あと少しで平成の御世が終わる。
昭和三十年代に生まれ育ったから、自分は昭和時代の人間だと思い込んでいたけれど、三十年を過ごした平成のほうが長く生きているんだ。次の天皇とはほぼ同年輩だから平均寿命までいけても二十年。わたくしの人生の中心は平成なのかもしれない。
そんな平成時代を振り返れば、戦争こそ無かったものの自然災害に翻弄された時代だったように思う。
平成三年 雲仙普賢岳火砕流
連日ニュース報道されていた噴火騒ぎだったけど、噴出した溶岩の崩壊が沢山の報道陣や警察消防等の人名を奪った。
山から泥まみれになって逃げ戻った人々の映像が生々しかった。火砕流という言葉も怖さもこの災害で知った。
平成五年 北海道南西沖地震奥尻島津波
北海道の小さな島を襲った津波が集落を根こそぎ奪った映像は衝撃的だった。かつてあった家々の土台しか残っていない街の残骸は人の力の無力さを語っていた。その後にもっと大規模な津波被害を受けることなど思いもしなかった頃だ。
平成五年 冷夏米騒動
一日だけ真夏の太陽が輝いた日があったけど、いつも海の日あたりに明ける梅雨がズルズル長引いた。長男がベビーカーに乗ったままお姉ちゃんたちが楽しんでいる花火を見ていたことを良く覚えている。日本の米が市場に無くなり、タイ米やカルフォルニア米中国産の米を食べた。あれはあれで貴重な思い出。
平成七年 阪神淡路大震災
正月早々、じわじわ沁みてくる報道が狂気を帯びてゆく様をカーラジオを通して感じていた。百人が二百人になりあっという間に千人だとか、高速道路が倒れてるとか、火災がそこ此処で発生しているとか。全容が掴めないのが広域災害なんだと知るのは随分たってからだ。大都市が災害の只中に置かれたのも特別な出来事だった。日本の都市は充分地震に対する備えは出来ていると過信していた国も自治体も国民も、根本的な思い直しをしなければいけないと感じたと思う。関東に住んでいる自分は実害が無かったから、まだどこか安穏としていた。すぐ後に起きたサリンテロに目を向けさせられたこともある。唯一救われた変化は日本国民が無私の行動(ボランティア)に目覚めたことだと思う。
平成十六年 新潟県中越地震山古志村壊滅
神戸の復興が一段落ついたこの頃、新潟の山地でまた大きな地震があった。もともと人が少ない地域だったから人的被害は少なかったけど、記憶に残っているのは車ごと生き埋めになった母子三人のうち2歳の幼児が92時間後に救出されたこと。レスキューの偉大さと生命力の力強さに感動した。飼育されていた鯉や牛の末路にも考えさせられた。
平成二十三年 東日本大震災
何かのドラマで見たように目の前のパソコンモニターが揺れている。事務員の女性が机の下に潜り込もうとしているのに、揺れが長く続いて思うようにならない。背の高い書棚を押さえている男性社員がいるけど、棚が倒れなきゃいいなと醒めた脳みそで考えていた。
揺れがおさまってすぐ思ったのは、「今日は家に帰れない」。20人弱の支店の責任者だったから、皆にひもじい想いをさせたくないとすぐ行動した。会社の隣にコンビにがあったから、カップ麺とかビールをありったけの持ち金で買って事務所に戻り、再度買い出しに行くと、もうパンとかは棚から消えていた。電気も水道も使えたのでそれ程危機感は無かったけど、地震に慣れている関東人でもあの揺れは経験が無く、とんでもないことが起きつつあることだけはひしと感じた。阪神大震災の時と同様、情報はじんわり伝わってくる。震源地は三陸沖らしいこと、津波が発生しているらしいこと、石油タンクが火災炎上しているらしいこと。
暫く電車も止まって、計画停電とかで電気も自由にはならなかった。通勤途中、町田駅の右と左側で正しく明暗が分かれる風景は忘れがたい。ガソリンスタンドも映画館も閉まったままだから、釣りにも行けず映画も観られなかった。世界中から日本へのエールが届き、日本人の公共心への賛美がおくられた。「絆」と言う価値観があの当時の日本を救った。
