爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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悪童の書 bp

2014年10月15日 | 悪童の書
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 感謝のない息子が三人。

 仮の案。娘が例えばいる。母のお手伝いをする性格が素直な子。おしゃべりの相手にもなる。だが、実際にはいない。父も頑固のきつい縄を、いくらかゆるめたかもしれない。娘をひざに乗せて。小さな重みを晩酌のともにして。でも、いない。いないものはいない。年の離れた三人目も男の子だった。

 陣痛がないというのが、常に母の自慢だった。勝手に荷造りをして、勝手に助産師さんのところに行った。陣痛がないのでタイミングは母の意志のみによる。年が明けて直ぐにうまれた子どもの税金が、年末だったらもっと控除があったはずと言った皮算用の父に、まだ八歳ぐらいの自分は、この世の地獄を垣間見たのだった。少なくとも、「ありがとう」だと思う。ハリウッド映画を見過ぎたのかもしれない。この父の遺伝子が、ぼくらに受け継がれ、感謝を頑なに拒否する態度を保った。

 食後に皿を一枚、洗うことすらしない。その代わりに、はじめてチャレンジした豆腐のハンバーグなるもののまずさをののしっているのが、味付けの評価と感謝の関の山だった。

 洗濯ものも一枚としてたたまない。兄弟間やたまに父との間で行方不明になった下着を探し、その注意散漫な仕事ぶりを口汚く言う。王子が三人である。

 ここまでが前口上。ヒューマンさが欠ける子どもたち。

 父は、自動車の教習所に顔が利いた。その頃はまだ混雑している儲けが見込める商売だった。予約時間のやりくりの調整ができ、ぼくもその恩恵を受ける。結果、車に乗りもしない。昼酒と文庫本の敵でしかない、運転は。

 近所の大人になりかけの女性もこの手配のなかにいる。無事、免許を取得し、感謝の手紙が母のもとに届く。読んで、泣いている。息子の三人は、そんな遠回りと紆余曲折を思いつきもしない。ハンバーグを一生、見なくて済むだけだった。

 手紙には効用があるのだと、ぼくはこの映像を見ながら考えている。

 山奥でバイトをして、自分で洗濯をして、室内の掃除をした。料理は賄いがあり、たまに料理長が腕をふるってくれた。だから、いまだに料理が苦手だった。その時間は向上するためのプランに費やすことも無意識でもなくしていたので仕方がない。しかし、それ以外のことは実践的に覚えた。

 一人暮らしをしている。風呂もトイレも誰かのタイミングと重なることもない。洗濯ものも行方不明になりようもない。たたんで履く。履いて洗う。洗剤だけを切らさなければよかった。

 ぼくと関係した女性も母に手紙を送る。字が上手で、きれいな女性と言った。

 その母にも孫がいる。ふたりの女の子の評価に差がある。疎遠なぼくも、上の子の成人式の写真を目にする。きれいな子がいるものだった。アフリカでいちばんの美人の基準など、ぼくにあるわけもないが、この子はきれいな容貌をしていた。ぼくは小学校入学前のその子の姿しか知らない。どこかですれ違っても分からないだろう。でも、なんだか男の子の孫という存在も単純に可愛かったろうなと憧れる。ぼくに権利も義務もない。配管のつまりと接続の問題である。

 その母は、酒飲みの父に順応した結果なのか、酒のアテのようなものがうまかった。子どもの好物である、カレーやらーめんを目指すこともなかった。だから、ぼく(の舌)も嫌いである。ぼくも、つまみにならないようなものを食べる機会も少ない。ビールとカレーなど最悪の組み合わせだった。

「カレーライス、下手なんてひといるの?」

 驚愕という表情を浮かべ、知人の女性が訊く。カレーも作れないひとは、すべてが同様であるという解答を導き出しているようだった。子どもの三人の体格を見れば、それは誤りであることが直ぐに分かる。また反論する義務もない。

 自分は恐れていた。こちらは、無意識に。

 金を稼ぎ、会話が上手で、良いパパで、性の相手としても有段で、という複合体としてあり得ない自分を。どれか、ひとつのメダルで充分なのだ。体操競技のように、床だけでメダルがあればいい。でも、あん馬って何だ?

 女性にも期待しない。

 美人で、掃除上手で、料理もうまく、子どもに優しく、性のプロフェッショナル。やはり、どれかひとつで機能として充分だった。こんな高み(あるいは、分業)を望む自分に、光あふれる未来が待っているはずもない。三段跳びの選手が、ハンマーを遠くに投げなくても、文句は言われない。同じことだった。

「週に二時間だけ、恋人が欲しいんだけど」ぼくが若いときに言い放った無謀な宣言。しかし、叶わないものは、叶わない。いや、少しだけ達成したのかもしれない。

 実家に稀に帰る。好物らしきものを出される。無言でも、感謝がなくても、おいしい気持ちは伝わっているのだ。目は口ほどに、というあれである。

「うちは生の青い魚、食べられない家系なんだよね」と、これも勝手に規定されている。詳しく聞けば、ぼくも兄もそのルールを現在では、無視しているようだった。無免許運転の日々。

 味付けも洗脳であり、会話の手法や、無駄口をいましめる性分も洗脳である。いまのぼくは女性を誉めることなど、赤子の手をひねるという、あれである。ただ、結果がともなわないだけだ。でも、口から発することだけを目的の達成として設定するならば、ゴールラインは何度も飛び越えた。次のレースまでに疲れを取り除くことだけに励んでいる。ハンバーグも食べたくない。軽い、つまみだけで、身体も気分も癒すことにする。

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2014年10月14日 | 悪童の書
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 自分が、自分という存在になったこと。なってしまったこと。

 十五才など、横並びに過ぎない。差もついていないし、レールも路線も確定していない。だが、現在の地点はちがう。もちろん、景色も。良いとも、悪いとも簡単に判別できる単純な問題でもない。過去を振り返る。そういう題材なので。

 性質が自分を導く。助手席でうとうとしているうちに自分の性質がどこぞに連れ去ってしまう。

 やんちゃな人間であった。しかし、観察する能力や興味を有した。そのことを、ここでずっと書いている。その前にむさぼるように本を読んだので、書くという地道な行為を可能にした。なぜ、本を読んだのかといえば疑問があったからだ。疑問とは、この地上の営みへの違和感があるからだろう。この世の中は、まっとうに進んでいるのだろうか? おそらく、完全ではない。完全ではない世界で、自分だけがパーフェクトでいる必要もない。分解しなくても、見事なぐらいに欠陥品。粗大ゴミで運ばれるのを待つゴミ。ゴミが、ずっと語っている。ゴミに似た日々を。

 美学という幻が自分の行動を規定する。しちゃいけないこと。格好悪くて、できないこと。規範。無法地帯に住んでいるのでもない。「法律を破らなければ、いいんだろう?」という居直りは美学とは相容れない。美学と表現すると美しいという幻想も勝手に生まれてしまう。自分の脳に潜む格好良さ。それを破ることを恐れている。

 絶対的な共有のルールもある。ひとは他人(自分も含む)を殺さない。ひとのもの(回収した税金を含む)を盗まない。戦時中や災害時は状況による。ロンダリング後の税金(議員さんの旅費や遊行費として再利用可)も一時借用しない。美学以前のもの。いや、あいまいなところにある。自分のふところも充分に潤ってほしい。脱水が必要なぐらいに。遠心分離機にあたまを突っ込んで核をつかむ。

 見栄を切ったばかりの当事者のぼくは財布を出す気もなく、アルコール類を飲んでいる。やはり、美学は許していないのだが、やむに已まれず飲んでいる。その見返りは、笑い話の提供に徹するべきなのだ。幇間。ぼくは、この技に徹することを忘れている。イライラを前面に出して、行われたいざこざを酒の場にもちこんでしまっている。

 酒への誘惑がぼくをガイドしている。盲目のひとの手を引っ張るように。前にもどる。この現実の映像をぼんやりと霞のようにさせなければならない。近視のひとの裸眼のように。直視できない世の中。

 この酔いを含んだ地点をデフォルトにしてしまっている。ゼロ・メートル地点。朝は、マイナスからのスタート。海抜からの目覚め。うつ状態と似ている。何をやっても、テンションは上がらない。

 滑稽な質問をされる。イライラを笑いに転化できない。恋人という海抜をゼロにしてくれる力があれば、笑えるような気もする。財布のなかに現金がなくてもカードがある。女性というのは、ぼくにとってそういう役割だったのか。確かに、確かに軽んじている。

 ひとは判断をする。本当はしているようで誰かの判断に委ねている。ぼくも過去の本の集積と重みで、状況を打破しようと挑んでいる。まったくのゼロからの計画と決定など、あるはずもない。井戸は勝手に水をためつづけている。汲むという力技はいるにせよ、ぼくはその無言の恩恵にあずかっている。

 すると、美学というのも、しつけと罰としての鞭打ちとの合体ということにもなり得る。誰かが規定した。ぼくはその拘束下にいる。能力も体力も獲得したものではない。ただの相続物。そこに多少の訓練を加える。

 遺伝しない。あるいは、させない。

 前から親子が歩いてくる。そっくりの顔をしている。ある日、子どもは泣いている。朝から泣かなければいけない原因も、無駄に消費されるエネルギーも自分には分からない。泣くに美学もない。ただの感情。

 堰き止められない感情も、盲目のぼくのもう片方の手を引っ張る。いや、感情すら制球が上手な投手のようにアウトコースいっぱいをねらう。もう半分。

 いずれにも、ならなかった自分を想像してみる。頑固な子どものようにひざを抱え、泣きながら動こうとしないで、どこにも連れ去られなければ。ぼくという偽善と卑怯の混成物を世間に披露しないで済んだ。書くという無意味な浪費もなく、のどかな日曜の連続であった。税金から派生した資金をやりくりして、旅行にも行けた。妻にもおいしいものを食べさせられた。身内と家族が幸せになれば、その円周がぼくの幸福と頑張りの源として完成する。となりの猫や犬が野垂れ死にしようとぼくの問題ではない。家に帰って、子どもの寝顔を見ることだけを追求すれば良かったのだ。

