雑貨生活(4)
ぼくはカンニングを繰り返している。
きれいな女は妊娠している
クリスマスの半年後に妊娠している
細い腕と細い足と大きなお腹で妊娠している
きれいな女はにんしんしている
クリスマスの半年後に、にんしんしている。
彼女の机の引き出しを漁っている。それは隠す意図ではなく、見るかもしれない可能性を含んでの秘蔵だった。別に秘密でもなんでもないのかもしれない。総じて家にいる時間の多い自分は、書きかけのものを暴かれる必要もない。そもそも頭のなかにしかないものたちだった。乳は牛から出た時点で、牛乳になるのか? 搾り出される前のものは、何と評するのか? その安楽な状態は次のヨーグルトの地点まで運んでくれない。
ぼくは、ぼんやりと窓の外を見る。散歩して誰かに会わないと、さらに会話でもしないとヒントも与えてもらえず、このささやかな思考のともしびを抱え込んでいる脳をゆすって、燻りだすこともできない。
歩いている。サンダル履きではなく、きちんと靴下を履き、スニーカーに足を突っ込んでいる。
彼女は妊娠したいのか? あの膨らんだ腹の状態を見せびらかして恥かしげもなく歩けるのは女性だからなのか。実践者であることの証拠。ぼくは、自分の生み落した数々の作品を見せびらかしたくはないのだろうか。
カウンターでコーヒーを待っている。健気に働く女性。このウェイトレスも妊娠したいのか? 将来の痛みを、激痛を待ちうけるほど、女性たちは愚かなのか。その愚かなものを追いかける自分は、愚かさを何倍しなければならないのだろう。
カップから湯気が出ている。注文の品の名前と、ありがとう、とお持たせしました、しか会話は成立しなかった。ぼくの壮大なるベン・ハーはどこに眠りつづけているのだろう。
ぼくはゆったりとしたソファにすわる。ひとは書類を横から運ばれ机のうえに乗せられる。それに目を通して、チェックしたり、出金のデータを作ったり、お客さんの問い合わせで意志疎通のむずかしさを嘆いたりして一日を終えるのだ。この過程を明日も繰り返して、来週も一年後も大幅に狂いのない人生を積み上げていく。それが生きるということの経常的なまっとうな立場だった。ぼくは足を踏み外している。平日の昼間に妊婦の女性の姿をあれこれと考察している。
すると、奇跡が起きる。病院で知り合ったのか妊婦のふたりが親しげに会話をしながらとなりの席についた。病院? そこは病気を治療する場所だった。他にふさわしい名称はないものなのか。病院は幸福と歓喜のステージにもなるのだろうか。
ぼくはちらっと彼女たちの腹の膨らみ度合いを確認する。そして、いらぬ計算をする。洗濯機のようにスイッチを入れれば数十分後に終わるという簡単なものではない。オーブン以上に時間をかける。圧力なべ。
だが、脱水はされる。
ぼくの仕事は思考を紙に刻みつけること。いや、もう紙ではない。空想と現実との摩擦を圧力なべに入れて、温度を高める。電子レンジでの保温よりまともなものをぼくは作っているのだ。いいや、作る過程にまだいて、ベルトコンベアーに流そうとしている。コーヒーを飲みながら。妊婦にあたたかい世界に紛れ込みながら。
だが、ぼくらに共通項は一切ない。
空想という油断がまかり通る世界にいると、突然、音がした。妊婦のひじが思いがけなくコーヒーのカップにあたる。午前中の静かな店内では意外と大きな落下音がこだまする。ぼくの足元に液体は流れ込み、その数滴の余波のようなとび跳ねたしずくがぼくのズボンの裾に移動した。母になるひとは気付かない。自分のお腹の大きさほどに気にもかけない。
ぼくは店を出てズボンのしみをアヴァンギャルドの画家が筆を叩き落とすようにして描いた絵のようだと思った。彼らは全身に絵の具を付着させている。それが仕事なのだ。その汚れこそが労働をした証しだった。
ぼくはノートすら付けていない。日記も、もうとっくに書くことすら念頭に浮かばない。すべては頭にしまわれている。今日、交通事故にでも遭えば、ぼくの未完の傑作は産声をあげることも許されない。早産。それすらも幸運なのだ。
「やだな、これ、どうしたの? ズボンのしみ」彼女は洗濯するものを選り分けていた。
「ちょっと、外でコーヒーを飲んだときに、カップを落としたひとがいて、その影響」
「影響じゃなく、被害」
彼女は採点をした。いや、添削をした。
「どんな状況だったの? 自分で落としたの?」
彼女は、お話をききたがる。眠い目をこすりながらも、つづきを期待するベッドのなかの少女のように。ぼくは、その要望に見事に応えたいと思っている。
「ものの値段だけど、一杯のコーヒーは何と比較して高いとか安いとか考えるのが妥当なんだろう」
「電車で三十分ぐらい乗った区間の料金と。それぐらい、ゆったりするものでしょう?」
ぼくは想像する。田舎の電車の向かい合う座席。窓辺の台にコーヒーを乗せて、外の景色を見ている。それがいくらぐらいなのか自分には想像もつかない。
「結局ね、妊婦は、もう一杯、無料でもらってた」
「その無料分がズボンの汚れなんだ」
ぼくはふたつの事実を一致させるのを困難に感じる。また、絶対に一致させなくてはならない理由もひとつもなかった。
