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物語の連鎖
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悪童の書 bp

2014年10月15日 | 悪童の書
bp

 感謝のない息子が三人。

 仮の案。娘が例えばいる。母のお手伝いをする性格が素直な子。おしゃべりの相手にもなる。だが、実際にはいない。父も頑固のきつい縄を、いくらかゆるめたかもしれない。娘をひざに乗せて。小さな重みを晩酌のともにして。でも、いない。いないものはいない。年の離れた三人目も男の子だった。

 陣痛がないというのが、常に母の自慢だった。勝手に荷造りをして、勝手に助産師さんのところに行った。陣痛がないのでタイミングは母の意志のみによる。年が明けて直ぐにうまれた子どもの税金が、年末だったらもっと控除があったはずと言った皮算用の父に、まだ八歳ぐらいの自分は、この世の地獄を垣間見たのだった。少なくとも、「ありがとう」だと思う。ハリウッド映画を見過ぎたのかもしれない。この父の遺伝子が、ぼくらに受け継がれ、感謝を頑なに拒否する態度を保った。

 食後に皿を一枚、洗うことすらしない。その代わりに、はじめてチャレンジした豆腐のハンバーグなるもののまずさをののしっているのが、味付けの評価と感謝の関の山だった。

 洗濯ものも一枚としてたたまない。兄弟間やたまに父との間で行方不明になった下着を探し、その注意散漫な仕事ぶりを口汚く言う。王子が三人である。

 ここまでが前口上。ヒューマンさが欠ける子どもたち。

 父は、自動車の教習所に顔が利いた。その頃はまだ混雑している儲けが見込める商売だった。予約時間のやりくりの調整ができ、ぼくもその恩恵を受ける。結果、車に乗りもしない。昼酒と文庫本の敵でしかない、運転は。

 近所の大人になりかけの女性もこの手配のなかにいる。無事、免許を取得し、感謝の手紙が母のもとに届く。読んで、泣いている。息子の三人は、そんな遠回りと紆余曲折を思いつきもしない。ハンバーグを一生、見なくて済むだけだった。

 手紙には効用があるのだと、ぼくはこの映像を見ながら考えている。

 山奥でバイトをして、自分で洗濯をして、室内の掃除をした。料理は賄いがあり、たまに料理長が腕をふるってくれた。だから、いまだに料理が苦手だった。その時間は向上するためのプランに費やすことも無意識でもなくしていたので仕方がない。しかし、それ以外のことは実践的に覚えた。

 一人暮らしをしている。風呂もトイレも誰かのタイミングと重なることもない。洗濯ものも行方不明になりようもない。たたんで履く。履いて洗う。洗剤だけを切らさなければよかった。

 ぼくと関係した女性も母に手紙を送る。字が上手で、きれいな女性と言った。

 その母にも孫がいる。ふたりの女の子の評価に差がある。疎遠なぼくも、上の子の成人式の写真を目にする。きれいな子がいるものだった。アフリカでいちばんの美人の基準など、ぼくにあるわけもないが、この子はきれいな容貌をしていた。ぼくは小学校入学前のその子の姿しか知らない。どこかですれ違っても分からないだろう。でも、なんだか男の子の孫という存在も単純に可愛かったろうなと憧れる。ぼくに権利も義務もない。配管のつまりと接続の問題である。

 その母は、酒飲みの父に順応した結果なのか、酒のアテのようなものがうまかった。子どもの好物である、カレーやらーめんを目指すこともなかった。だから、ぼく(の舌)も嫌いである。ぼくも、つまみにならないようなものを食べる機会も少ない。ビールとカレーなど最悪の組み合わせだった。

「カレーライス、下手なんてひといるの?」

 驚愕という表情を浮かべ、知人の女性が訊く。カレーも作れないひとは、すべてが同様であるという解答を導き出しているようだった。子どもの三人の体格を見れば、それは誤りであることが直ぐに分かる。また反論する義務もない。

 自分は恐れていた。こちらは、無意識に。

 金を稼ぎ、会話が上手で、良いパパで、性の相手としても有段で、という複合体としてあり得ない自分を。どれか、ひとつのメダルで充分なのだ。体操競技のように、床だけでメダルがあればいい。でも、あん馬って何だ?

 女性にも期待しない。

 美人で、掃除上手で、料理もうまく、子どもに優しく、性のプロフェッショナル。やはり、どれかひとつで機能として充分だった。こんな高み(あるいは、分業)を望む自分に、光あふれる未来が待っているはずもない。三段跳びの選手が、ハンマーを遠くに投げなくても、文句は言われない。同じことだった。

「週に二時間だけ、恋人が欲しいんだけど」ぼくが若いときに言い放った無謀な宣言。しかし、叶わないものは、叶わない。いや、少しだけ達成したのかもしれない。

 実家に稀に帰る。好物らしきものを出される。無言でも、感謝がなくても、おいしい気持ちは伝わっているのだ。目は口ほどに、というあれである。

「うちは生の青い魚、食べられない家系なんだよね」と、これも勝手に規定されている。詳しく聞けば、ぼくも兄もそのルールを現在では、無視しているようだった。無免許運転の日々。

 味付けも洗脳であり、会話の手法や、無駄口をいましめる性分も洗脳である。いまのぼくは女性を誉めることなど、赤子の手をひねるという、あれである。ただ、結果がともなわないだけだ。でも、口から発することだけを目的の達成として設定するならば、ゴールラインは何度も飛び越えた。次のレースまでに疲れを取り除くことだけに励んでいる。ハンバーグも食べたくない。軽い、つまみだけで、身体も気分も癒すことにする。

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