 利己的という美学をもちこめなかった。これも嘘の上塗りで充分に利己的だった。野心と倹約と欲が、ぼくに黒い覆面をかぶせてトランクに放り込んだ。投げ込まれたぼくの芯。ぼくは、どこかに運ばれる。いま居る場所と似ている。まったく同じだ。では、明日はどこにいるのだろう? もう車線変更もできない。ただ道なりにすすむだけであった。衝突物があっても、ブレーキも利かない。それで被害もないのだ。これが、ぼく。等身大のぼく。抽象的で、立体さも欠ける観念としてのぼく。

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2014年10月13日 | 悪童の書
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 細身のズボンが流行っている。下着も段々とタイトになっている。

 相変わらず、ズボンを極限まで引っ張り上げて履いているひともいる。心配性なのだろうか。

 土管型の幅広のズボンを中学の学生時代に制服として履いている。周辺の仲間も。たまに没収される。不良たちに未来への心配も管理能力もあるわけもなく、翌日、新入生のような姿でやってくる。細いズボンは敗者の証しになる。

 ぼくは陸上競技で鍛えた太ももを理由に、この検査を通過している。何本、ズボンを破けば足を曲げられるのかどうかと強引な説明を加味して。

 だが、たまに白い靴という、生徒手帳に記載された事項で、腹立たしいやり取りがある。十戒の次の十一番目の掟として。汝、白い靴以外登下校で履くべきじゃなし。ぼくの白みがかったスニーカーはカラフル過ぎるそうである。明日への進歩も発展もない無駄な会話。その日は、修学旅行の数日前だった。腹が立った自分は、「じゃあ、修学旅行に行かない」という最後のとっておきの切り札を出す。数日の休暇の取得である。目の前のバケーション。

 しかし、バスに乗って騒いでいる。男にも武士にも二言はないはずなのに、前言撤回の青春である。

 ある日、夕方の職員室に入り、先生の引き出しから迷子のズボンを勝手に捕獲。熱い再会である。自分のがあったかどうかもう思い出せない。

 窓ガラスを割って、盗んだバイクに乗って去る方がドラマチックだ。ぼくは、現実の人間である。自転車泥棒という映画の主人公にも似たリアルな人間だった。頬っかむりして、夕方の職員室をこそこそであった。

 しかし、教師たちと敵対していたかといえば、まったくそうでもない。休み時間に職員室に入り浸り大人びた会話をしている。

「ねえ、試験範囲、どの辺からでるの?」と、斥候はちゃっかり情報入手にいそしんでいる。ヒントもあるのが人情というものだ。一週間ほど経って、ぼくは自分のテストを真っ先に採点してもらっている。間違いはひとつ。20番目というスペルを間違えている。おそらく、今後も、ぼくは外国人に20番目ということばを使う機会もないだろう。書きしたためて。あなたが二十番目と宣言されない限り。

 お金がある友人は、オーダーメードの制服を買う。裏地は美学である。専門店に行くために自転車で連れ立って走っている。牧歌的な土手。誰かは、卒業をした先輩のお下がりをもらう。代々、藩に伝わる秘蔵の刀の授受のように。

 先輩を真似たいという動機がある。みな、洗脳を避けられない世界である。シャネルは美である、というのも洗脳の一部である。貧乏人の侘しい発言に過ぎないが。ガウディは素晴らしい。金銭は流通する。みな、寄り添ってルールを守るのだ。一致団結。

 ひとは外見で判断する。また、判断されるような服装を敢えてする。

 あるいは、ひとは外見(そとみ)という側なのだ。表面に見えるもの。自分の背中はかろうじて見えない。

 クリーニングの返却のタグをつけているひとがたまにいる。イヤな顔をされようが指摘しない訳にはいかない。なぜ、自分の不注意を見つけられて不満顔になるのだろう。

 内面と側。

 なるべくなら内面にある抽象的なものを評価されたいと思う。(手持ちがないけど)穏やかさとか、(少ないけど)親切さとか、(方向が間違っているけど)勇気とかを。

 又聞き。

 男性数人がある個人の女性の胸の話をしている。大は小を兼ねるという類いの話だ。その正しさの立証は抜きにして、当人は見えないパーテーションの向こうにいた。それを彼女の耳はどう捉え、自身でどう納得させているのだろうか? 話題になることすら不快なのか? あるいは、満更でもないのか。自分の好みは、大は小を兼ねることなど不可能だとも思っている。さらに、自分の身体の特徴のひとつが、女性たちの口にのぼっているとも考えにくい。むずかしい世の中だ。

 と、正論を述べつつも、自分は女性の内面など考慮に入れていない。もしくは、少ない量の程度でしか。

 いや、いくらかはある。過剰な甘えはご法度であった。もちろん、向こうがそうしたい場合、選択肢としてぼくなど出てこない。対等の立場での口喧嘩が常に理想にあった。当然、「一生、守る」という空論も顔を出すことがない。そもそも、そういう種子がないのだ。保険会社の宣伝をマネすることなどできない。

 あの日に戻る。長いスカートの女性が対としている。織姫と彦星。お内裏様やお雛さま。

 高校に通っている女性を好きになる。ちがう。好きになった女性が進学した。スカートは急激に短くなっていた。ぼくはその様子を見ることはない。ぼくがネクタイの結び目に四苦八苦し出したころかもしれない。自転車と同じで、目をつぶってもという段階になる。そして、自分の服装に頓着することもなくなってしまう。

 胸も永久ではない。若さも永久ではない。職員室の教員の引き出しにどれも収まりきらない。世界は、青猫人形のポケットではない。盗みに入るのは、あるだろうという予想が確信に近くなった場合だ。なぜ、あの日はあんな無防備な戸締りも緩い部屋だったのだろうか。ぼくはふざけて、教室の窓のそとの小さな区画に立つ。となりの教室を外側からのぞいてみる。足が一個分ぐらいの幅。あそこを歩く勇気もかなり前にもう全滅だ。膨らんでしぼむ。世の趨勢。

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2014年10月12日 | 悪童の書
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 エジュケーションのあらわれの最たるものは、譲るという行為に達するかどうかに尽きると思う。

 譲るというのは真っ先に不利益に通じてしまう原因たるものなのか。自分に起こる不利益には断固、ノーをかざすべきなのか。

 ネットというのは便利なものである。自分もたくさんの恩恵を受けている。素早い情報、小さく薄い端末だけでの簡便なお買いもの。しかし、このことをずっと、「普通」という状態に設定してしまうと、待つ、とか、時間がかかるという悠久の反対になってしまう、時の小さな経過すら敵に思える状況を生み出してしまう。車に乗ってイライラ。電車が停まって、イライラ。ラッシュ時の投身自殺など、もっての外だった。

 映画を見る。やはり、環境が異なれば考え方も変わり、行動という出口にも影響を与える。

「できないことでも頑張って仕事をするべきでしょう!」と、あるアジア人は言った。ごもっともである。
「責任は?」ヨーロッパの女性。「やると言った時点で責任が生じるのよ。やれないことまで身勝手に引き受けないで」

 どちらも正論である。行動には責任がともなってきたという長い歴史が、そのひとことの裏に埋もれているのかもしれない。少しの頑張りは、大きな成長につながるのだ、という大量の子孫を繁栄させる力がまだまだある地域には、そういう観念もある。だが、「頑張ってみたけど、できませんでした」という結果もあるだろう。

「だから、言ったこっちゃない」とまでは冷酷に指摘しないが、できると宣言したものは完遂させるのだ、と厳しく助言され育ったのかもしれない。地中海沿岸で。個人でも、文明人の共同体のひとりとしても。

 便利なものは、さらに、配達される。時間も指定できる。ぼんやりテレビを見ながら待っている。少し遅れるとイライラする。

 我さきに電車のイスにまっしぐら。確保した自分のぬくもりが伝わるシートの前に妊婦が立つ。このひとは、もうひとりとちょっとの命になっている。晴れ晴れとした笑顔でゆずりたい。自分のとる方法は、いま、降りる駅になったから立ち上がっただけですよ、という過剰な演技をうちに秘めた行動だった。ホームでダッシュしてとなりの車両に駆け込む。アナウンスでその慌てた人間は注意される。誰が、このぼくの優しさを知る。教育を受けてきたのだ。あのひとのお腹は深夜のポテトチップスが作っていることもありえる。教育は慎みなのだ。

 フィールド・オブ・ドリームス。CGもない、のどかな映画。近未来のSFなど、ぼくの得意分野でもない。

 ある若い野球選手。グラウンドで楽しそうに、はつらつと動いている。だが、こころには医者の気持ちもある。主人公の娘が転がってのどを詰まらせてしまう。このフィールドの領域を一歩でも越えてしまえば、夢よさらばになってしまう。結局、老いた医者にもどり、少女を治療してあげる。めでたしである。そして、夢は終わったのだった。ぼくは、譲るという行為の模範として常にこの場面を思い出している。サクリファイスを楽しむこと。悪童より道徳論になってしまった。いさめなければいけない。

 蹴落とす、勝ちあがるということも、教育の重要な主題である。門戸は狭い。門司港は広い。高等教育を受け、たくさんの給料を生み出し、美人の清楚な女性(絶滅危惧に先日認定したばかり)を嫁にもらう。高速道路を愛車で自分の家の廊下のように傍若無人に縦横無尽に走行する。スピードの制限を越え、行列に割り込んだ店で、遅い調理に怒鳴り散らす。これが、勝利なのだ。

 偉いひとが謙虚であると、さらに評価が上がる。みな、すがすがしいひとを見たいのだ。

 熟練の技を習得するには、一朝一夕では道半ばでしかない。遠回りに見えたことでも、使う機会もめったにないけど、この秘伝の技をもっているという事実は焦りをさえ根絶させる。架空の話である。どれもこれも。

