待ってて良かった。日本でもやっと劇場公開された。
「万引き家族」の対抗馬としてアカデミー外国語賞を争った傑作を見逃すところだった。
メキシコシティのROMA地区に住む家族とその家族を支える家政婦の物語。
淡々とした毎日の中に、愛憎があり喜び哀しみがあるけど、小津映画のように静かな波が押しては引くようなそんなお話し。主人公である家政婦の妊娠から死産までの10ヶ月間が日常の中に描かれる。雇用主の女主人は他所に愛人をつくり家を出て行った旦那に見切りをつけるまで、情緒不安定になりながら家政婦に辛くあたることもある。子供たちは家政婦に馴染み、友達のように懐いている。おばあちゃんは優しい人だけど、家政婦の歳も知らない。そんな家族とある時は一緒にテレビを観て笑い合えるが、散らかった皿やカップを回収し部屋部屋の電灯を消してから自室に戻るのも彼女の役割だ。
ハリウッド製の映画しか観ない人には退屈だろうな。
市井の人々の生活には宇宙人は登場しないし、古代の恐竜も現れない。スーパーヒーローが活躍もしないしカーチェイスも体験することはない。それに絶世の美女が自分のことを好きになってもくれない。平凡な毎日の繰り返しだ。月曜の朝にはふさいだ気分で満員電車に乗り、土曜の夜は子供の笑顔に癒される。
そんな平凡な時間を普遍的な映像として切り取り、言葉も文化も違う人にまで届けられるというのは凄いことだ。
才能の無いクリエーターが手をつけると、閉じた私小説的な駄作になってしまう。
監督脚本を担ったアルフォンソ・キュアロンの才気を感じる。(ゼログラビティしか知らないけど)
でも残念ながら、メキシコのことをわたくしは悲しいほど知らない。
旧宗主国スペインの流れを汲んでいるからなのか、裕福な雇用主はヨーロッパ系の白人のようだ。
家政婦は二人いるが、どちらも先住民の血を色濃く漂わせている。年越しのパーティに集まる人々もROMAに住む家族と同じく、白人の雇用主と先住民系の家政婦たち。
この映画の時代背景は1970年から1971年夏まで。
日本では大阪で万国博覧会がひらかれ、高度成長真っ只中を驀進していた。わたくしは田舎の小学生をのほほんと過ごしていた。そんな日本にだって貧富の差はある。今でこそあまり見かけないが、住み込みのお手伝いさんを雇っていた家だってあった。身近なところではわたくしの奥様のお家がそうだったらしい。古のモノクロ写真にはお手伝いさんと写る幼少時の奥様の姿がある。ただ日本の場合、お手伝いさんといっても大概嫁入り前の娘さんが家事見習いのため地縁血縁のなかで働いていたようだ。それがプロの家政婦であったとしても、あくまでも雇用主と従業員の関係であり、貧富の差による上下関係ではない。
メキシコとスペインの歴史的関係、スペイン系移住者と先住民との関係もわたくしは知らない。
物語上、そんなことを知らなくとも映画は楽しめるのかもしれないが、深い所で理解は出来ないと思う。わたくしが外国映画から離れていったのは、正しくそのことが大きく影響している。肌でしか感じることの出来ない風土とか慣習とかは人種や地勢が醸し出した歴史の産物だ。それはどんなに勉強してもネイティブな感覚を得ることは出来ない。
わたくしはメキシコのROMAに住む家族について悔しいけれど、2/3ほどしか理解できていないと思う。
淡々と紡がれた物語のハイライトは、出産の傷(心の)を癒すべく雇用主の家族と海へ行き、沖に流される子供を救い出した家政婦が、死産だったことを望んでいたと吐露するシーン。波が打ち寄せる浜辺でで抱き合う人々は雇用主とか貧しい先住民だとかの壁が取り払われ家族の姿があった。
最後に。
ネット配信で公開されようが別段構わないけれど、映画館での上映は必ず行って欲しいもんだ。
この作品のように映画館で観なければその良さを感じられないものもきっとある。モノクロの美しい映像、三方から細波のように囁かれる日常の音、被写界の深さを感じることが出来るのは相応の大きさがあるスクリーンじゃなければ味わえない。映像(映画)作家はそんな描写にまで心配りをしながら作品を作り上げている。
空を翔る飛行機の影をスマートフォンの極小画面ではどんなふうに解釈すればいいのだろう。
追記
奥様がレンタルしてきた「天国の口、終わりの楽園。」を観た。
凄い映画。世界は本当に広い。
フェリーニの影響を受けてることがよく分かる。