侘しい発言に過ぎないが。ガウディは素晴らしい。金銭は流通する。みな、寄り添ってルールを守るのだ。一致団結。
ひとは外見で判断する。また、判断されるような服装を敢えてする。
あるいは、ひとは外見(そとみ)という側なのだ。表面に見えるもの。自分の背中はかろうじて見えない。
クリーニングの返却のタグをつけているひとがたまにいる。イヤな顔をされようが指摘しない訳にはいかない。なぜ、自分の不注意を見つけられて不満顔になるのだろう。
内面と側。
なるべくなら内面にある抽象的なものを評価されたいと思う。(手持ちがないけど)穏やかさとか、(少ないけど)親切さとか、(方向が間違っているけど)勇気とかを。
又聞き。
男性数人がある個人の女性の胸の話をしている。大は小を兼ねるという類いの話だ。その正しさの立証は抜きにして、当人は見えないパーテーションの向こうにいた。それを彼女の耳はどう捉え、自身でどう納得させているのだろうか? 話題になることすら不快なのか? あるいは、満更でもないのか。自分の好みは、大は小を兼ねることなど不可能だとも思っている。さらに、自分の身体の特徴のひとつが、女性たちの口にのぼっているとも考えにくい。むずかしい世の中だ。
と、正論を述べつつも、自分は女性の内面など考慮に入れていない。もしくは、少ない量の程度でしか。
いや、いくらかはある。過剰な甘えはご法度であった。もちろん、向こうがそうしたい場合、選択肢としてぼくなど出てこない。対等の立場での口喧嘩が常に理想にあった。当然、「一生、守る」という空論も顔を出すことがない。そもそも、そういう種子がないのだ。保険会社の宣伝をマネすることなどできない。
あの日に戻る。長いスカートの女性が対としている。織姫と彦星。お内裏様やお雛さま。
高校に通っている女性を好きになる。ちがう。好きになった女性が進学した。スカートは急激に短くなっていた。ぼくはその様子を見ることはない。ぼくがネクタイの結び目に四苦八苦し出したころかもしれない。自転車と同じで、目をつぶってもという段階になる。そして、自分の服装に頓着することもなくなってしまう。
胸も永久ではない。若さも永久ではない。職員室の教員の引き出しにどれも収まりきらない。世界は、青猫人形のポケットではない。盗みに入るのは、あるだろうという予想が確信に近くなった場合だ。なぜ、あの日はあんな無防備な戸締りも緩い部屋だったのだろうか。ぼくはふざけて、教室の窓のそとの小さな区画に立つ。となりの教室を外側からのぞいてみる。足が一個分ぐらいの幅。あそこを歩く勇気もかなり前にもう全滅だ。膨らんでしぼむ。世の趨勢。
細身のズボンが流行っている。下着も段々とタイトになっている。
相変わらず、ズボンを極限まで引っ張り上げて履いているひともいる。心配性なのだろうか。
土管型の幅広のズボンを中学の学生時代に制服として履いている。周辺の仲間も。たまに没収される。不良たちに未来への心配も管理能力もあるわけもなく、翌日、新入生のような姿でやってくる。細いズボンは敗者の証しになる。
ぼくは陸上競技で鍛えた太ももを理由に、この検査を通過している。何本、ズボンを破けば足を曲げられるのかどうかと強引な説明を加味して。
だが、たまに白い靴という、生徒手帳に記載された事項で、腹立たしいやり取りがある。十戒の次の十一番目の掟として。汝、白い靴以外登下校で履くべきじゃなし。ぼくの白みがかったスニーカーはカラフル過ぎるそうである。明日への進歩も発展もない無駄な会話。その日は、修学旅行の数日前だった。腹が立った自分は、「じゃあ、修学旅行に行かない」という最後のとっておきの切り札を出す。数日の休暇の取得である。目の前のバケーション。
しかし、バスに乗って騒いでいる。男にも武士にも二言はないはずなのに、前言撤回の青春である。
ある日、夕方の職員室に入り、先生の引き出しから迷子のズボンを勝手に捕獲。熱い再会である。自分のがあったかどうかもう思い出せない。