 技のために爪を短く切る。エチケットでもあった。誰も教えてくれない。試行錯誤の闇のなかを、おっかなびっくり歩いている。

 ポテンシャルということばも普段着に近くなった。潜在的な力を発揮するタイミングもある。責任の範囲内だけで動いていたら、周辺は段々と小さくなっていく。となりの家に敷地が徐々に組み込まれていく。泣き寝入り。

 しかし、譲るのだ。この土地も地球も、正直にいえばぼくのものではないのだ。部屋につもるホコリだけがぼくの取り分である。身ぐるみはがされる。着ぐるみ脱がされる。

 ぼくは仕事を待っている。自分の仕事は終わった。いつまでも成長しないひとの仕事を手伝ってあげるかどうかで迷っている。いつか、自力でこれを乗り終えなければならない日がくる。ぼくは待ちわびてイライラ。彼は残業代が入ってホクホク。能率と効率が悪いことは、残業代の水増しにつながるのだった。この場をさっさと去り、ビールでも飲んだ方が楽しいのにな、と考えている。譲るから論点がずれてしまってきた。いつもながら。

「遅くまで頑張ってるんだな、偉い」という評価は古風な出で立ちになってしまったのか。その声援すらぼくは譲る。ベルトコンベアーが動いている限り、高速で飛び跳ねるしかない。誰の目にも留まらぬように。

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2014年10月11日 | 悪童の書
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 キャッチャーという役割が好きだった。小学生のころ。野球の達者な子が投げる早いボールを見事に受け止める。バッターは空振りする。そのバットとすれすれの場所にぼくのミットがある。恐れてはいけない。

 女性の本気になった気持ちを闘牛士のようにスルリとかわしている。重いのだ。すべてが、重いのだ。

 ぬかに釘。のれんに腕押し。

 運命を。もっと、運命を。ナンパという行為にも運命的な要素を。

 その通りにぼくがいて、その瞬間に、その通りを誰かが歩いている。

 失恋を。もっと、失恋を。失恋三部作と勝手に命名している。エターナル・サンシャイン。500日のサマー。シルヴィアのいる街で。映画。楽しい経験を上回る辛さ。差し引き。しかし、しないわけにもいかない。まっさらのページを何かで埋める。

 絶対という観点。観念。怨念。まだ中学生である。ある友人は、告白する日付けを自分で決めていたそうだ。この日が来たらという具合に。青春という再ダウンロードが不可の通過点。その前日、別の男性が彼女に自分の気持ちを伝え、見事、成就。彼の口から自分の失敗した要因と焦燥を何度も訊かされる。もし、その実行を数日だけ早めていれば結果はどうだったのだろう? もう、ぼくの問題ではない。そもそも、ぼくが悩むこともない。神のみぞ知る。

 その女性はぼくが知っているだけでも四人の同級生と交際した。モテる方なのだ。絶対という問題は「主体」であることから派生する子どもなのだろうか。受容や受け身に絶対などないようにも思える。彼女は少なくとも四回は受容した。絶対的に。そして、四人の男性はその後、等分とは限らないが苦しんだかもしれない。四つの生まれた苦しみ。種が恋であり、失恋は実であり甘い果実だった。ものごとを一段階ずつずらせば。

 ぼくは友だちの家でその彼女の手を握って眠っている。なぜ、そんなことをして、なんで、そこまで止まりなのかも分からない。ぼくは四人に加わらない。交際したいとも思っていない。可愛いが、ぼくにとってパンダが可愛いぐらいと等しい立場にいる。パンダのことを思って、夜も眠れないという柔な誘惑は遂に訪れなかった。ぼくは安心だけがほしい。彼女もイヤそうな素振りをしなかったし、その後、どこかで会っても、ぼくらはその日の両者に関連する思い出を話題にしなかった。

 添い寝というのが最上の部類なのだ。コンセントプラグのような確実な密着ではなく、セロハンテープでの仮止めぐらいがぼくに合っている。そして、本気の気持ちから逃げ出そうとしている。逃げおおせる。

 なんだか、追い駆けられて困っているという優越感があるように書いている。ただ、がっぷりよつを避けているだけだ。

 自分の体内でどう住み分け、同居しているのかさえ納得ができない。でも、直ぐ好きになる。ズボンを履いて、エプロンをして、健気にビールのおかわりのジョッキを運んでくれるだけで。

 コピー機に向かって作業をして、背中をこちら側に向けている姿を好きになれない。会社員、失格である。それだけで。オフィスの愛などないに等しい。仕事が終わって、香ばしい匂いが充満する酒場にぼくのすべてがある。運命を論じる。無数の店があり、無数の女性がいる。どこかで邂逅する。告白するという前後にまたがる機会を、ぼくは知らないと急に理解して不安になる。

「ねえ、顔、かわいくない?」と、当人が答えらえない(答えにくい)質問を無数に投げかけている。度胸も勇気も介在しない。口を開けば、これである。

 友人のことに戻る。付き合って数日目の女性に(再)告白することなど不可能だったのだろうか? やはり、子どもである。虫かごのなかの虫には所有権が存在し、その扉を開き、採取する行為は楽しみではない。単純な盗みである。

 では、自分は一時的にせよ、盗んでこなかったのか? 指輪が告げる主張。無言で。

 朝、知らない女性が横にいる。虫かごに勝手に入っている。向こうからのこのこと。タコやうなぎを捕まえる方法に似ている。習性を利用する。その瞬間を覚えていない。網を振り回したはずなのに。精一杯の力量で。横にいる。突ついてみる。生きている。誰だろう?

 下着に名前が書いてある。そんなはずもない。身元不明。捜索願い。こちらから依頼することは可能なのか? ここにいるひとを探す。彼女も受容した。絶対にぼくである必要もない。七十億人中の三十五億番目の人間。

 目を開ける。戸惑いとよろこび。歓喜と困惑。ぼくの名前を間違うこともなく言う。

「それで?」

 名前を今更、どう訊ねるのだ? 彼女はキャッチャー。ぼくのボールを受け止める。棒も受け入れる。添い寝の及第点。いや落第。

「電話して、ね」電話を見ると女性らしい下の名前が登録されていた。ぼくは彼女の何を知っている? 足のサイズ。指の数。よろこびの源泉。髪の毛の本数。名前を覚えられない。顔は覚えられる。手の平の温度。数値より絶対的な感触。相性。後半に、作り話をもちこんでしまった。失格である。

 何度かうちに来るようになる。下着に名前が書いてある場合もある。ピチ山ジョン子。とても変わった名前だ。

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2014年10月10日 | 悪童の書
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 学生服のボタンが全部、なくなった。十五才の三月の昼間。あんなものをもらって、いったい、その後どうするのだろう? 女性というのは不可解な生き物だ。まだその風習は生き延びているのだろうか。

 批判を装いながらも、しかし、うれしいのも事実で、それでいながら同時に困った状況でもあるのだ。ぼくの高校はブレザーだが、あと一日、この格好で学校の何かのイベントに向かわなければならない。安いホストのように胸を開いて行くことなど念頭にない。いまさら買うのも無意味だった。新品の輝けるボタン。解決策はどこかにある。探す面倒を受容すれば。

 ぼくと背格好が似た友人が高校も学生服を着る。ぼくのはまだ古びていない。あと数年は充分に使えそうだ。それを差し上げることにして、彼の新品とは呼べないものを代わりにもらう。あと一回だけ。彼は高校生の証しのボタンを付けることになるのだろう。すると、記憶は定かではないが、彼のボタンは戦場を抜けたのに、ひとつも漏らさず装着されていたのだろうか? 彼の方が確実に女性に人気があったように覚えている。もしかしたら、ぼくの人気はシャイの集団たちからのものかもしれない。普段は人目を忍んで。ぼくという踏み絵を恐れて。

 着てみる。ぴったり。これで解決した。あっけないものだ。

 学べるもの。計画や身近な予定より、その場の勢いに流されてしまうという自分の性分。見境のなさ。雰囲気にのまれてしまえ、ホトトギス。

 あのボタンは過去の象徴である。新たなクラスメートに囲まれ、新たな友人や関係を構築しなければならない。成長をともにしないで途中からのスタートだった。なにを楽しみ、なにに嫌悪感をいだくのか。方言までは含まれない。東京近郊の子たち。華があるひと。地味でいることに甘んじるひと。

 半年間ぐらい、その環境に入るために勉強した。成績もそれに応じてアップする。その期待に見合う仲間や教師がいたのだろうか? 答えはノンである。ぼくは中学の同級生のあるひとりを好きなまま(悔しいことに、ボタンも要求されない。いらないというタイプなのかしらん)で、友人もその中から継続して付き合っていた。とても後ろ向きである。地元愛というのが強い地域だった所為もある。いまになって思えば。

 その反面、職場を多く変えた。新しいことを学んでいないと、直ぐにつまらなくなる。日常的なルーチン・ワークは悪である。友人もできる。だが、根っこのところで、就業後、仕事のことを話題にして酒を飲むことなど避けられるなら絶対に避けたい。世の中は、すばらしいこと、美しいもので満ちているのだ。愉快なことを探そう。

 仕事を辞めても、ボタンまでは取られない。なにかのプレゼントを逆にもらう。女性はのこるものと、一瞬で消えてしまうものの両方が好きであった。両者をうまいこと組み合わせる。バランスが大事だ。そして、アボカドと甘いものを食べさせておけ! という家訓を受け継いでいる。いろいろ封じられるものもある、この方法で。

 先日の飲み会の場面。

「また、仕事の話ばっかりしていると、○○さんが怒りますよ!」と、ぼくが名指しされる。このことも、良い風潮だと思う。しかしながら、こう宣言した手前、ミスは許されないのだという圧力を自分に課していることになる。年がら年中、考えていないフリをとったからには、成功しか似合わない。