平成二十五年 台風26号伊豆大島元町壊滅
三度ほど行ったことのある伊豆大島に直撃した台風が、良く知っている元町の街や道を瓦礫で埋めていた。仕事ではあるが町役場や消防所の方たちと、災害マップの商談なんかもしたことがあるので心が痛んだ。
平成二十六年 広島市土砂災害
そんなにまでしても家を建てて住まなければならないのが日本の住宅事情なのか。古来より人が住むには不適切な場所にはそれなりの地名がついているらしい。広島の災害地区もそのような地域だったということだ。崖を崩し川を埋め立て見てくれはそれらしくしても、自然の力は騙せない。同じ量の雨が降り続いてもまるで変わらない場所もあれば、全く違う姿になってしまう場所もある。
平成二十六年 御嶽山噴火
名古屋に単身赴任していた頃だから、比較的御嶽山は身近に感じていた。知り合いが噴火の直前に登山していたことも印象に残っている要因だ。わたくしの生まれ故郷の近くにも浅間山や草津白根山のような活火山があり、子供の頃浅間山が噴火すると振動で窓ガラスが揺れたのを覚えている。逃げ場の無い山頂で降りしきる火山弾を目の当たりにした時、いったい何が出来るというのだろう。
平成三十年 西日本豪雨
会社の行事で北九州市で遊んでいる日に降り続いた雨が、広島岡山あたりの街を水没させた。帰りの新幹線は全面ストップで、朝から小倉の街で飲み歩いていた。翌日開通した車窓から見る景色は所々濁流に浸され寂しげだった。
猛暑(平成六年、十九年、二十二年、二十五年、三十年)
平成になって、夏は毎年年を経るごとに暑くなってゆく。
40度をこえる灼熱の夏が当たり前のように繰り返される。
地球の長い営みからすれば、三十年なんて誤差にもならないのだろうけど、次にくる世は災害の少ない日々でありますように願うばかり。
昭和三十年代に生まれ育ったから、自分は昭和時代の人間だと思い込んでいたけれど、三十年を過ごした平成のほうが長く生きているんだ。次の天皇とはほぼ同年輩だから平均寿命までいけても二十年。わたくしの人生の中心は平成なのかもしれない。
そんな平成時代を振り返れば、戦争こそ無かったものの自然災害に翻弄された時代だったように思う。
平成三年 雲仙普賢岳火砕流
連日ニュース報道されていた噴火騒ぎだったけど、噴出した溶岩の崩壊が沢山の報道陣や警察消防等の人名を奪った。
山から泥まみれになって逃げ戻った人々の映像が生々しかった。火砕流という言葉も怖さもこの災害で知った。
平成五年 北海道南西沖地震奥尻島津波
北海道の小さな島を襲った津波が集落を根こそぎ奪った映像は衝撃的だった。かつてあった家々の土台しか残っていない街の残骸は人の力の無力さを語っていた。その後にもっと大規模な津波被害を受けることなど思いもしなかった頃だ。
平成五年 冷夏米騒動
一日だけ真夏の太陽が輝いた日があったけど、いつも海の日あたりに明ける梅雨がズルズル長引いた。長男がベビーカーに乗ったままお姉ちゃんたちが楽しんでいる花火を見ていたことを良く覚えている。日本の米が市場に無くなり、タイ米やカルフォルニア米中国産の米を食べた。あれはあれで貴重な思い出。
平成七年 阪神淡路大震災
正月早々、じわじわ沁みてくる報道が狂気を帯びてゆく様をカーラジオを通して感じていた。百人が二百人になりあっという間に千人だとか、高速道路が倒れてるとか、火災がそこ此処で発生しているとか。全容が掴めないのが広域災害なんだと知るのは随分たってからだ。大都市が災害の只中に置かれたのも特別な出来事だった。日本の都市は充分地震に対する備えは出来ていると過信していた国も自治体も国民も、根本的な思い直しをしなければいけないと感じたと思う。関東に住んでいる自分は実害が無かったから、まだどこか安穏としていた。すぐ後に起きたサリンテロに目を向けさせられたこともある。唯一救われた変化は日本国民が無私の行動(ボランティア)に目覚めたことだと思う。
