謹んでお悔やみ申しあげます。
「希望」について、語る。それは、「希(まれ)」な「望(のぞみ)」。その反対語は「絶望」。「絶」の文字は「糸」と「色」。なぜ、「絶」なのか? その成り立ち、いわれは?
30余年の教育大学生活の最後の3年間を教職大学の特別支援教育コースの開設に参加する経験ができたこと、教職大学院生と共に学び実践現場を訪問し、より教職の専門性という観点から、考えさせられることが多くありました。
振り返ってみると、教職大学院の開設時には特別支援教育実践論の講義が設定されていました。ですから、おつきあいは、教職大学院10年余の歩みにも重なるものでした。当時を振り返ると、この特別支援教育実践論の講義は、玉村が窓口になり、特別支援教育教室の先生に分担してもらって、オムニバス方式で展開していました。オリエンテーションとイントロダクションをわたしがおこない、K先生が特別支援教育の制度やシステムを、当時、特別支援教育研究センターにおられたI先生が、ソーシャルスキルトレーニングや ペアレントトレーニングなどの発達障害への具体的支援について、N先生が発達障害の病理や生理について講義していただき、あとは、通級指導教室を担ってこられた先生方や保護者の方々をゲスト講師にお願いして、子育てや学校での対応・支援について、みなさんで学ぶ機会を作ってきました。視覚障害の教職大学院生とともに、いろいろと学習の支援を考えた事も得がたい経験でしたし、なんといっても現職の先生方やいろいろな経験を積んで教職大学院にやってきた方々、そしてまっすぐな気持ちで実践に取り組もうとしているストレート院生の皆さんと出会い、いろいろなところで教職大学院生さんたちのアイデアを出してもらい、そのエネルギーや知見に学ばせていただきました。そういった講義と院生のみなさんとの付き合いがあって特別支援教育実践論がより広がり、特別支援教育のコースが開設できたと思います。
教職大学に特別支援教育コースの発足前の課程認定の作業がなかなか複雑でしたが、実務家のK先生をお迎えし、また、N先生とともに講座の異動をして体制でした。きちっとした教職大学院の風土と緩い特別支援の風土とのギャップがあったことも事実です。発足時は、特別専攻科を閉じはしましたが、学部・修士課程とともに兼務で、N先生は特別支援教育研究センターの運営、そしてわたしは附属幼稚園の運営にも関わるというアクロバットとも思える状況でした。コースの出発に当たり教職大学の先生方や院生の皆さんには多大なご迷惑をおかけしたこと、恐縮の極みですが、何とかやってこれたのは、皆様のお力添えのおかげだと思っています。さまざまなご支援をいただいたこと感謝申し上げます。
関係者の会でも申し上げたように、どうも性格上、「先鋒(いちばんはじめに相手にちょっかいをかける役回り)」の位置になるので、なにごとにも前のめりで、はやとちりなものですから、退職を前に、新しい課程認定要員になって、現在は、私立大学にいます。しかし、移動してみて強く感じることは、奈良の全体としての寛容さ、そして誠実さです。奈良は「良きところ」という意味で「まほろば」とよく言われますが、「まほろば」から「修羅場」に来てしまったと思うことすらあります。同じように古都といわれても、伝統や文化の違い、仕事の仕方や人間関係の培い方の違いなどを痛感しています。
学部の特別支援学校教育の教員養成をすることになりますが、年次進行で開講していくので、現在は通常学校の教員養成の枠組みの中で特別支援教育の観点を共有していく作業をしています。今後、その卒業生たちも教育大学の教職大学院にもお世話になるものと思います。今後とも、奈良の伝統としてのあたたかい目で見ていただき、よろしくお願いいたします。
年齢がでてくる歌をうたいながら、発達の話をしたいと思ったときがあった。
「ギザギザハートの子守歌」で「15で不良と呼ばれたよ」とチェッカーズは歌う。15歳や17歳はよく出てくる・・・その中に藤圭子の「夢は夜ひらく」がある。
それをしらべたいとおもって、iphoneのSiriで検索しようとして、思わぬ会話となった。
「ヘイ、Siri 15,16,17と私の人生暗かった」
Siri「10、50、60、・・(とわたしの人生暗かった)」(じゅう ごじゅう ろくじゅう ・・と、音の区切りを違って認識する)
