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「山登りに行かない?」
と、何度も誘われる。まとまった休みの時期になると。登って終わりではなく一連のセットとして、テントのなかで地べたに寝そべって泊まることが含まれている。結局、断る。すると、いつも決まって自然がキライなひととして認定される憂き目にあう。いや、まったく違う。正反対。軽井沢でのんびり、なら充分に検討する余地がある。大自然との接し方の問題だと思う。ご飯がススム君もいれば、のんびりしたいちゃんもいる。
そのひとについても触れる。最小の投資で最大の利益、ということを計算ではなく自然としている。その定義にあてはめると、「かつ丼」というものが常に効率がよいものとして外食時にはテーブルにあがる。気分というものに左右されたがれば、味わえる範囲もひろがるのに。
山とカメラにしか興味がないようにずっと思っていた。いかにカメラを安く買えたかを自慢していた。そうだ、あとは野球も好きだった。典型的な巨人ファン。その彼のおかげで、日米野球を見る機会があり、外野席で「新庄さん」の見事なプレー、ボールさばきを見て感動したのを覚えている。その後、アメリカと呼ばれる地で活躍することになるが、あの姿を見た自分には当然以外のなにものでもなかった。
栃木の雪道で彼の車はぶつかる。前日、晴れていたのに目が覚めると大雪が積もっていた。大きな旅館の部屋に、占領するふたつの布団。やはり、屋根はあった方がいい。事故は大きなものにならずに、人体ならかすり傷程度で済んだ。
ぼくは、その後ひとりで各地を歩き回る。浅間山のそばまで行って、山頂の雪が夕日に染まる美しさも知った。八ヶ岳を見ながら温泉に入っている。北海道の支笏湖の水の美しさを知っている。時間がないのに、帰りのバスまでの空いた時間であわてて近場の温泉に入った。タオルもなにも準備していない。小さなハンカチしかない。やろうと思えばやれるものであった。ここまでたどれば、自然がキライな人間だとも自分自身で思えない。
だが、都会というものが自分をつくったことも認識している。地下鉄が縦横に走る土地で生活する。潔癖な一面がある自分は排気ガスを出しても平気な性分でもないので、一切、車に乗らなかった。それで、デートの範囲が狭まってもまったく気にしない。昼間からの飲酒と、大の読書好きにはそもそも相容れない関係なのだ。
長崎の山にのぼり、自力ではなくケーブル・カーに乗ってだが、夜景を見ている。光が作る景色、イルミネーションに見惚れる。ホテルの一室で快適な室温で、柔らかな寝心地のよいベッドに横たわる。これを手放さないためにお金を稼いだのではないのか? ぼくも彼のものに比較すれば安物に過ぎないが、カメラを手にしている。デジタルになって撮影と消去は無制限になった。充電さえできれば、世の中は機能するようになっている。ひとはコンセントを探し、確保する時代になっている。
子どもが生まれると生活形態も変わる。また大きくなればテントの生活を愉快だと子どもも思うかもしれない。ぼくのあたまの中にはきれいな小川に泳ぐフナの魚影がある。誤って滑り落ちるのも楽しい思い出になるが、そんなものは実際にはない。中禅寺湖の景色やいろは坂の紅葉の美しさもぼくを作っている。奪えないし、持ち出せない大きな体積のようなものがぼくの体内にある。これでも、自然を毛嫌いしているのだろうか?
遠い昔に東京を離れて暮らした四ヶ月ほどの時期がぼくにはあった。ある車が不注意であったのか定かではないが一頭の鹿をはねてしまう。ぼくは駆り出され、その現場までいく。動かなくなった足をもってワゴン車の後部にのせる。ホテルの料理長や他の数人が汁をつくる。ぼくは味わう。急に重いものをもちあげたのだけが理由ではなく、生き物のはかなさのために哀しんだのが加味し追加され、ぼくの腰は痛んでいる。でも、野生の肉は急激にぼくの身体を温めた。自然のなかにいるということは、こういう要素もあるのだろう。きれいごとではない、そのままの欲求。
そこの料理長はぼくに優しかった。親切にしてもらった。自生している舞茸でスープを作ってくれた。それ以来、ぼくはこのキノコのファンでもある。これでも、自然を愛していないだろうか?