「五時五十九分に仕事はロッカーに放り込み、きちんとカギを閉めてきてください」と、情報をさらに追加。ぼくは飲むためだけに、飲める。その自由もぼくの記憶の方が先に負けてしまう。この部分もロッカーに入ってしまった。

 ミスしそうな小さな欠陥を修復する。それが何周かすると、怠惰をむかえられる。口に楊枝をくわえ、のどかな日々である。しかし、ぼくはそもそもこの位置と地位がきらいなのだ。冷や汗をかき、失敗を詫びる。何かを学習している確実な見える証拠である。

 失敗でしか学べない事実がある。そもそも。誰も神ではない。居直ることも問題外だが、クールに見えるかどうかを常に自分の仮面としている。

 ボタンをとられている。クールな人間である。いまは弱った目でとれたボタンを縫い付けている。わびしい瞬間であった。糸を穴に通す苦痛など、知りたくもなかった。先端をまたペロリである。懲りずに味もないのにペロリであった。

 だが、ひとりの顔も思い出せない。誰が、ぼくという踏み絵を公開で踏んだのだろう。踏みつぶしたのか。学ぶという過程にいながら、教科書をもとにした先生の口を通じての知識など、少なく思える。友人との関係の発見と運営方法。時間のやりくり。笑わせたり、笑わせられたり。これらは、簡単に、あるいは一方的に卒業もできない。毎日、必死にならなくてもあたまの片隅でやろうと心掛けているのだろう。だが、六時になれば、すべて解禁だった。同じ意味で厳禁でもあった。引き出しにボタンがいくつかある。何かの機会と、ある日のために。でも、縫い付ける場所など、ほとんど見いだせない。くっついたり、離れたり。これも人生で起こるよろこびであり、同時に悲しみの土台でもあった。

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2014年10月09日 | 悪童の書
bj

 服のうえからうかがわれる胸の形状の特徴を名付けて、ある女性を呼んでいる。友人たちと、陰で。まだ生で見る経験もない。間近で。肉親を除き、幼少期というおぼろげな年を越えて。

 なぜ、あれ(不特定の異性の)を見たい、触りたいと思うようになってしまうのだろう。脳の仕組みが分からない。分かったとしても、抵抗することもできない。操り人形に過ぎないぼくらの遺伝子。

 そう思っていると、彼女(特別にこのひとの胸が見たかったのでもない。特徴があっただけ)の父か母が亡くなった。ぼくらは隣町まで歩いている。片道三十分近くは歩いただろうか、彼女は引越して越境して学校に通っていた。ぼくらに文句を言う筋合いもなく、家の前まで行った。そこからの記憶はない。現地解散という気の利いたこともなく、また同じ経路を戻ったはずだ。親を失うには早すぎる年頃だった。おしとやかというより気の強い部類にいた。だから、悲しみも周りには軽減されて映った。少なくとも、ぼくには。

 自分の親の寿命も分からないぼくがひとの親のことなど分かるはずもない。ひとりの友人の父もすでになくなっていた。ある教師は授業中に善意で、

「○○君は、お父さんがいないんだから、もっとしっかりしなければダメ」という意味合いのことを全員の前で言った。ぼくは、後悔している。悪意でも、偽善でもこの場の雰囲気を悪くして、台無しにするぐらいに彼のためにキレるべきであった。ぼくも他の生徒同様に押し黙っている。そして、友人を少しだけ居づらく、心地悪い思いにさせているだろうと勘繰っている。やはり、ぼくの素行がここでも悪かったという一日にするべきだったのだ。ぼくは考えすぎている。そして、後悔している。

 あの教師は当人とふたりで面と向き合って注意すれば、ことは穏便にすむのだ。他の生徒の動揺も、ざわめきだった波も感じないですむ。

 ほんとうのことは分からない。友人は胸でジンとしているのかもしれない。そうだ、頑張ろうと固く誓ったとも考えられる。しかし、あの少し緊迫した空気が走った部屋をぼくは打ち壊すべきであった。

 壊すと作るは両面なのだろうか。裏表に疑いはないのか。両輪で走っているのか。

 この父の姿はかすかに覚えている。友人と日曜に遊ぶ約束をした。まだ小学生である。電話を駆使することも覚えていない頃だ。朝から数回、家の前で名前を呼んだ。パジャマ姿の父がでてくる。不在を知り、また家まで帰る。時間を置いて再度、出かける。また不在。何度目かに母と妹といかにもデパート帰りという様子で友人があらわれた。この事実を彼の父があっさりと告げてくれれば、きょうは無理だということでぼくは通うことを止められたのにと、いささかがっかりしている。結局、この日は遊べなかった。無駄な一日であるが、人生など永遠に小学生でいられるのだという時間の観点を置き去りにした場所に住むぼくには、本質的に無駄かどうかも見究めていない。でも、なんだか理不尽でやりきれなかった。いまの子どもはもっと便利な方法と手段を知っており、どうにか解決しているのだろう。いま、どこ?

 この友人は若くして盲腸になった。小学生の大切な授業を受けることもなく、入院している。その見舞いにも行ったはずだ。結果、身体の一部は周囲の男の子たちと変わってしまう。なんだか、ユダヤ人である。ユダヤ人などということばを知ることもない時期なのだが。

 同じ人物のその後。夏の夜のプールに忍び込み、警備員だか用務員に追い駆けられ、すき間に落ちた。ぼくの脳は別の場面もインプットしている。彼は飛び込んだが、その日だけ、水が抜かれていた。どちらにしろ、翌日以降、血だらけ、傷だらけの身体になっていた。

 中学になり、ぼくは公務員の給料日というものを把握している。先生にそれとなくねだる。美人ホステスの手法である。まだ若い先生たちは喫茶店で軽食をおごってくれた。なにかの賭けをして負けたまじめそうなおばさんの先生にも土曜辺りに味噌ラーメンをおごってもらったように記憶している。満腹という状態が一瞬も保てない日々の思い出。半ドンというなつかしい響きのいまより自由を感じている頃。

 ひとは簡単に死ぬ。あるいは、なかなかくたばらない。

 同級生が不治の病で死ぬ。ぼくは彼女の胸を触ったことがある。非公認(利益のもとの三十年前の売上高)といえば、非公認(三十年前の胸の感触の減価償却)であった。それが原因でもないが、罪悪感がある。あのやわらか味は瞬時に消えてしまったのだろう。ある日、彼女の母とすれちがう。魂を失ったようなうつろな表情をしている。ぼくは、自分がすこぶる健康であることに馴染んでいる。病院で美人な看護師さんとの運命的な出会いというのは、この所為で訪れ得なかった。

 教科書の中味ではなく、この当時のお兄さんのような、あまり年も変わらない先生たちが割礼と、ささいな痛みの我慢に対処する術を教えてくれた。産みは苦しみを伴うのだ。結果、感謝である。いつまでも、ミノムシであったかもしれない。外気はさわやかであった。

 意味のあることが書きたい。全世界の数万人が涙した! という感嘆のことばを聞きたい。結果として、力作はこんなものである。お召し上がれ。

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悪童の書 bi

2014年10月08日 | 悪童の書
bi

 例えば、預金する。数か月後には利息がついているのかもしれない。その所有権はぼくにあると考える。必要になればカードを入れて、利息もろとも引き出すつもりだ。

 管理と権利の問題であるともいえた。

「もし、子どもができたとしてだけど」ぼくらはそういう可能性のある行為の実践者である。「わたし、育てる自信もないから多分、堕ろすと思うよ。そうなったときには」

 銀行の窓口係りに徹するべきはずの人間から突然、そう宣言される。ちょっと待って。そもそも、ぼくの預金でもあるのだしね。あなたは貸金庫。ぼくの権利はどこにいくのだ? 宿の予約金もおさめている気でいた。

 すると、その行為をしつづけた場合、結果としてこういう結末を迎える心配がでてくる。元本もろとも喪失。ぼくはその立場に魅力を感じない。微塵も。ならば、銀行を変えることにしよう。だが、なかなか金利も上がらなかったし、どの銀行も横並びだ。男女間にフェアなど決してないが、こうした情報が不意にぼくの耳に入った。

 何でも買えるということが幸福と達成の直接の近道ではないと仮定する。あるサッカー・チームは潤沢な資産で有能な選手を買いまくる。その結果、やるべき形が失われる。さらに買う。買ったものを安く売る。賢くやりくりという主婦目線の内容をぼくは書こうとしていたのか? 財布には十一円。それで充分。五円玉がいっぱいあっても困るだけだ。

 コンビニで商品を選ぶ。お金を払う。お釣りをもらう。その際にレシートの所有権は移管されるはずだが、たまに無視される。ずらっと後ろに次のお客さんたちが並んでいる。効率化も無視できない世の中なのだ。

 自分が、自分の所有を主張するのが難しくなる。体験も思い出も自分のものだ。だが、見た方角から異なった感情が起こり得る。

 居酒屋で注文の品も出揃い、空腹でもある。さて、という楽しみの瞬間の絶頂にいる。

「なんか、調子悪いんだけど」突然の襲撃。

「え?」

 数年経って、この日のぼくの振る舞いが糾弾される。ぼくの家も店から近い。風邪薬でも買って、ゆっくりベッドで寝ていれば、という結論。ほら、このカギ、と言ってポケットから金属片を差し出す。ぼくもささっと食って飲んで帰るから。酔うつもりもまったくない。一時間もいない。

 だが、この場合はすべての楽しみを放棄して寄り添って帰るべきなのだ。女性はそれを望んでいた。ぼくは効率ということを常に考慮に入れている。酔いも訪れずに、ベッドのとなりに入る。心配もしている。頼む前じゃない? 体調不良の宣言はとも思っている。冷たさが、ぼくのデフォルトの感情なのだろうか。