(そういえば、60すぎてから人生暗いなあ・・・でも、おまえ、藤圭子知らんのかとおもわず)「藤圭子」
Siri「藤圭子の連絡先は登録されていません」
(歌の歌詞をつければホームページで検索してくれるか)「藤圭子 私の人生暗かった」
Siri「わかりません」
(じゃあ、藤圭子の娘の名前はあるやろ!)「宇多田ヒカル ホームページ」
Siri「以下のホームページがありました。ひらきますか・・・?」
「ひらきますか」か、「私の人生くらいよなあ・・・夢は夜ひらくをしりたいのに」 ちなみに、「圭子の夢は夜ひらく」は、「15,16,17とわたしの人生暗かった。過去はどんなに暗くとも、夢は夜ひらく」と続く。この「夜」は、水商売のことなのだが、しかし、「夜に想像することで、いろいろなことを耐えることが出来るのかもしれない!」「人生、不確かなことを耐えなければならないのやな」ともおもう。理不尽な社会である。脱線すると、最近、注目されているもの「ネガティブ・ケイパビリティ」(不確かなものを、保留しておく力、白黒ハッキリさせない、あいまいを受容する力)ということも、この歌から思うところである。
あけましておめでとうございます。今年は大幅に環境が変わる年になりそうですが、年々、頭と体の自由がきかなくなって、年とともに衰えを感じています。猪突猛進とはいかないので、ゆっくりと、新しい年と環境に慣れて行ければと思っています。
今年は、「猪年」。今日の京都新聞の凡語には、「平成最後」の年といわれるが平成とはどんな時代だったのかを問い、髙橋春成の「泳ぐイノシシの時代」という本を紹介している。もともと、平地にいたイノシシを山に追いやり、山の耕作放棄が増えると、えさをもとめて、再び平地へとやってきて、ついには泳いで海や湖にも泳ぎ出てきたというのである。そういえば、大学でも自然環境教育研究センターの人たちが、「うりぼう」をかい、手なずけて、構内をイノシシが闊歩することもあった。みんな、寛容で、人気者だったが、いつのまにかそのイノシシは消えた。自然環境教育センターの人たちが食ったのではないかとの噂もたった。
この頃、大学の農場の芋畑がイノシシにやられているときく。イノシシの怒りかもしれない。「もののけ姫」でも、鉄のつぶてを撃ち込まれ、人への憎しみからタタリ神と化した巨大なイノシシの神が村を襲う場面が導入となる。それをアシタカが退治するのだが、死の呪いを受けてしまい、その呪いを絶つために旅立つのである。中世(室町)の時代的舞台での自然との共存・共生がテーマとして伏在するのだが、オリンピックやら万博やらで沸き立つ今の社会にたいして、自然の猛威を再度想起したい。泳ぐイノシシの時代は、人間がおぼれる時代かもしれない。そうならないための叡智を共有しあっていきたい。
風邪で伏せっていて、なにもする気もおこらない。受動的にテレビをみている夜が続く。ひょんなことから、NHKで放映されているロンブー厚の「ろんぶ~ん」をみた。おもしろそうなテーマで、論文とその著者を紹介している。先々週が、「漫才」、20日には「感動」をテーマとしたものだった。以下はその紹介。
アンコール「漫才」の論文。漫才で爆笑を生む技&漫才ロボット
今回は「漫才」をアンコール放送。漫才を面白くする技を見つけた論文と、漫才を自動で作成するロボットを開発した論文を紹介。人間行動学の視点でサンドウィッチマンの漫才の動作と発語のタイミングを徹底分析した結果、「身体ノリ」と命名したツッコミの独特の技が明らかに!そして、「データ工学」の知見を生かし、お題を入力するとWeb上の膨大な情報を取捨選択してものの1分で4分の漫才を作るロボットが完成、その実力は?
【ゲスト】三倉茉奈,【出演】滋賀県立大学教授…細馬宏通,甲南大学教授…灘本明代,【司会】田村淳,中山果奈,【リポーター】トレンディエンジェル…斎藤司
「感動」の論文。感動のメカニズム&ネット中継で拍手伝えるマシン?
テーマは「感動」。2018年もあとわずか。ピョンチャン五輪での日本人選手の活躍、サッカーW杯など今年もさまざまな感動の名場面があった。今回紹介する論文は、われわれはいったいどうすれば感動するのか、そのメカニズムを解き明かした「心理学」の論文。そして感動を伝える手段として「拍手」に注目、ネット中継を通じて遠く離れた場所に感動の拍手を届ける「拍手マシン」を開発した「ロボット工学」の論文。その内容とは?
