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学生服のボタンが全部、なくなった。十五才の三月の昼間。あんなものをもらって、いったい、その後どうするのだろう? 女性というのは不可解な生き物だ。まだその風習は生き延びているのだろうか。
批判を装いながらも、しかし、うれしいのも事実で、それでいながら同時に困った状況でもあるのだ。ぼくの高校はブレザーだが、あと一日、この格好で学校の何かのイベントに向かわなければならない。安いホストのように胸を開いて行くことなど念頭にない。いまさら買うのも無意味だった。新品の輝けるボタン。解決策はどこかにある。探す面倒を受容すれば。
ぼくと背格好が似た友人が高校も学生服を着る。ぼくのはまだ古びていない。あと数年は充分に使えそうだ。それを差し上げることにして、彼の新品とは呼べないものを代わりにもらう。あと一回だけ。彼は高校生の証しのボタンを付けることになるのだろう。すると、記憶は定かではないが、彼のボタンは戦場を抜けたのに、ひとつも漏らさず装着されていたのだろうか? 彼の方が確実に女性に人気があったように覚えている。もしかしたら、ぼくの人気はシャイの集団たちからのものかもしれない。普段は人目を忍んで。ぼくという踏み絵を恐れて。
着てみる。ぴったり。これで解決した。あっけないものだ。
学べるもの。計画や身近な予定より、その場の勢いに流されてしまうという自分の性分。見境のなさ。雰囲気にのまれてしまえ、ホトトギス。
あのボタンは過去の象徴である。新たなクラスメートに囲まれ、新たな友人や関係を構築しなければならない。成長をともにしないで途中からのスタートだった。なにを楽しみ、なにに嫌悪感をいだくのか。方言までは含まれない。東京近郊の子たち。華があるひと。地味でいることに甘んじるひと。
半年間ぐらい、その環境に入るために勉強した。成績もそれに応じてアップする。その期待に見合う仲間や教師がいたのだろうか? 答えはノンである。ぼくは中学の同級生のあるひとりを好きなまま(悔しいことに、ボタンも要求されない。いらないというタイプなのかしらん)で、友人もその中から継続して付き合っていた。とても後ろ向きである。地元愛というのが強い地域だった所為もある。いまになって思えば。
その反面、職場を多く変えた。新しいことを学んでいないと、直ぐにつまらなくなる。日常的なルーチン・ワークは悪である。友人もできる。だが、根っこのところで、就業後、仕事のことを話題にして酒を飲むことなど避けられるなら絶対に避けたい。世の中は、すばらしいこと、美しいもので満ちているのだ。愉快なことを探そう。
仕事を辞めても、ボタンまでは取られない。なにかのプレゼントを逆にもらう。女性はのこるものと、一瞬で消えてしまうものの両方が好きであった。両者をうまいこと組み合わせる。バランスが大事だ。そして、アボカドと甘いものを食べさせておけ! という家訓を受け継いでいる。いろいろ封じられるものもある、この方法で。
先日の飲み会の場面。
「また、仕事の話ばっかりしていると、○○さんが怒りますよ!」と、ぼくが名指しされる。このことも、良い風潮だと思う。しかしながら、こう宣言した手前、ミスは許されないのだという圧力を自分に課していることになる。年がら年中、考えていないフリをとったからには、成功しか似合わない。
「五時五十九分に仕事はロッカーに放り込み、きちんとカギを閉めてきてください」と、情報をさらに追加。ぼくは飲むためだけに、飲める。その自由もぼくの記憶の方が先に負けてしまう。この部分もロッカーに入ってしまった。
ミスしそうな小さな欠陥を修復する。それが何周かすると、怠惰をむかえられる。口に楊枝をくわえ、のどかな日々である。しかし、ぼくはそもそもこの位置と地位がきらいなのだ。冷や汗をかき、失敗を詫びる。何かを学習している確実な見える証拠である。
失敗でしか学べない事実がある。そもそも。誰も神ではない。居直ることも問題外だが、クールに見えるかどうかを常に自分の仮面としている。
ボタンをとられている。クールな人間である。いまは弱った目でとれたボタンを縫い付けている。わびしい瞬間であった。糸を穴に通す苦痛など、知りたくもなかった。先端をまたペロリである。懲りずに味もないのにペロリであった。
だが、ひとりの顔も思い出せない。誰が、ぼくという踏み絵を公開で踏んだのだろう。踏みつぶしたのか。学ぶという過程にいながら、教科書をもとにした先生の口を通じての知識など、少なく思える。友人との関係の発見と運営方法。時間のやりくり。笑わせたり、笑わせられたり。これらは、簡単に、あるいは一方的に卒業もできない。毎日、必死にならなくてもあたまの片隅でやろうと心掛けているのだろう。だが、六時になれば、すべて解禁だった。同じ意味で厳禁でもあった。引き出しにボタンがいくつかある。何かの機会と、ある日のために。でも、縫い付ける場所など、ほとんど見いだせない。くっついたり、離れたり。これも人生で起こるよろこびであり、同時に悲しみの土台でもあった。