 別の日。ぼくは別の女性とこの近くの店でケンカをしていた。小さな声での口論である。誰ものぞんでいない。料理がある。彼女は怒って席を立つ。気まずそうな店員。ぼくは酔わなければならない。しかし、そういう場合はそう簡単にやってきてはくれない。ぼくは、この日のことを思いだしていた。楽しく酔おうという低い目標すら達成することがむずかしい。逃げられる男。今度の場合もやりとりを知らない店員は風邪だとも思っていないだろう。フラれた男。そのことに平然といられる度胸。ぼくはベッドで横になっている。ぼくにはお金があるが、きょうは預けることができない。機械はメンテナンス中である。不親切な、終了時刻も表示しない札だけがそのことを告げている。

 なぜ、無様なことを書く必要があるのか。誰も得をしない。誰も興味がない。漢字とひらがなと白い空間のバランスにぼくは酔いたいだけなのだ。それを埋めるためには出来事を要する。

 ぼくが結婚したいという感情が起こったのはたった一度きりだった。それを過ぎた自分は決定的な関係などないことを当人である自分自身がいちばんよく知っていた。弱小チームは一部リーグにいるだけで御の字だ。世界最強のストライカー集団を買い集めることなどできない。ケガが慢性的で完治しない足の遅い、スタミナのないストライカー。ぼくの正体がそれであり、望むものもそれだった。どうにかやりくりして採算を合わせるように一部にのこる。また、来年もこれの繰り返しだった。

 ぼくには失礼という感情すらなくなった。

 どこかで本気になっている姿を見せてしまうことを恐れている。同時に恥というものを失ったら終わりだと痛感している。さらに、茶化せるものなら、茶化してこの場を終わりにしようと切望した。その複合体が自分であり、こんな自分の赤ん坊など欲しくないというのも正当な拒否だった。

 辞書を見る。「怪我勝ち」ということばがあった。アン・アクシデンタル・ヴィクトリー。思わず、勝っちゃった。常套ではないが、たまには、あってもいい。思わず、できちゃった。困るのか、それを生かすのか。望まないと、結局は虐待につながるという報告もある。ぼくは虐待される子どもをつくらなかった。元本も割れた。ひとり居酒屋のカウンターの端に陣取り、自分の冷たいベッドを夢見る。その温度も分からないぐらい、今日も酔ってしまえと自分に期待していた。金属片はきょうもポケットのなかで冷たい。


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悪童の書 bh

2014年10月07日 | 悪童の書
bh

 ケンカに負けない方法というのを伝授されている。効果的なひとの蹴り方。ダメージの与え方。

 その指導者は率直にいえば国籍が異なっていた。どこで知り合い、どこでその契約を結んだか、詳細は思い出せないでいる。ぼくは地元の土手で個人的なレッスンと明日を夢見た訓練を受けていた。季節も変わった同じ土手で、足立区から遠征してきた悪ガキたちを相手に実証してみせた。彼は、この場面に対処するには、こう教えてくれたはずだ。名コーチである。練習と、その効果をはかる実践の機会が訪れた。結果として、ひとりをボコボコにして、数人からボコボコにされる。タコと同じで複数の手や足はもっとも武器として有効だった。それを覆す以上の訓練をぼくは受けていなかった。

 相手のひとりは、その後、数日間は酷い顔をして暮らしたことだろう。歯の治療も必要だったかもしれない。ぼくの蒙ったダメージは比較すれば少ない。参謀という見えない影がいっしょに戦ってくれた。

 なぜ、遠くからわざわざ来たのか謎だが、中継地点に美人局のようなひとがいたのだろう。そういう策士がいつの世にもいる。

 西日暮里の進学校で東大に入るために日夜、勉学に明け暮れる青春もあるし、このようにカラテ・キッドの映画そのものの青春もある。その時点に比べれば、ぼくの脳はさまざまな知識を有した。吸収した。あのままで終わる訳にもいかない。パスカルもスピノザも知っている。だが、ぼくに伝授したという貴重な体験をくれたひとつ上のアマチュアの先輩も、同等の価値がある。

 その土手で数人の友人を帰した。加勢だかを無言でお願いしたつもりであるが、彼らは自宅に帰ってそれっきりだった。ぼくと友人のひとりは複数から攻められている。顔に腫れ物と傷ができ、その原因としてふたりでケンカしたことにしようというまずい理由で一致する。一度も殴り合いのケンカ(当人同士に限定)もしたことがないのに。もちろん、そんな深みのないウソは一瞬にしてばれる。ばれても、どこかに連行されることもないウソであった。

 その同じ痛みを有した彼はその後、結婚して、妻はこの当時の写真を見る。彼女はぼくのことをこの時期の名称、俗称で呼んだ。とっくにそのチームから消え去った存在であるにも関わらず。彼女は話しやすいひとだった。異性を感じさせないから、ぼくも自分の虚像をつくらなくてすむ。週末の居酒屋で、彼女と話した時間をぼくという正体として標本にしたいぐらいの楽しさだった。

 自立しなければいけない。ぼくにちょっかいを出すよう、別のクラスの同級生が命令されている。ぼくは、技術という授業中なのに、彼を声高に威嚇する。直ぐに正座をさせたがる先生の影響力を無視して彼だけ座らせる。両成敗を避け、断る。この場の主導権を教師だろうと譲る訳にはいかない。次の休み時間にぼくは彼をボコボコにする。単純な理論と理屈で生きている。

 ボコボコにされる理由もあった。彼はふたりを並べてぼくを劣った存在だと自分で決めたのだ。板挟みになって判断してはじき出した答えは、ぼくを軽んじるのだというものなのだろう。腕力と勢力。ぼくの住んでいた世界。住民票をあずけていた世界。

 ぼくは、勉強もできる。ずっと自慢と武勇伝しか書いていない。自画自賛の記述。合コンでいちばん嫌がられる内容であった。しかし、正直に書いておかなければならない。図体で劣っていても、訓練した蹴り方を身に着けたら、そこそこ相手になるのだという事実を。その知識を路上と野外で会得したひとがいたということを。二重の名前をもたざるを得ない人生のことも。

 事を常に大げさにする。

 後日、都の陸上の大会で足立区のひとりと会う。彼は挨拶を強要する。ぼくはしない。友人はちょっとだけ頭を下げた。彼は勝った気でいる。ぼくは負けたつもりもない。複数人に殴られただけで、ひとりをボコボコにしたのは自分の方だった。公立の学校に進学すれば、ずっと彼らの熱い視線と、自分の過去の振る舞いに悩まされることは目に見えていた。ぼくは離れた私立校を選ぶ。ぼくを知るひとはひとりもいない。見事な勝利である。だが、そこもぼくのほんとうの居場所ではなかった。

 それを理由にしてもいない。

 テストの数学の採点が間違っていた。教壇にその事実を指摘しに行くと、思いがけなく、「だって、いま、書き直したんだろう?」と言われた、正義への返答も呆気ないものである。卑怯ということをぼくが教わっていないとでも思っているのだろうか? ぼくが地元を離れた結果がこれだった。後になって、太宰さんの「トカトントン」という名作を読むが、このときのぼくの気分もまさにこれだった。なにかのスイッチが切れた。蛍光灯はついに寿命を終えたのである。

 ひとりで学ぶことにしよう。指導者はもういらない。

 これもいまのぼくが過去を美化しているから残したに過ぎない。唯一、「怠惰」が目立ちたがりで、かつ逆の意味合いでもっとも引っ込み思案な原因だった。怠けたい。いつまでも寝ていたい。

 ぼくの潜在能力を開花させてくれた先生。もう会うこともない。ぼくも、もう使う機会もない。外国でコンセントが入らないのと同じだ。アタッチメントがあっても、ぼくはもうその国の住人ではなかった。さびしいとも思えない。あの日々に感じたであろう恐怖も多少、あったのは事実だろう。見知らぬ土地から、見知らぬ相手が名乗りをあげる。それを撥ね退けるパワーがぼく自身にあった。そんな無知な日々の、無駄なトレーニング。

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悪童の書 bg

2014年10月06日 | 悪童の書
bg

 中学生である。壁の上部のガラスを同級生が台のうえに乗り雑巾で拭いている。ジャージ姿だった。さぼることを生き甲斐にしているぼくらは、下着もろとも勢いよく下に引っ張る。下半身があらわになる。彼はそのまま振り向いた。

「やめろよ!」と遅れて言う。その後、はじめて自分の姿の無防備さに気付き、ジャージを目一杯の速さで引っ張り上げる。ぼくらは快活に笑う。作戦成功であった。

 ある女生徒は、小さな悲鳴をあげながらも、手の指のすき間を充分に離して保ち、目を覆う。見たくないのだ。表面上は。ぼくは好奇心が人間にとっていちばん大事なのだという実例をあげようとしている。進歩には欠かせないもの。

 誉めことばも成長と自尊心に果たす役割として大きなものだった。長所も指摘されないと闇のなかに住みつづける。ぼくという洞窟の穴に、なされた数回の呼びかけ。思い出そうと頭を揺する。遭難していた記憶たち。

 図工の時間だった。風景を描いている。人間には陰影があり、風景も一色で塗りつぶせば済むということではないことを知る。ぼくはパレットに青と白の絵の具をしぼり、完全に混ぜ合わすのも面倒なので、途中のような段階の色を画用紙に塗る。教師はその色合いをほめた。ぼくは努力の途中での放棄をほめられたため納得がいかない。しかし、後年、印象派の絵を見れば、空というのはそういうものなのだった。青というもので表現されても、別の色も含まれての青だった。白い雲もある。輪郭も溶けて。犬の顔に眉を描くひとは論外であるが、絵を描くことは楽しいことだった。カラオケの歌唱能力があった方が、見た目には生きやすい世の中なのに。ぼくはリボンのついたその箱を悲しいことに受け取っていない。最初から配達されてもいなかったので仕方がない。

 次に中学生になり、濃くやわらかい鉛筆で、手首から上の握った拳をデッサンしている。このときもほめられた。形は濃い部分と薄い部分でまざまざと表現できるのだ。これは観察する能力に基づいている。犬に眉毛などそもそもない。しかし、モジリアーニの女性の首も目も現実とはちょっと違った。

