爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 bx

2014年10月28日 | 悪童の書
bx

 ひとりで釣りざおをもって数駅、電車に乗り、国府台で降りた。江戸川の河川敷に向かう十才前後の自分。振り返ってみてもあれが自由というものの偽りなき、正真正銘の正体であるようだ。

 この駅はソロバンの試験を受けるときに利用した。もちろん、自由の反対にいる。やるべきことをやり、期待通りの評価を受ける。だが、環境の変化に不慣れな年代の自分はいつも自分の相応の力を発揮できずにいる。普通、この状態を「内弁慶」という名称で一般的にくくるらしい。

 荷物も目立つので、こっそりとという訳にもいかず、加えて行き場所も明瞭であり、多少のお小遣いをねだったことも考えられる。なけなしの小遣いを貯めていたのかもしれない。

 それでも、責任もなく、疲労もなく、ただ、自分で計画を立て、実行するだけでよかった。誰かに愛想笑いする必要もなく、おべっかもいらない。要求もなく、大それた期待もない。数尾だけ、魚がかかればいい。運の悪い魚たちが。幸運に見放された。望みは、それだけ。単純にそれだけ。

 あの日にふたつの映像を目にする。ひとつは、ボラの大群、または別の種類かもしれないが大量に水中からジャンプしてぼくを驚かせた。水中を拒否した魚の鱗やひれ。世界は奇跡が起こる場所なのだというぼんやりとした予感を抱かせる。

 もうひとつは、仲が良さそうな高校生ぐらいのグループがいて、そのひとりの竿がリールで餌と針を投げる際にまっぷたつに折れてしまったことだ。ぼくは、思わず吹き出してしまう。これも、奇跡の部類だろう。滑稽な結末。

「笑われちゃったよ!」と、とがめるでもなく彼は言う。その後、親しげにぼくに接してきてくれた記憶もあるが、それ以上は思い出せない。私語も会話もなく、ぼくは糸と浮きをしばらく眺めているだけでよかったのだ。

 この釣りというイベントは、「待つ」という行為なのか、それとも、「挑み」ということに果敢にこだわっている姿なのだろうか。これも大人のぼくが意味付けして解釈しようと、こんがらからせているだけなのだ。外は気持ちよいぐらいに晴れて、眠さも宿題もまったくない、ほがらかさが生む奇跡の日中だった。ぼくは奇跡も多用することにより軽んじている。

 その土地に引っ越した友人がいた。小さな子だった。プロレスにも興味があった自分は友人という範疇を越え、技をかける練習の対象にもした。未来のいまの自分には負い目があるが、その当時は、親しいということを全面に出していた。彼といっしょに釣りにも行った。まだ移転前で近場の大きな池のある公園に。彼の父親の車で往復のどちらかを送ってもらった覚えもあるが、真偽は思い出せない。彼は魚が釣れないことイライラして、場所を変えることを目論んでいた。ぼくは実際にはどちらでもよかった。竿やリールという部品も好きだし、何より、水辺にいることがここちよかった。誰にも命令されず、ただ空気や風を感じるだけでよかったのだ。

 結局、場所を変えても釣れなかった。もっと、早朝か夜に魚は活発になる習性があるのかもしれない。ぼくらにはそれほどの自由はなかった。

 大人になりその場所でバーベキューをした。外で食べる肉もおいしいものである。

 ぼくの身長は急激に伸びたと思ったら、急に止まった。そして、いまは平均に近い姿だった。その途中で、別の友人たちとここに釣りに来た。真冬の朝に、友人を迎えに行く。家族間で甘やかされるというのが、どういうことか具体的に目にする機会にもなる。タナゴという小さな魚を網で大量に捕る。寿命の短いものをもっと短くすることなど、大人になれば悪事でしかない。かといって胃におさめることもできない類いの小さな淡水魚たちだ。それぐらいのささいな生殺与奪の権利しかぼくらは有していない。

 その後の彼らをあまり知らない。引っ越した子は当然のこと、ひとりは私立の中学に行き、ひとりは中学で記憶が終わる。成長の過程で個性が芽生え、それを維持したのか、依怙地な方向に発展させたのか何も分からない。新聞やニュースを通して目にしないだけ、ありがたいことなのだろう。

 その池は映画のロケ地に選ばれたため、古臭い木造の大きな橋が一時的にかかっていた。ぼくはこの映画を目にしていない。大人になり、巨大なセットとして映画を模したアトラクションが各所にできる。ぼくもLAでそのひとつに行く。遊ぶという自由の権利が大幅に増える。飛行機に乗り、夜も昼も自分の自由でありながら、どうしようもない運行のなかで埋もれる。ロベルト・クレメンテという野球選手の人形が売っていた。自室にあったら楽しいだろうなと思うが、買わなかった。別の友人は、ぼくらの青春時代に強かった、オークランド・アスレチックスのグッズを入手した。ふざけて楽しんでいる途中で、彼は外国の大男に打つかってしまい、とっさに拝むように両手を合わせ詫びていた。ことばより一瞬の作法にも似た謝罪が真っ先にでてきた。ぼくの記憶もそろそろ、真っ先という部位を切り取ってしまっている。いま、思い出さなければ、今後も思い出さなかっただろう。あの川を通過する風と、放射能の恐怖を内包した風は、どちらに分があるのだろうか。答えは分かっているのだが、すがすがしい方は手元にはもうない。

コメント
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