【ゲスト】ベッキー,【出演】ロボット開発会社経営…高橋征資,東洋大学教授…戸梶亜紀彦,【司会】田村淳,中山果奈,【リポーター】笑い飯…哲夫
京都新聞に経済学者の佐和隆光が「人工知能と暗黙知」を書いていた。
結論的には、「AIが2人に1人を失業させる」といわれるが、恣意的なものであり殆どの職業は消滅しないが、AIによる職務の効率化により、ほとんどの職業の就業者数は減る。その結果、労働力人口の10~20%が失職することはほぼ不可避と見てよいだろう」といっている。そこに至る論究の過程で、長年音経験に基づく暗黙知(言葉や数式で表せない知識)の重要性を述べており、そのようなものが必要な職業は残るといっている。例えば、学者の消滅率で言えば、法律学者は51.0%に対して、社会学者0.55、心理学者0.2%のみである。「形式知」はAIが習得できるが、「暗黙知」を獲得する能力を欠くというのである。とすれば、着目すべきは、「暗黙知」であり、勘やこつといったもの、あるいは雰囲気や発想・思いつきなどといったものかもしれない。教師の仕事も、このようなもの個性的なものがつまっている。同じ手順で授業をしても、しかし、人によって学習者の状況が異なるものとなる。このようなことをもっと考えてみる必要があるかも知れない。それは、「暗黙知」を「形式知」に変えていくこともあるかもしれないが・・・・。
以前、NHKの「ろんぶ~ん」で、漫才に関する論文の紹介をしていたが、漫才のノリや突っ込みを身体表現との関係で分析する研究、また、情報科学の領域でネットの情報を使って人工的に漫才をつくるロボットに関する論究を紹介していた。そんなおもろいことを必死にやっていることもまたおもしろいのだが、後者の紹介の際、以前のプログラムで漫才を作ったものと、AIを使って漫才を作ったものを比較して、AIを使った場合、正確性は高まったが、しかしおもしろくなくなったという。この悩みは深刻であり、なにか本質的なものを示唆しているように思う。面白味というのは、どんな味なのだろうか、また、それぞれの個人の好みもあろうとおもったりもするが・・・。
土曜日に、施設の古希、喜寿、米寿、卒寿のお祝いに、米寿の音響デザインをやっている方の介添えで参加した。
70歳、77歳、88歳、90歳の方達だった。それぞれお元気そうで、会ではギタリストと声楽家のかたが、みんなの好きな歌をうたってくれて、大合唱となった。施設の生活だけれど、それぞれ機織りや炊事などの仕事をし、みんなでゆっくりとお茶をのみ、そしてテレビを見たり、合唱団に参加したり、勉強したり、年に1回は劇団の方達とお芝居を一緒にしてたのしんでいて・・・。邪魔者扱いされている高齢者や一人暮らしの高齢者の方のことを一方で思う・・・・なにか、いがみあったりしている僕たちの今の生活と行く末の味気なさをつくづくと考えてしまう。なにが幸せなんだろうって???