ぼくはカンニングを繰り返している。
きれいな女は妊娠している
クリスマスの半年後に妊娠している
細い腕と細い足と大きなお腹で妊娠している
きれいな女はにんしんしている
クリスマスの半年後に、にんしんしている。
彼女の机の引き出しを漁っている。それは隠す意図ではなく、見るかもしれない可能性を含んでの秘蔵だった。別に秘密でもなんでもないのかもしれない。総じて家にいる時間の多い自分は、書きかけのものを暴かれる必要もない。そもそも頭のなかにしかないものたちだった。乳は牛から出た時点で、牛乳になるのか? 搾り出される前のものは、何と評するのか? その安楽な状態は次のヨーグルトの地点まで運んでくれない。
ぼくは、ぼんやりと窓の外を見る。散歩して誰かに会わないと、さらに会話でもしないとヒントも与えてもらえず、このささやかな思考のともしびを抱え込んでいる脳をゆすって、燻りだすこともできない。
歩いている。サンダル履きではなく、きちんと靴下を履き、スニーカーに足を突っ込んでいる。
彼女は妊娠したいのか? あの膨らんだ腹の状態を見せびらかして恥かしげもなく歩けるのは女性だからなのか。実践者であることの証拠。ぼくは、自分の生み落した数々の作品を見せびらかしたくはないのだろうか。
カウンターでコーヒーを待っている。健気に働く女性。このウェイトレスも妊娠したいのか? 将来の痛みを、激痛を待ちうけるほど、女性たちは愚かなのか。その愚かなものを追いかける自分は、愚かさを何倍しなければならないのだろう。
カップから湯気が出ている。注文の品の名前と、ありがとう、とお持たせしました、しか会話は成立しなかった。ぼくの壮大なるベン・ハーはどこに眠りつづけているのだろう。
ぼくはゆったりとしたソファにすわる。ひとは書類を横から運ばれ机のうえに乗せられる。それに目を通して、チェックしたり、出金のデータを作ったり、お客さんの問い合わせで意志疎通のむずかしさを嘆いたりして一日を終えるのだ。この過程を明日も繰り返して、来週も一年後も大幅に狂いのない人生を積み上げていく。それが生きるということの経常的なまっとうな立場だった。ぼくは足を踏み外している。平日の昼間に妊婦の女性の姿をあれこれと考察している。
すると、奇跡が起きる。病院で知り合ったのか妊婦のふたりが親しげに会話をしながらとなりの席についた。病院? そこは病気を治療する場所だった。他にふさわしい名称はないものなのか。病院は幸福と歓喜のステージにもなるのだろうか。
ぼくはちらっと彼女たちの腹の膨らみ度合いを確認する。そして、いらぬ計算をする。洗濯機のようにスイッチを入れれば数十分後に終わるという簡単なものではない。オーブン以上に時間をかける。圧力なべ。
だが、脱水はされる。
ぼくの仕事は思考を紙に刻みつけること。いや、もう紙ではない。空想と現実との摩擦を圧力なべに入れて、温度を高める。電子レンジでの保温よりまともなものをぼくは作っているのだ。いいや、作る過程にまだいて、ベルトコンベアーに流そうとしている。コーヒーを飲みながら。妊婦にあたたかい世界に紛れ込みながら。
だが、ぼくらに共通項は一切ない。
空想という油断がまかり通る世界にいると、突然、音がした。妊婦のひじが思いがけなくコーヒーのカップにあたる。午前中の静かな店内では意外と大きな落下音がこだまする。ぼくの足元に液体は流れ込み、その数滴の余波のようなとび跳ねたしずくがぼくのズボンの裾に移動した。母になるひとは気付かない。自分のお腹の大きさほどに気にもかけない。
ぼくは店を出てズボンのしみをアヴァンギャルドの画家が筆を叩き落とすようにして描いた絵のようだと思った。彼らは全身に絵の具を付着させている。それが仕事なのだ。その汚れこそが労働をした証しだった。
ぼくはノートすら付けていない。日記も、もうとっくに書くことすら念頭に浮かばない。すべては頭にしまわれている。今日、交通事故にでも遭えば、ぼくの未完の傑作は産声をあげることも許されない。早産。それすらも幸運なのだ。
「やだな、これ、どうしたの? ズボンのしみ」彼女は洗濯するものを選り分けていた。
「ちょっと、外でコーヒーを飲んだときに、カップを落としたひとがいて、その影響」
「影響じゃなく、被害」
彼女は採点をした。いや、添削をした。
「どんな状況だったの? 自分で落としたの?」
彼女は、お話をききたがる。眠い目をこすりながらも、つづきを期待するベッドのなかの少女のように。ぼくは、その要望に見事に応えたいと思っている。
「ものの値段だけど、一杯のコーヒーは何と比較して高いとか安いとか考えるのが妥当なんだろう」
「電車で三十分ぐらい乗った区間の料金と。それぐらい、ゆったりするものでしょう?」
ぼくは想像する。田舎の電車の向かい合う座席。窓辺の台にコーヒーを乗せて、外の景色を見ている。それがいくらぐらいなのか自分には想像もつかない。
「結局ね、妊婦は、もう一杯、無料でもらってた」
「その無料分がズボンの汚れなんだ」
ぼくはふたつの事実を一致させるのを困難に感じる。また、絶対に一致させなくてはならない理由もひとつもなかった。