弱者とは善人である。
ここで言う弱者とは、「大衆」とほぼ同義語です。
弱者は、自分が弱いことを認めているにも関わらず、自責の念を抱かず、むしろ弱いことを全身で正当化するのです。
弱者は、自分の無能力を、無知を、惰性を、不器用を、不手際を、人間的魅力の無さを、卑下もせず恥じることもなく、これで良いのだと開き直り、「だからこそ、自分は正しい」と威張るのです。しかし、心の中では「卑下し、恥じているので」ちょっとでも強者が「貧乏人、無教養、無能」とでも匂わすような発言をしようものなら、突如、憎悪に顔を強張られ「絶対にゆるさない!」と心に誓うのです。
したがって、弱者は(本当のことを言われる)と声もでないほど驚くのです。
そして、弱者はのさばり反省することはないのです。
無能力を、無知を、惰性を、不器用を、不手際を、人間的魅力の無さを、少しでも責めたり、そんな視線に遭遇すると、その傲慢さ、見識のなさ、やさしさのなさ等を徹底的に責め立て、袋叩きにし、許さずに血祭りにあげる弱者とは大衆ののことなのです。
と、ニーチェやオルテガが言っているらしいです。
(ぼくが言っているのじゃないよ)
そのような畜群(其の対としての超人)の思想を抱く、ニーチェの人間性を考察して、その真の意味にせまります。
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