 高校生になり、試験を受けている。見回る試験官は高校野球の監督だった。

「いい身体してるな!」とぼくの肩あたりを不意に触りながら率直に告げる。どちらかといえばカンニングの有無より彼にはこちらの方がより興味があるのだろう。まるで、奴隷商人の選別にかなったような気が自分でもしてくる。早速、船に乗らねば。その先生は、毎日、毎日、鍛え上げられた身体を見ているはずなのに、それに比べても劣っていないという口調だった。ぼくはダビデ像なのだ。もしくは、視線に耐えるグラビア・アイドルなのだ。レース場にいる水着姿の女性たちなのだ。あれを保持できなかった自分がいる。彼女たちのその後と同じように。

 興味のあるものだから観察する。

「髪、切ったんだね?」と中学の二学年後輩の女性が訊く。差が分かっているという前提があった。

「足、速いんだ!」と、ある日、同級生の女性が感嘆するように言う。ぼくは、毎日、飽きもせずにグラウンドを走っていたというのに。節穴なのか? その走り回った全身運動(腕の振りがスピードを生む)で奴隷商人の視線を釘付けにした。

 美人はスカウトされる。大男は新弟子検査を受ける。ぼくは、そこまでにはならない。

 ある会社のトップは孫という立場の子ども時代に祖母から、「あなたは偉くなるから」と言いつづけられたらしい。そういう洗脳はあると思う。信頼を寄せられる。それを叶えたいと願う。もちろん、反対も起こり得る。あまりの期待にそぐわず、金属バッドを振り回す。見極めが肝心でもあった。

「はやく、孫がほしいんだけど」

 自分が口にした愉快なことの個人的な最高峰である。順番を無視することなど誰もできない。

 好奇心と疑いと探究。それを混ぜ合わせて知的な遊びに発展させる。新聞は小説なのか。記事は創作なのか。ウソを書いてもいいのだろうか。多くのひとが新聞を絶対的に信頼している。ネットで数行のトピックスを確認し、汗も体臭も含んでいないニュースを楽しむ。ぼくはウソというものを多分にまぶした小説の真実らしさを愛している。新聞は真似ては良くない。特権というのを恐れている。

 褒められることは最終的に賞につながる。栄誉。「いまの、わたしがあるのは……」

 こんなに思い上がった発言は知らない。過度な謙虚は度外視するが、少しの謙虚さは美しさに唯一、匹敵する。

 ぼくは絵をほめてくれた図工の先生に死ぬほど怒られた記憶がある。そのことを思いだそうとしているが、脳のすみの記憶はなかなかシャイである。勝手な振る舞いをしたからだろうが、どこが? と自分の胸に問うてもなかは空だった。歌う能力といっしょである。

 クリーニング屋に行く。「おしゃれな洋服だね」と言われる。おしゃれには少量の奇抜さが不可欠になる。埋没ということをもっとも嫌う。埋没の不安におそわれ、自己宣伝に走るひとも多い社会になった。アピールと見落としのせめぎ合いの社会。注視する。指の間をつくる。まぶしいのだ。好奇心はまぶしさと恥じらいに突き当たる。あんな無茶をした時代がなつかしい。あれがきっかけで学校に来なくなれば後味も悪い。だが、まったくそんなことはない。やんちゃが許される地域の、いつもの一場面だった。

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悪童の書 bf

2014年10月05日 | 悪童の書
bf

「山登りに行かない?」

 と、何度も誘われる。まとまった休みの時期になると。登って終わりではなく一連のセットとして、テントのなかで地べたに寝そべって泊まることが含まれている。結局、断る。すると、いつも決まって自然がキライなひととして認定される憂き目にあう。いや、まったく違う。正反対。軽井沢でのんびり、なら充分に検討する余地がある。大自然との接し方の問題だと思う。ご飯がススム君もいれば、のんびりしたいちゃんもいる。

 そのひとについても触れる。最小の投資で最大の利益、ということを計算ではなく自然としている。その定義にあてはめると、「かつ丼」というものが常に効率がよいものとして外食時にはテーブルにあがる。気分というものに左右されたがれば、味わえる範囲もひろがるのに。

 山とカメラにしか興味がないようにずっと思っていた。いかにカメラを安く買えたかを自慢していた。そうだ、あとは野球も好きだった。典型的な巨人ファン。その彼のおかげで、日米野球を見る機会があり、外野席で「新庄さん」の見事なプレー、ボールさばきを見て感動したのを覚えている。その後、アメリカと呼ばれる地で活躍することになるが、あの姿を見た自分には当然以外のなにものでもなかった。

 栃木の雪道で彼の車はぶつかる。前日、晴れていたのに目が覚めると大雪が積もっていた。大きな旅館の部屋に、占領するふたつの布団。やはり、屋根はあった方がいい。事故は大きなものにならずに、人体ならかすり傷程度で済んだ。

 ぼくは、その後ひとりで各地を歩き回る。浅間山のそばまで行って、山頂の雪が夕日に染まる美しさも知った。八ヶ岳を見ながら温泉に入っている。北海道の支笏湖の水の美しさを知っている。時間がないのに、帰りのバスまでの空いた時間であわてて近場の温泉に入った。タオルもなにも準備していない。小さなハンカチしかない。やろうと思えばやれるものであった。ここまでたどれば、自然がキライな人間だとも自分自身で思えない。

 だが、都会というものが自分をつくったことも認識している。地下鉄が縦横に走る土地で生活する。潔癖な一面がある自分は排気ガスを出しても平気な性分でもないので、一切、車に乗らなかった。それで、デートの範囲が狭まってもまったく気にしない。昼間からの飲酒と、大の読書好きにはそもそも相容れない関係なのだ。

 長崎の山にのぼり、自力ではなくケーブル・カーに乗ってだが、夜景を見ている。光が作る景色、イルミネーションに見惚れる。ホテルの一室で快適な室温で、柔らかな寝心地のよいベッドに横たわる。これを手放さないためにお金を稼いだのではないのか? ぼくも彼のものに比較すれば安物に過ぎないが、カメラを手にしている。デジタルになって撮影と消去は無制限になった。充電さえできれば、世の中は機能するようになっている。ひとはコンセントを探し、確保する時代になっている。

 子どもが生まれると生活形態も変わる。また大きくなればテントの生活を愉快だと子どもも思うかもしれない。ぼくのあたまの中にはきれいな小川に泳ぐフナの魚影がある。誤って滑り落ちるのも楽しい思い出になるが、そんなものは実際にはない。中禅寺湖の景色やいろは坂の紅葉の美しさもぼくを作っている。奪えないし、持ち出せない大きな体積のようなものがぼくの体内にある。これでも、自然を毛嫌いしているのだろうか?

 遠い昔に東京を離れて暮らした四ヶ月ほどの時期がぼくにはあった。ある車が不注意であったのか定かではないが一頭の鹿をはねてしまう。ぼくは駆り出され、その現場までいく。動かなくなった足をもってワゴン車の後部にのせる。ホテルの料理長や他の数人が汁をつくる。ぼくは味わう。急に重いものをもちあげたのだけが理由ではなく、生き物のはかなさのために哀しんだのが加味し追加され、ぼくの腰は痛んでいる。でも、野生の肉は急激にぼくの身体を温めた。自然のなかにいるということは、こういう要素もあるのだろう。きれいごとではない、そのままの欲求。

 そこの料理長はぼくに優しかった。親切にしてもらった。自生している舞茸でスープを作ってくれた。それ以来、ぼくはこのキノコのファンでもある。これでも、自然を愛していないだろうか?

 料理長の外車で山道を走る。ぼくは助手席にいた。景色も空気もきれいだった。ラジオから井上陽水の「少年時代」が流れる。その体験を掛け替えのないものとしている。

 いまの知識があれば、「ケルン・コンサート」というジャズの名盤の方がエクスタシーの度合いも大きかったかも知れない。だが、それを知るには数年だけ早い。ぼくはこの数か月のバイトで貯めた金でジャズのCDをたくさん買った。美術展にも行き、東京の温かさを感じている。やはり、文化的なものに接するには東京が秀でていた。

 誰もずっと山登りがしたいわけでもない。ただ休みの数日間だけ、いつもと違う環境に身を置きたいだけなのだ。写真を撮り、また家に戻ってナイト・ゲームに一喜一憂する。メジャーに挑戦するひとも増えた。内野手は役に立たないという実績を積み上げる。山登りも、避暑地でのんびりも絶対になくてはならないものでもない。ただ、あった方が良い。かなり良い。仕上げに冷たいビールか、おいしいワインがあれば、もっと良いだろう。生活も自然もこの程度で充分だった。

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悪童の書 be

2014年10月04日 | 悪童の書
be

 チョコレートをもらえなかっただけの話を読み物にする。

 二月の中盤。その頃は、経理関係の仕事なので、四半期の時期は激しく忙しかったが、その合間には時間もできた。ぼくが気に入っている女性は社交辞令として、少し距離がある別部署のビルからチョコをもってくる。だが、ぼくはそこにいない。すべて、世の中はタイミングである。

 アリバイ。

「ローマに行ってるよ、女性と」という情報がその耳に入ってしまう。ぼくは自分に隠し事がなかったことに今更ながら驚いている。彼女が、どういう表情をしたか見ることもない。そう! とも、残念でショックとも、可能性としては両方あるが、知らないものは知らないままである。

 二月になる前。さかのぼる。

 年が変わり、旅行代金が安く設定されたコマーシャルがテレビで流れている。アルファベット三文字のだ。じゃあ、行くか、という話になった。予約をしてもらい、ぼくは自分の代金だけ払う。おごったという記憶もあるが、それは記憶のマジックである。

