ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

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蜂谷俊隆「糸賀一雄と木村素衛」(『福祉にとっての歴史 歴史にとっての福祉』ミネルバ書房、2017年所収)

2019年10月10日 14時56分54秒 | 田村一二
木村素衛関連で、昨日注文していた『福祉にとっての歴史 歴史にとっての福祉』がきたので、当該の「糸賀一雄と木村素衛」の部分を読んだ。
はじめに書かれている部分には共感を覚える。福祉実践における方向性を見失う傾向、外部の批判とその裏腹の自己の実践の正当化、実践的考察の強調と反省的態度・・・「糸賀の発言には分厚く蓄積された本来の意味における教養の裏打ちがあり、社会の中において自らがなし得ることに対する問いかけがある」などなど。
木村の「国民」論と「国民教育」論については、教育学的に考えてみる必要がある(「国民学校」の評価にかかわる)。とはいえ、木村から糸賀への論及は、どうも抽象度がたかいところをすくい取ってつなげているような印象があり、どうも落ちてこない。
木村における「実践」性と糸賀における「実践」性について、もうすこし何をみていたのか、「国民」として、差別や貧困、障害へのまなざしを具体的に確かめたいと思う。

田村が糸賀を評して、「笑顔がよいが、おちのないしゃべりはなんとかならないのか」とかなんとか書いていた。抽象度をたかめた哲学的な議論は時として、迷宮におちいっていくのが「おち」だ。自戒しなければ!

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1 コメント

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ご指摘は全くその通りです (ToshitakaHachiya)
2020-04-13 00:51:15
ありがとうございます。後半のご指摘は、全くその通りです。
その上で、糸賀さんの思想、あるいは言葉を支えにしている保護者や関係者も少なくないわけで、個々の直面する現実において、その思想を解釈し、落とし込んでおられると思われ、その意味は何なんだろうかと考えています。
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