料理長の外車で山道を走る。ぼくは助手席にいた。景色も空気もきれいだった。ラジオから井上陽水の「少年時代」が流れる。その体験を掛け替えのないものとしている。
いまの知識があれば、「ケルン・コンサート」というジャズの名盤の方がエクスタシーの度合いも大きかったかも知れない。だが、それを知るには数年だけ早い。ぼくはこの数か月のバイトで貯めた金でジャズのCDをたくさん買った。美術展にも行き、東京の温かさを感じている。やはり、文化的なものに接するには東京が秀でていた。
誰もずっと山登りがしたいわけでもない。ただ休みの数日間だけ、いつもと違う環境に身を置きたいだけなのだ。写真を撮り、また家に戻ってナイト・ゲームに一喜一憂する。メジャーに挑戦するひとも増えた。内野手は役に立たないという実績を積み上げる。山登りも、避暑地でのんびりも絶対になくてはならないものでもない。ただ、あった方が良い。かなり良い。仕上げに冷たいビールか、おいしいワインがあれば、もっと良いだろう。生活も自然もこの程度で充分だった。
「山登りに行かない?」
と、何度も誘われる。まとまった休みの時期になると。登って終わりではなく一連のセットとして、テントのなかで地べたに寝そべって泊まることが含まれている。結局、断る。すると、いつも決まって自然がキライなひととして認定される憂き目にあう。いや、まったく違う。正反対。軽井沢でのんびり、なら充分に検討する余地がある。大自然との接し方の問題だと思う。ご飯がススム君もいれば、のんびりしたいちゃんもいる。
そのひとについても触れる。最小の投資で最大の利益、ということを計算ではなく自然としている。その定義にあてはめると、「かつ丼」というものが常に効率がよいものとして外食時にはテーブルにあがる。気分というものに左右されたがれば、味わえる範囲もひろがるのに。
山とカメラにしか興味がないようにずっと思っていた。いかにカメラを安く買えたかを自慢していた。そうだ、あとは野球も好きだった。典型的な巨人ファン。その彼のおかげで、日米野球を見る機会があり、外野席で「新庄さん」の見事なプレー、ボールさばきを見て感動したのを覚えている。その後、アメリカと呼ばれる地で活躍することになるが、あの姿を見た自分には当然以外のなにものでもなかった。
栃木の雪道で彼の車はぶつかる。前日、晴れていたのに目が覚めると大雪が積もっていた。大きな旅館の部屋に、占領するふたつの布団。やはり、屋根はあった方がいい。事故は大きなものにならずに、人体ならかすり傷程度で済んだ。
ぼくは、その後ひとりで各地を歩き回る。浅間山のそばまで行って、山頂の雪が夕日に染まる美しさも知った。八ヶ岳を見ながら温泉に入っている。北海道の支笏湖の水の美しさを知っている。時間がないのに、帰りのバスまでの空いた時間であわてて近場の温泉に入った。タオルもなにも準備していない。小さなハンカチしかない。やろうと思えばやれるものであった。ここまでたどれば、自然がキライな人間だとも自分自身で思えない。
だが、都会というものが自分をつくったことも認識している。地下鉄が縦横に走る土地で生活する。潔癖な一面がある自分は排気ガスを出しても平気な性分でもないので、一切、車に乗らなかった。それで、デートの範囲が狭まってもまったく気にしない。昼間からの飲酒と、大の読書好きにはそもそも相容れない関係なのだ。
長崎の山にのぼり、自力ではなくケーブル・カーに乗ってだが、夜景を見ている。光が作る景色、イルミネーションに見惚れる。ホテルの一室で快適な室温で、柔らかな寝心地のよいベッドに横たわる。これを手放さないためにお金を稼いだのではないのか? ぼくも彼のものに比較すれば安物に過ぎないが、カメラを手にしている。デジタルになって撮影と消去は無制限になった。充電さえできれば、世の中は機能するようになっている。ひとはコンセントを探し、確保する時代になっている。
子どもが生まれると生活形態も変わる。また大きくなればテントの生活を愉快だと子どもも思うかもしれない。ぼくのあたまの中にはきれいな小川に泳ぐフナの魚影がある。誤って滑り落ちるのも楽しい思い出になるが、そんなものは実際にはない。中禅寺湖の景色やいろは坂の紅葉の美しさもぼくを作っている。奪えないし、持ち出せない大きな体積のようなものがぼくの体内にある。これでも、自然を毛嫌いしているのだろうか?
遠い昔に東京を離れて暮らした四ヶ月ほどの時期がぼくにはあった。ある車が不注意であったのか定かではないが一頭の鹿をはねてしまう。ぼくは駆り出され、その現場までいく。動かなくなった足をもってワゴン車の後部にのせる。ホテルの料理長や他の数人が汁をつくる。ぼくは味わう。急に重いものをもちあげたのだけが理由ではなく、生き物のはかなさのために哀しんだのが加味し追加され、ぼくの腰は痛んでいる。でも、野生の肉は急激にぼくの身体を温めた。自然のなかにいるということは、こういう要素もあるのだろう。きれいごとではない、そのままの欲求。
そこの料理長はぼくに優しかった。親切にしてもらった。自生している舞茸でスープを作ってくれた。それ以来、ぼくはこのキノコのファンでもある。これでも、自然を愛していないだろうか?
料理長の外車で山道を走る。ぼくは助手席にいた。景色も空気もきれいだった。ラジオから井上陽水の「少年時代」が流れる。その体験を掛け替えのないものとしている。
いまの知識があれば、「ケルン・コンサート」というジャズの名盤の方がエクスタシーの度合いも大きかったかも知れない。だが、それを知るには数年だけ早い。ぼくはこの数か月のバイトで貯めた金でジャズのCDをたくさん買った。美術展にも行き、東京の温かさを感じている。やはり、文化的なものに接するには東京が秀でていた。
誰もずっと山登りがしたいわけでもない。ただ休みの数日間だけ、いつもと違う環境に身を置きたいだけなのだ。写真を撮り、また家に戻ってナイト・ゲームに一喜一憂する。メジャーに挑戦するひとも増えた。内野手は役に立たないという実績を積み上げる。山登りも、避暑地でのんびりも絶対になくてはならないものでもない。ただ、あった方が良い。かなり良い。仕上げに冷たいビールか、おいしいワインがあれば、もっと良いだろう。生活も自然もこの程度で充分だった。