とはいえ、その後、米寿の方の通院につきそい、ばたばたすることに。
奈良障害フォーラムにおあつまりのみなさま、お忙しいところ、おいでいただきありがとうございます。
ふりかえてみますと、東日本大震災直後の2011年3月19日、「障がい者制度の改革を推進する地域フォーラム・奈良」として開催され、それからはや5年目となりました。はじめての地域フォーラムは、当時障害者総合福祉部会委員だった荒井知事にも来ていただき、奈良教育大学講堂でシンポジュームを開催し、深めたことを今思い起こしています。
それ以後、毎年、こういった形のフォーラムの場を設定し、組織としての奈良障害フォーラム準備会を経て、ようやく障害者権利条約批准1年目の昨年1月に奈良障害フォーラムが正式に発足しました。NDF結成総会では、障害者権利条約の批准の2年後に、国連障害者権利委員会に、政府報告が出されることになること、奈良の障害のある人の現状と声を集約していこうと話し合いました。
それから1年たち、政府の報告がすでに準備され、先日、パブリックコメントがありました。日本障害フォーラムは、総括的に次のようなコメントしています。
全体にわたって日本の法制度や実施した事業の紹介で終わっており、権利委員会のガイドラインが求めている内容とは程遠いものとなっています。ガイドラインは、その国の障害者の生活状況がわかるように、達成できたことと達成できてないことを「正直に」報告することを求めています。達成できていないことは率直に取り組むべき課題として明記すべきです。
報告自体は、条約の条項に即して、政府がやってきたものを概括的に記述されています。これもあれもやりましたというようなものです、省庁別の施策の羅列の印象が強いのですが、細かい施策に目がうばわれてしまい、全体の問題、障害者のある人達の権利がどのように保障されているか、権利条約の趣旨に即してどのように拡げていく課題があるのかが抜け落ちてしまいます。権利の総合保障の観点が重要です。
そのためにも、こまぎれではなく、障害のある人のまるごとの生きることをトータルに捉える事が必要です。障害も多様です、当事者、家族や関係者の方々、施設や事業所の関係者の方々、広く県民が手をつなぎ合っていくことが本当に重要な課題だと考えています。
あと、1ヶ月後には、障害者差別解消法が施行されることになっています。合理的配慮の提供なども含めて、関係者が理解し合い、合意しあって、障害のある人にとって豊かな奈良にしていくきっかけを作っていただきたいと思います。
本日は、障害者団体の皆さん、奈良県の行政に携わる方々、議員の皆さん、多くの方々に来ていただいています。いろいろな立場に人たちが、広場をつくりながら、障害のある人達のくらしのなかみを作るための議論を深めていただきたいと思います。
その基本的な視点を、障害者政策委員会の委員でもある、竹下義樹弁護士にお話しいただくことになっています。よろしくおねがいいたします。フォーラムで議論していただき、その後、奈良障害フォーラムの総会とさせていただきます。半日ですが、よろしくおねがいいたします。
表現の自由が制限された戦後の検閲は×や◯で言葉の一部を伏せて示し、あまりに
多い場合は発禁処分になったという。一方、戦後の占領軍検閲は作品そののもの
を削除する等、痕跡を残さないのが基本だった。
戦前戦中の単価を検証して来た三枝昴之さんは、検閲の後を露出することで、ブ
レーキをかけたとみる。そして、権力者の検閲より怖いのが「自主規制」だと説
いた。
永田和宏さんは、伏せ字も怖いが自主規制によって言論人に執筆依頼がなくなる
ことがもっとも怖いと語った。発言の場を奪われ沈黙させられた人は、沈黙の事
実さえ発せられずに封殺されてしまう。永田さんは<権力はほんとうに怖いだが
しかし怖いのは隣人なり互いを見張る>と詠む。民衆が民衆を見張り、自主規制
を求める社会では息が詰まる。
三月九日の晩の東京の大空襲で焼け出され、父のふるさとの町にやってきました。東京生まれで小学校二年まで東京で育った自分に対して、土地の子供達は、いやある一部の子供達は、自分のことを「東京っぺ」と言って、仲間はずれにしていじめが始まったのでした。
今のいじめと違うところは、いじめられっ子の方だと思います。それは登校拒否となる今の子供達と違って、いじめられてもいじめられても、学校に通ったことだと思います。いじめる方はいつの時代でも同じだと思います。だから「いじめられっ子よ、負けないで頑張って学校に行って下さい」と言いたいのです。