学生服のボタンが全部、なくなった。十五才の三月の昼間。あんなものをもらって、いったい、その後どうするのだろう? 女性というのは不可解な生き物だ。まだその風習は生き延びているのだろうか。
批判を装いながらも、しかし、うれしいのも事実で、それでいながら同時に困った状況でもあるのだ。ぼくの高校はブレザーだが、あと一日、この格好で学校の何かのイベントに向かわなければならない。安いホストのように胸を開いて行くことなど念頭にない。いまさら買うのも無意味だった。新品の輝けるボタン。解決策はどこかにある。探す面倒を受容すれば。
ぼくと背格好が似た友人が高校も学生服を着る。ぼくのはまだ古びていない。あと数年は充分に使えそうだ。それを差し上げることにして、彼の新品とは呼べないものを代わりにもらう。あと一回だけ。彼は高校生の証しのボタンを付けることになるのだろう。すると、記憶は定かではないが、彼のボタンは戦場を抜けたのに、ひとつも漏らさず装着されていたのだろうか? 彼の方が確実に女性に人気があったように覚えている。もしかしたら、ぼくの人気はシャイの集団たちからのものかもしれない。普段は人目を忍んで。ぼくという踏み絵を恐れて。
着てみる。ぴったり。これで解決した。あっけないものだ。
学べるもの。計画や身近な予定より、その場の勢いに流されてしまうという自分の性分。見境のなさ。雰囲気にのまれてしまえ、ホトトギス。
あのボタンは過去の象徴である。新たなクラスメートに囲まれ、新たな友人や関係を構築しなければならない。成長をともにしないで途中からのスタートだった。なにを楽しみ、なにに嫌悪感をいだくのか。方言までは含まれない。東京近郊の子たち。華があるひと。地味でいることに甘んじるひと。
半年間ぐらい、その環境に入るために勉強した。成績もそれに応じてアップする。その期待に見合う仲間や教師がいたのだろうか? 答えはノンである。ぼくは中学の同級生のあるひとりを好きなまま(悔しいことに、ボタンも要求されない。いらないというタイプなのかしらん)で、友人もその中から継続して付き合っていた。とても後ろ向きである。地元愛というのが強い地域だった所為もある。いまになって思えば。
その反面、職場を多く変えた。新しいことを学んでいないと、直ぐにつまらなくなる。日常的なルーチン・ワークは悪である。友人もできる。だが、根っこのところで、就業後、仕事のことを話題にして酒を飲むことなど避けられるなら絶対に避けたい。世の中は、すばらしいこと、美しいもので満ちているのだ。愉快なことを探そう。
仕事を辞めても、ボタンまでは取られない。なにかのプレゼントを逆にもらう。女性はのこるものと、一瞬で消えてしまうものの両方が好きであった。両者をうまいこと組み合わせる。バランスが大事だ。そして、アボカドと甘いものを食べさせておけ! という家訓を受け継いでいる。いろいろ封じられるものもある、この方法で。
先日の飲み会の場面。
「また、仕事の話ばっかりしていると、○○さんが怒りますよ!」と、ぼくが名指しされる。このことも、良い風潮だと思う。しかしながら、こう宣言した手前、ミスは許されないのだという圧力を自分に課していることになる。年がら年中、考えていないフリをとったからには、成功しか似合わない。
「五時五十九分に仕事はロッカーに放り込み、きちんとカギを閉めてきてください」と、情報をさらに追加。ぼくは飲むためだけに、飲める。その自由もぼくの記憶の方が先に負けてしまう。この部分もロッカーに入ってしまった。
ミスしそうな小さな欠陥を修復する。それが何周かすると、怠惰をむかえられる。口に楊枝をくわえ、のどかな日々である。しかし、ぼくはそもそもこの位置と地位がきらいなのだ。冷や汗をかき、失敗を詫びる。何かを学習している確実な見える証拠である。
失敗でしか学べない事実がある。そもそも。誰も神ではない。居直ることも問題外だが、クールに見えるかどうかを常に自分の仮面としている。
ボタンをとられている。クールな人間である。いまは弱った目でとれたボタンを縫い付けている。わびしい瞬間であった。糸を穴に通す苦痛など、知りたくもなかった。先端をまたペロリである。懲りずに味もないのにペロリであった。
だが、ひとりの顔も思い出せない。誰が、ぼくという踏み絵を公開で踏んだのだろう。踏みつぶしたのか。学ぶという過程にいながら、教科書をもとにした先生の口を通じての知識など、少なく思える。友人との関係の発見と運営方法。時間のやりくり。笑わせたり、笑わせられたり。これらは、簡単に、あるいは一方的に卒業もできない。毎日、必死にならなくてもあたまの片隅でやろうと心掛けているのだろう。だが、六時になれば、すべて解禁だった。同じ意味で厳禁でもあった。引き出しにボタンがいくつかある。何かの機会と、ある日のために。でも、縫い付ける場所など、ほとんど見いだせない。くっついたり、離れたり。これも人生で起こるよろこびであり、同時に悲しみの土台でもあった。