窓ガラスを割って、盗んだバイクに乗って去る方がドラマチックだ。ぼくは、現実の人間である。自転車泥棒という映画の主人公にも似たリアルな人間だった。頬っかむりして、夕方の職員室をこそこそであった。
しかし、教師たちと敵対していたかといえば、まったくそうでもない。休み時間に職員室に入り浸り大人びた会話をしている。
「ねえ、試験範囲、どの辺からでるの?」と、斥候はちゃっかり情報入手にいそしんでいる。ヒントもあるのが人情というものだ。一週間ほど経って、ぼくは自分のテストを真っ先に採点してもらっている。間違いはひとつ。20番目というスペルを間違えている。おそらく、今後も、ぼくは外国人に20番目ということばを使う機会もないだろう。書きしたためて。あなたが二十番目と宣言されない限り。
お金がある友人は、オーダーメードの制服を買う。裏地は美学である。専門店に行くために自転車で連れ立って走っている。牧歌的な土手。誰かは、卒業をした先輩のお下がりをもらう。代々、藩に伝わる秘蔵の刀の授受のように。
先輩を真似たいという動機がある。みな、洗脳を避けられない世界である。シャネルは美である、というのも洗脳の一部である。貧乏人の侘しい発言に過ぎないが。ガウディは素晴らしい。金銭は流通する。みな、寄り添ってルールを守るのだ。一致団結。
ひとは外見で判断する。また、判断されるような服装を敢えてする。
あるいは、ひとは外見(そとみ)という側なのだ。表面に見えるもの。自分の背中はかろうじて見えない。
クリーニングの返却のタグをつけているひとがたまにいる。イヤな顔をされようが指摘しない訳にはいかない。なぜ、自分の不注意を見つけられて不満顔になるのだろう。
内面と側。
なるべくなら内面にある抽象的なものを評価されたいと思う。(手持ちがないけど)穏やかさとか、(少ないけど)親切さとか、(方向が間違っているけど)勇気とかを。
又聞き。
男性数人がある個人の女性の胸の話をしている。大は小を兼ねるという類いの話だ。その正しさの立証は抜きにして、当人は見えないパーテーションの向こうにいた。それを彼女の耳はどう捉え、自身でどう納得させているのだろうか? 話題になることすら不快なのか? あるいは、満更でもないのか。自分の好みは、大は小を兼ねることなど不可能だとも思っている。さらに、自分の身体の特徴のひとつが、女性たちの口にのぼっているとも考えにくい。むずかしい世の中だ。
と、正論を述べつつも、自分は女性の内面など考慮に入れていない。もしくは、少ない量の程度でしか。
いや、いくらかはある。過剰な甘えはご法度であった。もちろん、向こうがそうしたい場合、選択肢としてぼくなど出てこない。対等の立場での口喧嘩が常に理想にあった。当然、「一生、守る」という空論も顔を出すことがない。そもそも、そういう種子がないのだ。保険会社の宣伝をマネすることなどできない。
あの日に戻る。長いスカートの女性が対としている。織姫と彦星。お内裏様やお雛さま。
高校に通っている女性を好きになる。ちがう。好きになった女性が進学した。スカートは急激に短くなっていた。ぼくはその様子を見ることはない。ぼくがネクタイの結び目に四苦八苦し出したころかもしれない。自転車と同じで、目をつぶってもという段階になる。そして、自分の服装に頓着することもなくなってしまう。
胸も永久ではない。若さも永久ではない。職員室の教員の引き出しにどれも収まりきらない。世界は、青猫人形のポケットではない。盗みに入るのは、あるだろうという予想が確信に近くなった場合だ。なぜ、あの日はあんな無防備な戸締りも緩い部屋だったのだろうか。ぼくはふざけて、教室の窓のそとの小さな区画に立つ。となりの教室を外側からのぞいてみる。足が一個分ぐらいの幅。あそこを歩く勇気もかなり前にもう全滅だ。膨らんでしぼむ。世の趨勢。