そうだよなぁ、今思うとあの当時は家の中で一人で遊ぶ物がなかったから、どうしても外に出ていって友達と遊ぶしかなかったから、いじめられても頑張って学校に通ったのだなぁとつくづく思います。今の子供達は外に出て行かなくても、友達と遊ばなくても、家の中に遊ぶ物がなんでもある状態だと思います。本来ならば今の子供達の方が数段恵まれているのです。それでもやはり前にも記した通り、何としても登校拒否だけは避けて欲しいと思います。やられても、いじめられても、学校へ通うことです。負けるが勝ちなのです。この事を肝に銘じて忘れないで欲しいのです。
三月九日の晩の東京大空襲で焼け出されましたが、しかしこの焼け野原に残って、苦しい生活を頑張って全うした人達も数多くいたと思います。自分は丁度小学校二年から三年になる時期であったので、スムーズに学校転校の手続きが出来ました。本籍は千葉のこちらにあったからすみやかに、何のトラブルもなく入学が出来たと思います。そして早くこの田舎の学校に、そして友達になじもうと思い、自分自ら勉強・運動、特に野球に力をいれて頑張ったのです。そうすればすぐに仲間にとけこむであろうと思ったからです。それがさにあらず。ここからいじめが始まったのでした。
勉強が出来れば出来るほど、そして野球がうまくいけばいくほど、「この東京っぺ」といわれて、仲間はずれにされました。本当にどうすればこの連中と良き仲間になれるのか、いつも事があると悩んだものでした。ある時あるいじめっ子が次の様なことを自分に向かっていいました。
「にしや、あにやってんだ」
それを聞いていじめられない様にすぐに答えたのです。
「二四は八だ」と。
そうしたら、「馬鹿野郎、おれをちゃかすきか」といわれ、そのいじめっ子の子分どもにたたかれ、はり倒されたのでした。いわゆる袋叩きにあってしまったのでした。顔面赤く、はれわたった顔になり、家など帰れる様な状態ではありませんでした。母親が心配するからです。その時、何故自分が袋叩きにあったのか理解できませんでした。いじめの連中がその場から立ち去った後、やはり東京っぺでなくてもいじめられている子が寄ってきて、今ぶんなぐられた原因は次のことだと教えてもらいました。
それは、「にしや」というのはお前ということで、「あに」とは何をということであって、「お前、何やってんだ」ということだったのです。本当にここいら辺の言葉は、即ち父のふるさとの言葉はむずかしいものだなあと思いました。少しでも早くここの土地の言葉を覚え、いじめられない様、一生懸命努力をはじめました。
しかし、こういうことがあった後、またいじめられました。それは、いじめの仲間からある友達とけんかしろと命令されたことから起こりました。
何のうらみもない友達と校庭のまん真ん中で一騎打ちのけんかをし、何とか勝つことが出来ました。しかし、それで終わりではなく何と便所につれて行かれ、何人かにまた袋叩きにあい、またまた顔がぐちゃぐちゃになり、大げさにいえば足腰が立たない位やられたのでした。
家に帰った時、この様な状態を見た母は一瞬でわかったと思います。母に何があったのかと聞かれたので、正直に今回のいきさつを話しました。すると、何とあの気の強い母から予想もしなかったことを聞かされたのでした。
「負けるが勝ちなんだよ」と。
自分もちょっと拍子抜けし、おどろいた次第です。自分は、「何で負けて帰ってきたのだ、勝ってくるまで家なんかに居れないから」といわれると思っていました。当時はいじめっ子にあうより、母の前に出てしかられる方がもっとおっかなかったのです。本当にほっとし安堵しました。それでも学校へは休まず通ったのです。
今度は氏神様の裏で、また一騎打ちのけんかをやらされ、今度も勝ちました。そうしたら何と今度はぶんなぐられないかわりに、その場の崖っぷちから、多分三、四メートル位あり、下は竹林でもありましたが、その竹林に落とされたのでした。運良く自分は一本の竹に向かってその竹に飛びつき、しがみつき、その竹がしないで、ぶんぶらりんとしなり、直接下に落ちずに命びろいしました。まさに九死に一生のことでした。またまた反省しました。母のいったことを忠実に守っていればこんな危ないことをさせられないですんだものをと心底思いました。
このときから実行しました─その後、けんかさせられてもじっと我慢して負けた振りをし、すぐに泣く様に通したのです。その口惜しさを勉強の方に向けていったのです。それからも何度となくけんかをさせられましたが、母にいわれた言葉を思い出し、すぐに負けもしないが、無理に泣く様にし向けていったのです。