 深川あたりの神社にいる。宗教は、どう考えてもベストではなくなっていた。ベターである。彼女は賽銭をはらうが、ぼくはもうそうした行為に興味すらない。遠縁のおじさんと同じ立場にいる。はっきりいえば関係ないのだ。無縁である。願って良くなるような願いもしたくない。好転など自分に似つかわしくない。健康も不幸も身から出た錆びであってほしい。慎ましく振る舞いながらも限りなく傲慢でもある。

 となりの敷地には、骨董品が売っている。さまざまな古い道具がある。ちらっと見て、ひとつの映像を記憶にのこす。その後、旅行のしおりのようなパンフレットのようなものをコーヒー・ショップで受け取る。そして、女性には決して言ってはいけないことばをぼくはこの人生に刻む。

「キューピーちゃん人形みたいな体型だよね、自分」

 悲しむ女性。なぐさめる気もない自分。さっき、あの広場に置いてあるピンクで裸体の人形を見てしまったのだ。言わないわけにはいかない。その女性とローマにいる。

 脱線。いま似たような失言ができるか敢えて考える。「家電メーカーのアイワのような女性だよね、君!」お手頃。

 しかし、ぼくの記憶はお返しを買っている情景になる。ぼくは、だから、チョコの余りでも、二、三個食べたのだろうか? キツネとタヌキに全女性を分類すれば、明らかにキツネ顔である女性はよろこんでいた。あるいは、よろこんでいるフリをした。ぼくは仕事の休憩とみなして、その女性と人目を避けるように別のフロアのソファに座って話している。電話番号も訊いたはずだが、かけても素っ気なかったので数回で止めた。それでも、確実に思い出のひとりである。

 日比谷公園から有楽町方面を歩くと、決まってこの女性のことを思いだす。ものすごく賢いわけでもないが、前向きな性格が欠点ですらない欠点を補って余りあるものにしていた。魅力というものの方向転換も自分に強いられた。

 女性のベストも手に入らない。ベターでごまかす。結果、ボギーであるし、ダブル・フォルトである。サービス・エースなどキザな人間だけに許される行為だ。

 ウォルト・ディズニーという方もひとつの国の神であった。クリエィターとしても。秩序を生み、守らせた立憲者としても。なぜ、突然もちだすのかといえば、後日、似ている顔の女性(五、六年の隔たりを挟む)のことも好きになり、生活上での役柄(独身と離婚経験者)も異なっていたのだが、ふたりはとても似ている。そして、話をきくとどちらも夢の国の住人である幸せを説いた。その国の法は尊いのだ。彼女たちはベストだと思っている。ある意味では信者であった。ぼくは別の形のベストを探している。手垢ですべすべになったカウンターに座り、身体の背骨が抜き取られていく魔法を信じている。いまでも。

「久遠」ということばがあるそうだ。さっきまではっきりとした意味合いも知らず、字面とも無縁であった。彼女らの容貌はあのときだから美しいのだろうが、もし、その前後に会ったとしたら、ぼくに対して永続する記憶をのこしてくれたのだろうか。世の中はなにかがどこかで合致する。スクラムを組む。

 カカオというものでチョコレートを作り、その最上のレシピの分量を考えたのは誰なのだろう? 目と鼻と口の微妙なバランスでの設置。部屋の模様替えとは違い、一度、決めてしまえば動かすことはできない。そして、その容姿に魅力を感じるようにこれまたデザインされている自分がいた。

 にこやかにプレゼントを受け取り、過度な遠慮などせずにご飯をおごられる。そして、おいしい表情をする。もし、仮に娘がいたとしたら教育できるのはそのふたつだけのような気もする。結局、子どもがいる似ている女性の側と飲む機会があり、あまりにも楽しく愉快なので泥酔する自分がいる。ゴールはいつも決まってここであった。二駅で降りるはずの積もりが終点にいる。そのまま戻ってくれば良いのだが、なぜか改札を一度でてしまったようで、電子切符の残金は減っていた。彼女らはキューピーではなく、バービーであったのか。ぼくはならばケンなのか? ど根性ガエルの梅さんなのか。試す機会を失った。チョコのように溶けたのだ。少し苦い。大人の味。

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悪童の書 bd

2014年10月03日 | 悪童の書
bd

 まじめさと忠実さが、誤解を生む。

 仕事の初日。四人がイスに座り、研修を受けている。そのうちのひとりがぼくだった。最初の休憩時間。頭数で金銭が発生する(そこまで詳しい説明はないが)ので、緊急に休む際にはシフトの代役を探してからにしてほしい、と念入りに注意される。だから、親しいひともまだ居ない自分は、もしものときの為に、横にいる女性に連絡先を訊いている。下心など一切なく、勤勉さのあらわれとして。あとの三人はぼくをふくめて男性。当然、彼らにも訊いたはずだ。このことをぼくの助平心と一致させるようにこの中のひとりは、事あるごとにエピソードとして披露する。もう何度も口を酸っぱくして、「訊く」という純粋な行為に及んだ明確な要因は、ぼくの生真面目さと素直さから発したのだと打ち消すように繰り返してアピールするが、なんだか分が悪い。いくらか予定調和なやり取りだとしても、後味も良くなかった。

 もちろん、その後はなにもない。彼女はそもそも結婚していた。建築会社のようなところで夫は働いていると言った。

「じゃあ、タンクトップに胸毛ボーボーなんだ?」

 と、しつこくぼくはイメージを投げかける。可愛い子は、軽くいじめるべきであった。笑いながらの回答は、責任ある立場でありながらも、容貌として優男の部類のようでもあった。いつか、彼女もいなくなっている。その代わりに下町の床屋の娘という気の強そうな女性もいた。向こうはどう思っているのか知らないが、この新人さんも話していて楽しい子であった。会話というキャッチ・ボールとドッジ・ボールの混在。分量を考える。

 しかし、本命は別の階にいた。営業部という不確かな業務内容の部屋に。衝動である恋すらも自由にならない時期でもあった。ニットが似合っていたというつまらない記憶を大事にしている。

 物の見方。観察能力と、表現する力。

 白いYシャツのしたに、みどり色(縁と緑を必ず見間違える目)のTシャツの生地が透けている。その状態を評して、「生春巻き」と例えたひとがいる。センスというのは誰も教えてくれない。生まれたときに抱えてでてきた壺に入っている。

 電話会社のキャリアを変えたときにほとんどを継続させないため、その連絡先も失われている。ひとはいろいろなところで定期的に棚卸しをするべきなのだ。入力もあれば、出力もして、淘汰もある。休みに代理の有無も確保も必要なくなる時期もくる。

 ここには鬱陶しい先輩でありながら、仕事上のノウハウの数の所有がいちばんある為に尊敬しない訳にはいかなくなるひともいた。彼と数人で昼の休憩に外に行く。警察官が横を通った際に、「マッポだ!」と言って、お育ちが分かってしまった。そういう地域のひとでもある。

 イベントがあり、待ち合わせの場所には決まって缶ビールを片手にして登場する。午前だろうと、午後だろうと。ひとは馴染みの映像で覚える。彼もいたか思い出せないが、人形町の路地で桜を見ていた。夜である。この職場の仲間をもとにして集まっていた。近くのマンションに住んでいるらしい夫婦のような恋人関係のような落ち着いた様子の大人のふたりが、この集まっている雰囲気がとても楽しそうなので混ぜてほしいと、ハンバーガーを大量に買い込み、輪に入った。厚かましさと気安さの分岐点を考える。彼らにはまったくその負の側の気配がなかった。振る舞いというのを、どう捉えるかが問題になる。過剰と不足の微妙な差であるのだろう。大人は自然と身に着けるべきであり、ひとつとして訓練を経ないで、深くも軽やかにも、身に着けることなどできないことも知っている。皆無である。自然という幻想すら、訓練と血と汗と涙であった。士官学校の訓戒ではなくても。

 ビール会社の名刺をくれた。ひとを酔わせるものをつくる企業というのをうらやましく感じる。

 しかし、嗜好品にも税金をという短絡な思考に抵抗したくなる。財布が空だからといって、あれもこれもと要求するのは虫が良すぎるような気もする。だが、刃向うことも不可能だ。請求通りに一円の不足もなく支払う。さらにビールでも。

 列車や飛行機などで、見知らぬひとに声をかけるタイミングは三十秒以内かどうかでその後が決定するそうである。あれこれ思案しているうちに機会は奪われる。その証明として女性に連絡先を訊いている。だが、彼女は休まなかった。ぼくも毎日のように職場に通った。地下鉄は混んでいた。

 急に疑問がわく。いままで頭に浮かびもしなかったが、冒頭で挿入したしつこく詰問する彼は、この愛らしい女性の連絡先をとうとう教えてもらわないで終わったのか? もし、そうならば難癖も言い掛かりも正当化される。そして、我がさわやかさの絶対的な勝利である。ふたりが会話らしきしている姿も思い出せない。耳の穴にまでボディ・ソープを入れて洗うという別の女性のことを常に先頭に置いていた。

「元気ないね?」

 と、建築監督の妻はある朝、ぼくに言う。実際、いろいろあった。その差が分かるぐらいにはぼくを認めていたのだろう。ああいうきれいな声の持ち主も家では豹変するのかもしれない。豹変してもらいたいし、それも恐いしというところで終わる。耳と鼻は加齢という衰えをまだ考慮に入れないで済んでいるぼくの以前に出会ったひとたちの話。

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悪童の書 bc

2014年10月02日 | 悪童の書
bc

 郵便配達は二度ベルを鳴らす。

 ジェームズ・ボンドは二度、死ぬ。コード・ネームとして。

 友人は二度、怒る。

 その友人は同じクラスになっていなかった。友人の友人のような小さな隔たりのある存在だったが、いつの間にか毎日のように遊ぶ仲になっていた。十代の後半の思春期をどうにか切り抜けた、持て余し気味のエネルギーが過剰に膨らんだ、あの絶頂の時期を。細かに分析しなくても、彼は女性から人気のありそうな風貌をしていた。そのことを生かし切れていないイメージもあるが、ぼくと遊んでいるぐらいだから、あまりその面に重きを置いていないのかもしれない。