平成十六年 新潟県中越地震山古志村壊滅
神戸の復興が一段落ついたこの頃、新潟の山地でまた大きな地震があった。もともと人が少ない地域だったから人的被害は少なかったけど、記憶に残っているのは車ごと生き埋めになった母子三人のうち2歳の幼児が92時間後に救出されたこと。レスキューの偉大さと生命力の力強さに感動した。飼育されていた鯉や牛の末路にも考えさせられた。
平成二十三年 東日本大震災
何かのドラマで見たように目の前のパソコンモニターが揺れている。事務員の女性が机の下に潜り込もうとしているのに、揺れが長く続いて思うようにならない。背の高い書棚を押さえている男性社員がいるけど、棚が倒れなきゃいいなと醒めた脳みそで考えていた。
揺れがおさまってすぐ思ったのは、「今日は家に帰れない」。20人弱の支店の責任者だったから、皆にひもじい想いをさせたくないとすぐ行動した。会社の隣にコンビにがあったから、カップ麺とかビールをありったけの持ち金で買って事務所に戻り、再度買い出しに行くと、もうパンとかは棚から消えていた。電気も水道も使えたのでそれ程危機感は無かったけど、地震に慣れている関東人でもあの揺れは経験が無く、とんでもないことが起きつつあることだけはひしと感じた。阪神大震災の時と同様、情報はじんわり伝わってくる。震源地は三陸沖らしいこと、津波が発生しているらしいこと、石油タンクが火災炎上しているらしいこと。
暫く電車も止まって、計画停電とかで電気も自由にはならなかった。通勤途中、町田駅の右と左側で正しく明暗が分かれる風景は忘れがたい。ガソリンスタンドも映画館も閉まったままだから、釣りにも行けず映画も観られなかった。世界中から日本へのエールが届き、日本人の公共心への賛美がおくられた。「絆」と言う価値観があの当時の日本を救った。
平成二十五年 台風26号伊豆大島元町壊滅
三度ほど行ったことのある伊豆大島に直撃した台風が、良く知っている元町の街や道を瓦礫で埋めていた。仕事ではあるが町役場や消防所の方たちと、災害マップの商談なんかもしたことがあるので心が痛んだ。
平成二十六年 広島市土砂災害
そんなにまでしても家を建てて住まなければならないのが日本の住宅事情なのか。古来より人が住むには不適切な場所にはそれなりの地名がついているらしい。広島の災害地区もそのような地域だったということだ。崖を崩し川を埋め立て見てくれはそれらしくしても、自然の力は騙せない。同じ量の雨が降り続いてもまるで変わらない場所もあれば、全く違う姿になってしまう場所もある。
平成二十六年 御嶽山噴火
名古屋に単身赴任していた頃だから、比較的御嶽山は身近に感じていた。知り合いが噴火の直前に登山していたことも印象に残っている要因だ。わたくしの生まれ故郷の近くにも浅間山や草津白根山のような活火山があり、子供の頃浅間山が噴火すると振動で窓ガラスが揺れたのを覚えている。逃げ場の無い山頂で降りしきる火山弾を目の当たりにした時、いったい何が出来るというのだろう。
平成三十年 西日本豪雨
会社の行事で北九州市で遊んでいる日に降り続いた雨が、広島岡山あたりの街を水没させた。帰りの新幹線は全面ストップで、朝から小倉の街で飲み歩いていた。翌日開通した車窓から見る景色は所々濁流に浸され寂しげだった。
猛暑(平成六年、十九年、二十二年、二十五年、三十年)
平成になって、夏は毎年年を経るごとに暑くなってゆく。
40度をこえる灼熱の夏が当たり前のように繰り返される。
地球の長い営みからすれば、三十年なんて誤差にもならないのだろうけど、次にくる世は災害の少ない日々でありますように願うばかり。