そうしたら今度は自分のことを「泣いがんびいびい」とあだ名をつけられました。本当に口惜しかった。「一人と一人のけんかであれば絶対に負けないのに」といつも心の中にしまっていたのでした。このときから、自分はけんかは弱いという印象を皆にあたえたのでした。そうしたら、これ以後けんかはさせられなくなりました。
しかしまた、新たないじめが待っていたのです。特に印象に残っているものを記します。先ず第一には、お祭りの準備等で氏神様に集まる機会が多くなりました。しかし、そこで、恐ろしいことことをさせられました。それは氏神様の集まりの所の裏手の軒下にある電線をさわらせられたのです。ビリビリとして身体全体が凝縮して何にもわからず、そこにぼう然と立ちすくんでしまいました。これはけんかより恐かったです。今思ってもぞっとします。
何といじめの仕方を色々考え持っているのだなぁと、反面すごいなぁと思いました。それでも、そういう仲間にいじめられても逃げずに中に入っていきました。学校のはしに五、六メートル位のどて山があり、正面が絶壁になっていましたが、そこから飛びおろされたこともありmした。運良く、その下は砂場の様な所であったので何のけがもなく終わりました。
がしかし、次は違います。これは学校の裏手にある急な段々畑の一番上から、下まで三段飛びをやらされたのでした。距離にしたら、二、三十メートル位あったと思います。ちょっと迷いましたが、しかたなく三段跳びをして下までうまく到着することができました。ところがどっこい、土地の言葉で「こうがえし」、即ち足首の所をひねってしまい、いわゆる「こむらがえし」になってしまい、その場にうずくまって動けなくなってしまったのです。いじめっ子等はそんな自分を見てうそだろうと思い皆解散してしまい、誰もいなくなってしまったのです。その足首の所がみるみるうちに赤黒くなり、はれ上がってきたのでした。歩ける状態ではなかったのです。少し時間がたってから、ここにいつまでもいるわけにいかないと思い、はって上まで登り、どの位かかったか解りませんが、学校の職員室まで何とかたどりついたのでした。このけがをいじめられてやったなんていうと、後でまたいじめられると思い恐ろしくてそんなことはいえませんでした。「自分が馬鹿にも、あの場所で三段跳びやって、こうがえしになってしまったので、病院につれていって」と頼みました。先生達は何にも知らないので、くすくすと笑っている先生もいました。
こんなことがあっても学校は休みませんでした。登下校の時は必ず、母がリヤカーを引いて自分を乗せてくれたのでした。今思えば登校拒否なんて考えも、また思いつきもしなかったのです。やはりこれは母の偉大な力だと心より感謝しています。
また、いじめの中でも一番いやなそして卑劣ないやがらせを受けたこともありました。本当にいやがらせを受けるのなら今までの様ないじめの方がまだましです。やられても気持ちがさわやかだからです。
家から学校まで遠かったので昼食用の弁当を母に作ってもらって学校に持っていったある日の出来事です。昼休みになって、弁当を食べる時間になったので、机の中においてあった弁当を取り出して、弁当のふたをあけてびっくり仰天してしまいました。弁当の中をいつもうまい弁当があるとばっかり思って心うきうきさせて見るものですが、それが何とごはんやおかずは何にもなく、生きた「がったんげーろ」即ち大きな蛙が入っていたのでした。それはそれは、もうびっくりしてさわいだのでした。皆はげらげら笑っていました。知らないのは自分だけかと思い、なさけなくなって、気分も悪くなり早退しようかと思いましたが、ここで帰ったらまた何をされるかわからないので、じっと我慢して、その場をしのぎました。
何をやられようとも、何としても学校にいくのだと思い、それに協力してくれた母、そして同じいじめられ仲間に今思えば感謝しています。現在こうしていられるものまさにいじめられても、助けてくれた人達がいたからだと深く感謝しております。
自分と同じいじめにあった子もいました。彼もあれ程いじめられても自分と同じく学校を休まずに卒業したのでした。その彼は、いじめられるのを防ぐために「びっこ」の真似をしはじめたのです。そうすれば同情をかっていじめられないと思って実行したとのことでした。そしてその彼は「びっこ」の真似を一年も続け、何とかいじめにあわなかったそうです。しかし、もとの状態に戻そうと思って正常な姿で歩こうと思ったらもとには戻れなかったようです。足の筋肉か骨かわかりませんが、正常の姿に戻ることは出来なかったです。本当に可哀想で、かつまた頑張った証でもあったと思います。本当に足を引きずるようになってしまいましたが、学校を休まずにちゃんと通ったことは立派なものでした。自分等の時代は、いじめられてもいじめられても、学校だけは絶対に休んではならないと自分にいい聞かせたものでした。そしていじめられても堂々として卒業できたことを「誇り」に思っています。自分達は何故この様に頑張ったのか、今の時代のことを考えると不思議でなりません。でもこんないじめは二度とやられたくないとつくづく思います。
