以下は、なにかの機会に書いたもの・・・はじめて就職した頃の思い出である。なにに書いたものだろうか???
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N教育大学には、1988年4月に助手として着任した。はじめての職場で、見るもの、聞くものとても新鮮だった。
学校教育の世界には違和感があり、はじめの学部時代まで避けてきたのだが、子どもの世界の面白さに、教育学部への学士入学から大学院教育学研究科へすすんだ。回り道をしての教育の世界へおそるおそる戸をたたいた。養護学校教育の義務制実施や国連の国際障害者年をへて、ようやくや障害児教育の世界に入ることになった。すべてが手探りで、現場をウロウロしていた。怖いもの知らずで、障害児教育の歴史や教育実践、子どもの発達のフィールドにいっていた。はいまわる経験主義とはこのことをいうのであろう。系統的な学習や研究の蓄積のないまま、年齢だけ重ねた。そんなウロウロの中で、N大学に拾っていただいたのだった。
着任してから、教室と付属の障害児学級の交流会があり、先生方と退職したY先生を交えての歓迎会を兼ねた交流会が行われた。附属小学校の運動場東の土手、桜並木の下で花見を兼ねての恒例の交流会だった。
着任当初はなにもかも珍しく、時間を忘れてウロウロしていた。すでに、花見は始まる時間を過ぎ、Y先生の機嫌は徐々に思わしくない方向に行っていたようだ。放送で呼び出すということになったらしく、ぶらぶらしていると大学の放送がかすかに聞こえる。その放送で、呼び出されていたのだった。もといた大学では、ハンドマイクでのアジテーションならよく聞くこともあったが、放送での呼び出しなど考えられなかった―「N教育大学には全学の放送設備があり、呼び出しもされるのだ!」と、ひどく驚いた。遅れていった交流会ではボロカスだった。Y先生、附属中学校のF先生からはこっぴどく叱られた。O先生、Oi先生、T先生はなんてことはないという調子で、お酒を交わしていた。よく、お酒をのむ教室だった。
教室のみならず、大学全体が面白かった。教員養成系の教育学部はミニ総合学部で、各教室にはそれぞれの専門家がいた。新館1号棟の2階の研究室の前の先生が、理科化学のM先生だったが、いつも研究室を開け放してウロウロしているとよく叱られた。よく遊びに行っていた研究室は、家庭科教育のT先生の研究室。ここは、コーヒーとお菓子があって喫茶店のように入り浸っていた。おもちゃをつくるといって、技術科木工のK先生がご病気だったので金工のY先生に機械の使い方も教えていただいた。よく、木工室の糸鋸をつかわせていただいた。また、つれあいの実家が広島だったことから、放射線物理学をやっていたN先生にも、原爆瓦の収集をお願いされ、義父の手を煩わせてたくさん持って行った。自然環境教育センターができてからは、生活科のキャンプにも駆り出され、M先生に渓流でアマゴとりを教えてもらったのも楽しい思い出である。大塔寮の山が、豪雨で土砂崩れが起こり、使えないのは残念でたまらない。
現場にも行って、子どもたちや先生方とも知り合いとなった。また、奈良まち界隈でもうろうろして、芸術家をはじめとしていろいろな方たちと知り合いともなった。はためから見れば、ウロウロとして、遊んでばかりのように思われる。
考えてみると、遊び・リクリエーションとは、re+creationで再創造するということである。ブレーキにあそびがなければ事故になるのである。「役に立つ」か「役に立たない」かだけで価値を判断するような、知性に対する敬愛のない社会になりつつある。大学も、遊びのない、「役に立つ」ことを強いる場になっているように感じている。ここは一度、半世紀の歩みを振り返りつつ、「のんき・こんき・げんき」で過ごしていきたい。
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『障害児学教室50年史』だったようだ。
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N教育大学には、1988年4月に助手として着任した。はじめての職場で、見るもの、聞くものとても新鮮だった。
学校教育の世界には違和感があり、はじめの学部時代まで避けてきたのだが、子どもの世界の面白さに、教育学部への学士入学から大学院教育学研究科へすすんだ。回り道をしての教育の世界へおそるおそる戸をたたいた。養護学校教育の義務制実施や国連の国際障害者年をへて、ようやくや障害児教育の世界に入ることになった。すべてが手探りで、現場をウロウロしていた。怖いもの知らずで、障害児教育の歴史や教育実践、子どもの発達のフィールドにいっていた。はいまわる経験主義とはこのことをいうのであろう。系統的な学習や研究の蓄積のないまま、年齢だけ重ねた。そんなウロウロの中で、N大学に拾っていただいたのだった。
着任してから、教室と付属の障害児学級の交流会があり、先生方と退職したY先生を交えての歓迎会を兼ねた交流会が行われた。附属小学校の運動場東の土手、桜並木の下で花見を兼ねての恒例の交流会だった。
着任当初はなにもかも珍しく、時間を忘れてウロウロしていた。すでに、花見は始まる時間を過ぎ、Y先生の機嫌は徐々に思わしくない方向に行っていたようだ。放送で呼び出すということになったらしく、ぶらぶらしていると大学の放送がかすかに聞こえる。その放送で、呼び出されていたのだった。もといた大学では、ハンドマイクでのアジテーションならよく聞くこともあったが、放送での呼び出しなど考えられなかった―「N教育大学には全学の放送設備があり、呼び出しもされるのだ!」と、ひどく驚いた。遅れていった交流会ではボロカスだった。Y先生、附属中学校のF先生からはこっぴどく叱られた。O先生、Oi先生、T先生はなんてことはないという調子で、お酒を交わしていた。よく、お酒をのむ教室だった。
教室のみならず、大学全体が面白かった。教員養成系の教育学部はミニ総合学部で、各教室にはそれぞれの専門家がいた。新館1号棟の2階の研究室の前の先生が、理科化学のM先生だったが、いつも研究室を開け放してウロウロしているとよく叱られた。よく遊びに行っていた研究室は、家庭科教育のT先生の研究室。ここは、コーヒーとお菓子があって喫茶店のように入り浸っていた。おもちゃをつくるといって、技術科木工のK先生がご病気だったので金工のY先生に機械の使い方も教えていただいた。よく、木工室の糸鋸をつかわせていただいた。また、つれあいの実家が広島だったことから、放射線物理学をやっていたN先生にも、原爆瓦の収集をお願いされ、義父の手を煩わせてたくさん持って行った。自然環境教育センターができてからは、生活科のキャンプにも駆り出され、M先生に渓流でアマゴとりを教えてもらったのも楽しい思い出である。大塔寮の山が、豪雨で土砂崩れが起こり、使えないのは残念でたまらない。
現場にも行って、子どもたちや先生方とも知り合いとなった。また、奈良まち界隈でもうろうろして、芸術家をはじめとしていろいろな方たちと知り合いともなった。はためから見れば、ウロウロとして、遊んでばかりのように思われる。
考えてみると、遊び・リクリエーションとは、re+creationで再創造するということである。ブレーキにあそびがなければ事故になるのである。「役に立つ」か「役に立たない」かだけで価値を判断するような、知性に対する敬愛のない社会になりつつある。大学も、遊びのない、「役に立つ」ことを強いる場になっているように感じている。ここは一度、半世紀の歩みを振り返りつつ、「のんき・こんき・げんき」で過ごしていきたい。
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『障害児学教室50年史』だったようだ。