 別の友人の家で寝ていた。数人でのごろ寝。雑魚寝。団地の一室。彼は目覚めが悪い。そして、同じ意味合いでどこででも眠れた。ぼくらは寝ていることをいいことに、顔に落書きをする。マジックでまぶたの裏(表?)に大きな瞳を描く。まだ起きない。家の友人の母がおにぎりをたくさん作り、おそらくグレープ・フルーツを食べやすく切ったものを出してくれた。ぼくらはおいしく食べながらも、となりで鏡を見て激怒している友人のことも心配している。いま、考えても、ぼくが同じペイントをもしされても怒らないだろう。写真も撮ってもらうかもしれない。虫の居所、というあいまいな表現でこの状況をずるくのりこえる。彼は食事の場の横で石鹸を顔になすりつけている。その後、どうなったかもう記憶にない。

 別の機会。彼は自動販売機に小銭を投入する。ガソリン・スタンドのバイトのせいで爪が汚れている。労働者の証しである。ぼくは、自由という名のもとにぶらぶらしている。

 選べるジュースのボタンが光る。彼が考える間もなく、ぼくは適当にボタンを押す。夏なのに、スープのような。彼は激怒して、ジュースを地面に投げつける。そして、速足で歩き出した。誰も追い駆けない。詫びる気もない。それで完全な亀裂が生まれたかどうかを振り返ると、また、いつものように遊んだのだろう。ぼくは必ず、湧き出した感情の過度な表現をためらわないひとに、恥となるよう後日からかうことになる。自分に起こったことだとしたら?

 やはり、怒りそうもない。自分の沸点は違う場所にあった。

 入り浸っているファミリー・レストランに可愛い店員がいた。注文するとき、テーブルにもってくる際に、彼は自分の好意をためらいもなく表す。もともと、見た目が良い方である。表立っての感情の揺れはその女性にはなかった。だが、ぼくとナンパしに行ったときに見つけた(ぼくは撃沈)女性とビリヤードをして、それから、その店に出向いたそうである。若いウェイトレスは頼まれた飲み物のグラスを叩き付けるように置いて、好意への報いと失望を無言で、かつ大きく硬質な音量で示した。意外と、こころは動いていたようであった。彼もまた怒られる。

 車の免許を取り、夜通し遊んだあと、彼はサーフィンに行った。まったく興味もない自分は腕前も知らない。その後、疎遠になり誰かの結婚式にだけ会うような間柄におさまる。ぼくは彼のときには出席していない。数歳うえの女性を選んだそうだが、大きくなった娘がぼくらの知っている店でバイトをするようになったと語っていた。父という存在は年頃の娘に疎んじられるというようなことを説明したと思ったが、その役目もなんだか単純にうらやましかった。

 いま振り返っても友人として過ごした時間の合計は彼が一位のような気もする。これといって大きな事件など起こらない小さな町で育って暮らしながらも、とてつもなく楽しい時期だった。あのときは退屈だと感じていたとしても。何度も吐くまで飲み、酒量のリミットを覚える。彼は別の友人の背を撫でて介抱しながら自分でも吐いた。

 自転車に二人乗りして、隣町までナンパしに行く。車もない。免許も取れないころだろう。釣りと同じで海や川に行ったという記憶の方が大事になる。いまになってみれば。負け惜しみも少量、ふくみながら。ぼくが小学生のときに引っ越した女性が亡霊のようにあらわれ、彼と交際した。稽古とリハーサルのときに自分にされた思いがけない出来事を彼は披露する。おもしろおかしく。本当に楽しいのだが、ここで書くことは厚顔である自分でもためらってしまう内容だった。

 ぼくらは家に帰るのも面倒くさくなり、近くのモーテルに泊まる。

「男同士?」と、受付の女性は驚きを隠せないでいる。そんな邪道な趣味はさらさらなく、ただ社会科見学である。ぼくは安っぽいタイル製の風呂に湯を入れ、その間に眠たげな彼はすやすやと眠っていた。しばらく経って、ぼくは女性と別れ、その女性と新しい恋人がここにいないかと誰何する場所にもなる。私設の免許なき探偵である。ぼくが、そうしたかったからというより、友人が何だか夢中になっていた。そんなモーテルが誰と誰がいることなど教えてくれる訳もない。バカバカしい青臭い日々だった。

 その大切な友人を何度も怒らせている。感情の小さな動きを遠慮しないということも友人の定義のひとつになるだろう。むりやりにこじつければ。もうほんとうにあの日に戻れないんだな、となつかしく思い、こうして書きながら愛惜しんでいる。みな、あの時期に、ああいう友人がもてればいいな、と自慢と押し付けの狭間でぼくの涙腺の隅にフリー・キックである。

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悪童の書 bb

2014年10月01日 | 悪童の書
bb

 リスク・マネジメントと危機管理は立場がちょっと違うそうである。理論上。良く分からないながらも理解しようと努力する。

 もちろん、絶対的な正しさなんて、ひとつもない。

 猫ちゃんのヒゲはリスクを予測する。この幅なら我が肉体は通り抜けることが可能である。もともと幅以下ならば、向こう側へと通じる道には違うルートを探す。これが、リスク・マネジメント。先々の心配とかもろもろ。やばい、なんだか急に先が狭まってしまった。壁と壁の間から身動きがとれない。油断していたのか。そこで、切羽つまった状況のうまい解決はどうしようかが、このことが例えると危機管理のようだ。どうやら、こんな説明では、経済学者、エコノミック博士にはなれないだろう。永遠に。物語と映像が常に勝る。やばい、浮気をしようとしたのに結婚指輪がまったく抜けない。さて、これは、どっち?

 心配だけではなにも成し遂げられない。無鉄砲だけでも、ゴールにたどりつけない。計画を立てる。不安の要素を洗い出す。ひとつひとつ潰していく。バーベキューに行く。食材があって、冷たい飲み物があって、炭があって、ライターがない。決してこうならないよう、前もってリストをつくる。遠足や旅行前も同様である。弁当があって、水筒があって、おやつがある。心配性にはもっとたくさんのリストと荷物が必要になる。ものには限度がある。線を引く。その中間地点で迷うことになる。面倒くさいとあきらめるひともでてくる。代行する会社は、サービスを謳う。

 充電したはずのバッテリーがカメラに入っていない。桜咲く砧公園にいる。遠い地で、ただのカメラの重みだけが実感としてある。物忘れが、リスクにも危機管理にも含まれていない。だが、リュックには日常持ち歩いているカメラもあった。各駅と急行の停まる駅を未確認のため、さらに本に夢中になって乗り過ごしてしまう。降りる景色がちょっとだけ違う。失敗だと思っていたことが、意に反して、結果として良好だったりもする。

 渋滞が予想されても、しない訳にはいかないことも多くある。うんざりや厄介もトランクにきちんと収まっている。完璧なる予定の完全な遂行も人生の最大の楽しみとは別物のような気もする。小さな上乗せを。その小さな満足感が、ひとを幸福にする。ショートケーキの天辺のイチゴのように。

 すると幸福は外的な要因に左右されやすいことになる。思いがけないプレゼント。

 プレゼントはプラスに限るのだろうか。

 ブラック・マンデー。突然の到来。突き詰めれば、負の要素として、「ブラック」ということばを使うことこそ潜在的な差別意識だと主張するひともいる。ブラック企業。意識しなければ、ことばの小さな意味合いの点検などしないで用いている。

 株価の暴落もリスクである。反面、だからこそ利益の根もある。シーソーは傾くので、うえにも昇る。猫ちゃんは紙切れの価値など知らない。いたって現物主義である。

 価値が急に上がったり下がったりする。最近でもサッカー選手の実例がある。片方のチームに立てば、高く買って安く売る。そのことだけで倒産や身売りするほど、経営の体力がないチームではない。片や、高く売って、その余った資金でグラウンドの一部を改修して、当人を安く買い戻す。企業としては素晴らしいが、人気とか実力とぴったり一致するかといえば、そうとも言えない。みんな、見込みと戦術に該当するかの賭けにも似た予測などで売買するのだ。監督が変われば、作戦も一変するかもしれない。

 そういう危なっかしい綱のうえに乗り、選手も監督もキャリアを積む。理解し尽くせないことを、漠然とした運と名付けて呼んだりもする。ある一定の普遍性をチームが維持しようと勝手に働く。名門という看板が付く。それは価値以上の威光を与える。その威光の力に弱小チームは自らのガッツを事前に滅ぼす。そして、絶対的な永続性など誰も有していない。ローマもハプスブルクもいつかは終わるのだ。

 その間に普遍的な戦術を生み出す頭脳もある。最初はリスクや危険を顧みなかったのかもしれない。奇襲のひとつに過ぎなかったのかもしれない。だが、そのノウハウが移転される。違うチームにも。さらには競技の技の名前として最初に行ったひとの名が残る。リスクと危険を冒したことが金字塔となる。

 その間に骨折が無数にあるのだろう。

 ある外国の軍人のひとつのエピソード。関ヶ原の陣形を見る。フォーメーションの美しさ。「じゃあ、勝ったのはこっちだね?」机上の理論も美しい。「いや、反対です」「だって、そんなことはないだろう? これだよ!」

 当事者であること。修学旅行で女性の風呂をのぞくこと。または部屋まで行く。リスクより、やはり無鉄砲である。赤いジャージというまやかしのため見誤った大柄の男性の美術教師にスリッパで思いっ切りあたまを叩かれる。危機管理がなっていない。だが、正確なビジョンも倒す旗もないのだ。若者は、無知な若者はこういうことをするのだ、という意向(これも威光)をなぞったに過ぎない。猫ちゃんででもあれば、うまくすり抜けたかもしれない。ジンジンする頭。少し正座のブレイク・タイムができ、その後、大部屋の二段ベッドで寝る。次こそはという確たる挑みと信念がぼくを作る。

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