中学校にはいってからもいじめは続きました。次のいじめは中学二年から三年に進級するときの組替えの時でした。それは高校進学組と就職組に別れて組替えする時でした。五組に編成され、その内一組が進学組でした。当時は進学する人間が少なかったのです。後で聞いた話ですが、進学したくても、家が貧乏で進学できない仲間も相当数いたとのことでした。その編成後のいじめがまたまたすごいものでした。
はじめに、自分がやられたことを記しておきます。それは二階の階段から下に引きずり落とされる様子です。まず、階段の一番上に足をのばして座らせられ、二人に片方ずつ足首を持たれ、下に引っ張られるのです。階段を尻だけで引きずりおろされたのでした。それは何と表現して良いか、本当に尻が痛く、二、三日歩くこともやっとのことになってしまいます。その状態で、学校へ行く姿を想像してみて下さい。何とおもしろそうな格好で歩く姿─他の人はそんな自分の姿を見てくすくす笑いながら自分の脇を通り過ぎて行ったのです。自分でも想像がつかない位のへんてこりんの姿で歩いていたのだなぁと思いましたが、その当時は笑われたって学校に行かなくてはと心に思い、実行したのです。
他の進学組の仲間はぶんなぐられたりしたもの達も沢山いたとのことでした。その他、机と机の間に立ち、両手を机の上に立て、足は地につかずして体を支え、自転車をこぐ真似をさせられ、普通にこいでいる時、急に「上り坂だからスピードを出してこげ」と命令され、いじめられている仲間は夢中になって足をぐるぐるまわしていたのです。くたびれてきて腕がもうどうしようもなく、体を支える力がなくなり、「がくっ」と床に落ち腕をおった仲間もいました。また、ある友人は柱にだきつかせられてせみの真似をさせられ、何分もその状態で尻をぶたれました。そんな時は大きい声を出して、「みーん、みーん」と鳴けと云われ、本当に泣きながら、「みーん」「みーん」と鳴いた仲間もいました。この姿は他のいじめと違って楽なように思われますが、何分何時間もこの様な状態がつづくと腕や足などの感覚がなくなり、棒のような状態になり、許されて降りたとしてもちゃんと立てず、しばらくの間はひっくり返って大の字になって、寝ているしかなかった程です。
大体進学組の仲間は何かしらの形でいじめにあっていたと思います。いじめられない仲間がいたとしたら、これは本当にまれな仲間でした。そこで、こういうひどいいじめから逃れる為に四、五人は進学をあきらめた仲間もいたわけです。しかし私たち進学組の仲間は、その可哀想な脱落組以外は何とか我慢し、度々ある恐ろしいいじめをかいくぐって進学を果たしたのでした。
こんな時も自分は「負けるが勝ち」を心に思って頑張ったのです。そして高校に進学しました。高校に入って、夏になり浜へ遊びにいったら、何と中学時代のいじめ野郎にあってしまいまいた。自分はもういじめの過去を忘れ、中学の友達だと思い声をかけて近寄っていったら、そのいじめ野郎は何を勘違いをしたのか、吹っ飛んで逃げていってしまったのでした。彼は前に自分をいじめたので、その復讐にきたと思ったのだと思います。何と可哀想な野郎だと思いました。自分の顔をまともに見ることなく逃げた野郎のことで、いじめというものは、一人だけでは何にもできないんだなあとつくづく思いました。一人では何も出来ない野郎等より、いじめられてもいじめられても、最後まで頑張った私たちの仲間の方がよっぽど強いんだなぁと思った次第です。
また、可哀想ないじめにあって進学をあきらめ脱落した友達は、四、五人はいたと思いますが、その一人に偶然にも出会った時のことです。その友人はつくづく自分にいったものです。「やはりいじめに対して自分等の様に我慢して、進学すれば良かったよ」とまじめ顔で、また泣き出しそうな顔して話をしていました。本当にその友人を可哀想に心から思ったのです。
母のいったこと─「負けるが勝ち」のことは間違いなかったと心より思ったわけです。いじめられっ子よ、最後は必ず勝つのだと信じて頑張って下さい。
最後に、もっと色々のいやな皆に公開したくないようないじめ等は、一杯ありました。いじめられた仲間はじっと我慢して、頑張って人生に出ていったのです。いじめられている仲間達頑張ろうぜ!
今だから
云えるものでも
その時は
いじめのすごさ
身体で示す
三月九日の晩の大空襲にやられて、焼け出されて、房州の父のふるさとに疎開して、ほっと安堵したのもつかの間、弟が、食べ物がなく栄養失調の様な病気にかかってしまいました。そんなものわかるわけがなかったので、皆、元気だとばっかり思っていました。なにも栄養をとっていないので栄養失調になっている弟が百日咳にかかり、咳をしたくても咳が出ず、のどの奥底から咳をする様子は本当に苦しい様子でした。
今では少しくらい風邪を引いても色々栄養のある物を食べているから、そんなものみなふっとんでいってしまう位、強くなっています。しかし、その当時では、まともに百日咳にかかると、それに立ち向かう健康な身体がなかった為、弟は快復することなく、あわれにも死んでいったのです。その当時自分は小学校三年でしたが、弟のことなど考えずに、腹のへっている自分しか考えず、本当に弟に対して悪いことをしたなぁと後悔しています。本当にかんべんしてくれよな…。
母のいいつけでどこへ行くにも、また遊びに行く時でも、必ず弟をおぶわされたものです。他の子供と遊ばない時はゆっくりと弟の面倒を見てこいといわれました。家を出る時はちゃんと母の命令通りおぶって弟と一緒に外へ出たのでした。そして自分等の遊ぶ仲間に出会うと、もう弟なんかそっちのけで、仲間がやっている野球に参加しようとして、その仲間達に自分も一緒に入れてくれと頼んだのでした。そしたら、「子供をおぶったまま野球がやれるのか」と言われたのでおぶっていた弟を下ろしてそこいら辺におき、何も解らない弟に「邪魔にならないようここでじっとしておれよ」ときつい態度で言うと、弟は必ずじっとおとなしくしていました。本当に今考えれば、これは自分が遊びたい一心で弟に言いつけていたことが、当時はわからなかった─悪かったなぁ…と思います。本当に後悔しています。
この弟は、その半年後に亡くなったのですが、本人にとって近々死ぬということが解っていた様な動作をしていました。これは今だから言えることかもしれません。この弟は愛想が良く、誰にでも心良く笑顔を見せ、寄っていくのです。子供にしてはわりと頭が良く、将来良い男になるだろうと思われていた矢先、当時住んでいた前の子供(弟より二つ三つ上)が遊びに来ました。当時流行った百日咳にその子供はかかっていたのでコンコン咳きばかりして、弟のまわりをかけまわっていたのです。それを自分が弟にうつるといけないから、「あっちへ行け、馬鹿野郎」と言っても、あいその良い弟は自分の言っている言葉など、眼中になく、その咳き込んでいる子供と一緒にかけまわっていたのでした。その子供が帰り、その夕方から、弟の体が変調をきたしていったのです。今まであんな健康であった弟が、この夕方になり、咳が出て出てたまらないような状態になってしまったのでした。今思えば何にも栄養のある物を食っていない弟だから、すぐにうつってしまったのだと思います。その百日咳にかかっても、なおる気配もなく、だんだん悪い方へと進んでいったのでした。
病院につれていっても何の施しようもなく、そして百日咳にきく薬などもなし、おなじ所へ、何回も何の注射か解らないけれど、うってくれましたが、何ら良くなりませんでした。とうとう栄養失調をともなう百日咳で、あわれにも一歳六ヶ月で死んでしまったのです。弟の死の最後は痰がのどにつまって、それをはき出す力もなく息絶えました。便がおしりから少し出てもいました。本当に切なかったと思います。
その弟のこと思い出すたびに「だんごろむし」のことを思い出し、心の中でかんべんしてくれよなといつも思います。母の言いつけで弟をおぶって外に行った時のことです。仲間と一緒に遊ぶために、弟をおぶっていては邪魔になるので、そこいら辺に弟を置いて遊びに夢中になったのです。その時弟が泣くので弟のそばに行って、そこいら辺にいる「だんごろむし」をつかまえて、これで遊んでいろと言うと、その「だんごろむし」をうまそうに食べて、にっこりしたのです。自分は遊びにほうけていたのでした。その死んだ弟は自分と違って、頭が良く、あいそが良くて、両親など大いに将来を期待していたと思います。本当にかわいそうな弟だと思います。、ほんのちょっとの間であったけれど、一生分、家族皆にかわいがられたと思っています。
あの鉄が
のどをつまらせ
死に至り
食べ物のなき
時のあわれさ